開業または就業のきっかけ、理由 私が中学生の頃に父が病に倒れました。

(1)開業または就業のきっかけ、理由
私が中学生の頃に父が病に倒れました。その後、私が高校卒業と同時に姉のもとへ家族で
上京しました。姉は昭和31年から墨田区錦糸町の花壇街で、4坪ほどの小さな小料理屋
『居酒屋』を営んでいました。上京した私は姉の紹介で自動車業界に就職し、昼は会社勤
め、夜は姉の店の手伝いをしていました。その頃の私は、店の仕事があまり好きではなか
ったのですが、自然と飲食店の仕事が馴染んでいきました。
そんな中、姉が結婚を機に引退し、私が店を引継ぐことになりました。見よう見まねで覚
えた商売でしたが、母に掃除や仕入れなどを手伝ってもらいながら、6年ほど会社勤めと
店の両立させていました。
昭和50年から花壇街の一角が14建300世帯のマンションの建て替え工事が始まり、
1階に坪数大小合わせて30店舗位ができ上がり希望者が入ることになりました。私は資
金もなかったのですが、お客様に保証人になってもらい、8.8坪の店舗と最上階のマン
ションを購入しました。そして、昭和53年11月に私と母と雇い入れたアルバイトで『居
酒屋』を再スタートなりました。
(2)素材の仕入でのこだわりは何ですか?
看板メニューでもある『馬刺し』は、30年程前から始めたのですが、当時、私は熊本ま
で足を運び、馬肉の仕入先を決めました。当時、使用していた馬肉の部位はもも肉のみで
した。フタエゴ、コウネは10年位前から仕入れています。
平成23年に焼肉店で発生した集団食中毒事件を機に、厚生労働省より馬肉も冷凍処理を
命じられました。当店では安全性の高い冷凍処理をした馬肉を使用しています。そして損
失のない程度に等分して冷凍をしてもらい、鮮度の管理を定期的に行っています。つけタ
レは熊本の数あるさしみ醤油の中から吟味して、馬刺しに一番合うものを使用しています。
薬味は熊本産の生姜と青森産のにんにくです。にんにくは馬刺しの注文の都度おろしてい
ます。
塩は少々粗い沖縄産を使用し、その他の季節のものは、国産で安全性や鮮度に気を使って
います。
また、全国の新しい食材の情報を入手すると、取り寄せては試食し、お客様に喜ばれるよ
うな商品を取入れています。冷酒も夏場に限らず、年中旨い酒を吟味し、提供しています。
また、私の郷土愛からでしょうか。全体的になるべく熊本産を使用するようにしています。
(3)調理の際のこだわりは何ですか?
調理器具が常に清潔であること。加熱するものは十分に加熱するなど、中途半端にならな
いようにしています。桜鍋の馬肉は生食用を使用し、しゃぶしゃぶ程度の火の入れ加減で
召し上がっていただくようお勧めしています。
(4)お店をやっていて、苦労したことは何ですか?
苦労ということではありませんが、『居酒屋』という屋号は、昭和31年ごろ上映されたフ
ランス映画『居酒屋』という映画のタイトルから姉が名付けたものです。その頃『居酒屋』
という屋号は当店のみでしたが、巷で『○○居酒屋』『居酒屋△△』の屋号がいたるところ
で開店していきました。電話対応などで「居酒屋です」と申しますと、『居酒屋』の何とい
う名前ですか?と聞かれました。後々に『馬刺し居酒屋』に変更したのです。
昭和55年頃の第2オイルショックの時は、省エネが始まりテレビの深夜放送の休止やネ
オンサインの早期消灯などが強いられ、街が早くに暗くなっていきました。その時は寂し
さを感じました。
昭和61年から平成3年頃はバブル経済に浮かれ毎日が忙しく、同伴出勤のカップルや社
用族で常に店が満席で2~3交代はしていました。その頃の飲食店は、当店に限らずどこ
の店もどんな商売も景気がよく、チップも弾んでいました。しかし、バブル崩壊後に大変
な苦労をすることになります。それは、景気の良い頃、私の考えが甘かったのですが、老
後のためにと思い、ゴルフ会員権や不動産の購入、ネットビジネスにとつぎ込みました。
その結果、バブル崩壊とともに1億円あまりの出資がすべて紙くずや水の泡となってしま
ったのです。私は身から出た錆だと諦め、また1から出直すことになりました。バブル崩
壊後の傷は深く、収支に困った時期も随分と経験しました。
(5)お店をやっていて、良かった、嬉しかったと思えた出来事
<良かったこと>
昭和44年8月ヨーロッパへ1ヶ月渡航し、9ヶ国の食文化を見聞できたことです。今の
店を1ヶ月間も休むということはなかなかできないことです。当時、思い切って実行した
ことは良い体験だったと思います。
新規客導入の為、昭和48年頃からボーリング大会やゴルフコンペを開催することで顧客
が増えていったことです。ゴルフコンペは、スタート当初隔月で開催しました。平成元年
からは、月例会になりました。弟がゴルフ場の選択や組み合わせ、車の手配などを担当し、
現在も継続しています。
また後に教わった集客方法はとてもプラスになっています。
『馬刺し』を提供し始めた当初、お客様に馬肉が受け入れてもらえず、処分する日が続き
ました。しかし、今ではわざわざ馬刺しを目的に来店してくださるお客様が増えてきまし
た。このような状態になるまでには10数年の月日がかかりました。私は途中で馬肉の仕
入はもう止めようかと随分と悩みましたが、諦めなくて良かったと思っています。
<嬉しかったこと>
何よりもお客様がお帰りの際に、必ず「美味しかった また来ますね!」と皆さんに喜ん
でいただけることです。
また、私は若いころからハワイアンが大好きでした。7年間フラを習いました。スチール
ギターの特訓もしました。夢であったハワイアンラウンジ『KUUHOA』(クウホア=ハワ
イ語・私の良き友だち)を平成9年にオープンしました。『居酒屋』の方は、母と弟が守っ
てくれましたので私は安心して営業をすることができました。しかし、特殊な店ですから
サラリーマンなどのお客様は少なく、音楽関係の方ばかりでした。経営が続かず、開店し
てから4年で閉店し『居酒屋』に帰りました。この4年間は毎月ライブをやったプロの方
や音楽関係の人たちとの交流が数多くあり、今でも継続していることは嬉しいことです。
弟が平成元年から店を手伝っています。全体の仕入はもちろんのこと、季節の食材をいち
早く仕入れ、調理まで全部やってくれることです。またおやじギャグなどのダジャレや愉
快な話をお客様と対面で笑わせたりして「マスターって面白いね~!」とお客様を楽しま
せ、和やかな接客をしてくれています。また、ランチョンマットにお客様の似顔絵を描き、
その方が来店または予約された時にはそれをセットしています。新規客の方に対して優越
感をもっていただくことができて良いアイデアだと思います。
お店の節目として、10周年、20周年、35周年、50周年を某会場で開催してきまし
た。その都度テーブル席が増え盛況であったことは嬉しい限りです。
(6)店舗の看板メニューはなんですか?
熊本より空輸している「馬刺し」と「桜なべ」です。それから「辛子れんこん」「山うにと
うふ」など熊本の郷土料理です。
また、母より受け継いでいる「玉子焼き」と「だご汁」(すいとんのようなもの)です。
(7)看板メニューの美味しさの秘密はなんですか?
常に鮮度の良い商品と、心を込めて提供することに尽きます。
(8)これから先の抱負
当店は、来年60周年を迎えます。私が姉を見よう見まねでスタートしてから半世紀・5
0年です。
この間、浮き沈みの中、よくぞ沈没せず続けられたことは、大勢のお客様に支えられてき
たからこそ今日があります。
本当に感謝の一言です。
この50年を機に『馬刺し居酒屋』を三代目の弟に譲渡し、二代目の私はこの店を卒業し
ます。これからは残された時間に夢を乗せて豊かな人生を送りたいと思います。
弟の長男(現在、建築関係の仕事)が、いずれ四代目として入店してくれるかどうかは微
妙なところですが、まずは弟に譲渡するまでの1年の間には、顧客リストの大切さを伝授
します。
これからはインバウンド(訪日外国人観光)の時代でもあります。お得意様を大切にする
ことはもちろんのこと、飲食店での外国人接待術を身につけ、語学にも力を入れていつま
でも愛される『馬刺し居酒屋』であることを望んでいます。