『優曇華物語』と『南総里見八犬伝』

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『優曇華物語』と『南総里見八犬伝』
要旨
石 井 和 夫
曲亭馬琴もこの古典の冒頭と、『優曇華物語』の要所を『南総里見八犬伝』に導入した。
山東京伝の『優曇華物語』は標題と発端の着想を『竹取物語』から採り、
二作品は京伝・馬琴の趣向を旨とする傾向が共通し、胎児を眼病の治療薬とする『今昔物語』の挿話が『優曇華物語』を介して、
『南総里見八犬伝』の庚申
山の怪異譚へ変貌する。その中に、邪悪な妖怪が孝・烈・義を説いて、善人の不仁・不義を責める場面があり、善と悪が逆転したこの構造は、類型的な倫
理観とは異なる馬琴の勧善懲悪の特徴を示す。露伴と鷗外はそれを支持し、芥川龍之介は勧善懲悪に律しきれない、露伴が捉えた「勤勉」な馬琴像に重なる、
現八は腰刀に、両手を掛つゝ身を跳らして、岸を離れて歇りたる、
これが、次のくだりと呼応する、と言う。
ば、(『南総里見八犬伝』第四輯巻之一第三十一回)
は入らで、程もよし、水際に繋る小舟の中へ、うち累りつゝ と落れ
高低険しき桟閣に、削成たる甍の勢ひ、止るべくもあらざめれど、
迭に拿たる拳を緩めず、幾十尋なる屋の上より、末遙なる河水の底に
ここで例に引いた犬塚信乃と犬飼現八が組み合ったまま、芳流閣の屋
根から舟へ墜落するところを、馬琴はこう書いている。
総里見八犬伝』第九輯中帙附言)
創作三昧の馬琴を『戯作三昧』に描いた。この三者の評価は馬琴と『南総里見八犬伝』の今日の復活を予見していた。
1
小説の趣向に多大な関心を寄せた馬琴が、『南総里見八犬伝』の「附言」
や「自評」で、自作の技法を公開した文は、彼の作品を読み解く手がか
りになる。たとえば元、明時代の「稗史」の七つの「法則」――「主客」
「伏
線」「襯染」「照応」「反対」「省筆」「隠微」――のうち、「反対」を実践
した例を、次のように披瀝する。
又 八 十 四 回 な る、 犬 飼 現 八 が、 千 住 河 に て、 繋 舟 の 組 撃 は、 第
三十一回に、信乃が芳流閣なる、組撃の反対なり。(中略)信乃が組
撃は、閣上にて、閣下に繋舟あり。千住河の組撃は、舩中にして楼閣
なし。且前には現八が、信乃を 捕んと欲りし、後には信乃と道節が、
現八を捉へんとす。情態光景、太く異なり。こゝをもて反対とす。
(『南
(2)33
石井 :『優曇華物語』と『南総里見八犬伝』
舩に閃りと乗移りて、(『南総里見八犬伝』第八輯巻之五第八十四回)
の進行が異様であつたにしても、プロットの帰結が論理的でなくても、
将又、性格が描かれなくても、其処に人の興味を引く趣向――プロッ
た。京伝の読本「忠臣水滸伝」は、読者を魅す彼の趣向の才能によつ
トの興味といふ様なもの――があれば、彼等はそれに喝采し、満足し
現八は犬村大角を岸に残して、敵の潜伏する船へ乗り移ったが、暗闇
だから現八も、船中の信乃と犬山道節も、相手が同志であることに気づ
て当てたものである。
又優曇華物語七巻を綴る。〔印行の書賈、右に同じ〕。唐画師喜多武
清〔文晃門人〕と親しかりければ、こたび武清に誂へて、作者の画稿
馬琴の『優曇華物語』評にも、京伝の趣向に言及した箇所がある。
(2)
かぬまま戦う。折から射し込む月光が互いの顔を照らして、それを見た
三人は驚く。二つの挿話は、敵対する相手が同志である〈奇遇〉を対比
的に描いているわけだ。
実はこの着想は、『南総里見八犬伝』が初めてでなく、十五年前、『月
氷奇縁』のヒロイン、玉琴が橋の上から船中へ飛込む場面の、次の箇所
にも試みていた。
によりて画かしけり。この冊子の開手は、金鈴道人といふもの、子平
し人の子、後に父の仇を討つ物語也。趣向の拙きにあらねども、さし
の術に妙ありて、未然に吉凶を卜せしより、洪水に人を救て禍に遇ひ
玉琴吐嗟水中に没せんとする時、釣艇の棹さし来るあり、船橋腹を
出で、玉琴橋上より堕つ、故に水中に溺れずして舟裏に磤と仆る(『月
画の唐様なるをもて、俗客婦幼を楽まするに足らず。この故に、当時
(3)
氷奇縁』巻之二第四回)
「もしこの書を『八犬伝』五六輯以後の文をもて綴り、綉像を国貞に画せ、
吾作れる五六巻なる物の本の内中、この『月氷奇縁』に勝れる物なし。」、
開する作品の「趣向」を、「拙きにあらねども」と見た。馬琴自身、『月
われた子供の恩人殺しと、これを発端とする仇討譚へ、目まぐるしく展
喜多武清の「唐様」の挿絵が災いして、不評だったことを紹介しつつ、
金鈴道人の凶事占い、それに応じて起る洪水、その最中の救命活動、救
の評判不の字なりき。
筆耕を谷金川に課せなば、拙筆中第一番の好書なるべし。」というように、
氷 奇 縁 』 の 巻 之 一 第 二 回 で、「 拈 華 老 師 」 が、「 過 去 未 来 を 察 し て 吉 凶
二作の同じ技法の反覆を取り上げるわけは、馬琴が、『著作堂旧作略
自評摘要』で、『月氷奇縁』と『南総里見八犬伝』を比較して、「この後
この二作は相関性があり、本稿で問題とする庚申山の怪異譚が、まさに
を判断」する様を描いて、最終回に、「正長元年九月某日拈華老師造立
(1)
「『八犬伝』五六輯」の挿話だからだ。
二十六年前すでに未来を説き給ふ。」という予言と照応させている。つ
高木元の調査では『優曇華物語』の刊記は「文化改元甲子冬十二月発
かれる、同じ構造をもつ。
まり『優曇華物語』と『月氷奇縁』は、道人と老師の「偈」に運命が導
の数個字」の「偈」をクローズアップし、これを「拈華老師道高博識、
ところで、小池藤五郎は馬琴の師、山東京伝の趣向を次のように評し
ている。
当時の読者の眼は、今日の識者の行ふ克明な批評鑑賞に比すると、
あまりにも無批判的であつた。作柄が平衡均斉を失してゐても、事件
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兌」、序は「文化紀元甲子春三月」、『月氷奇縁』の刊記は「文化二乙丑
ねの物にあらず、琢磨をへたる玉の如し。
(『優曇華物語』巻之一第一段)
よく〳〵見れば、かの光りは是水晶石英のたぐひにて、しかもよのつ
(4)
歳孟春」、序は「享和三年歳在癸亥春二月上浣」で、刊記と序とで二つ
ここには、「もと光る竹なん一すぢありける。」(『竹取物語』)の痕跡
がある。また「我貧しうして母を養ふに事たらず。しかるに今こゝに迷
(5)
の作品の前後関係が錯綜している。大高洋司は『月氷奇縁』を執筆中の
と『南総里見八犬伝』の間には、こういう厄介な問題はないので、前者
ひ来て、此玉石を見出したるは、正是皇天のたまもの也。」という文は、「わ
馬琴が『優曇華物語』の稿本を参観した可能性を指摘する。『優曇華物語』
が後者の構想に結びついたと思しき箇所を摘出する。
れ朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になりたまふべ
き人なめり」と因果を説く文脈の応用であり、さらに、「この子を見つ
喜劇の領域に入っている。京伝は怪異現象も時に理詰めに構成し、読者
取られまいと、束ねた鍵の音で銭があるように欺くところなぞ、もはや
を書いているけれど、夫婦で一枚の襤褸着を纏い、その窮状を老母に気
京伝は『優曇華物語』第一段の冒頭に、銭もなく食料さえ尽きた鍛冶
の橘内・小雪夫婦が、せめて老母の晩酌だけは絶やすまいと腐心する様
ししを」という「功徳」を、孝徳に転換して『優曇華物語』第一段を構
徳を、翁つくりけるによりて、汝が助けにとて、かた時のほどとてくだ
こぶ事限りなし。
」に変容させている。『竹取物語』の「いささかなる功
して、折〳〵これをとりて売けるにぞ、心のまゝに母を養ひ、夫婦よろ
りとりて、市にはこびて売ければ、そこばくの価を得たり。此日を始と
2
の苦情が予想できる箇所は、作中でコメントを付す。にもかかわらず、
成したのだろう。
けて後に竹取るに、節をへだてて、よごとに、黄金ある竹を見つくるこ
いかにも違和感を抱きそうな、こんな孝徳と滑稽のミスマッチを、なぜ
しの枝折をなしおきて」と書いた修辞なぞ、些細な動作だから、かえっ
とかさなりぬ。かくて、翁やうやうゆたかになりゆく。」を、「彼物をき
あえて仕組むのか。
ちなみに「水晶石英のたぐひ」を発見した橘内が、「玉石をとる鉄器
を造」るために帰る際、そのありかを見失わぬ用心を、「路〳〵まじる
馬琴は京伝を「其孝(中略)二親を安らしむるものゝ如し。二親も亦
其意に任せて制することなかりしかば、一家和順して兄弟所親口舌ある
てリアリティがある。一方、『月氷奇縁』にも次のくだりがある。
者を撈さしむるに、忽ち捜し出して、彼の稍客を め来ぬ。(『月氷奇
を分ちて大磯に至らしめ、駅長に徇れて、松葉をもて衣襟に刺したる
足れり。この児生長の後聡明はかり知るべし。」と、遂に随従の武士
ふに、夫人ます〳〵驚嘆し給ひ、「嗚呼稚子の手段よく賊を捕ふるに
「(略)わらは過刻かの駅に負はれきたる時、戯れに松葉をもてその
衣襟に縫ひおきぬ。もし探索めんとならばこれを目標にもや。」とい
ことなし。」
(『伊波伝毛乃記』)と伝える。なるほど京伝が孝の人ならば、
を射ている。
(6)
親への「孝」など、素面では書けず、誇張して戯画化するのもやむを得
まい。高田衛が京伝から太宰を連想したのは正
京伝はこの後に、「四歳の女子」が鷲に攫われる災厄を配して、その
子を探索する父の橘内を、次の光景に出会わせる。
とある谷間にめぐり出、偶谷底を見れば、皓々たる白気たちのぼり
て、こゝかしこに光りあり。あやしみつゝ巌にとりつきて彼処に下り、
(4)31
石井 :『優曇華物語』と『南総里見八犬伝』
縁』巻之二第四回)(傍線引用者。以下同じ。)
ば源氏物語の光君、竹採物語の赫 姫」(『南総里見八犬伝』第九輯巻之
三十三「簡端附録作者総自評」)という一文に、同様の引用がある。「姫
子の為に、婚縁を募来したる、幾人といふ事をしらねど、われは一切招
が三五の春の比より、隣国の武士はさらなり、彼此の大小名、或は身の為、
玉琴は、後日追跡する目印に、自分を背負う人買いの襟に松葉を刺し
て、狙い通り逮捕させる。『優曇華物語』と『月氷奇縁』の関係の近さ
引ず、」
(『南総里見八犬伝』肇輯巻之五 第十回)というくだりにしても、
先に触れた鷲に攫われる女児の話は『今昔物語』、あるいは『日本霊
異記』の次の箇所が典拠として指摘されている。
らだ。
物語』の「水晶」に由来し、淵源に『竹取物語』の冒頭が類推されるか
『優曇華物語』第一段と、『竹取物語』の関係にこだわるのは、『南総
里見八犬伝』の仁義礼智忠信孝悌の文字が浮き出る水晶玉が、『優曇華
かぐや姫が求婚者を拒む挿話の再現に違いない。
を示すものだろう。
再び『竹取物語』に話を戻していえば、『優曇華物語』の標題が『竹
取物語』に由来することは、「くらもちの皇子」の挿話に見える修辞か
ら類推できる。
かぐや姫(略)「くらもちの皇子には、東の海に蓬莱といふ山ある
なり。それに、銀を根とし、金を茎とし、白き玉を実として立てる木
あり。それ一枝折りて賜はらむ」といふ。
(中略)
今は昔、但馬国七美郡川山の郷に住む者ありけり。其の家に一人の
若子ありて庭にはらばひけるを、其の時に鷲、空を飛びて渡りける間
悲しむで追ひ取らむとするに、遙かに昇りければ、力及ばずして止み
物おほいて持ちて参る。いつか聞きけむ、「く
玉の枝をば長櫃に入れて、
らもちの御子は、優曇華の花持ちて、上りたまへり」とてののしりけり。
そのほか、大蛇太郎の眼病の秘薬を、「得がたきといふは燕の子安貝
か、火鼠の裘か」
(『優曇華物語』巻之四上第八段)というのは、二つとも、
にけり。(『今昔物語』巻第二十六第一「但馬国に於いて、鷲若子をつ
に、此の若子の庭にはらばふを見て、飛び落ちて若子をつかみ取りて
かぐや姫が求婚を断る口実に、貴公子に課した難題にある、嘘の宝物の
かみ取りし語」)
空に昇りて、遙かに東を指して飛びいにけり。父母これを見て、泣き
引用だ。元来「物語」という言葉を自作の標題に選ばない京伝にとって、
飛鳥川原の板葺ノ宮に宇御めたまひし天皇のみ世、癸卯の年の春三
月の頃、但馬の国七美の郡の山里の人の家に、嬰児の女有り。中庭に
鈴道人の占いの題意が想定できる。
惻み哭き悲しび、追ひ求むれども、到る所を知ら不るが故に、為に福
『優曇華物語』は異例であり、しかも「優曇華」は三千年に一度咲くと
趣向に注目する馬琴が、こういう種々の技巧を見逃すはずがない。『南
総 里 見 八 犬 伝 』 に も、 伏 姫 の 誕 生 を 記 し た、「 彼 竹 節 の 中 よ り 生 れ し、
を修す。(『日本霊異記』上巻第九「嬰児、鷲に擒はれ、他国にて父に
いうインドの想像上の花で、吉凶の兆しと伝わることから、第二段の金
少女もかくやと思ふばかりに、肌膚は玉のごとく徹りて、産毛はながく
逢ふこと得し縁」)
匍匐ふを、鷲擒りて空に騰りて、東を指して翥りいぬ。父母懇びて、
項にかゝれり。」(『南総里見八犬伝』肇輯巻之四第八回)という修辞や、「譬
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『南総里見八犬伝』の浜路姫が鷲に攫われる場面もこれに拠るという
が、次の修辞の一致から、別の可能性が考えられる。
軒下の日あたりよき処に、筵をしきて、小児を遊せおき、小雪は裏
にありて、老婆の肩をさすり居たる折しも、後山の樹林、 々とひゞ
く音すさまじく聞ゆ。小雪あやしみ、山下風の暴風かあはやと顧ば、
年旧大鷲翼をならし、勢猛おろし来て、かの小児をかいつかみ、雲井
遙に飛上る。小雪これを見て魂を失ひ、あわてまどひて走り出、手を
のべ足をつまだてゝ、跳上り飛上り、空をのぞみて身をもだへ、「あ
れよ〳〵」とさけべども、素隣家なきはなれ家なれば、出てたすくる
人もなく、身に翼をもたざれば、いかんともする事あたはず、
(中略)
此時橘内何心なくたちかへりて、母も妻もたふれ居たるを見つけ、
いそがはしくよりて、まづ母をいだきおこして見るに恙なし。扨妻を
ひきおこして見るに、息絶てありければ、大に驚き、孝子の常とて、
貧きなかにも貯おきたる、醒薬をとり、口中にそゝぎ入て介抱せしか
ば、しばらくありて甦醒り、夫の顔を見るよりも、声をはなちて号哭。
(図1参照)(『優曇華物語』巻之一第一段)
背後の方に颯と音して、いと大なる暴鷲の、羽嵐高くおろし来て、
浜路姫のおん背を、衣の上より掻抓て、虚空 に蜚去りにき。縡の勢
ひいふべうもあらず。時に姫おん年三才なり。左右のおん手を引まゐ
らせし、乳母女房等さへ撲倒されし、乳母はそが儘呼吸絶けり。おん
守役に候ひし、齢坂登はさらなり、おん供なりける女房等、女の童に
至るまで、あれよ〳〵、と叫ぶのみ。翅なければ蒼天を、うち瞻仰て
音にぞ泣く、三保の浦曲にとり遺されし、天津少女に異ならず。(図
2参照)(『南総里見八犬伝』第七輯巻之六第七十二回)
図1 『山東京伝全集第十五巻』(平成六年一月 ペリカン社)所収「優曇華物語」挿絵
(6)29
石井 :『優曇華物語』と『南総里見八犬伝』
図2 岩波文庫『南総里見八犬伝第四巻』(昭和十三年五月)挿絵
先の『今昔物語』と『日本霊異記』には、この傍線箇所と一致するも
のがない。『優曇華物語』第一段「鍛冶橘内鷲に児を捉るゝ事」の冒頭に、
「小児はことし四歳の女子」とあり、一方『南総里見八犬伝』の浜路姫
は「おん年三才」
、前者の「『あれよ〳〵』とさけべども」と、後者の「あ
れよ〳〵、と叫ぶのみ」、あるいは、「息絶てありければ」と「呼吸絶け
り」の対応、さらに「声をはなちて号哭」と「蒼天を、うち瞻仰て音に
ぞ泣く」の対照がある。これは『南総里見八犬伝』が『優曇華物語』を
典拠にした証だろう。ただ、『優曇華物語』はこの挿話が発端にあり、『南
総里見八犬伝』では第七輯に置かれて、構成上の比重が違う。『優曇華
物語』の、鷲が女児を攫う話に相当するのは、『南総里見八犬伝』の場合、
八房が伏姫と去る場面である。
3
『優曇華物語』に登場する犬太郎、内海蝦庵、大蛇太郎、野猪婆嫗は、
獣が人名となる『南総里見八犬伝』の先駆性があり、加えて網干兵衛と
網干左母二郎の姓の一致もある。
『優曇華物語』には人名だけでなく、鷲や熊や猪が人を襲う場面があ
るが、次の 蛇はこれらの獣と性質が違う。
蛇、半身をあらはし、双眼に金光を出し、巨口をひらき火
々となる音あり。みな〳〵此音を聞、こは怪
前面の樹木のうちに、
しやと頭をあげて見れば、夕霧ふかくたちこめたるうちより、吊桶のお
ほきさなる
のごとき舌頭を吐、頭を左右にうちふりて、只一呑に飲むらん勢ひをな
蛇 のかたちをつく」った細工物であり、「往
す、おそろしなどもおろか也。(図3参照)
(『優曇華物語』巻之三第五段)
この蛇は、「蛇皮を以て
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図3 『山東京伝全集第十五巻』(前出)所収「優曇華物語」挿絵
来の旅人を嚇し、其虚に乗じて担子を奪ふ」目的で、「これを霧の裏に
はたらかしめ」る。操る人物は、元の名前が犬太郎、次に玄海と名乗り、
網干夫婦を殺害した後、盗賊団の頭目に成上って、大蛇太郎と改名した。
これには蛇の脱皮の寓意がある。
通りかかった渥美左衛門――鷲に攫われた女児を、弓児と名づけて養
女にした美濃の郷士――は、「巌のかげに身をかくし、馬上にたづさへ
蛇の頭にはつしとたちぬ。
蛇これ
たる半弓をとりて箭をつがへ、満月のごとくにひきたもちて弦音たかく
漂とはなつ」。「其箭あやまたず、
におそれやしけん、もとの霧深きうちに、こそ〳〵とかくれい」る。渥
美はその後を追って、「むかひのかたを遠く見やれば、毬ほどなる火の
光り、四ッ五ッ乱飛びぬ。狐のともす火かと怪みおもひつゝ、やゝ近く
なるを見れば、十四五人の者、火把を揮照して、此寺すゝみ来る」。
蛇をくゝりて、になひ来ぬ。渥美
別に又怪むべきは、両人の賊、
梁の上より、軒もる月あかりによく見れば、是実の 蛇にあらず、其
形を似せつくりたる物なれば、これにも又あざむかれぬるかと憤をか
さぬ。(同前)
こうして 蛇の正体を見破った渥美は「賊寨に陥、四十二歳を一期と
して草葉の露ときえうせ」た。この前後を記述したくだりに、京伝は次
の注釈を加えている。
扨渥美幽谷に陥てより、旧寺にいたるまでの仔細、かたはらに人も
なきに、何を以てこれを知ると、うたがふべきが、これは後に其時の
も此事を論じおきぬ。理を以てせ
趣を考へ、かくもありけめと、推量をもて語伝へしならめ。此たぐひ
の事昔物語に例おほし、已に謝肇
むる人、かならずしもあやしみおもふことなかれ。(同前)
(8)27
石井 :『優曇華物語』と『南総里見八犬伝』
語り手の性質と話法への京伝の関心がここに見える。それを「山東庵
京伝」(『近世物之本江戸作者部類』巻第二「読本作者部上」)を書く馬
琴が見逃したはずがなく、彼はこの種の解説を独立させて、技法を駆使
する作者の存在をクローズアップした。
『優曇華物語』に登場する鷲、熊、猪は日本に実在する獣だが、 蛇
はいない。これを細工物の設定にしたのは、操る人間の悪行をリアルに
書くためだろう。拵え物と気づかせぬ用心に、「夕霧ふかくたちこめたる」
蛇をくゝりて、になひ来ぬ」という、ハ
時を選んで出現させるなぞ、芸が細かく、悪人の人間臭さが出ている。
渥美が目撃した「両人の賊、
蛇遣いは高座の話芸の趣きがある。
リボテの後始末が露見する光景と併せて、ドタバタ劇を思わせ、先の橘
内夫婦の孝徳と、大蛇太郎の
『南総里見八犬伝』にも、蜑崎照文が父から聞いた夜話としてゝ
一方、
大法師に語る、狙公の宝刀の由来に 蛇が出現する。
昔、里見季基が狩りに出た時、蕃山の麓に底知らずの池があり、池の
辺りの樹下で猿使いが眠っていた。その木の上に、「怕るべき 蛇」が
いて、「軀の太」さは千年を経た松ほどもあり、頭が松の梢に尾は水中
に隠れ、「眼は百錬の鏡を」二つ掛けたようで、口は血塗りの盆に似て、
長い舌は「閃く火炎か」と疑われた。恐れて逃げようとした猿を丸呑み
して、さらに猿遣いを狙う。すると腰刀が脱け出て煌めき、ひるんだ大
蛇が茂みに隠れると、刀身は鞘に収まる。再び大蛇が頭をもたげると刀
も鞘から出る。それを見た季基は、あの刀は「神宝」に違いないが、見
過ごせないと、大蛇の右眼を矢で射抜き、二の矢でとどめを射す(図4
蛇の右眼を射る挿話を髣髴させる。
参照)(第九輯巻之十八第百二十四回)。大蛇が季基に右眼を射抜かれる
箇所は、渥美左衛門が細工物の
蛇を操る行為に由来する、いわば『優曇華
大蛇太郎の名は、細工の
物語』の中枢的な挿話である。一方、『南総里見八犬伝』の大蛇と「神
宝」の刀の挿話は、全篇の中で村雨丸ほどの比重を占めていない。ただ、
図4 『日本名著全集 江戸文芸之部 第十七巻 南総里見八犬伝 中』
(昭和二年六月 日本名著全集刊行会)挿絵 福岡女子短大紀要 No.80,18 ~ 34(2015)
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名刀をめぐる挿話は村雨丸が許我成氏の手に渡るまで、継続的な主要モ
蛇が出現する場面は、実
チーフだから、この場面もそれを読者に提示して、印象づける補完的な
役割を負っている。そして『優曇華物語』の
は『南総里見八犬伝』のもう一つの怪異譚を誘発している。
4
『南総里見八犬伝』の庚申山のくだりは、犬飼現八が登場する話の中
で芳流閣の決闘と双璧をなし、怪異が現八に近づく場面を、馬琴は七五
調のリズムに乗せて次のように書く。
星の光を仰て瞻るに、丑三にやと思ふ比、東のかたより忽然と、蛍
火可の火光、閃々として両三点、こなたを投て来る如く、いとも幽に
見えしかば、現八ふかく怪みて、「彼は鬼火か、しからずば、天狗火
定型のリズムからリズムを排した文への転調は、リズムに乗った流し
読みを抑えて、怪異の一つ一つに読者をつきあわせるためだろう。
こうしてみると『優曇華物語』の 蛇の「双眼に金光を出し、巨口を
ひらき火のごとき舌頭を吐」、および盗賊の「毬ほどなる火の光り、四ッ
五ッ乱飛びぬ。狐のともす火か」が複合して、
『南総里見八犬伝』の「火
の光」=「妖怪の、両眼の耀」りに転移したふしがある。この点だけ指
摘すれば牽強付会の謗りを免れないけれど、次のような近似性が加わる。
現八が妖怪に矢を放ち、七五調が復活する次の場面で、
冤鬼済せし現八が、矢声も猛く発つ箭に、件の騎馬なる妖怪は、左
の眼を箆深に射られて、一 ト声「苦」と叫びもあへず、馬より と堕
しかば、「吐嗟」と騒ぐ両箇の妖物、手屓の手を取り肩を引かけ、一
箇は馬を牽つゝも、旧来しかたへ逃亡けり。(同前)
(『優曇華物語』巻之三第五段)
渥美の矢が 蛇の「右の眼を箆深く射」
に対して、現八の「発つ箭」が「妖怪」の「左の眼を箆深に射」たと描
にもやあらんずらん。要こそあれ。」と遽しく、半弓拿て、胎内竇を、
出て傍の樹蔭を、盾柴にしつゝ闚ひをり。(『南総里見八犬伝』第六輯
くのは、同質のものの左右を反対にした表現だろう。
後述するように、馬琴はこれを『優曇華物語』の巻之四上第八段・同
下第九段の、眼を病む大蛇太郎の治療薬に、野猪婆嫗が妊婦から胎児を
巻之五下冊第六十回)
取り出す話と組み合わせて、庚申山の場面を構成した。馬琴は、それを
事は今昔とか、いへる草子に見えたり、と曩にある人のいへりしを」と
定型のリズムは怪異が接近する切迫感を演出し、「要こそあれ」以下、
次の「さる程に」前後で定型のリズムを排している。
さる程に件の火は、近づく随に大きうなりて、そがあたりを燭すこ
と、炬に異ならず。既にしてその間、四五反ばかりになるまでに、現
明かしているけれど、この典拠は『今昔物語』にとどまらない。
山猫の化身、贋赤岩一角の口を通して、「むかし平の貞盛ぬしは、その
八はなほよく見んとて、瞬もせでありけるに、怪しむべしその火の光
身の病痾の良薬に、その子の媳の胎内なる、子を求たる例もあり。この
は、地狗(キツネ)・天狗の所為にはあらで、えもしれぬ妖怪の、両
『優曇華物語』第一段で橘内の母の盲目を治療した内海蝦庵は貧民の
恨みを買って堅田を逃れ、下野国黒髪山に落ち着く。そこで大蛇太郎と
眼の耀れるなり。(同前)
遭遇し、彼の眼疾を治療する。その時、蝦庵はこれを「腹籠の子をとり、
(10)25
石井 :『優曇華物語』と『南総里見八犬伝』
これ得がたき物なり」(同前)と診立てる。
胎衣とゝもに鍋中に煮て肉醤となし、胞子醢となづけて、薬に和し用ゆ。
あつむる苦しみにて、目もあてられぬ光景なり。
がごとく、七転八倒身をもだへ、手足をふるひ、四苦八苦を、一度に
る。彼女は「足柄の山中」で「手負猪とたゝかひ、片目を牙にかけられて、
死体の始末を書いた次の箇所まで一貫している。
野猪婆嫗が胎児を単なる妙薬として扱い、無用な女を抹殺する、一つ
一つの動作を正確に描写しているのが目につく。このリアリズムは女の
京伝はこうして第一段以来の蝦庵を大蛇太郎と結びつけ、一方で眼疾
の「秘薬」となる「腹籠の子」をもたらす人物として野猪婆嫗を配置す
畸とな」る。野猪婆嫗の名前も「手負猪」に由来する。その彼女が「大
老嫗はあとにとゞまり、簀子のうへにながれたる、血しほをのごひ、
酒などうちのみて、ゆる〳〵疲れをやすめ、貽子を麻笥にいれてたづ
蛇太郎にしたがひ、賊の途中にくはゝ」る展開は、橘内の老母の盲目が
モチーフである。
をかゝげて、一里ばかりかなたの山に持行、深き谷底になげすてゝ、
蝦庵によって治癒したことと、大蛇太郎が眼を病むことをつなぐ同根の
野猪婆嫗は「おもては子をとりあぐる事をなりはひとし、或は堕胎の
薬を売、或は人の子をまびき、又は人の子を養ひて金をむさぼり、その
たゞちに、黒髪山にいそぎ行。(『優曇華物語』巻之四下第九段)
さへ、月の光りに乗じて、黒髪山にいそぎゆきぬ。かくて小賊は、屍
子をくびりころして、病死といつはり、門ちかき古井のうちに、屍をか
くす事、いくたりといふ数をしらず、たぐひまれなる悪婆」である。彼
女が胎児を手に入れるいきさつが次のように書かれている。
ためだが、それにしても、この徹底した書き方は凄みがあって、いわば
京伝は、女の屍体を谷底へ投げ捨てるまで描写を省かない。それはこ
の後、女の屍体を発見する場面があり、そことの照応が考えられている
渥美左衛門の侍女「真袖」は、「忠僕」衛守の弟健助の子を宿し、「八
月」になる。彼女は野猪婆嫗の家の近くで体調を崩し、介抱すると見せ
筆先のフェティシズムさえ感じさせる。元々は『奥州安達原』や『黒塚』
犬飼現八に左眼を射られた贋赤岩一角は、角太郎の嫁、雛衣が妊娠五
か月になるのに目を付けて、胎児を治療薬として差し出せと迫る。
から、馬琴は『南総里見八犬伝』の庚申山の場面を、次のように構成した。
で周知の山姥が妊婦を襲う話を典拠にした『優曇華物語』のこのくだり
かけた野猪婆嫗の手にかかり、胎児を奪われる。
老嫗いはく、「産出したる子は用にたゝず。いまだ胎内にある子を、
胎 子 と い ひ て、 高 価 を 得 妙 薬 な り。 ゆ ゑ に 其 腹 籠 が の ぞ み ぞ か し 」。
女驚き、「胎内にある子を、いかにしてとるべきや」。老嫗打ゑみて、「つ
ひ其腹をたちわれば、心安うとらるゝ事也。(後略)」
「汝が腹の子は、我為には宝なり。あまりみじろぎして、宝をそこ
なふてくれな。もはや冥途へやらん」とて、黒髪をつかみ引よせて、
推居たり。
とうち目戌れば、舩虫は携来たる、壺とり揚て犬村夫婦の、間へ直と
「(略)秘蔵といひしは雛衣が、胎内にはや五个月の、子をとり出し
て給へかし。」といふに駭く角太郎、雛衣は只呆れ果て、顔つく〳〵
のけさまにおさへ、氷のごとく硎たてたる、菜刀をとりなほして、む
當下一角儼然として、「(前略)われ一昨の宵愆て、左の眼を傷りし
(中略)
なさかを、さしとほしければ、血しほほとばしりて、紅の泉の涌流るゝ
福岡女子短大紀要 No.80,18 ~ 34(2015)
24(11)
ひばわが眼の、故のごとくにならん事、絶て疑ひなきものなり。親の
物を見ること鮮明ならん。(中略)況てその余の二種を、加味して用
して、屢これを服すれば、刺破られたる目子の、再故のごとくに愈て、
の胎内なる、子の生膽とその母の、心の臓の血を取て、彼細末に煉合
には妙薬あり。百年土中に埋れし、木天蓼の真の細末と、四箇月已上
の霊光は、八方に散失て、跡は東の山の端に、夕月のみぞさし昇る。
飛遶り入紊れて、赫奕たる光景は、流るゝ星に異ならず。(中略)八
へ戞と落とゞまり、空に遺れる八の珠は、粲然として光明をはなち、
と見えし、珠数は忽地弗と断離れて、その一百は連ねしまゝに、地上
閃き出、襟に掛させ給ひたる、彼水晶の珠数をつゝみて、虚空に升る
「(略)これ見給へ。」と臂ちかなる、護身刀を引抜て、腹へぐさと
突立て、真一文字に搔切給へば、あやしむべし瘡口より、一朶の白気
かば、医師を招きて診せけるに、一箇の名医誨ていふやう、この眼瘡
為には命だも、惜まじといひし孝行に、甘へて頼む薬種の調達。
(後略)」
當是数年の後、八犬士出現して、遂に里見の家に集合、萌芽をこゝに
ひらくなるべし。(『南総里見八犬伝』第二輯巻之二第十三回)
と角太郎・雛衣の対立の周辺に、船虫・牙二郎を配して、異口同音に「孝」
・
『南総里見八犬伝』が『優曇華物語』と異なるのはこれにつづく次の
箇所だ。
雛衣は短刀を、とり揚てうち戴き、「脆き女の腕には、潔く死を遂
んこと、心もとなく侍れども、然りとて妾も武士の妻、武士の女兒に
「烈」・「義」を説き、「不仁」「不義」を責める言葉が多用される。
「八の珠」の「霊玉」の一つが、雛衣の「鮮血と共に」あらわれる。『優
曇華物語』の酸鼻を極めたグロテスクとは異質で、とりわけ贋赤岩一角
生れし甲斐に、後れじとこそ思ひ侍れ。(後略)」とばかり抜放つ、刃
○飽まで孝ある子共ならずば、いふともいかでか承引べき。
の光りに角太郎は、そなたへ膝を推向て、うちも目戌れば降そゝぐ、
膝に涙の玉あられ、胸は板屋の妻夫、迭に顔を見あはして、共に無言
○胎内の子も母も、 々公の病痾の良薬に、なるはこよなき孝行節義、
○一旦傷れしおん目の薬に、媳と孫とを殺し給はゞ、誰か不仁といはざ
廿四孝と名にしおふ、唐山人も及んや。
の告別。「とく〳〵せずや。」と一角が、焦燥声は冥官の、使に似たる
阿鼻泥黎、外に弘誓の舩虫も、牙二郎も亦「とくとく。」と死天を促
す無常の首途、「後れはせじ。」と雛衣が、はや握持つつかの間に、晃
○その腹を今発して、懐胎ならずはいよ〳〵不仁の、後悔其甲斐あるべ
るべき。
濆る鮮血と共に、顕れ出る一箇の霊玉、勢さながら鳥銃の、火蓋を切
からず。父に争ふ子あるときは、その子不義に陥らずといふ。聖の教
したる刃の雷光、刀尖深く乳の下へ、ぐさと衝立て引遶らせば、颯と
て 放 せ し 如 く、 前 面 に 坐 し た る 一 角 が、 鳩 尾 骨 磤 と 打 砕 け ば、「 苦 」
○賽孝行の剥易く、兄貴の孝子といはるゝも、嫂御の貞女といはるゝも、
も候はずや。禁めまうすは親の為、賢慮を仰ぎ奉る。
輯巻之二第六十五回)
今この答一箇にあり。 ○只願くは百年の、命めでたく名をも揚、家を起して孝と義の、人の鑑
と一 ト声叫も果ず、手足を張てぞ仆れける。(『南総里見八犬伝』第七
これは次の箇所と対照をなす。
となり給はゞ、死して栄あるこの身の幸ひ。
(12)23
石井 :『優曇華物語』と『南総里見八犬伝』
○見あげたる雄々しき孝烈
次には媳いびりの猫化郷士の妻、三転して追剥の女房の女按摩となり、
例えば船虫の一生の如き、単なる一挿話とするには惜しい話材であ
る。初めは生き暮れた旅人を泊まらしては路銀を窃む悪猟師の女房、
○烈女の魂
○遖愛なき孝女なり
最後に折助の嬶となって亭主と馴れ合いに賊を働く夜鷹となり、牛裂
の私刑に波瀾の多い一生の幕を閉ずる一種の変態性格である。
馬琴はとかくに忠孝の講釈をするので道学先生視されて、小説を忌
む鴆毒に等しい文芸憎悪者にも馬琴だけは除外例になって感服されて
(中略)
馬琴は悪が道徳的観念を振りかざして、善を責める転倒の手法によって、
るが、いずくんぞ知らん馬琴は忠臣孝子よりは悪漢淫婦を描くにヨリ
胎児の生肝と妊婦の生血を、父の眼病の薬に差し出すことが、「聖の教」
に沿った「孝行」であり、拒むのは「不義」だと、雛衣を脅迫する。三
妖怪(邪悪)の禍々しさ、悪どさを際立たせる。「南総里見八犬伝第九
以上の老熱を示しておる。(『八犬伝談余』「三『八犬伝』総括評」)
者三様、儒教的道義臭のある同語反覆は、この文脈が方法的である証で、
輯巻之三十三簡端附録作者総自評」の長文の批評の中で、「昔の孝子順
フトが『ガリヴァー旅行記』に書いたように、悪人が高い知恵を備えた
がない。馬琴と漱石は学問と教育が道徳の基礎と考えたけれど、スウィ
うに「下剋上」を「逆悪」とする禁忌があるとしたら、臣や子はなす術
は「勧善懲悪」の転倒だが、君臣・親子の間でそれが行われ、馬琴のよ
る 」 と の 冷 め た 認 識 が あ っ た。 悪 人 が 善 人 に 不 当 な 道 徳 の 行 使 を 迫 る の
いう漱石にも「道徳は習慣だ強者の都合よきものが道徳の形にあらはれ
馬琴が庚申山の段で描いたのは、道義に拘束される人間の弱点を急所
と狙って衝く悪の力だ。「文学は矢張り一種の勧善懲悪であります。」と
善人の不仁・不義を攻め立てる場面を設けた意味は無視できない。
範にこだわる馬琴が、「善悪を転倒」させ、悪人が孝だの義だのと嘯き、
年の程になん。」とある。第二輯は十分の一、第三輯は十分の一・五に過
人 ンおの〳〵列伝あり。来ん春毎に嗣出して、全本となさんこと、両三
しかれとも守備具足して、全体を闕ことなし。二輯三輯に及びては、八
十回、義実の息女伏姫が、富山の奥に入る條まで、これ全伝の発端なり。
総里見八犬伝』肇輯巻之一巻頭「八犬士伝序」に付けた小文の結びに、「第
訳者である魯庵が、船虫の造型を買っているのは理に適っている。『南
象徴するアクチュアリティがある。『罪と罰』の日本語による最初の翻
り、彼女には、この世は悪で出来ている、と言いたくなる人生の断層を
さを印す浜路や雛衣と正反対に、死地を脱して執念く生きることで存在
船虫は、魔を折伏する伏姫の聖なる力に対して、玉梓の「祟」りのモチー
フを担い、魔的な妖力を現実化する女として設定され、短命ゆえに鮮烈
孫、忠臣貞女を誣て、悪人に作り易べからず。その善悪を転倒せば、縦
時、人を追い詰める。そういう悪人が道徳を口実に人に向かう時、言葉
ぎない。肇輯巻之五第十回の巻末では、
「作者云」の下に、
「年をかさね、
新奇といふといへども、勧懲に甚害あり。」と述べたように、善悪の規
は凶器に変わる。
べし。」と記した。『椿説弓張月』は前編の文化四年正月から残編の同八
巻をかさねて、全本をなさん事、曩に予が著したる、弓張月の如くなる
感を増し、様々な悪の変相を見せる。それが世にはびこる悪の実相であ
「勧善懲悪」は絶対的でなく相対的な思想だから、内田魯庵の次のよ
うな批評が生まれる。魯庵は船虫に象徴される『南総里見八犬伝』の悪
年三月まで五年、全二十九冊。『南総里見八犬伝』は、文化十一年十一月、
(8)
の魅力をこう語った。
福岡女子短大紀要 No.80,18 ~ 34(2015)
22(13)
百六冊。『椿説弓張月』の四倍弱まで長大化したのはなぜか。中里介山
肇輯から天保十三年正月、「第九輯下帙下編下結局」まで二十八年、全
している。 となる「玉梓が祟」と義実の「一言の失」の関係を、以下のように解説
玉梓が祟は、義実彼を赦さんとして得赦さず、只一言の失より出た
り、その応報、伏姫を犬にゆるせし戯言に成れり、彼と此をむかへて
(7)
は「都新聞」版『大菩薩峠(続き)』の最終回「一〇八」に付した小文で、
は失明するが、兵馬に討たれず生きのびて、仇討譚の構想が途絶える。
見るべし、亦一言の失にあらずや、彼此ともに口禍といひながら、元
机龍之助が失明し、宇津木兵馬に討たれて死ぬことを予告した。龍之助
この筋の変更が長大化に向かう最初の兆候で、前稿で述べたように、宮
来大きなる愆にはあらず、しかるにその祟の大なるは何ぞや、後に里
(9)
沢賢治は失明した龍之助の「修羅の旅」に光を当てて、「大菩薩峠の歌」
見に八士を得て、地を開き鄰国を
する福も亦大なればなり、
を作詞し、谷崎潤一郎は、顔に火傷痕のあるお銀様と失明した龍之助の
出会いから、春琴と佐助(『春琴抄』)を発想した。龍之助の失明は当初
からの構想だったが、その龍之助が醸し出す空気が、介山の目論見を超
に述べている。 これは言葉が『南総里見八犬伝』の重要なモチーフであることを告げ
ている。馬琴は『南総里見八犬伝』における勧善懲悪の意図を次のよう
介山は、夫に勝ちを譲れと、龍之助に迫るヒロインを、お浜と名付け
た。 こ の 時、 介 山 の 脳 裏 に 信 乃 を 襲 っ た 浜 路 が あ っ た と 思 う。 犬 塚 信
○唯その勧懲に於て。毎編古人に譲らず。敢て婦幼をして奨善の域に到
えたのだろう。
乃が村雨丸を献上すべく許我の城に赴く前夜、今生の別れとの思いを胸
○稗史は事に益無しと雖も。而れども寓するに勧懲を以てするときは。
らしめんと欲す。嘗て著す所の八犬伝。亦その一書なり。(「八犬伝第
三輯巻之三第二十五回」)とかき口説く。これを網乾左母二郎に拉致さ
則ち之を婦幼に読ましめて。害無かるべし。(「八犬伝第七輯有序」)
に、恥を忍んで深夜、信乃の寝所を襲った浜路は、「あくがれて死んよ
れた浜路が、
「とく〳〵殺せ」(「第三輯巻之四第二十八回」)と挑発して、
○善以て勧むべく。悪も亦懲らすに足る。果せるかな。君子は文外の隠
三輯敍」)
左母二郎に殺させる段で反覆する。そこで浜路が発する「汝も亦遠から
微を尋ねて。而して奨導の深意を解悟して。婦幼は一日の観場に代へ
り、おん身刃にかけてたべ。」「生て閾の外に出じ。 殺してたべ。」(「第
ず、最期はかくの如くならん。」という怨言は、玉梓の呪詛に似て、二
て。而して春日秋夜の長きを覚へず。(「八犬伝第九輯自敍」)
こわ
「 女 子・ 童 蒙・ 翁 媼 達 」 を「 善 」 に 導 く た め に「 勧 懲 」 を 用 い、「 君
作者総自評」)
戯墨に筆を把り初ける。(「南総里見八犬伝第九輯巻之三十三簡端附録
女子・童蒙・翁媼達の、迷津の一筏にも、なれかしとての所為なれば、
○欲するよしは善を勧め、悪を懲らしつ、世間に、教ならして頑ななる、
人の情の強さをものがたり、お浜も、「早く殺して下さい――」(「都新聞」
版『大菩薩峠』一三五)と唆かして、龍之助に突き殺される。お浜が浜
路に通じるのはこういうところだ。
5
馬琴は、『犬夷評判記』中之巻「▽里見八犬伝第二篇」で物語の発端
う。さらに中村幸彦が「滝沢馬琴の小説観」(「国文学論叢」第六輯〈昭
子」には「文外の隠微」によって、「奨導の深意を解悟」させる、と言
れは子供の知性が年齢不相応なことへの回答であって、「小説」が「人
五歳であり、『五雑爼』にもこの種の神童が見られる、と応えたが、こ
にあらずや」。これに馬琴は、舜の師、蒲衣は八歳、孔子の師、項槖は
「誨淫導慾」の相関にふれた箇所がある。さらに「其稗史中に、淫奔猥
先に触れた「南総里見八犬伝第九輯巻之三十三簡端附録作者総自評」
には、「勧懲正しからざれば、誨淫導慾の外あらず。」として「勧懲」と
の枠組を継いでいる。
説の基本条件として説き、坪内逍遥の『小説神髄』は馬琴のこの小説論
見るに足らず」という馬琴の小説観がある。馬琴は勧善懲悪と人情を小
情を穿つこと、小説にはいとなしがたし、情を穿ち趣をつくさゞれば、
の小説は、比々として皆これ也、将人情を穿つにも才のしなあり、寔に
〈昭和五十年二月 岩波書店〉所収)であげた、「小説の趣向する処、巧
拙はとまれかくまれ、作者に大学問なくては、第一勧懲正しからず、今
夷評判記』の刊行は文政元年(一八一八年)で、この時、『南総里見八
ら「人情」を持ち出して、これを細かく描くのはよくないと言う。『犬
のなり」と付け加えた。ここでは評者が触れもしないのに、馬琴の方か
くだし、子孫をそこにて断絶するを、大不孝の人とすべし」と応えた上
不孝といふものは、万事親の志に悖り、国を亡し家を喪ひ、父祖の名を
ずとも、人となりを推すときは、義実いかでか親を忘るゝ人ならんや」
「凡
大きなる不孝といふべし」と攻めるのに対して、馬琴は、「これを誌さ
田を獲た」とき、父季基の「菩提を弔」うべきなのに、「この事絶てなきは、
い。『犬夷評判記』上之巻「▽里見八犬伝初篇」の評者が、里見義実は「瀧
情を鑿」つべきなのに、「情に悖るにあらずや。」という批判の答ではな
和三十八年十月 慶應義塾大学国文学研究会〉
のち『近世文芸思潮攷』
褻の段、間これあり。見て悟らざる者は、作者時好に媚て、這醜情を写
犬伝』第二輯(文化十三年〈一八一四年〉刊行)まで対象にしている。『南
で、さらに「すべて小説は人情を穿の外に、あまり細しきはうるさきも
したり、とのみ思へり。豈然らんや、しからんや。其淫奔なる者は、残
総里見八犬伝』第二輯巻之五第二十回の巻末で、黙殺した問いに応えた
まゝ
忍兇悪の男女にして、善人にはこの事なし。」という。その証に『水滸伝』
ように映る。
先に引いた信乃の寝所を襲った浜路を、馬琴は「端なくは得進まで、
蟵の後方に伏沈み、声は立ねど哽咽る、涙に外をしのぶ搨、紊れ苦しと
りぬるを、
猜すべし。」として、「則ち是本伝なる、信乃と浜路の情態を見て思ふべ
喞めり。」と書き、対する信乃を、「強敵には懼れざる、壮客ながらうち
の「奸通」の例を列挙し、「這姦夫淫婦等が、不義の淫慾に
し。その情態に、好人と悪人の差別あるよしは、又本伝なる、篭山縁連
騒ぐ、胸を鎭めて」、あるいは「人木石にあらざれば、有繋に情をしりつゝ
の実例だろう。尾崎紅葉はこの場面を『多情多恨』に援用し、『金色夜叉』
看官羨しく思んや。便是勧懲に係る所、後の姦淫を戒る、作者の隠微を
と舩虫と、竹林巽と於兎子の如し。」と、「信乃と浜路の情態」をクロー
も」(「第三輯」巻之三第二十五回)と描いて、これ以上心理に立ち入ら
これより遡って、『南総里見八犬伝』と『犬夷評判記』に馬琴が「人情」
に言及した箇所がある。『南総里見八犬伝』第二輯巻之五第二十回の巻
に引用した。二つの小説は、馬琴が抑制した筆遣いから滲み出る浜路の
ない。
「すべて小説は人情を穿の外に、あまり細しきはうるさきものなり」
ズアップした。 末に、馬琴は「或人」の批評を次のように紹介した。犬塚信乃や犬川荘
真情に、紅葉が共鳴した形跡を印している。逍遥は、「人情」とは「情慾」、
(
助は十五に満たぬのに、
「智弁」が高く「童子」らしくない。「蓋小説は、
「百八煩悩」であり、
「賢人、善者」も「情慾を有」ち、
「善人」の「悪人」
(
よく人情を鑿をもて、見る人倦ず。今この二子の伝の如きは、情に悖る
((
(14)21
石井 :『優曇華物語』と『南総里見八犬伝』
福岡女子短大紀要 No.80,18 ~ 34(2015)
20(15)
との違いは、「道理の力」、「良心の力」で「情慾を抑へ」「煩悩」を「攘
ふ」点にある、という(『小説神髄』上巻「小説の主眼」)。それならば、
6
報にて、八房の犬になりたるは、仏説の因果輪廻の義なり、水滸の魔君
馬琴の作品にあらわれた、人情の表現だろう。「玉梓は(中略)その悪
あることをものがたる。これも逍遥が『小説神髄』でふれようとしない、
の対応は、義実が玉梓を「不便」と見る情に、女の色香に迷ったふしが
を奏した証を、「玉なすごとき玉梓」という修辞で明示する。この修辞
知する玉梓が、媚びを売る心理は「妖嬌」の語に反映し、その技巧が功
も亦不便なり。赦さばや」という義実の反応を引き出す。男の弱点を熟
すごとき玉梓が、さばかりの疵ありぬとも、非を悔て助命を乞ふ、これ
く情緒的な修辞を駆使して玉梓の妖艶さを描いている。これが、「玉な
も妖嬌に、春柳の糸垂て、人を招くに彷彿たり。」と、彼としては珍し
はさながら海棠の、雨を帯たる風情にて、匂こぼるゝ黒髪は、肩に掛る
小説の発端部の、「玉梓」と里見義実が出会う場面で、姦婦として捕
われた玉梓は「莞然と咲つゝ向上た」とある。これにつづいて馬琴は、「顔
云はれたり、『童蒙兒女をして気を負ひ情に趨りて、教法礼儀の外に逸
「寧ろ小説が『宣淫導欲』の書と云はれたり、『人の仙術を破る』ものと
説家の懲悪勧善主義」は、
「真に其の主義から小説を作つたのでは無く」、
る」と批判しながら、彼を支持したのは以下の理由による。中国の「小
国「かぶれ」であり、「自負自信の念の強い馬琴には好個の御題目であ
た点である。露伴が「勧懲の幟を馬琴が振かざしたところ」は馬琴の中
「自分の感情思想趣味」に基づいて「実社会を批判して書いた」と述べ
に交叉し」、「時代の流れと共に流れ漂つて居た人で無かつた」。むしろ
体制順応的でなく、「心中に将軍政治を悦んでは居」ず、「時代と直覚的
とをくり返し説いた。露伴の馬琴評の中で、注目に値するのは、馬琴が
力論』の書のある幸田露伴は、馬琴が「勤勉」によって「成功した」こ
が世に出て暫くの間、馬琴の支持層は依然として存在した。たとえば『努
人間が現れてくる筈がない。」と、これに従った。それでも『小説神髄』
「信乃と浜路の情態」はその恰好の例なのに、逍遙は言及しない。
の、いと細小なるものとすべし、」(『犬夷評判記』中之巻「▽里見八犬
するを敢てせしむるに至る』不埒千万のものと云はれたりするのに対し
(
伝第二篇」)という馬琴の解説は玉梓の怨言が八房を通して実現したこ
ての、自己弁護の言の如き気味合があ」り、「勧善懲悪の法律には然ま
((
(
(
((
(
(
の運命が厳粛なる善悪応報の道理に過誤なく支配さるゝのを以て、『勧
(
とをものがたる。義実の「口禍」が悲劇を引き寄せるが、これは彼の性
で厳格には従つて居らぬ」。これに対して「馬琴の小説」は「作中の人々
逍遥が馬琴の勧善懲悪を排撃して以来、これが学校教育や文学史の記
述を通して普及した結果、坂口安吾でさえ、「勧善懲悪といふ公式から
分に根ざした弱点で、そこに「情」があるが、逍遥はこれも黙殺した。
懲が正しい』と云ひ」、「極端まで勧懲主義を押立てゝゐるところは、馬
(
『南総里見八犬伝』や『犬夷評判記』の中で「人情」は、小説論争の
焦点に浮上している。馬琴が「勧善懲悪」を奨励し、「人情」を抑制し
琴の方が進歩して居る」。「自己の性格上から、馬琴は此の主張を強調し
(
たことを転倒させて、逍遥は「勧善懲悪」を否定し「人情」を奨励した。
た」。それが「小説作者の地位を高め、且つ強固にする上からは多少効
(
逍遥は馬琴の小説観のパラダイムを変換したに過ぎないが、何よりも時
能」が「有つた」。この最後の評価は、逍遥が小説の社会的効用を訴えて、
(
宜に適っていた。それは『新古今和歌集』が『古今和歌集』の時代の美
それを認知させることで、小説家の社会的地位を高めようとした『小説
(
観を引用しつつ、覆して見せたのと似ている。逍遥が自身の小説論の正
神髄』の目的と一致する。
(
当性を確信したのも、馬琴の小説観の枠組を知っていたからだろう。
((
((
((
((
て世に出てゐる」。「これ程の書を作った馬琴は貴むべき人」であり、
「馬
ひ人を度する書」「風致を維持する書」として、「聖書に似た使命を帯び
する書」とみな
鷗外は『南総里見八犬伝』の刊行当時、「風俗を壊乱
( (
した湯島聖堂の儒者に禁書扱いされる危機に瀕しながら、今は「世を救
作 魁 蕾 子 〕 玉 亭 」 に、「 こ は 別 に そ の 人 あ る に あ ら ず、 馬 琴 が 異 称 也。
じる。『近世物之本江戸作者部類』巻之一「赤本作者部」の「傀儡子〔又
谷崎を感化し、芥川が描いた「勤勉」と「辛抱」に感応する馬琴に相通
の「勤勉」さを力説し、自ら『努力論』を著わした露伴の芸術精神は、
(
琴たるもの瞑して好からう。」と言う。また、鷗外はこれと別の論文で、『小
書賈の誂へにて、その意にあらざる臭草紙を綴る折は、傀儡子作と署し
(
説神髄』の馬琴批判を、「あの幅の広い、そして粗い作風が一度抑へら
たるあり。」とあることから推して、『戯作三昧』を収録した『傀儡師』
みつつ、「花袋の小説」の「真面目」を感慨深げに回顧してい る。馬琴
れなくては、奥行の深い、そして細かい作風が新に興ることが出来なか
の書名は、馬琴の異称「傀儡子」に拠るのだろう。『戯作三昧』では、「そ
(
つた。だから坪内君が葬らなかったら、外の人が葬っただら う。」と擁
の意にあらざる臭草紙」ではなく、「観音」力が宿った読本世界の「三昧」
以後、自然主義が台頭し、露伴と鷗外は文壇の主流ではなく、彼らの支
八犬伝』の支持層があったことを伝える。と同時に、明治三十八、九年
僕は曲亭馬琴さへも彼の勧善懲悪主義を信じてゐなかつたと思つて
ゐる。馬琴は或は信じようと努力してはゐたかも知れない。が饗庭篁
持はむしろ鷗外が、「若し此の熱が持続して行くと馬琴は三たび葬られ
(
(
村氏の編した馬琴日記抄等によれば、馬琴自身の矛盾には馬琴も気づ
なくてはならないかも知れない」と予感した、馬琴と『南総里見八犬伝』
(
に忠告した言葉の反映とも考えられるが、露伴の「勤勉」な馬琴像とも
する」、芸術上の「執着力を持たせるような」「気魄」「気合い」が「こっ
ちに乗り移る」、そういう影響を受けた、と言う一方で、自然主義を拒
((
(1)本稿は神谷勝広・早川由美編『馬琴の自作批評―石水博物館蔵「著作堂旧作略
注
亭馬琴の名を歴史的な記号と化した。馬琴は瞑すべきだろう。
ことは、歌舞伎が証明している。逍遥は「勧善懲悪」の標語と共に、曲
ルとして盛名を馳せたけれど、「勧善懲悪」が確固たる芸術様式である
八犬伝』の復活を予見していた。馬琴は逍遥によって、近世最大のヒー
(
かずにはゐなかつた筈であらう。森鷗外先生は確か馬琴日記抄の跋に
の退潮をものがたり、鷗外と露伴の晩年の史伝が敬遠されたことと軌を
(
「馬琴よ、君は幸福だつた。君はまだ先王の道に信頼することが出来た」
の道などを信じてゐなかつたと思つてゐる。
(
一にする。しかし、鷗外・露伴・芥川の評価は今日の馬琴と『南総里見
(
護した。芥川龍之介は、鷗外が後の論文で、「先王だのなんのと、一般
境に題意があり、そこに芥川が馬琴に寄せた文学的共鳴が示されている。
(
に認められてゐる権威のある世に生れて、その権威の下に自己を保護す
(
ることが出来た。君は明治四十何年に生れないで、幸福であつた。」と
((
伴と鷗外の馬琴評は明治四十年代から大正末期まで、馬琴と『南総里見
((
((
とか何とか書かれたやうに記憶してゐる。けれども僕は馬琴も亦先王
述べたのに対して、異議を申し立てた。
逍遥の「曲亭馬琴」によれば、明治三十年近くまで一般の馬琴熱は冷
めず、彼自身明治三十五、六年頃まで、その影響から脱していない。露
((
全十五章から成る『戯作三昧』の「十四」で、孫の太郎が浅草観音の
言葉として馬琴に伝える「勉強」と「辛抱」は、漱石が芥川と久米正雄
((
一致する。谷崎は露伴に感化され、「気宇を大きくする」「規模を大きく
((
(16)19
石井 :『優曇華物語』と『南総里見八犬伝』
福岡女子短大紀要 No.80,18 ~ 34(2015)
18(17)
自評摘要」―』(平成二十五年三月 汲古書院)に拠った。
(2)小池藤五郎『山東京伝の研究』(昭和十年十二月 岩波書店)
(3)曲亭馬琴『近世物之本江戸作者部類』
(「巻之二上」
「読本作者部第一」)所収「山
東庵京伝」。本稿は岩波文庫版・徳田武校注『近世物之本江戸作者部類』(平成
二十六年六月)に拠る。
(4)高木元『江戸読本の研究―十九世紀小説様式攷』(平成七年十月 ぺりかん社)
林書房)
(5)大高洋司『京伝と馬琴〈稗史もの〉読本様式の形成』(平成二十二年五月 翰
(6)高田衛『滝沢馬琴―百年以後の知音を俟つ―』(ミネルヴァ日本評伝選)(平成
りぬ。これより机龍之助は一旦、十津川の乱に加わりて戦い、硝煙の為に両眼
十八年十月 ミネルヴァ書房)
(7)「中里介山申す、未だ充分の完結を見るに及ばずして、又も筆を擱くこととな
の明を失い、杖にすがりて辛くも東に帰り、見えぬ眼に郁太郎を抱きて、幽冥
を隔てつつ父弾正の事を思う時、兵馬はたずね来り、共に御嶽山上に相見ゆ、
眼盲いたる後の龍之助が剣法、なお精妙にして人の胆を奪う、されど結局は兵
馬の手に死ぬる也。」(「都新聞」所掲「大菩薩峠(続き)」巻末〈大正三年十二
『大菩薩峠 都新聞版』第二巻〈平成二十六年三月 論創社〉所収。)
月五日〉
目漱石「断片一一」(明治三十四年〈四月以降〉)
(8)前の引用は夏目漱石「文学談」(「文芸界」明治三十九年九月)、後の引用は夏
(
(
(
(
(
(
評―饗庭篁村編―」
〈饗庭篁村編『馬琴日記鈔』明治四十四年二月 文会堂書店〉)
) 幸 田 露 伴「 馬 琴 の 小 説 と 其 当 時 の 実 社 会 」(「 福 音 新 報 」〈 明 治 四 十 一 年 四 月
三十日〉)
)幸田露伴「支那文学と日本文学との交渉」〈『日本文学講座』第二巻 大正十五
年十二月 新潮社〉)
)森鷗外「『南総里見八犬伝』序」
(幸田露伴校訂『南総里見八犬伝』第四分冊(誓
之巻)〈明治四十四年四月 国文館〉)これは馬琴日記天保十四年七月二十七日
の次の記述による。「今朝五ツ半時頃、丁字屋平兵衛来る。 中
(略 八
) 犬伝の事、
聖堂附儒者より、林家へ申立、絶板に可成由、ある人より被告候者二三人有之、
種々心配致、ある人を以て、林家へ内々申入、漸く無異に可納由、被告之」。
)森鷗外「馬琴日記鈔の後に書く」
(饗庭篁村編『馬琴日記鈔』明治四十四年二日
文会堂書店)
)芥川龍之介「徳川末期の文芸」(初出不明。『梅・馬・鶯』〈大正十五年十二月
新潮社〉所収)
)「勉強をしますか。」「然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに図々
しく進んで行くのが大事です。」(芥川・久米正雄宛て漱石書簡 大正五年八月
二十一日)
「牛になる事はどうしても必要です。」
「根気づくでお出でなさい。」
(芥
川・久米正雄宛て漱石書簡 大正五年八月二十四日)
( )谷川徹三司会・谷崎潤一郎・志賀直哉対談「回顧」(「文藝」昭和二十四年六月)
(
(
)坪内逍遥「曲亭馬琴」(大正九年頃)(「新旧過渡期の文学」所収〈『逍遙選集』
)に同じ。
第十二巻 昭和二年七月 春陽堂〉)
)前注(
ある。
(平成二六(二〇一四)年十月二二日受付)
二 十 四 年 三 月 十 日 於 福 岡 女 子 大 学 視 聴 覚 教 室 ) に 手 を 加 え て ま と め た も の で
(付記)本稿は公立大学法人福岡女子大学退職記念講演「勧善懲悪のゆくえ」(平成
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平成二十六年二月)。「三原三郎ノート」の中に「月盲にかざす刃は音なしの」
「身
も魂もつかれ盲ひて」という句がある。
)この点は「姦通の影―『化銀杏』
『多情多恨』
『われから』の三つ巴―」
(「香椎潟」
第四十六号 平成十二年十二月)、「〈死を覚悟する女〉はいかに受け継がれた
か―『金色夜叉』から『其面影』『それから』へ―」(「文芸と思想」第六十六
号 平成四年二月)で指摘した。
)坂口安吾「ラムネ氏のこと」(下)(「都新聞」昭和十六年十一月二十二日)
)幸田露伴『努力論』(大正一年七月 東亜堂)
)幸田露伴「馬琴と近松の成功訣」(「成功」明治三十五・十二)、(「馬琴日記鈔論
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(9)「人魚とやまなし ―― 宮沢賢治と小川未明」(「福岡女子短大紀要」第七十九号
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