仮名、 間接伝達、 人と言葉の一致 人 と 生 目 次

 1
目 次
人と言葉の一致 分裂するキルケゴール 思考実験 時 代 家 族 レギーネ セクシュアリティ 13
凡 例
はじめに
仮 名
第一章 仮名、間接伝達、人と言葉の一致 …………………………
間接伝達 1
22 13
性格と身体 35
32
27
第二章 人 と 生 …
…………………………………………………………
9
5
4
3
1
2
3
4
5
1
2
3
4
5
目 次
v
vi
否定弁証法 という言葉 ästhetisch
美的な時代思潮 直接性について 感性/理性 観ることの二義性 美的なものの魅惑
★
★
…
…………………
――「聴け、ドン・ジョヴァンニを」
美的にして形而上学的、ということ 89
原罪というアポリア 第五章 新たな経験としての反復、という逆説 …………………
112
108
97 92
★
★
――新たなる経験としての
★
★
反 復
――未来の無規定性の経験
47
家 政 第三章 ソクラテス、イロニー、否定弁証法
ロマン的イロニー イロニカーとしてのソクラテス 52
102
100
不 安
87
40
第四章 ästhetisch
なものの多義性 … ………………………………
75
64
135 126
120
119
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1
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3
瞬 間 同 時 性 アクチュアリティ わがものとすること 第二倫理 ) …
Existenz, existieren, existentiell
……………………
「実存」の語の使用のコペルニクス的転回 、パルメニデスの「存在」 キルケゴールの「実存」
美的無関心か、実存的関心か 否定的概念としての「実存」 202
198
(
第六章 「倫理」概念の変容 ………………………………………………
選択の理論 自己を選ぶということ 具体的/抽象的 倫理的なものの棚上げ 178
170
183
164
時のうちなる「実存」と永遠性 206
204
209
163
158
144
第七章 実存、実存すること、実存的
192
実存の弁証法的性格 212
197
160
152
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目 次
vii
viii
批判としての実存の強調 …
…………………………………
事実としての実存/要請としての実存 楔としての実存倫理
第八章 美的宗教性に打ち込まれる
★
★
発展の論理か、区別する思考か ――「美的なもの」と「
(倫理的 ―)
宗教的なもの」
区別 その一
★
★
★
★
――人倫と実存倫理
区別 その二
――ソクラテスとキリスト教
区別 その三
234
第九章 晩年のアンガージュマン …
…………………………………
240
229
239
三六歳という晩年 「詩的/宗教的」という「あれか/これか」 瞬間のうちに働くこと 229
215
キリスト教、世界との間断なき衝突 単独者という社会思想 246
254
251
250
248
245
キリスト教市民社会に絶縁状を叩きつける 文献一覧 あとがき 267 259
245
222
7
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3
4
1
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5
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第 1 章 仮名,間接伝達,人と言葉の一致
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第一章 仮名、間接伝達、人と言葉の一致
1 仮 名
ヴィクトール・エレミタ、コンスタンティン・コンスタンティウス、ヨハネス・デ・シレンツィ
オ、ウィギリウス・ハウフニエンシス、ニコラウス・ノータベーネ、ヒラリウス・ブーフビンダー、
★
★
ヨハネス・クリマクス、アンチ・クリマクス ――キルケゴールが生涯に用いた仮名である。彼はな
ぜ、そんな面倒くさい、ややこしいことをしたのか、という問いが直ちに浮上せずには済まないの
だが、少なくとも、その始まりについては、単純明快な答えが用意されている。流行だったから、
というものだ。当時のコペンハーゲンの知的世界、出版界における一種の流行現象について、ガル
フは次のように伝えている。
興味深く、またいささか軽薄なことながら、才能ある作家たちは互いに正体を隠し、その寄稿
に仮名や謎めいた記号で署名することによって、好奇心を抱く読者に対して物事を神秘化する
仮名を用いることへの著作家たちの関心は広がるばかりで、程な
ことを好んだのだった。〔…〕
2
( (
く、まずはラテン文字が、次いでギリシア文字が大文字も小文字もことごとく使い尽くされ、
★
★
★
★
★
★
く意識し、それに語りかけ、戦いを挑むことを辞さない、論争的な著作家だった。では、同時代は
の自己表現は、宗教的著作の中でこそなされていることになる。しかし、同時に、彼は同時代を強
教的な人間だった。それも、人生のそもそものはじめからそうだった。ということは、つまり、彼
には、キルケゴールの自己認識と時代診断がある。その自己認識によれば、キルケゴールは深く宗
った。一方が美的著作であり、他方が宗教的著作である。なぜ、そんなことをしたのか。その背景
キルケゴールは、生涯、二つのタイプの著作を並行して書き進め、公にするという著作戦略を採
る。要約すると次のようになる。
ている。一つが、上記の「最初にして最後の説明」であり、今一つが『わが著作活動の視点』であ
しかも、ただ使い続けただけではない。そのことに二度までも奇妙な意味づけ、理由づけを試み
にしたあとも、新たな仮名をひねり出し、使い続けたのである。
★
ルケゴール ――の手になるものであるという ――知らぬ人などすでに誰もいない ――秘密を明らか
★
書』の中の「最初にして最後の説明」において、それらの仮名著作がすべて自分 ――セーレン・キ
りも偏執的にこのゲームを続けた。それどころか、ヨハネス・クリマクス作として刊行された『後
確かに、そのように始められたのではあるが、しかし、キルケゴールはしつこかった。他の誰よ
猫も杓子も仮名を使っていたのである。
ついには、数字まで引っ張り出される始末になった。( G, S. )
93
(
第 1 章 仮名,間接伝達,人と言葉の一致
3
彼の目にいかなる時代と映じていたか。詳しくは第四章の論述に委ねるが、一言で言えば、それは、
美的なものが優勢な時代ということになる。大半の人が自分はキリスト教的に生きていると思い込
( SS, S. 34.⑱三二頁以下)
にすぎず、美的な生に埋没しているというのが
ん で い る が、そ れ は「錯 覚」
みち
実情である、とキルケゴールは診断する。その結果、彼が引き受けるべきは、覚醒者としての役割
となる。人々が陥っている錯覚に気づかせ、改めて真のキリスト者への途につかせるという、言う
なれば教育的課題である。
2 間接伝達
その際、キルケゴールにはお手本があった。ソクラテスであり、その産婆術だ。教育とは、知識
であってはならず、学ぶ人自身が知識を生み出す過程をアシ
の注入(キリスト教に関する情報の伝達)
ストすることでなければならない、というのである。知識の詰め込みではなく、学ぶ者自身のうち
つまず
に知識獲得の運動を引き起こすこと。それをするため、つまり適切に助産をするために必要なこと
は何か。学ぶ者がどこにいるか、どこで躓いているかを正確に見て取ることだろう。
一人の人をある決まった場所に連れていくことに本当に成功すべきであるとするならば、何に
もまして心がけねばならないことは、その人がそこにいて、そこで始めねばならないないその
場所で、その人を見つけることだ。( SS, S. 38.⑱三九頁)
4
その上で、その学ぶ人に的中する言葉を投げかけるのでなければならない。学習者が、自分が語
りかけられていると感じてようやく初めて、そこに対話は生まれ、学習は発動する。その人自身が
生きている言葉で語りかけるのでなければ、人を動かすことはできない。したがって、美的に生き
る人を動かそうとするのであれば、美的な言葉で語りかけねばならない、という話になる。間接伝
達とは、このことである。仮名を用いるから「間接」的なのではない。知識は教師から直接伝えら
れるのではなく、生徒がみずから生み出すべきものであり、教師はきっかけにすぎず、介在者にと
どまるから、間接の伝達なのだ。
3 人と言葉の一致
著作家キルケゴールは、しかし、そこに問題を見出す。その際、
「人と言葉の一致」という理念
が、彼を拘束することになるのだ。みずからの書く言葉は、みずからが生きる生と一致するもので
なければならない、という理念である。これは、彼の思想上の課題が、ひとえに「キリスト者はい
かに生きるべきか」を問うものであったことを考えれば、容易に納得のゆく消息だろう。キリスト
者のあるべき生き方を論じる著作を世に送り出しつつ、当の著作家の現実の生がその著作内容と一
致していなければ、それは言行不一致だ。みずからの現実の生と一致しないような言葉は書き著さ
れてはならない、と要請されるのである。
第 1 章 仮名,間接伝達,人と言葉の一致
5
しかし、書くことは、事実をそのまま言葉にする、という作業のみから成り立つものではない。
★
★
虚構ということがある。例えば、小説は ――私小説などという、それに逆らうと称する実践もある
★
ちゅうちょ
★
にせよ ――虚実織り交ぜて書かれる、としたものだろう。小説家は、事実に反することを書くこと
に何の躊躇も覚えまい。それどころか、フィクションであればあるほど、想像の翼が羽ばたけば羽
ばたくほど豊かな才能の証である、と賞賛すらされかねまい。
にもかかわらず、みずからの生と一致しない言葉をあえて世に送り出すのであれば、そこにある
不一致を、何らかのしるしを通して指し示さなければならない、という話になる。例えば、仮名を
用いることを通して。
キルケゴールの自己認識に則って言えば、彼はもともと宗教的な人間だったので、宗教的著作に
★
★
ついては、実名で出版することに何の問題も生じない。けれども、美的な著作 ――美的人生観が開
★
★
陳されている著作 ――については、それは、キルケゴール自身が生きている言葉ではないがゆえに、
実名での刊行は許されない。仮名の使用によって、そこでの不一致が示唆されねばならない、と考
える。流行に乗って始められたにすぎない仮名の使用に、キルケゴールは、そのようにたいそうな、
★
★
★
★
しかし、それなりに興味深い ――後付けの ――理由づけを施すのである。
4 分裂するキルケゴール
みずからに、教育者、覚醒者というプロフィールを与えることを通して、キルケゴールは、一つ
6
の有力な誤解から身を守ろうとしている。つまり、彼はもともと美的な人間だったのであり、美的
な言葉は、やむにやまれぬ仕方で吐露されずには済まなかったものだ、とする受けとめ、一種の勘
を退ける言説を提出するためにこそ
繰 り で あ る。キ ル ケ ゴ ー ル の 意 図 と し て は、こ の 解 釈(誤 解)
★
★
★
★
『わ が 著 作 活 動 の 視 点』を 執 筆 し た の だ が、実 質 的 に は ― ― 少 な く と も 部 分 的 に は ― ― そ の 解 釈 の
正しさをみずから認める結果になっている。
然り、詩的なものは吐き出されねばならなかったのだ。それ以外のやり方は私には不可能事だ
詩的な創作の全体において私は違和感を抱いていた。しかし、他にどうしようもな
った。〔…〕
かったのだ。( SS, S. 81 ⑱
f. 一〇三頁以下)
生前に刊行された小冊子『著作家としての私の活動について』
(一八五一)
の中では、こう漏らされ
てもいる。
もし私が、強靱な、倫理的 ―宗教的な性格の持ち主であったなら。あぁ、その代わりに、私は
)
ほとんどただの詩人にすぎなかった。( SS, S. 14
心ならずも示されるこの自己認識のうちにこそ、真相は存在したと、私は考える。キルケゴール
の表だっての意味づけは、事後的な、無理の多いこじつけである。彼は、実際、美的な人間でもあ
第 1 章 仮名,間接伝達,人と言葉の一致
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ったのであり、美的な言葉を生きてもいたのである。彼は分裂していた、というにほかならない。
みずからの美的な素性と、宗教的な志向とのあいだで。だからこそ、強引に、みずからを宗教的人
間へと、宗教を志向する教育者へと仕立て上げようとせずにはいられなかったのだ。
しかし、世のキルケゴール解釈者の多くは、キルケゴールの発言を言葉どおりに受けとめ、彼の
意図に沿ったキルケゴール解釈を紡ぎ出すために骨折ることになる。するとどうなるか。キルケゴ
ール自身の真意は、美的著作の中にはないことになる。何しろ、キルケゴール自身が、次のような
爆弾発言をしているのだから。
仮名による書物の中には、私自身の言葉はただの一言もない。( UN-II, S. 340.⑨四〇一頁)
その結果、キルケゴール自身の真意は、実名で刊行された宗教的著作のうちに、さらには、発表
のうちに探り求められることになる。キルケ
を意図せずに書き残された膨大な日記、手稿(ノート)
ゴールの、言うなれば「本音探し」である。何とも奇妙な事態ではある。美的仮名著作に感動し、
それをよりよく理解したいと考える。すると、宗教的実名著作や未発表の日記や未完成の手稿のほ
うが、本音が記されたテクストとしてより重要なものになり、もともとの美的仮名著作は二次的な
地位に落とし込められてしまうのだから。
この解釈は、しかし、いくつかの理由から、道を誤っている。まず第一に、この著作戦略は、キ
ルケゴール自身によって首尾一貫して維持されているとは言い難い。仮名著作であるにもかかわら
8
ず、他 の 仮 名 著 作 が「私 の 著 作」と し て 名 指 さ れ、参 照 が 求 め ら れ る、と い う よ う な 軽 率 な ミ ス
(ハウフニエンシスが、コンスタンティウスの著作に、
「私の著作」として参照を求めるとか)
も一再ならず見
出される。
その点とも関連して、第二に、キルケゴールの自己認識そのものが吟味に付される必要がある。
キルケゴールが自分をそのような人間に仕立て上げようとした人間では、彼はなかったのではない
★
★
★
★
か。少なくともそれほどにも統一的な ――宗教性に貫かれた ――人格ではなかったのではないか。
自身」というような安定した同一的
先の爆弾発言に照らして言えば、本当に「私(キルケゴール)
人格性が存在したのだろうか。それをキルケゴールが希求したことは確かだとして、しかし、希求
したとは、現実には存在しなかったというにほかなるまい。ヴァルター・ニグは次のように言って
いる。
キルケゴールは多くの層から成る人間だった。そして、一つ一つの仮名は、彼の(言うなれば、
(
(
客観化された)
その層の一つなのだ。それらすべてが一つに合わさって初めて、この詩人的人格
その際、そもそもなぜ、キルケゴールその人が重要なのか、という問いが立てられてしかるべき
は引き出されるべきだ、と私は考える。
この認識からこそ、キルケゴールが用いた仮名とわれわれ読者がどのように接するべきかの指針
の豊かさは表現されるのであ る。
(
第 1 章 仮名,間接伝達,人と言葉の一致
9
だろう。どうして、宗教的人間としてのキルケゴールの真意こそが到達目標になるのか。例えば私
は『死に至る病』に感動し、この著作をよりよく理解したいと願う。そのとき大切なことは、私が
美的な言葉に感動し心揺さぶられたこの「美的著作」と対話の関係に入り、それを理解することで
★
★
あり、背後に秘される宗教的意図を探り当てることではない ――そのはずだ。
そして、とりわけ第三に、ソクラテスの産婆術の理念を真剣に受けとめるなら、そこで何が生み
出されるかについて、その結果はあらかじめ外部から設定されているものではないはずである。キ
ルケゴールの著作が事実確かに間接伝達の試みであるのなら、読者である私にとっては、キルケゴ
ールの意図に沿った知的運動をすることこそ正しい読み方である、などという話には決してならな
いはずだ。それでは、誘導と何ら変わるところはない。一種の洗脳である、とすら言わねばなるま
い。キルケゴールを読んで私が何を生み出すか、それはキルケゴールの意図によって処方されるこ
とではないし、そうあってはなるまい。
キルケゴールがみずからに施した意味づけは、事実上、破綻している。加えて、もし仮にそれが
成立していたとしても、読者である私にとって大切なことは、キルケゴールが意図したとおりに
★
★
★
★
――従順に ――動かされ、導かれることでは決してない。
5 思考実験
ただし、仮名著作の読み方として、留意しなければならない点がある。その実験的性格である。
10
仮名著作においてキルケゴールは、自身の人格性との一致という縛りから解き放たれて、思考実験
を極端まで推し進める自由を手に入れる。そこには一定の「無配慮」が許容されるのだと言う。
はただ心理学的な首尾一貫性によって理念的に限界づけられるにすぎない。それ
それ(無配慮)
は、事実として実在する人格であれば、現実が課す人倫上の制約のためにみずからに許しては
ならない、あるいは許したいと欲したりしない首尾一貫性なのだけれども。( UN-II, S. 339.⑨四
〇〇―一頁)
つまり、実験的著作の利点とは、それを書く著作家の現実の生への配慮から自由に、ある考えを
とことんまで突きつめて考えることができる点にある、ということだ。そこで提示される理論が、
キルケゴール自身の生と合致するか否かの配慮からさえ自由に。直ちに二つの具体例を挙げること
ができる。一つは、『哲学的断片』における「ソクラテス=想起説」という解釈であり、これは、
★
★
★
★
――第三章で詳論されるように ――キルケゴール本来のソクラテス解釈とは相容れないものである
がゆえに、即座に『後書』の中で誤解の余地なく撤回される。今一つは、
「倫理的なもの」の語の
もとに普遍的妥当性を要求する人倫を考え、その目的論的棚上げが要請される『恐れとおののき』
★
★
★
★
の思考実験であるが、この倫理概念も ――キルケゴール本来の倫理概念たる ――実存倫理とは、き
っぱり区別して受けとめられなければならないものだ。
★
★
★
★
キルケゴールの著作は、啓蒙的精神の所産ではなかった。それこそ ――やむにやまれぬ ――実存