第10弾派遣ボランィア活動報告

第10弾派遣ボランィア活動報告
被災地派遣ボランティア概要
派遣先:日本キリスト教団東北教区被災者支援センター「エマオ」
活動日程:2015 年 2 月 2 日(月)~2 月 28 日(土)【6 日間(活動日4日間、移動日2日間)のボ
ランティア活動を4期に渡り実施】
活動費:主に、宮城県仙台市及び石巻市
活動内容:被災者宅での農作業支援や生活支援等
<1日の目>
ワーク初日は、午前中に被災者支援センターエマオで勉強会を行った。このプログラムは、
第9弾派遣では経験することのなかったものなので、これまでのエマオの取り組みや震災
発生当初の現状、どれだけ住宅が流されてしまったのか、スライドを通して、深く知るこ
とができた。ここで改めることができたのは、エマオがどこに支援の重点を置いて活動し
ているのかということだ。震災で見える大きな災害、事故というと大きく分けて3つある
と考えるが、一つは地震。二つ目は津波。そして福島原発の事故。この施設では津波被害
に焦点を当てていることをスタッフが話されていました。この被災者支援センターエマオ
は出会いに出会いがあって存在していることがひしひしと伝わってきた。
午後からは、実際に被災された農家さんの家にワークに入らせていただいた。前回来た
ときは他の一軒のお宅にしか入らせてもらっていなかったので、初めて入るワーク先であ
った。作業は、スコップで肥料を重機に乗せたものを、均す作業を行った。昼は家に上が
らせてもらい、おしるこや、たくあんをいただいた。夫婦仲が良くて、孫の話をしてくれ
て震災の苦しみを感じさせない雰囲気で笑顔で僕たちに接してくれた。ワーク終了後のシ
ェアリングでは各々が思い思いの気持ちを言っていた。ここに来た学生一人ひとりに思い
があってエマオに来ていることが深く伝わった。
<2 日目>
二日目は日帰りで石巻の方に行きフィールドワークを行った。エマオ石巻のスタッフは変
わっていたが変わらないスタッフもいて再開が嬉しかった。この日は車で女川の方に赴き
現在の復興状況について聞いた。昨年の9月から五ヵ月経ってこの地に足を踏み入れたこ
とになるが当時あった津波で流された家の残骸があった場所には何もなくまっさらな更地
となっていた。女川町の復興の早さに驚いた。一ヵ月後にはJR女川駅が完成するという
ことで石巻市と女川町という復興の進行速度はやはり市と町では全く違ってくるのだと感
じた。
<3 日目>
活動3日目は、仙台市若林区笹屋敷の農家、笠松洋市さんのワークに入った。
笠松さんは有機栽培にこだわっていて今回のワークは、その有機栽培のホウレン草と小松
菜の袋詰めであった。無農薬の美味しい野菜作りにこだわっていて休憩時間になるとその
まま食べてみなさいと生でいただいた。薬を使わないで育てると野菜の甘みや味といった
ものをしっかりと認識できるので生まれて初めて生野菜を洗わず食べた僕としては新しい
発見であった。この日は、終始エマオの職員と他大学のワーカーと一緒に笠松さんのお話
を聞いてボランティアを終えた。
<4 日目>
最終日は、僕が行きたくても日程的になかなか参加できなかった仮設住宅の人たちのお宅
に上がってラジオ体操とお茶をするお茶っこに早朝から参加。ラジオ体操を普通に行うの
かと思っていたが、過去に仮設にいた人が大きな声を出してラジオ体操をすることで元気
を出していこうということで始まったらしく仮設住宅に暮らす方々も精一杯、身体を動か
して体操をされていた。お茶っこもお菓子を食べながら「どこから来たの?」「ずんだもち
をこの前作ったんだよ」とお話をされていた。今回、参加したワーカーが学生という若い
人たちであったので嬉しそうにしていて僕も仮設住宅に暮らしているのに笑顔で前を向い
ている姿に元気をもらった。
その後は、通常のワークに戻り僕は昨日お世話になった笠松洋市さんのワークに引き続
き入った。洋市さんの同じ人が来てほしいとの要望があってのことだ。二日目ということ
で互いの関係が縮まりボランティアの現状を話されていた。震災から4年が経過して瓦礫
等の撤去といった支援は終了して心のケアを目的にしたワークが増えてきている中で、や
る作業がなくて僕のところに来るワーカーもいるということ笠松さんは言っていた。一体
どこまで支援の継続を続けていくのか、今後の支援の在り方が問われている気がした。
<活動全体を通して>
第 9 弾被災地派遣ボランティアでも宮城県仙台のエマオを訪れたがこの時とは根本的に違
うものがこの 4 日間にはあった。それは、震災の被害に遭われたお宅になるべくワークに
入って 3.11 の傷跡から復興に向けての兆しというものを会話や笑顔から温もりを感じたか
らだ。昨年は初めて訪れるということでフィールドワークが中心となっていた。震災の爪
痕が生々しく残されていて、その激しさと相まってワークでは人と少なかった。町は重機
でこの先、何年もかかるが着実に復興されていく。しかし、心の復興というものは、一体、
いつ治るのか。もしかしたら一生癒えることのないものなのかも知れない。そんな気持ち
を抱えながらワークに入った。現地の被災者宅にワークに入ると笑顔で過去を振り返らず
に一生懸命歩んでいる姿があった。僕はたとえ体は離れていても個人を思う関係性を築く
ことができれば思いを分かち合えるのではないかと思った。顔も知って親しくなったから
こそ被災された地域を思い震災を忘れない関係になってくると考えています。