6.学術的情報 5)自殺の社会経済的影響 1.はじめに 自殺の増加は

6.学術的情報
5)自殺の社会経済的影響
1.はじめに
自殺の増加は,社会の様々な面と関連している。過労自殺の労災認定や,親
が自殺した児童・生徒の奨学金申請数は自殺率とともに増加している。また男
性の平均寿命が低下した 1999 年は,その一因に自殺者数の急増が挙げられた。
実際,自殺率の推移を年齢階級別にみると,総じて 80-84 歳の自殺率が高いが,
1990 年代以降はそれが減少傾向であるのに対して,1998 年を境に 50-64 歳の
男性自殺率が増加に転じた。特に 55-59 歳の自殺率は 1998 年以降,人口 10 万
人対 70 人台で推移している。一方,女性では,55-64 歳層ではこのような傾向
はみられず,75 歳以上の自殺率が相対的に高い。
働き盛りの人々あるいは中高年者を自殺によって失うことは,労働力の減少
とこれに伴う所得と消費の減少を通じて,国民経済に影響を及ぼす。一方,高
齢者の自殺は,その人が引退しているとすれば経済活動の供給面に及ぼす影響
は小さいかもしれない。しかし,高齢者の自殺は,自殺で亡くなる人が培って
きた家族・親類縁者との関係や地域社会との関係に影響を及ぼすのみならず,
こうした人間関係とも関連する衣食住のための消費支出や教養娯楽支出,ある
いは健康維持のための医療支出などが減少することを通じて,国民経済の需要
面に影響を及ぼすことに留意する必要があるだろう。
したがって,自殺が,どの年齢層においても何らかの社会経済的な影響を及
ぼすことを数量的に把握することは,自殺予防対策の意義を理解する上で有益
であると考えられる。本章では,このような観点から,自殺の社会経済的影響
を経済学的にどのようにとらえるのか整理した上で,自殺によって労働力が失
われる側面と,人々の消費支出が影響を受ける側面とを含めると自殺によって
どれだけの社会的損失が生じているのかその大きさを,自殺による国内総生産
額の損失額として示すことにしたい。
2.自殺による生涯所得の損失
自殺によって人々が死亡すると,その人が仮に天寿を全うするまで生きてい
たと仮定した場合に得られるはずの所得は自殺した年齢後のすべて失われる。
例えば,ある人が 50 歳で自殺したとすると,もしもその人が自殺しないで平
均寿命年齢まで生きていたならば,その人は少なくとも 51 歳から 60 歳までの
勤労所得と年金受給権に基づいて得られるはずの老齢年金給付の総額および遺
族年金給付の総額(配偶者がいる場合)が得られたはずである。そして,もし
勤労所得を貯蓄して資産運用に成功すれば,資本所得もそれだけ増加するはず
である。しかし,その人が 50 歳で自殺すれば,これらの所得は失われること
になる。さらに,50 歳で自殺した人に子どもがいて,その子どもが高等教育を
受けている年齢だとすると,親の自殺により家族の経済生活が困難になった場
合には中退などを余儀なくされる場合があるかもしれない。そのような場合に
は,賃金所得には学歴間格差があるために,自殺者の子どもが就業した後の賃
金所得が低下して,その子どもの生涯所得も低下する可能性がある(図 1 左端
の欄,世代重複ありの場合)。
このように,個人のレベルでは,自殺した年齢から平均寿命までの間の勤労
所得と年金所得の合計額が自殺によって失われたとみなすことによって,その
人の自殺による費用=自殺による生涯所得の損失額が明らかになる。このよう
な個人レベルの自殺による生涯所得の損失額を,労働者(勤労者)と自営業者
など職業ごとに合計することによって,自殺によって国民経済全体で失われる
生涯所得の損失額が得られる。これが,自殺によって失われる生涯所得を視点
とした自殺の社会経済的な影響である(図 1 中央の欄,世代重複なしの場合)。
図1
自殺の社会経済的な影響−個人のレベルとマクロ経済的なレベル−
自殺に よる個人の生 涯 自 殺 に よ る 社 会 的 な 生 涯 自殺によるマクロ経済的な
所得の損失*1
所得の損失*2
損失(国内総生産額の損失)
労働者:自殺による勤労 労 働 者 個 人 レ ベ ル の 生 涯 需要面への影響:自殺によ
所得(賃金+ボーナス) 所 得 の 損 失 × 労 働 者 の 自 る労働者と自営業者と(引
の喪失 +自殺による 老 殺 者 数 + 自 営 業 者 個 人 レ 退した)高齢者の所得の損
世代間
の重複
なし=
ひとつ
の世代
齢年金 の喪失+自殺 に ベ ル の 生 涯 所 得 の 損 失 × 失額合計
よる遺族への年金(遺族 自営業の自殺者数
→消費支出の減少
年金)の喪失
→有効需要の減少
自営業者:自殺による自
供給面への影響:自殺によ
営業所 得の喪失+自 殺
る労働者数と自営業者数の
による 基礎年金の喪 失
減少+有効需要の変化がも
+自殺 による遺族年 金
たらす失業率の変化
の喪失
→労働力人口の変化と就業
者数の減少
個人の 生涯所得の損 失 個 人 レ ベ ル の 生 涯 所 得 の
+子ど も一人あたり の 損失×(労働者数+自営業
世 代 間 親の自 殺によって失 わ 者数)+子ども一人あたり
の重複
れる生 涯所得の損失 額 の 親 の 自 殺 に よ っ て 失 わ
あり
の推計値
れる生涯所得の損失額の
推計値×労働者・自営業者
それぞれの平均子ども数
*1
生命保険のネットの便益の取り扱いと社会保険料負担と年金課税の負担を除くべき
かどうか留意すべきであるが,ここでは生命保険の受け取りは含めず,社会保険料負担と
年金課税など公租公課を含めていない。その代わり,マクロ経済的な影響をみるために補
助金と公租公課を含む国内総生産額の推計値を用いている。
*2
勤労所得に反映される人的資本(教育水準や技術など)の外部経済を含むべきかどう
か留意すべきであるが,今後の課題としたい。
3.自殺のマクロ経済的な影響
(1)自殺が需要面と供給面に及ぼす影響
さらに,経済活動には様々な要因が相互作用していることを考慮すると,自
殺による生涯所得の損失は,マクロ経済的にも影響を及ぼすことに気づく(図
1 の右端の欄)。まず,日本経済の需要面に目を向けると,自殺により自殺で亡
くなられた人々の生涯所得が失われた結果,この人たちの消費活動が失われる
ことが,有効需要の減少につながることになる。同時に,自殺した人々が,も
し生きていて働く機会に恵まれていたならば,その人たちが働くだけ労働力人
口が増加することになるので,マクロ経済における総供給が増加することにな
る。したがって,マクロ経済的にみれば,自殺したことによって失われた経済
全体の消費額と労働力がもし有効に経済活動に貢献していたならば得られたは
ずの国内総生産が,自殺によってそれだけ小さくなっている現実の国内総生産
を超過している差額として,自殺による社会的費用をとらえることができる。
ただし,自殺した人々が生きていたとしても,職場にいる人々や求職活動し
ている人々と同様に,その人たちも労働市場で決まる失業率に直面することに
なるので,一部の人々しか就業機会に恵まれないことは確かである。また,自
殺した人々が生きていたとして,労働市場に参入すれば,労働供給が増えるの
で労働市場で決まる賃金水準は減少する可能性があり,減少すればそのぶんだ
け企業の労働需要が増加して,失業率は低下する可能性もある。そこで,自殺
によるマクロ経済的な社会的費用を推計する場合には,こうした労働市場の変
化を考慮した推計を行う必要がある。このような留意点に応えつつ,自殺によ
る社会的費用を推計する方法が,このような総需要と総供給の変化と労働市場
の相互作用をとらえることのできるマクロ経済モデルを用いた方法である。
(2)自殺による国内総生産額の損失額
自殺の社会経済的な影響を,自殺による国内総生産額の損失額として推計す
るために,ここでは,自殺を反映した現状の労働力人口に基づく国内総生産の
推計値(現実の GDP)から,自殺予防対策が発揮されて自殺者数(3 万人水準)
がゼロになった場合の国内総生産の推計値(自殺ゼロ GDP)を引いた差額を推
計した結果を示すことにする。図 2 は,この差額(自殺ゼロ GDP−現実の GDP)
として求められる自殺による国内総生産の損失額の推移を 5 年おきに示したも
のである。これは,国立社会保障・人口問題研究所のマクロ経済モデルをこの
ような推計が行えるように拡張したマクロ経済モデルを用いて,金子・篠崎
(2003)が推計した結果である。このマクロ経済モデルの特徴は,自殺した人々
が生きていた場合の労働力増加の影響とその人々が失業率に直面するという点
を考慮した,供給型マクロ経済モデルであるという点である*3。
*3
方程式体系については,金子・篠崎(2003)(図 2 の出所)を参照。方程式体系の推
定期間は,SNA97 の改訂があったため,1970 年から 1997 年までの期間である。
まず,上記のように算出される自殺による名目国内総生産の損失額は,1998
年から 2000 年までの 3 年間平均でみると 1 年間あたり 8309 億円という水準
にあったと推計され。これに対して,自殺による名目国内総生産の損失額は,
2001 年の 1 年間あたりでは 1 兆 471 億円なのに対して,2005 年では 1 年間あ
たり 1 兆 2046 億円に達するなど,次第に増加する傾向がみられる。
図2
自殺による国内総生産の損失額の推移(単位:億円)
25000
20000
15000
10000
5000
0
自殺ゼロと比較した
場合の損失額
自殺の少ない国々と
比較した場合の損失
額
1998
2000
2005
2010
2015
2020
2025
国内総生産の損失額
自殺による国内総生産の損失額(名目値)
年
出所
金子能宏・篠崎武久(2003)「自殺による社会的な生涯所得の損失と自殺防止対策の
経済効果」国立社会保障・人口問題研究所『自殺による社会経済への影響調査
調査研究
報告書Ⅰ』第4章をもとに,筆者作成。
このような社会的費用が生じていることを別の観点からみれば,自殺予防対
策が効果を発揮して 1998 年以降 5 年連続で 3 万人以上となっている自殺者数
がゼロとなった場合に,2000 年から 2004 年までの 5 年間の平均でみると,国
内総生産(名目額)が 1 年間あたり 1 兆 995 億円増加する可能性があることを
意味している(図 2,自殺ゼロの場合の損失額を参照)。もちろん世界のどの国
にも自殺者がいることを考慮すれば,自殺者数がゼロになることは強い仮定で
ある。そこで,自殺者数が少ないヨーロッパ先進諸国,イギリス,スペイン,
ポルトガルおよびスウェーデン四カ国の人口 10 万人対自殺者数の平均にまで
わが国の自殺者数が低下したと仮定した場合の国内総生産額から,自殺者数が
3 万人水準にある現実の国内総生産額を引いた値を,自殺による国内総生産額
の損失額を推計したものが,図 2 の自殺の少ない国々と比較した場合の損失額
である。この場合でも,2000 年から 2004 年までの 5 年間の平均でみると,約
6000 億円の損失が生じており,2010 年から 2014 年までの 5 年間の平均は 1
兆円以上に達することがわかる。
国内総生産の成長率が低い水準で推移している状況において,失業率が経済
的な相互関係で変わることを考慮してもなお,自殺予防対策によって国内総生
産の増加が期待されることは,自殺予防対策の社会的便益は軽視すべきではな
いことを意味している。確かに,自殺予防対策の費用は,政府の自殺予防対策
の予算だけではなく,職場における心のケアに関わる様々な雇用管理費用も含
まれなければならないだろう。企業にとっては,このような費用が増えること
に対して,直接,収益が上がるかどうか判断がつかない限り負担を控えたいと
いうのはもっともなことかもしれない。しかし,自殺予防により,経済活動の
相互関係を通じて国内総生産の増加が期待されるならば,それは企業活動の場
が拡大すること,ひいては収益増加の機会が得られることを意味している。こ
のような自殺予防対策の期待が企業にも理解されるならば,政府は多種多様な
補助金の配分を見直して,企業が負担しなければならない自殺予防対策のため
の費用の一部を補助金などにより軽減して,職場における自殺予防対策を有効
にする必要があるだろう。このように,自殺予防対策を,社会保障政策の枠組
みにとどまらせることなく,多様な経済政策とも連携しながら展開していくこ
とは,今後の重要な課題であると考えられる。
(金子能宏)