№1 毛利秀元の養子に! 江戸時代、現下関市域の大半を領有した長府藩の初代藩主毛利秀元。文武に秀でた秀元は、 豊臣秀吉から寵愛され、また関ヶ原の合戦後、窮地に陥った毛利家を救ったともいうべき人物で す。 天正7年(1579)11月7日、宮松丸(後の秀元)は、中国地方の大部分を領有した戦国大名毛 利元就の4男元清の二男として生まれました。父親の元清は当時、織田信長との攻防で最前線 となった備中猿懸城主(岡山県矢掛町)を務め、織田軍の攻撃を幾度も食い止めた勇将として名 を馳せていました。 戦陣に生きた元清から、「毛利」の名に恥じないよう厳しく育てられた宮松丸に転機が訪れたの は、天正12年(1584)のこと。6歳となった宮松丸は、毛利家当主の輝元(元就の孫)に養子と して迎えられ、家中から一目置かれる存在となったのです。 その際、「毛利両川」として輝元を支えていた吉川元春(元就の二男)と小早川隆景(元就の三 男)から強い推薦をうけたのです。元春は「今、毛利家に男子は多くいるが、宮松丸に及ぶ者なし」 と言い、隆景は「その眼差し・秘めたるものが元就によく似ており、毛利家を継ぐのは宮松丸しか いない」と言ったといいます。 2人の叔父は、亡き元就の面影を宮松丸に見たのではないでしょうか。 №2 豊臣秀吉の寵愛を受ける 天正14年(1586)、輝元は全国統一を間近にした豊臣秀吉との交戦を避けるため、養子の宮 松丸(後の秀元)を秀吉の人質として、大坂に向かわせます。 この時、元清は天正13年(1585)2月まで、人質として上坂していた小早川秀包(元就9男)の 助勢を任された桂広繁に秀元の随伴を依頼しました(※1)。自身の補佐役であった広繁をつけ ることで、父親として最大限のサポートをしたのでしょう(※2)。 大坂城で宮松丸に初対面した秀吉は、遠路移動の苦労をねぎらい、褒美として刀を贈りました。 その際、宮松丸は身につけていた刀を下座に置き、秀吉から戴いた刀を腰に差し直しました。こ の所作を見た秀吉は、幼少ながら、武将としての礼儀をわきまえた立ち振る舞いに感心したとい います。 また、大坂滞在中、宮松丸は、京都で行われる後陽成天皇の即位大礼式を見る機会を秀吉か ら与えられました。宮中(御所)では珍しい子供の姿に、後陽成天皇の目が止まり、宮松丸の出 自を聞いた天皇は、「宮松丸の祖父 元就公は、我が祖父 正親町天皇の即位大礼式の挙行に 多大な尽力をしてくれた。今、私の即位に際して、元就の孫が立ち会うのも何かの縁、これは吉 兆である。」と述べ、側に引き寄せたといいます。 宮松丸を天皇に拝謁させたことで、秀吉の評判が、ますます世間に広がるところとなり、以後、 秀吉は、宮松丸を深く寵愛するようになっていきます。 ※1「毛利元清書状 桂広繁宛 8月10日付」『桂家文書』 ※2「毛利輝元書宛行状写」『服部家文書』 天正3年(1575)12月、桂広繁は輝元から備中陶村200貫を与えられていますが、「対元 清馳走肝要」とあり、元清の麾下にあったものと推察されます。
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