ヨーガスートラ(Yoga Sétra)第一章

ヨーガスートラ(Yoga Sétra)第一章
サ
マ
ー
デ
ィ
パ
ー
ダ
三昧の章(Samádhi Páda)
Ⅰ-1
ア
ア
タ
ヨ ー ガ ー ヌ シ ャ ー サ ナ ム
atha yogánuùásanam
タ
さて、それでは、始めよう、吉祥な祈り
atha
ヨ ー ガ ー ヌ シ ャ ー サ ナ ム
yogánuùásanam
yoga 結合、集中、熟慮、瞑想 anuùásanam 権威ある教示、指導、命令
それでは、今からヨーガの権威ある教えを説こう。
ア タ
「atha(それでは)という言葉は、解説する主題の始まりを表している。ヨーガに関する規則を扱う
シャーストラ
Ùástra (* 教典 )が 、今 から解 説さ れよ うとし てい ること が理 解され るべ きだ。 ヨー ガとは 集中
サ マ ー デ ィ
( Samádhi )を意味する。それは、あらゆる常習的な心の状態の中での特性だ、つまり集中または
サ マ ー デ ィ
クシプタ
Samádhi は、心がどんな状態であっても(*達成)可能だ。心の状態は 5 つある、すなわち Køipta(動
ム ー ダ
ヴィクシプタ
エカーグラ
ニ ル ッ ダ
揺した)、Méõha(愚鈍な)、Vikøipta(散漫な)、Ekágra(一点集中した)、そして Niruddha(停止し
た)だ。
」
ア
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
タ
「Atha:
ア
タ
私たちは、著者(*パタンジャリ)が atha という言葉をなぜ用いたかを考えてみよう。彼
アトラ
ヨ ー ガ ー ヌ シ ャ ー サ ナ ム
ア
タ
は、
『これらがヨーガの教えだ』を意味する、atra yogánuùásanam を用いることもできたが、atha と
ア
タ
いう言葉を用いた。Atha は、『それでは、今から』を意味し、それはヨーガのこれらの教えが、ある
ア
タ
以前の教えと関連があることを意味している。ここで用いられている atha という言葉は、カルマ・ヨ
ーガによって探究者が浄化された後、そしてバクティ・ヨーガによって心の傾向性が統合された後、そ
の探究者にヨーガの教えが与えられつつあることを示している。そのことによって、ハートが浄らかで
心が平安な探究者たちが従うこれらのヨーガの教えが、理解しやすく、効果的で、好ましいものとなる
ことを意味している、そうでなければだめだ。不浄な心と動揺する傾向性を持つ人々は、この教典に説
ア
タ
かれた教えを実践することはできない。そういう理由で、atha という言葉は、カルマ・ヨーガやバク
ティ・ヨーガやその他の準備体系による、探究者自身の適性能力の必要性を強調するために用いられて
きたのだ。
アヌシャーサナン
シャーサナン
ア ヌ
シャーサン
anuùásanam: 実際の言葉は ùásanam で、anu はその完全性を強調する接頭語だ。ùásan は支
シャーストラ
シャーサン
配し、命令し、指示し、教えることを意味する。 Ùástra という言葉は、ùásan という言葉から発展
シャーストラ
シャーストラ
した。Ùástra は字義的には聖典を意味しない。Ùástra は字義的には、教示し統治するプロセスを意
イーシュワラ
味する。同じ言葉から別の言葉 ── 支配者、統治者、指揮者、そして普通神を意味する Iùwara が
アヌシャーサナン
展開した。
・・・そこで、最終的に、anuùásanam という言葉は完全なる教えを意味するのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
アヌシャーサナン
「anuùásanam という言葉は、次の 4 つの段階を意味し、知識の継続的伝達の伝統を強調している。
ア デ ィ ヤ ー ヤ ナ ム
ボ ー ダ ナ ム
1. Adhyáyanam 教えの機械的復唱。2. Bodhanam 特定の状況下で師が解説した意味の理解。
ア チ ャ ラ ナ ム
プラチャラム
3. Acaranam 学んだことを実践に適応する。4. Pracaram 学び体験したことを教える。」
T..K..V. デシカチャー
ヨ ー ガ ハ
Ⅰ-2
チッタヴリッティ
ニ ロ ー ダ ハ
yogaë cittavìitti nirodhaë
ヨ ー ガ ハ
yogaë
結合、集中、静寂、三昧
チッタヴリ ッティ
cittavìitti
ニ ロ
ー ダ
citta 意識、心、想念 vìitti 波、振る舞い、活動、渦巻き
ハ
nirodhaë
抑滅、封鎖、静止、鎮静
ヨーガとは、心の動きを止滅させることである。
ヨ ー ガ
チッタ
ヴリッティ
ニローダハ
ヨ ー ガ
「このスートラは 4 つの言葉、yoga 、citta 、vìitti 、nirodhaë で構成されている。私は今 yoga
という言葉は説明しない、それは 195 のスートラを学んだ後でより良く理解されるだろうからだ。
チッタ
チット
citta は、見ること、意識化すること、気づくことを意味する c i t の基本概念に由来する。だから
チッタ
citta は、心の顕在意識状態、心の潜在意識状態、そして心の無意識状態をも含む、個人の意識を意味
チッタ
する。個人の心のこれら三つの状態の全体が、citta という表現(*用語)により象徴化されている。
ヴリッタ
ヴリッティ
Vìittaは、『円形』を意味し、vìitti は『円形を成す』を意味する。あなたが池の中に石を投げると
き、水の動きは円の形態で外側に広がる。同じように、意識は円形を成す様式を持っている。それらは
チッタ
チッタ
水平でも垂直でもなく、円形を成し、意識は円形の様式で動く。だから、citta の態度、心の様式は citta
ヴリッティ
vìitti と呼ばれるのだ。
ニ ロ ー ダ ハ
ロ ー ダ
ブロック
Nirodhaë は、阻止する行為を意味する、基本語 rodha に由来する。私たちにはこの語根から発
ロ ー ダ
アヴァローダ
ニ ロ ー ダ
ヴィローダ
ア ヴ ァ ロ ー ダ
ニ ロ ー ダ
展した言葉 ── rodha 、avarodha 、nirodha 、virodha を持つ。Avarodha は妨害を、nirodha
ヴィローダ
は阻止を、virodha は反対を意味する。そこで阻止するという概念が明らかになるのだ。最終地点に
やって来る ── ヨーガとは何か? このスートラは、ヨーガとは、意識のあらゆる領域の中に生じる
ブロック
様式の阻止である、と答えている。それは、あなたが毎朝夕直面する外界の体験からあなたを封鎖する
ことだけではなく、あなたが深い瞑想や高度なサマーディで得た光景をも拒絶することだ。異なる領域
で生じる個人の気づきの表現が超越されるとき、ヨーガの状態は顕現する。これがあなたの意識の進化
の秩序または順序なのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
マ
ナ
ス
ブ
ッ
デ
ィ
ア ハムカ ーラ
「パタンジャリによれば、心は三つの要素、思考器官 (manas)、認識知性 (buddhi)、自我意識
マ
ナ
ス
(ahamkára)で構成されている。思考器官は記録する機能であり、外界から感覚器官によって集めた印
ブ
ッ
デ
ィ
ア ハムカ ーラ
象を受け取る。認識知性は識別する機能であり、これらの印象を分類し反応する。自我意識はエゴ感覚
マ
ナ
ス
であり、これらの印象を自身のものと主張し、個人の知識として蓄積する。たとえば、思考器官が『大
ブ
ッ
デ
ィ
きな生物が急速に近づいて来る。』と報告する。認識知性は『あれは雄牛だ。雄牛は怒っている。雄牛は
ア ハムカ ーラ
誰かを攻撃しようとしている。』と判断する。自我意識は『雄牛は私を攻撃しようとしている。雄牛を見
ア ハムカ ーラ
ているのは私だ。逃げようとしているのは私だ。』と叫ぶ。後程、そばの木の上から、自我意識は言う、
『今私はこの(私ではない)雄牛が危険なことを知った。これを知らない他の人々がいる。これは私自身
の個人的知識だ、この知識は未来にこの雄牛から私を避難させるだろう。』と。
」
スワミ・プラバーヴァナンダ
「湖の底をわれわれは見ることができない、水面がさざ波で覆われているから。波が引き、水面が静
かになったときにのみ、水面をチラと見ることができるのだ。水が濁っていたり始終動いていたりする
なら、底は見えないだろう。水が澄んでいて静かであると、底が見えるのだ。湖の底は、われわれの真
の『自己』である。湖はチッタ、そして波はヴリッティである。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
Ⅰ-3
タ ダ ー
ドラシュトゥフ
スヴァルーペー
ア ヴ ァ ス タ ー ナ ム
tadá draøôuë svarépe avasthánam
タ ダ ー
ドラシュター
ドラシュトゥフ
(心が止滅した)そのとき
tadá
プ
ル
シ
ャ
観る者 draøôá(純粋精神)
draøôuë
スヴァルーペー
svarépe
自身の本性に、それ自体の本質に
ア ヴ ァ ス タ ー ナ ム
avasthánam
住む、留まる、再確立する、休息する
そのとき、観る者は自己の本性に安住する。
「そのとき純粋意識 ── 観る者 ── は、解脱の状態の中で、自身の自己に留まる。経験している
状態の中では、純粋意識はそのようには顕現しないが、事実はそうなのだ。
」
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
ニ ロ ー ダ
カイヴァリャ
「この状態でのあらゆる心の動きの完全な停止は、 独 存 の状態だ。Nirodha の状態では、心の止
カイヴァリャ
滅はつかの間だが、 独 存 の状態では心は消滅し、決して再び顕現しない。
」
スワミ・ハリハラーナンダ
セ ルフ
「自己 グ
ナ
リアライゼーション
覚
サットヴァ
チッタ
チッタヴリッティ
醒 は、cittavìitti(心の動き)がその活動を停止したとき、心つまり citta がもはや三
ラジャス
タ マス
つの属性(*純 質 、激質、闇質)と多様な気分の作用に影響されないとき、そして対象世界との同一化の
カイヴァリャ
感情が全く存在しないときにのみ生じる。私たちの非常に限定された理解力では、 独 存 、自己覚醒の
サマーディ
状態を知ること、理解することはできない、あるいはまた三 昧 の中で明らかになる意識の高度な状態を
理解することでさえもできないのだ。自己覚醒は内部からやって来る、そして好きと嫌い、誤った信念、
間違った概念、正しくない思考その他により、色付けられ条件付けられた私たちの現在の心の気づきの
アスミター
レベルでは、理解できない、それらは私たちの日常の想念の傾向であり、全て asmitá 、エゴつまり「私」
主義に関連しているのだ。
カイヴァリャ
心の浄らかさ、完全な感覚の制御、欲望の放棄その他は、ヨーガの目的地、 独 存 または自己覚醒に
ア ヴ ァ ス タ ー ナ ム
到達する能力を得る前に、全てが必要不可欠だ。avasthánam という言葉は、それ自身の本来の状態
への復活を示している、このことは第 4 章で検討しよう。」
スワミ・サッティヤーナンダ
「幸福は、自己の本性そのものである。幸福と自己は別のものではない。世界のいかなる対象物の中
にも幸福はない。私たちは無知のゆえに、対象物から幸福を得るものと思っている。心が外に出てゆく
とき、悲惨を味わう。心の願いが満たされるときには、実は、心は自身の本来の場所に戻っており、自
己である幸福を楽しむのである。
」
ラマナ・マハリシ
むな
「人は自分の外にある様々の神々を虚しく探し求めたのち、周期を完了して出発点、すなわち人間の
魂に戻ります。そして、彼が山々谷々を探し回り、あらゆる小川、あらゆる寺院、あらゆる教会および
天国を探し回った神、天国に座ってこの世界を支配しておられる、という想像さえもしていたその神は
彼自身の自己である、ということを知るのです。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
ヴリッティ
サ ー ル ー ピ ャ ム
イ タ ラ ト ラ
Ⅰ- 4 vìtti sárépyam itaratra
ヴリッティ
サ ー ル ー ピ ャ ム
(心の)動き、波、変化、現れ、動揺
vìtti
sárépyam
同一視、同一化、一体化、
イ タ ラ ト ラ
その他のときには、他の状況では
itaratra
その他のときには、(観る者は)心の動きと同一化する。
プ
ル
シ
ャ
「純粋精神、自己または魂が、その本性に留まらないとき何が生じるのか、そのことがここで述べら
チッタ
ヴリッティ
ニ ロ ー ダ
チッタ
パターン
れている。citta vìitti (心の動き)が nirodha (止滅)の状態ではないとき、 心 の形態 または現れは
プ
ル
シ
ャ
純粋精神の上に置き重ねられる。
タ イプ
私たちは皆、この様式の間違った同一化には馴染み深い。私たちが映画や演劇を観るとき、自身を演
じられているものと同一化しがちであり、それに相応する悲しみ、喜び、恐れ、好意、嫌悪、その他の
感情を体験する。演技者たちはただその役割を演じているにもかかわらず、私たちは彼らと同一化しが
プ
ル
シ
ャ
ちであり、そこで起こっていることの単なる見物人であることを忘れてしまう。同様に、純粋精神は単
チッタ
なる目撃している意識であるが、その本性が忘れ去られ、救出が非常に困難になるほどまでに、 心 と
パターン
その形態または現れと同一化する。
パタンジャリが提起するヨーガの科学は、気質の異なる全ての個人々々の要求を満たすために、心の
チッタ
ニローダ
ニローダ
構成要素または 心 を止滅の状態へと導くための、異なる技法を推挙している。止滅の状態の中で、
プ
ル
シ
ャ
純粋精神は自身の本性に気づくのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「
『私は見るだろう』
、
『私は聴くだろう』
、
『私は知っている』、
『私は疑う』
、その他 ── これら全て
ヴリティス
の Vìttis (心の現れ)に共通するのは『私』だ。
『私』のこれら全ての様相の背後に存在する知る者の根
ドラシュター
ブ
ッ
デ
ィ
源は意識それ自身であり、それが観る者、Draøôá だ。観る者は意識だ。認識知性は、意識、つまり観
る者の影響下で気づく意識として現れ、物事を明らかにする。それにより顕現するもの、あるいはそれ
により私たちが知るもの、それが知覚対象だ。色、音、その他は外界の対象物だ。それに関連する知識
は、心を通じて獲得される。対象物の知識において、『私』は知る者、つまり主体であり、感覚器官を
伴う心は、知るための道具または知る力であり、知られた物事は対象物だ。一般的に、私たちの心と関
連する物事は、内省(内観)によって私たちに知らされる。それゆえ、私たちが対象物を分析する前に、
知るプロセスが心の中で生じるとき、私たちは最初に内省の中でその対象に気づき、それから再び回想
するのだ。心は、知識を獲得するために観る者の道具として活動するが、ある特別な状況では、心自体
アスミター
が観る者の知識の対象となる。心の原因要素は Asmitá つまり『私』の認識だ。心の中に現れる対象
物の認識は、私意識(I-sence)の多様な顕現だ。心を静寂にする力が保持されるとき、私たちはこの
アスミター
Asmitá の直観を得る。もし私たちが変化する私意識(I-sence)に集中するならば、全ての知識はこの
アスミター
アスミター
Asmitá の変化であり、Asmitá とは異なることを理解する。そのあと、対象物を知覚する心は対象物
ハ ハ ム カ ー ラ
となり、Ahaókára つまり私意識(I-sence)は、知識の道具となる。それから私意識(I-sence)が制御さ
アスミター
ハ ハ ム カ ー ラ
れるとき、私たちは純粋な Asmitá レベルに留まることができ、Ahaókára は自己とは異なることを
ブ
ッ
デ
ィ
理解し、放棄すべきものとなる。純粋な私意識(I-sence)または認識知性だけが、そのあと知識の道具と
ブ
ッ
デ
ィ
なるのだ。集中により獲得された知識を通じ、認識知性もまた変化するものであり、自ずから輝くもの
ブ
ッ
デ
ィ
プ
ル
シ
ャ
ではないことが理解され、認識知性の全ての行為が顕現することにより、探究者は純粋精神の存在に気
ヴィヴェーカ
キャーティ
プ
ル
シ
ャ
づく、それから Viveka - kháti つまり識別の知識は、純粋精神の存在のみの認識を保持する。
」
スワミ・ハリハラーナンダ
ヴ リ ッ タ ヤ ハ
パ ン チ ャ タ ッ ヤ ハ
クリ シュ ター
アクリシュターハ
Ⅰ- 5 vìttayaë paðcatayyaë kliøôá akliøôáë
ヴ リ ッ タ ヤ ハ
vìttayaë
パ ン チ ャ タ ッ ヤ ハ
(心の)動き、活動、振る舞い、形態
クリシュター
kliøôá
paðcatayyaë
5 種類、5 重
アクリシュターハ
苦痛に満ちた、痛々しい、耐え難い
akliøôáë
苦痛のない、悩ませない、妨害しない
心の活動は 5 種類で、苦痛を伴うものと苦痛を伴わないものがある。
ヴリッティ
「このスートラ全体は、4 つの言葉の組み合わせだ。vìitti という言葉は、既にあなたは知っている
ヴリッティ
が、しかしなお綿密な説明が必要だ。このスートラの後には、 vìitti のより詳細な説明が続く。この
ヴリッティ
スートラは、心の vìitti は 5 重、5 種類であると述べている。心の変容には 5 種類あり、これら 5 種
類の変容は苦痛を伴うか、あるいは苦痛を伴わないものかのどちらかだ。これは、心の変容の全ては 10
種類であることを意味している。それらの 5 種類は苦痛を伴い、5 種類は苦痛を伴わない。実例を示す
ならば、目の助けによって、心が花を見る、心はその花の形を思う、そして心はその花を好きになる。
アクリシュター
これが、ak liø ô á つまり好ましい(*苦痛を伴わない)と呼ばれるものだ。それからあなたの心は、自動
車の車輪で押しつぶされ腐敗した犬の姿を見る。あなたの心は目を通じてそれを見、その知覚と同化す
クリシュター
る、しかしあなたの心はその犬の姿が好きではない。それが kliøôá つまり苦痛を伴うものと呼ばれる。
そこで、花の場合の心の特定の変容は苦痛を伴わず、好ましいものだった。車に押しつぶされた犬の場
クリシュター
合、心の変容は苦痛を伴うもの、kliøôá だつた。変容は同じだが、目を通じた知覚、光景は 2 種類だ。
クリシュター
アクリシュター
kliøôá と ak liø ô á 、苦痛を伴うものと苦痛を伴わないものだ。
ヴリティス
同様に、心は普通、5 種類の変容または現れ方をする。これら 5 つの vìittis とは何だろうか? 私た
ちはそれらについて次に続くスートラで検討しよう、しかしその論題に進む前に、あなたはパタンジャ
リが何を言おうとしているか、非常に注意深く理解しなければならない。それは、人生の異なる領域に
おける心の現れ方についてだ。あなたが木、人、風景を見るとき、目を通じてみるが、それはあなたの
心の現れ方の一つだ。あなたが音楽か講義を聴くとき、それもまたあなたの心の現れ方の一つだ。あな
たが目を閉じ、過去、現在、未来、あなたの親戚、友人、敵対者を考えるとき、それも心の現れ方の一
つであり、心の構造または様態の一つだ。あなたが不安、心配、怒りや激情で一杯になるとき、あるい
はあなたの仲間への悲しみ、嫉妬、同情、愛で一杯になるとき、神を愛するとき、それもまたあなたの
ヴリッティ
心の様態の一つだ。この特定の変容が vìitti と呼ばれる。
ヴリティス
ヨーガ体系によれば、知識の全ての領域、思考の全ての種類、気づきの全ての分野は、心の vìittis の
一つだ。ヨーガでは、睡眠の状態でさえも、心の様態の一つであると考えられている。それは心の状態、
心の様態だ。夢もまた心の様態だ。同様に、疑い、妄想、蛇を縄と間違うような思考の過ちもまた、心
ヴリティス
の様態つまり vìittis だ。
ヴリッティ
サンスクリット語の中で、そしてさらにヨーガやヴェーダーンタ聖典の中で、vìitti と云う言葉は何
度も現れる。それは大変混然とした用語であり、しばしば哲学者たちや思想家たちもそれを正しく説明
できてはいない。7 世紀に、ゴウダパーダチャリヤと呼ばれる偉大な学者がいた。彼は偉大なシャンカ
グ
ル
グ
ル
ラーチャリヤの聖師の聖師だった。彼は、マンドゥーキャ・ウパニシャッドという名の、小さなウパニ
シャッドの詳細な解説を書いた。彼の解説で、偉大な学者は、『全世界は、至高の意識の心の変化の形
態の一つに他ならないようだ。』と書いている。
地上ばかりか全宇宙も非実在に違いない。それは単なるあなたの思考の表現、至高の存在の思考、宇
宙の思考力に違いない。そこで、私たちが心の変容と云う用語を用いるとき、私たちは心の異なる様態
や特性、異なる段階、特性の領域を意味しているのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
プ ラ マ ー ナ
ヴ ィ パ リ ャ ヤ
ヴ ィ カ ル パ
ニ ド ラ ー
ス ム リ タ ヤ ハ
Ⅰ- 6 pramáîa viparyaya vikalpa nidrá smìtayaë
プ ラ マ ー ナ
正しい認識、実証された知識、体験された知識
pramáîa
ヴ ィ パ リ ャ ヤ
ヴ ィ カ ル パ
viparyaya
誤まった認識、誤解、間違い
ニ ド ラ ー
nidrá
vikalpa
空想、幻想、言葉による妄想
ス ム リ タ ヤ ハ
熟睡、夢のない眠り
smìtayaë
記憶、思い出
(5 種類の心の活動とは)正しい認識、間違った認識、空想、熟睡、記憶である。
プ ラ マ ー ナ
ヴ ィ パ リ ャ ヤ
「pramáîa(正しい認識)と viparyaya(間違った認識)は、感覚器官が外界の対象物を通じて直接
ヴ ィ カ ル パ
イメージ
スムリティ
接触することにより形成された全ての心像を含んでいる。vikalpa(空想)と smìti(記憶)は、どんな外
イメージ
ヴィカルパ
スムリティ
界との直接接触もなく造り出された、全ての心の心像または変容を含んでいる。空 想 と記 憶 は、心の
スムリティ
中に以前に集積され貯えられた感覚知覚を用いて、低位の心が独立して活動する結果だ。 smìti つま
り記憶の場合、これらの感覚知覚は、以前に感覚知覚を通じて獲得した形と順序を、忠実に心の中に再
ヴ ィ カ ル パ
生産する。vikalpa つまり空想の場合、それらは心の中に浮かぶ感覚的材料からどんな形や順序でも再
生産する。空想は、これらの感覚知覚をどんな形や順序にでも、適合してもしなくても、組み合わせる
が、感覚知覚を組み合わせる力は、意志に制御されている。夢の状態では、意志はこれらの組み合わせ
を制御せず、夢は潜在意識の中に存在する欲望によって影響された、気まぐれで、奇妙で、しばしば起
こる不条理な組み合わせと共に意識の前に現れる。意志と理性を伴う高度な自己は、いわば、意識の敷
居の向こう側に退き、理性の合理性の影響と意志の制御の影響を拒んだ、部分的に脳を当惑させる低位
の心から離れる。この低位の心の残余さえもまた、脳意識の敷居の向こう側に退くとき、私たちは熟睡
ニ ド ラ ー
イメージ
状態つまり nidrá となる。この状態では、脳内に心像は存在しない。心はそれ自身の領域で活動を継
イメージ
続するけれど、心の心像は肉体の脳のスクリーンには投影されないのだ。
」 I.K.タイムニ
ヴリッティ
「私たちは、これまでの 3 つのスートラで vìitti と云う言葉について検討してきた。この言葉を正
しく理解することは、ヨーガの探究者にとって重要だ。多くの思考の後で、あなたは最終的なヨーガの
パターン
目的は、意識の現れの様態の完全な絶滅に他ならないことを理解するだろう。実例で言えば、異なる偶
像や形を泥で作成することができ、それらの形を破壊するとき、それらは再び泥になる。金細工師は、
異なる名と形で呼ばれる異なる装飾品を金で作成するが、これらの装飾品が壊されるか溶かされると、
それらは再び金になる。同様に、異なる事柄や構成物が心からやって来て、自然の宇宙的プロセスの中
で様々な名前が与えられる。心または意識は、その形の全てが取り除かれねばならない、それにより意
識は名前もなく形もなしに留まる、それがヨーガの究極の目的だ。
ヨーガの究極の目的地は純化されるプロセスであり、この目的のためにパタンジャリは私たちを援助
ヴリティス
する。5 種類の vìittis は注意深く分類されたものだ。あなたが見、聞き、体験するもの全て、心や感
ヴリティス
覚器官を通じて vìittis が行うこと全ては、5 種類のグループに分類される、すなわち、正しい認識、
間違った認識、空想、眠り、記憶だ。
これら 5 つの変容が心意識を構成している。それらは、個人意識の 3 つの領域(*顕在意識、潜在意識、
無意識)を形成する。これらが人間の心の工場を構成するのだ。夢を見ること、歩くこと、見ること、
話すこと、触れること、叩くこと、叫ぶこと、感じること、感情、行為、心情などの全ての心の状態は、
これら 5 つの変容に含まれる。要するに、全てはこれら 5 種類に含まれているのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
プ ラ テ ャ ク シ ャ
ア ヌ
マ ー ナ
アーガマーハ
プ ラ マ ー ナ ー ニ
Ⅰ- 7 pratyakøa anumána ágamáë pramáîáni
プ ラ テ ャ ク シ ャ
ア
直接の知覚、5 感による証明
pratyakøa
ヌ
マ
ー
ナ
anumána
推理、推論
ア ー ガマー ハ
見者の証言、聖典の証言、権威ある証言、信頼できる証言
ágamáë
プ ラ マ ー ナ ー ニ
pramáîáni
正しい認識の基盤、源、
直接の知覚、推理、権威ある証言が正しい認識の源泉となる。
プ ラ マ ー ナ
「このスートラで、パタンジャリは正しい認識、pramáîa を説明している。それはすでに心の現れ
として前のスートラの中に含まれていた。心はいつも正しい認識の形態だけを取らない。心はときどき
間違った認識としてもまた現れる。このスートラは、正しい認識とは何かを説明している。正しい認識
は、三つの源泉から獲得される。感覚による証明、推理、そして証言だ。感覚による証明は、感覚器官
と認識する対象との接触により生じる知識だ。たとえば、私たちは花を見る、花の匂いを嗅ぐ、誰かが
泣き叫ぶのを聞く、などなどだ。
もしあなたの感覚器官、インドリヤが健全であれば、もしそれらに欠陥がなければ、感覚による証明
は正しい認識の源泉の一つだ。これは正しい認識の唯一の源泉ではないことを憶えておくべきだ、なぜ
なら感覚器官はときどき私たちを騙すからだ。たとえば、熱い空気が原因で砂漠に蜃気楼が生じる。こ
の場合、そこには実際に水がないのに、私たちの目は水の現れを事実であると信じさせる。この場合の
感覚による証明は、正しい認識を生み出さない、なぜならもし私たちがその水を取得しようとすれば、
イリージョン
その 幻 覚 に気づくからだ。
ア
ヌ
マ
ー
ナ
anumána 、推理は、適切な推理を基盤にすれば正しい認識の源泉となる。私たちが遠距離の山の上
に煙を見て、そこで火が燃えていることを即座に推理する。この推理は体験を源泉にしていて、私たち
を決して裏切らない、つまり、私たちが煙を横切ったときにはいつも、同時に火がそこにあったのを見
たのだ。これは不変的付随関係と呼ばれる。二つの物事または出来事が相伴うことをいつも発見すると
き、私たちはそれらの片方を見るときにはいつも、他方の存在を推理できるのだ。
ア ー ガ マ
ágama は証言を意味している。そこに感覚による証明がなく、同時に推理の十分な根拠もないとき、
証言は役に立つ。ここで私たちは、他者の言葉にただ依存しなければならないが、そこには一つの重要
アープタ
な条件がある。その他者の権威は、正しい認識の十分な源泉として受け取られるだろう、その人は ápôa
と呼ばれ、二つの条件を満たしていなければならない。第一に、彼自身が正しい知識を持っていなけれ
ばならない、第二に、彼はどんな間違いもなしに、その知識を伝えることができなければならない。こ
ア ー ガ マ
れらの二つの条件が満たされるとき、私たちは正しい知識として ágama(証言)を受け取ることができ
るのだ。
ヨーガでは、その権威はグル(*聖師)と呼ばれる。グルが弟子に手渡すものは単なる信頼だ、それに
もかかわらず、それは正しい知識なのだ、なぜならグルとは正しく認識している人だからだ。聖典は
ア ー ガ マ
ágama と呼ばれる、なぜならそれらはそこで検討されている主題を直接体験したリシ(見者)たちの証
言だからだ。さらにその上、聖典の証言は、感覚による根拠や推理のどちらにも従わないのだ。」
スワミ・サッティヤーナンダ
「われわれは第一に、アープタであると断言する人は完全に非利己的で清らかな人であることを、第
二には彼が感覚を超越していることを、そして第三には、彼の言うことが人類の過去の知識と矛盾しな
いことを確かめなければならない。真理のいかなる新発見も、過去の真理とは矛盾せず、それと調和す
るものである。そして第四に、その真理は確かめることのできるものでなければならない。」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
ヴ ィ パ リ ャ ヨ ー
ミ テ ャ ー ギ ャ ー ナ ム
ア タ ド ル ー パ プ ラ テ ィ シ ュ タ ム
Ⅰ- 8 viparyayo mithyájðánam atadrépapratiøôham
ヴ ィ パ リ ャ ヨ ー
viparyayo
誤認、間違った認識、妄想、思い違い
ミ テ ャ ー ギ ャ ー ナ ム
mithyájðánam
mithyá 偽りの、錯覚の、幻覚の jðánam 知識、認識
ア タ ド ル ー パ プ ラ テ ィ シ ュ タ ム
atadrépa それ自身の形ではない pratiøôham 基づく
atadrépapratiøôham
いつわり
間違った認識とは、事実とは一致しない 偽 の認識である。
ヴ ィ パ リ ャ ヤ
プ ラ マ ー ナ
「なぜ viparyaya(間違った認識)は pramáîa(正しい認識)ではないのか? なぜならそれは実際に
プ
ラ
マ
ー
ナ
存在する物事の正しい知識によって粉砕されるからだ。別の言葉にすれば、正しい認識の対象物は事実
であるが、錯誤した認識の対象物はその正反対だ。偽りの認識は正しい知識により否定される、つまり、
月が二重に見える幻覚は、一つの月という正当な知識によって否定される。この間違った認識つまり
ヴ ィ パ リ ャ ヤ
viparyaya が原因となる苦悩は五つの部分を持つ。それらは、無知、アスミターつまりエゴイズム、
クレーシャ
愛着、嫌悪、死の恐れ ── 五つの Kleùa だ。
」
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
チッタ・ヴリッティ
「パタンジャリはここで、私たちが阻止しなければならない心の動きの第二番目の種類を論じている。
ヴ ィ パ リ ャ ヤ
彼は viparyaya を、実際の対象物に基づかない、あるいは一致しない偽りの認識と定義している。こ
れは正しい認識とは正反対だ。正しい認識は、実際の対象物と私たちのその認識との一致に基づいてい
る。たとえば、私たちは花の色を見、花の匂いを嗅ぎ、花の花弁の柔らかさを感じる、それが私たちの
タドルーパプラティシュタ
心の中に生じる花の認識だ。それは正しい認識だ、なぜならそれは tadrépapratiøôha(それ自身の形
に基づく)からだ、つまり、そこには私たちの認識の基盤である実際の対象物が存在しているからだ。
ヴ ィ パ リ ャ ヤ
viparyaya(間違った認識)の場合、そこには認識の基盤となる実際の対象物が存在していない、それゆ
ア タ ド ル ー パ プ ラ テ ィ シ ュ タ ム
え、それは atadrépapratiøôham と呼ばれるのだ。たとえば、私たちがロープを蛇と誤解するとき、
私たちの認識は正しくない、なぜなら私たちが蛇と考えている、私たちの前に存在する対象物はロープ
なのだから。この偽りの認識は、正しい認識を生じさせるために、十分な照明などの条件を作り出して
正すことができるのだ。
ヴ ィ パ リ ャ ヤ
アヴィディヤー
プ
ル
シ
ャ
プ ラクリ ティ
viparyaya はまた、 無 知 とも呼ばれる、なぜなら私たちの全ての知識は、純粋精神と根本原質の
プ
ル
シ
ャ
プ ラクリ ティ
真の性質の誤解を基盤としているからだ。間違った認識は、最終的に純粋精神と根本原質の真の性質の
ヴィヴェーカ
正しい理解へと至らせる、 識 別 によって変換されるのだ。」
スワミ・サッティヤーナンダ
「これ(*間違った認識)は、最もたびたび生じる心の活動であると見なされている。それは誤った観
察、あるいは実際に見た対象物の誤解を通じて生じることだろう。それは、私たちが実際に見る対象物
を深く理解できないために起こり、しばしば過去の体験や条件付けの結果として生じる。その誤りは後
になって理解されるか、あるいは決して全く理解されない。ヨーガ実践の目的は、間違った認識の原因
を理解し、制御することだ。
」
T.K.V.デシカチャー
「間違った理解と虚偽の概念は、不適切な感覚を引き起こし意識を汚す。それはサーダカ(*修行者)
が見る者(*プルシャ)を体験するための努力を妨害し、分裂した人格を生み出すことだろう。」
B.K.S.アイアンガー
シャブダギャーナーヌパーティー
ヴァストゥシューニョー
ヴ ィ カ ル パ ハ
Ⅰ- 9 ùabdajðánánupátæ vastuùényo vikalpaë
シャブダギャーナーヌパーティー
ùabdajðánánupátæ
ùabda 言葉、音
jðána 知識、認識
anupátæ 従う、依存する
ヴァストゥシューニョー
vastuùényo
vastu 対象物、実体 ùényo 無い、欠いた
ヴ ィ カ ル パ ハ
vikalpaë
空想、幻想、想像
実体のない、言葉による認識が空想である。
ヴィカルパ
イマジネーション
「vikalpa とは、対象の基盤のない 空 想 だ。それは対象が無いことを意味してはいないが、その
陳述で述べられた対象は非存在なのだ。たとえば、私たちが不思議なおとぎの国の物語や、ガリヴァー
旅行記のリリパット(*小人の国)を読むとき、その文章で正当に用いられた言葉を私たちは知るが、し
ヴィカルパ
かしその言葉と一致する実際の対象物は存在しない。それが vikalpa の例であり、想像または空想だ。
ヴィカルパ
vikalpa とは私たちの心の創造物だ。しかしながら、それは体験的実体を完全に書いたものではない。
私たちは自身の体験から観念を獲得し、実際には存在しない物事の新しい観念を形成するためにそれら
を連合させるのだ。
私たちの多くに生じる問題は、霊性の探究者たちの場合でさえ、ときどき心が空想と観念に満たされ
ることだ。世界中には、架空の目的地への到達を探し求める多くの霊性の探究者たちがいる。彼らは
ヴィカルパ
vikalpa 以外の何物でもない観念の世界に生きているのだ。瞑想中、ときどき想像上の跳躍が生じる。
それは余りにも楽しく、興味深く、瞑想している心に喜びと満足を与えるが、パタンジャリによれば、
ヴィカルパ
この vikalpa の形態もまた破棄すべきものだ。同様に、インドには白昼夢と呼ばれる空想的瞑想の部
門がある。それ自体は単独で個別のサーダナー(*修行)だが、パタンジャリによればそれは本質的に心
の鈍い状態であり、正しい認識を通じて克服しなければならないのだ。このサーダナーは初心者にとっ
ては大変役に立ち、探究者を集中のより深い状態へと導くことが可能だ。しかし、このサーダナーは初
心者にとって役には立つが、のちほど放棄しなければならないことを忘れてはならない。
ダーラナー、アンタル・モウナ、ディヤーナの状態で、探究者はある対象物とその性質を想像する。
それらは多分究極的な分析によれば非実在で空想的概念かもしれないが、しかしそれらは初期において
は非常に役に立ち、ヨーガの探究者は進歩してより深い状態に熟達するまで、それらの助けを用いねば
ならない。ニルヴィカルパ・サマーデイ(*無想三昧)に達するまで、探究者は異なる体験を通過して行
くが、それらは個人の心の意識領域以外の何物でもない、と多くの偉大な思想家たちは表明している。
正しい認識、間違った認識、空想は、意識の一連のプロセスだが、正しい認識は実際の対象を持ち、
ヴィカルパ
間違った認識は偽りの対象を持つのに対し、空想つまり vikalpa は全く対象が実在しない、という点
においてそれらは異なるのだ。この相違を注意深く理解するべきだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「これ(*空想)は、どんな直接知覚もない状態で生じる。記述された言葉の意味、暗示への言及は、
理解へと向かう想像を促す。もしその言葉が詩や修辞として用いられれば、より有用だろう。空想はま
た、夢、感覚、感情のような他の手段を通じても生じる。記憶として蓄積された過去の体験は、しばし
ばこの(*空想)心の活動に貢献する。
」
T.K.V.デシカチャー
ア バ ー ヴ ァ プ ラ テ ャ ヤ ー ラ ム バ ナ ー
タモーヴリッティルニドラー
Ⅰ- 10 abhávapratyayálambaná tamovìttirnidrá
ア バ ー ヴ ァ プ ラ テ ャ ヤ ー ラ ム バ ナ ー
abháva 不在、非在、無意識、無感覚 pratyaya 心の内容
abhávapratyayálambaná
álambaná 支える、基盤、住居
タモーヴリッティル ニドラー
タ マス
tamovìttir 闇質の心の活動 nidrá 眠り、熟睡
tamovìttirnidrá
タマス
内容不在の、闇質の心の活動が熟睡である。
ヴ リ テ ィ ス
ヴ リ テ ィ ス
「これは非常に重要なスートラだ。前に述べた最初の三つの心の活動と比較するとき、この心の活動
は気づきの不在、あるいは無意識によって特徴づけられている。眠り(*熟睡)もまた心の状態の一つだ。
眠りを理解することは非常に重要だ、なぜならもし私たちが心の睡眠状態を分析することができれば、
サマーディ
簡単に三 昧 の状態を理解できるからだ。眠りとは、外界の知識を隠蔽する心の状態だ。マーンドゥーキ
ャ・ウパニシャッドの中で、眠りの中で人は何も欲望せず、そこには夢も他の知覚作用もないと述べて
ヴ リ テ ィ ス
いる。全ての心の活動は一つに集中し、エネルギーのプロセスは一つに融合する。知覚機能の能力は内
向する。外界の対象物は見えず聞こえず、そこには何の感覚もない。それは心の無意識の状態だ。
これがまさに、このスートラでパタンジャリが強調したい見解だ。彼は、眠りの中には心の対象物は
何もない ── 心は何も見ず、聞かず、触れず、感じないと述べている。知識の全ての形態、心の全て
の内容は沈黙する。
プ ラ テ ャ ヤ
私たちが対象物の心の体験を持つとき、その体験は pratyaya 、心の内容と呼ばれる。私たちは対
プ ラ テ ャ ヤ
象物と接触する感覚を伴うか伴わない心の内容を持つことが可能だ。たとえば、私たちは心の内部に、
プ ラ テ ャ ヤ
ヴィジョン
映 像 、夢、観念のいずれかで薔薇を見ることができる。これらの状態全ての心の内容は pratyaya と
呼ばれるのだ。
対象物の観念、心の内容があるプロセスを通じて除去されるとき、その心には支えがなくなる。眠り
ヴ リ ッ テ ィ
とは、心の内容が不在の心の活動だ。この状態では、そこには想念は存在するが、心の前に姿を現さな
い、そのため心は見ず、触れず、聞かず、どんな感覚も心の体験もない。心理学的に、その状態では脳
ディヤーナ
と心は切断され、想念は一時的に阻止される。同様に、瞑 想 の中で心の活動が停止するとき、私たちは
ときどき無意識になるのだ。
サマーディ
サマーディ
眠りの状態は三 昧 の状態と比較される、なぜなら両方とも外界の意識が不在だからだ。眠りと三 昧 の
サマーディ
唯一の相違は、三 昧 の状態では『私』の概念がある程度継続するが、眠りの中では『私』の概念への気
サマーディ
づきが存在しない。三 昧 の状態では、瞑想者自身の国家、名前、形などの分類された存在性や性質への
気づきは完全に停止する。この気づきは、外界に属する全ての特質を除去するのだ。私たちが起きてい
サマーディ
サマーディ
る状態での気づきも、三 昧 での気づきとまるで同じように見える。その相違は、三 昧 の中では対象物
は存在しないが、気づきは存在するのだ。そこには多くの誤解、誤認、混乱、間違った解釈が存在して
サマーディ
きた。三 昧 は絶対の無意識状態であると考えられているが、ところが実際はその正反対なのだ。」
スワミ・サッティヤーナンダ
「目が覚めたときわれわれは、自分は眠っていた、ということを知っている。われわれは知覚の記憶
だけを持っているのだ。知覚しないものの記憶は、決して持つことはできない。・・・われわれが眠り
を記憶している、という事実がそのまま、睡眠中にも心の中にはある種の(*心の)波が立っていた、と
いう証拠である。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
ア ヌ ブ ー タ ヴ ィ シ ャ ヤ
ア サ ム プ ラ モ ー シ ャ ハ
スムリティヒ
Ⅰ- 11 anubhétaviøaya asaópramoøaë smìtië
ア ヌ ブ ー タ ヴ ィ シ ャ ヤ
anubhétaviøaya
anubhéta 経験した、知覚した、認識した viøaya 知覚対象、認識対象
ア サ ム プ ラ モ ー シ ャ ハ
asaópramoøaë
忘れない、失われない、消えない
スムリティヒ
smìtië 記憶
経験した認識対象を忘れない(心の活動が)記憶である。
ヴリッティ
「記憶は、心の第五番目の活 動 だ。記憶には二種類ある。顕在意識の記憶と潜在意識の記憶だ。顕在
意識の記憶は、既に体験した事柄の想起に関係し、過去の体験を呼び覚ますのだ。潜在意識の記憶は夢
だ。ここでは、人は意識的に思い出すのではなく、無意識に思い出す。この記憶もまた二種類ある。一
つは空想的な夢で、もう一つは事実の夢だ。夢の中で、人はときどき実際の生活とは全く関係のない奇
妙な体験をする。人は自身が列車の車輪に引き裂かれるのを見たり、自身が死ぬのを見たりすることだ
ろう。これは心の空想であり、それは空想的な潜在意識の記憶と呼ばれる。しかし、私たちはどんな夢
でもある源泉があることを憶えておかねばならない、源泉のない夢はないのだ。事実の潜在意識の記憶
ぜんいしき
の場合、人は過去に実際に起こった事柄を歪曲なしに夢の中で思い出す。前意識(*フロイドの深層心
理学の概念で、通常は意識に昇らないが、努力すれば意識化できる記憶等が貯蔵されていると
考えられる無意識領域)の印象を引き出し、顕在意識の領域に現れるこの記憶は、私たちの意識の能
ヴ リ ッ テ ィ
力の一つだ。それは意識の顕現の一つであり、それゆえ心の活動として分類されるのだ。
体験される対象物は五種類であり、それらは目、耳、皮膚、舌、鼻を通じて知覚される。私たちがそ
イ ンドリ ヤス
れらの対象物を体験するとき、私たちの心は知覚器官を通じてそれらと接触する。次にそこに同様の接
触があるとき、過去の体験の記憶がもし心から消えなければ、その体験が現れ出る。もしその体験が消
えるとき、その記憶は現れない。そこで、パタンジャリは心から体験が逃げない事実を強調するために、
アサムプラモーシャ
ア
サ ム
プ ラ
asaópramoøa という言葉を使用したのだ。この言葉の意味は、a ~ではない、sam 完全に、pra 高
モーシャ
度な、偉大な、moøa 放出する、逃げ去る、だ。このように、この言葉は字義的に、逃げることを許可
しない(*忘れない)、を意味しているのだ。
ヴ リ ッ テ ィ
そこで、パタンジャリによって述べられた五つの心の活動を次のように要約できる。第一番目は正し
い認識と関係し、第二番目は間違った認識、第三番目は空想の認識、そして最後の一つは過去の認識と
関係するのだ。これらは、私たちの意識の全領域を包含している。しかしヨーガの定義によれば、パタ
ヴ リ ッ テ ィ
ンジャリが既に述べたように、ヨーガの本質は全ての心の活動を阻止すること、または停止させること
ヴ リ ッ テ ィ
により心の活動を封じ込めることなのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「記憶はここで、心の中の過去の体験の保持と定義されている。しかし、それらの体験は単なる印象
サムスカーラ
(samskára)として心の中に保持されている、そしてそれらが潜在的な形態で、単なる印象として心の
チッタ・ヴリッティ
中に保持されている限り、それらは心の活動と見なすことはできない。それらの潜在印象が心の映像の
チッタ・ヴリッティ
形態で活動状態に変換されるとき、それらは心の活動として正当に見なされるのだ。
」
I.K.タイムニ
「全ての意識的体験は、個人に印象を残し記憶として蓄積される。記憶が事実か、偽りか、不完全か、
空想かを述べることは不可能だ。
」
T.K.V.デシカチャー
Ⅰ-12
ア ビ ヤ ー サ
abhyása vairágyábhyáó tannirodhaë
しゅうじゅう
ア ビ ヤ ー サ
abhyása
タ ン ニ ロ ー ダ ハ
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ ー ビ ャ ー ム
実践の繰り返し、継続的実践、 修 習
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ ー ビ ャ ー ム
vairágyábhyáó
タ ン ニ ロ ー ダ ハ
tannirodhaë
vairágya 離欲、無執着、欲望の放棄 bhyám ~により
ニ ロ ー ダ ハ
タット
tat それら(5 種類の心の活動) nirodhah
ア
ビ
ヤ
ー
サ
抑制、止滅
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
それら(5 種類の心の活動)の止滅は、継続的実践と欲望の放棄によって(実現する)。
ヴィヴェーカ
「心の川は二つの方向に流れる ── 善と悪に向かって。Viveka つまり識別による知識の領域へと
カ イ ヴ ァ リ ャ
流れる心は善へと導き、Kaivalya つまり解脱の高度な領域へと到達する。一方、輪廻転生の習癖から
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
の無識別な領域ヘの心の流れは悪へと導く。これら二つの中で、感覚対象に向かう流れは欲望の放棄に
より減少し、識別の習慣の発展は識別知識の水門を開く。心の動きの止滅は、このようにそれら二つに
依存しているのだ。
」
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
チッタ・ヴリッティ
「このスートラで、パタンジャリは心の動きの流れの停止のための二つの方法を述べている。それら
ア ビ ヤ ー サ
ヴァイラーギャ
ア ビ ヤ ー サ
ヴァイラーギャ
は abhyása と vairágya だ。Abhyása は繰り返し継続する実践だ。Vairágya は実に異論の多い
言葉だ。時代により、国々により、人々の頭脳により、その言葉は異なる意味を持ってきた。それは無
ラ ー ガ
ドヴェーシャ
執着、あるいは公平な心の状態と言うことができるだろう、そしてそれは rága とdvesha 、愛着と嫌
ヴァイラーギャ
サ ン ニ ヤ ー サ
悪からの自由だ。インドでは、vairágya は伝統的に sannyása(出家)の規律を意味している。パタン
ラ ー ガ
ドヴェーシャ
ラ ー ガ
ジャリは後の章(*第 2 章)で、rága と dvesha を解説している。Rága とは、私たちが選択するどん
ドヴェーシャ
な対象でも、それらへの好感の態度であると言えるだろう。一方、dvesha は、対象への嫌悪に関係す
ヴァイラーギャ
る心の態度だ。それら二つからの自由が vairágya と呼ばれるのだ。
ア ビ ヤ ー サ
ヴァイラーギャ
ラ ー ガ
私たちは、最初の実践である abhyása と vairágya を行わず、最初の克服である rága と
ドヴェーシャ
dvesha を実践せずに、心を集中させようとする多くの霊性の探究者たちと出会う。心を不動にする、
ラ ー ガ
ドヴェーシャ
むな
rága と dvesha と呼ばれる心を乱す要因を最初に除去しないで、心を静寂にさせることは空しい行
ア ビ ヤ ー サ
ヴァイラーギャ
為だ。パタンジャリは私たちに、abhyása と vairágya は探究者が最初に熟達すべき方法であり、そ
れにより瞑想は簡単に実践可能となると告げているのだ。」
ア ビ ヤ ー サ
ポジティヴ
スワミ・サッティヤーナンダ
ヴァイラーギャ
ネガティヴ
「実践(abhyása)は、ヨーガの肯定的な側面であり、離欲または放棄(vairágya)は、ヨーガの否定的
な側面だ。昼間と夜、吸息と呼息のように、それら二つは相互にバランスを取る。実践は進化の道程で
あり、離欲と放棄は帰還の道程だ。実践はヨーガの八部門全てに含まれている。進化の実践とは、自己
発見へと向かって前進する実践、ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(坐法)、プラーナーヤーマ(呼
吸法)が含まれている。放棄の帰還の道程とは、プラティヤーハーラ(制感)、ダーラナー(集中)、ディ
ヤーナ(禅定)、サマーディ(三昧)を含んでいる。この内向の旅は、意識を外界の対象から無執着にする
のだ。
」
B.K.S.アイアンガー
「われわれが在るところの一切のものは、習慣の結果である。・・・われわれの性格は、これらのし
るしの総計であり、その中で優位を占める波動が、それの傾向となる。・・・悪い習慣の唯一の矯正法
いや
は反対の習慣である。・・・善い行いをし続け、絶えず浄らかな思いを思え。それが卑しい印象を押さ
えつける唯一の方法である。
・・・性格は、繰り返された習慣であり、繰り返された習慣のみが、性格
を変えることができるのである。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
Ⅰ-13
タ ト ラ
ス テ ィ タ ウ
ヤ ト ノ ー
ビ ャ ー サ ハ
tatra sthitau yatno’bhyásaë
タ ト ラ
tatra
それらの中で、二つの中で、
ス テ ィ タ ウ
堅固にする、(心の動きを止滅し)不動にする、しっかり確立する
sthitau
ヤ ト ノ ー
yatno’
ヤ ト ナ
yatna 持続的な努力、奮闘
しゅうじゅう
ア ビ ャ ー サ ハ
abhyásaë
継続的実践である、 修 習 である
け ん ご
ア
ビ
ヤ
ー
サ
それらの中で、(心の活動を止滅させる)堅固な持続的努力が継続的実践である。
プラシャーンタ
ヴァーヒター
「全ての心の動きがない継続性は、praùánta - váhitá と呼ばれる。それは心の静寂の至高の状態
ア
ビ
ヤ
ー
サ
だ。その他の静けさの形態は二次的なものだ。その実践(*継続的実践)が発展するとき、静寂もまた増
プラシャーンタ
ヴァーヒター
大する。探究者の目的が praùánta - váhitá に固定され、探究者によって到達されたどんな静けさで
ア
ビ
ヤ
ー
サ
ア
ビ
ヤ
ー
サ
あろうと、それらを保持する努力が継続的実践と呼ばれるのだ。より多くのエネルギーと熱意を伴って
すみ
努力がなされるとき、より速やかに継続的実践は確立されるであろう。ムンダカ・ウパニシャッドの中
で、『この自己は、エネルギーのない人によっては、妄想を抱いている人によっては、真の放棄を欠い
ている知識によっては悟ることはできない、しかし賢者がこの方法(エネルギー、知識、放棄を伴い)で
努力するとき、彼の魂はブラフマンの住居に到達する。
』と述べられている。」
スワミ・ハリハラーナンダ
ア ビ ヤ ー サ
タ ト ラ
「パタンジャリはこのスートラで abhyása の意味を説明している。tatra という言葉は字義的には
タ ト ラ
ア
ビ
ヤ
ー
サ
『そこでは』を意味するが、スートラの前後関係に関連して、tatra という言葉は二つ(*継続的実践と
ア ビ ヤ ー サ
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
欲望の放棄)を意味しているのだ。abhyása は、霊的努力(サーダナー)に完全に定着することを意味し
チッタ
ヴリッティ
ニローダハ
ている。ここでの努力とは、citta vìitti nirodhaë(*心の動きの止滅)の実践に関係している。それは、
瞑想(*ラージャ・ヨーガ)、カルマ・ヨーガ、バクティ(*ヨーガ)、自己内省(*ギャーナ・ヨーガ)、そ
ア ビ ヤ ー サ
の他の実践を含むことだろう。ただ何かをときどき実践することは abhyása ではないことを憶えてお
ア ビ ヤ ー サ
くべきだ。abhyása とは継続的実践を意味している。あなたはその実践から全く離れることはできな
いのだ。その実践はあなたの人格の一部、あなたの個人的性質の一部となる。それを強調するために、
ス テ ィ タ ウ
パタンジャリは sthitau という言葉を用いた、それは堅固に定着された、またはしっかりと確立され
た、を意味している。
ヤ
ト
ナ
次の言葉 ── yatna 努力 ── は、クリヤー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、あるいは瞑想のどれであ
ア ビ ヤ ー サ
れ、あらゆる努力を表している。abhyása に関して、理解しなければならない一つの重要な点がある。
ア ビ ヤ ー サ
サマーディ
abhyása が自然になり、堅固に定着し、完成するとき、それは三 昧 へと導く。だから、全ての探究者
ヴ リ テ ィ ス
は、規則的で継続する実践に最大の注意を払わねばならないのだ、それが完成するとき、それは心の動き
の完全な封鎖へと導くのだ。
」
ヤ
ト
ナ
スワミ・サッティヤーナンダ
チッタ・ヴリッティ
リアリティ
「あらゆる努力(yatna)は、全ての心の動きが制御され、実 在 の光が最高の華麗さで不断に輝く超
越状態の実現に向かっている。その目的を実現する方法は多数あり、様々であるけれど、それら全ては
ア ビ ヤ ー サ
abhyása に関連することだろう。」
I.K.タイムニ
サ
Ⅰ-14
トゥ
デ ィ ー ル ガ カ ー ラ
ナ イ ラ ン タ リ ャ
サ ト カ ー ラ
アーダラー
アーセーヴィトー
sa tu dærghakála nairantarya satkára ádará ásevito
ド
リ
ダ
ブ
ー
ミ
ヒ
dìõhabhémië
サ
ア
ビ
ヤ
ー
ト ゥ
サ
sa それ(継続的実践)
tu しかし、そして
デ ィ ー ル ガ カ ー ラ
ナ イ ラ ン タ リ ャ
dærghakála dærgha 長い kála 期間、時間
nairantarya 中断なく、継続的に
サ ト カ ー ラ
アーダラー
satkára 信念を持って、注意深く、敬意に満ちて
ádará 考慮する、尊重する
アーセーヴィトー
ásevito ásevitaë 実践された、従事した、熱意を持って実践した
ド リ ダ ブ ー ミ ヒ
dìõhabhémië dìõha 堅固な、不動の bhémië 基盤、根拠
ア
ビ
ヤ
ー
サ
それ(継続的実践)は、長い期間、中断なく、信念を持って熱心に実践されるとき、(心の
止滅の)不動の基盤となる。
ア
ビ
ヤ
ー
サ
「継続的実践の実践には、三つの条件がある。それは完全な信念を伴い実践されるべきだ。それは中
断なく継続されるべきだ、そしてそれは非常に長い期間実践されるべきだ。これらの三つの条件が満た
ア
ビ
ヤ
ー
サ
されるとき、継続的実践は堅固に確立され、探究者の性質の一部となる。多くの探究者たちは、最初は
非常に熱心だけれど、しばらくして彼らの信念が衰退するのがしばしば見られる。(*無数の輪廻転生で
の)今回の人生で目的地に到達したいと欲するヨーガの修行者は、これは決して起こってはならない。
サーダナ
霊的探究者は、自身の修行を、非常に具体的で本質的な何かを知覚できるまで継続しなければならない
が、非常にわずかの探究者だけしかそれができないのだ。
アンタル
ナ イ ラ ン タ リ ャ
nairantarya という言葉は非常に重要だ。それは中断しない実践を意味する。Antar は相違を意味
ナ イ ラ ン タ リ ャ
する。nairantarya は、この相違の不在を意味する。つまり継続性を意味するのだ。これは非常に重
要だ、なぜならもし実践がときどき中断されれば、実践者はその実践から十分な恩恵が得られないから
だ。十分な恩恵とは霊的な成熟だ。探究者は、自身の実践を開始したなら、霊的成熟に到達しなければ
ならない、そしてその実践は長期間継続しなければならないのだ。しばしば私たちは、多くの人々が霊
的発展の課業が数カ月で完成できるという誤った考えを持っていることを観察するが、それは間違いだ。
それを達成するためには多くの生涯(輪廻転生)が必要なのだ。探究者は性急であってはならない、急ぐ
べきではないのだ。私たちの古代の文献では、個人がヨーガの至高の目的地に到達するためには、多く
の輪廻転生を経るであろうと表明している物語に満ちている。その重要性は時間の長さではなく、探究
者が実践をどんな中断もなく、いつ目的地に到達しようと、実現するまで継続するという事実だ。探究
者はハートを失うべきではない。探究者は信念を伴って実践を継続するべきだ。信念は最も重要な要因
だ、なぜなら信念を通じてのみ、私たちは人生の万難に立ち向かって実践を継続する、忍耐とエネルギ
ーを得るからだ。もし探究者が、自身の実践を通じて確実に目的地に到達するのだ、という完全な信念
を実際に持てば、彼が目的地に到達するための困難はほとんど解消するのだ。
サーダナ
次の重要な点は、探究者は修行が最高度に好きになるべきだ。ちょうど母親がもし子供が決まった時
間に家に戻らないと心配するように、探究者も日々の実践を行わないと不安になるべきだ。探究者は、
自身の身体を愛するのと同じように実践を愛するべきだ。探究者は、美味しい料理に魅惑されるように、
自身の実践に魅惑されるべきだ。実践は、愛と魅惑と共に実践されるときにのみ、望む結果が起こるの
だ。そこに強制の感情があるべきではなく、探究者はその実践を喜びに満ちて行うべきだ。それが
サ ト カ ー ラ
satkára の意味だ。それは、熱心、尊重、信念を意味するのだ。もし探究者がこれらの性質を持てば、
良い結果は確実だ。実践への愛着は、継続的な自己分析やサトサンガ(聖なる集い)を通じて発展できる
のだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
Ⅰ-15
ドリシュターヌシュラヴィカ
ヴィシャヤ ヴィトリシュナシャ
ヴ ァ シ ー カ ー ラ サ ム ギ ャ ー
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ ム
dìøtánuùravika viøayavitìøîasya vaùækárasaójðá vairágyam
ドリシュターヌシュラヴィカ
dìøtánuùravika dìøtá 見られるもの、対象物 anuùravika (他者から)聞くもの
ヴ ィ シ ャヤ ヴィ ト リ シ ュナ シ ャ
viøayavitìøîasya viøaya 対象物、喜びの対象 vitìøîasya 欲望からの自由、無執着
ヴ ァ シ ー カ ー ラ サ ム ギ ャ ー
vaùækárasaójðá vaùækára 制御する、完全な征服、熟達 saójðá 意識、自覚、気づき
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ ム
vairágyam 放棄、離欲、無執着
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
見聞きする対象への欲望から自由になるとき、その制御の意識が欲望の放棄である。
「心が、見られた対象物、女性、食物、飲み物、能力その他に無関心になり、対象物や聖典で約束さ
れた天国行き、肉体離脱、原始状態への溶解に無渇望になるとき、あるいは渇望が起こるときに、心が
その欠陥に気づき、識別知識の獲得により渇望の影響から自由になり、善と悪に無関心になるとき、そ
ヴ ァ シ ー カ ー ラ サ ムギ ャ ー
ヴ ィ カ ル パ
ブ
ッ
デ
ィ
れは vaùækárasaójðá と呼ばれる、心の動揺の無い認識知性の制御状態に到達したと言われる、これ
ヴァイラーギャ
が vairágya(無執着)だ。
」
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
「探究者が、あらゆる快楽の対象物へ、そして彼の人生で見聞きした対象物への欲望がなく、渇望が
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
ドリシュター
なく、焦燥がないとき、この心の状態 ── 無欲望、無渇望 ── が欲望の放棄と呼ばれる。D ì ø t á (見
られる対象)は、感覚器官を通じて経験した、快楽の対象物の喜びを含んでいる。個人的な感覚知識の
ドリシュター
アヌシュラヴィカ
範囲内のあらゆる体験は、 d ì ø t á と呼ばれる。Anuùravika(聞くもの)の対象物は、探究者が体験は
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
していないが、他人から聞いたり本で読んだりした対象物だ。このように欲望の放棄 とは、完全に
ブ
ッ
デ
ィ
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
認識知性のプロセスなのだ。それは一つの主義なのではない。もし探究者が、欲望の放棄の実践のため
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
に、自身の生活を変えねばならないと考えるなら、彼は間違っている。欲望の放棄とは、探究者が人生
で体験した全ての最終的評価なのだ。
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
探究者が、家庭や社会のあらゆる義務を果たすときでさえ、欲望の放棄を達成することは可能だ。探
究者の義務を放棄する必要は全くない。必要なことは、探究者の様々な活動を放棄することではなく、
ラ ーガ
ドヴェーシャ
むしろ完全に潜在的苦しみの原因である、愛着と 嫌 悪 を捨て去ることなのだ。これはバガヴァッド・
ギーターの中で見事に説明されていて、
「もし人が自分の行為の善か悪の結果に無執着であれば、人は
毎日様々な義務的行為を行っていても、この人生で自由になることができる。」と言っているのだ。瞑
想で重要なことは、探究者が外的生活で何を行い何を行わないかではない。それは内的な生活だ、抑制、
コンプレックス
サイキック
抑圧、固定観念の生活、心理的、心霊的誤解の生活、それらが瞑想で決定的な役割を担うのだ。そうい
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
う理由で、欲望の放棄は必要だ、それにより正しい態度が探究者にやって来るのだ。
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
欲望の放棄の実践は内部から開始され、決して外部からではない。あなたが何を着ていようが、あな
たが誰と生活しようが問題ではない。重要なことは、あなたが生活で直面する様々な物事、人々、出来
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
事に、どのような態度で向かい合うかだ。欲望の放棄は、均衡ある態度、統合的手段、あらゆる存在へ
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
の愛と同情の感情を生み出し、その上全ての行為への無執着を生じさせる。欲望の放棄はこのように、
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
サ ー ダ カ
探究者の心の浄らかさと平和の顕現だ。欲望の放棄は、修行者が快適や不快な出来事に直面しても、動
揺しない幸福と静寂を授与するのだ。
」
ヴァイラーギャ
ラーガ
スワミ・サッティヤーナンダ
ラーガ
「vairágya という言葉は rága に由来し、rága はスートラ 2 章 7 節で、対象からやって来る喜び
によって生じる魅惑(*愛着)、と定義されている。
」
I.K.タイムニ
Ⅰ-16
タ
ト
パ
ラ
タ ト パ ラ ム
プ ル シ ャ キ ャ ー テ ー ヘ
グ ナ ヴ ァ イ ト リ シ ュ ニ ャ ム
tatparaó puruøakhyáteë guîavaitìøîyam
ヴァイラーギャ
ム
tatparaó tat それ(欲望の放棄) paraó 最高の、至高の、究極の
プ ル シ ャ キ ャ ー テ ー ヘ
puruøakhyáteë puruøa 純粋精神 khyáteë 知識、認識
グ ナ ヴ ァ イ ト リ シ ュ ニ ャ ム
プ ラクリ ティ
グ
ナ
サットヴァ
ラジャス
タ マス
guîavaitìøîyam guîa 根本原質の 3 構成要素 ( 純 質 ・激質・闇質)
vaitìøîyam 無執着、離欲、欲望からの自由
プ
ル
シ
ャ
プ ラ ク リ テ ィ
グ
ナ
純粋精神を認識し、(根本原質の) 構成要素への執着から完全に自由になるとき、至高の
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
欲望の放棄に到達する。
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
「欲望の放棄には二種類ある。一つは、欲望の放棄の低い状態であり、二つ目は高い状態だ。低い状
態では、探究者は感覚対象への執着を超越するが、なお執着は精妙な形態で残存している。このことは
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
バガヴァッド・ギーターでもまた解説されている。欲望の放棄の低い形態は、ある意味で抑圧のプロセ
サ ッ ト サ ン ガ
スが含まれ、そこには宗教的意識と聖なる集いの発展を通じた識別と制御が存在している。そこには心
パ ラ ヴァイラーギャ
による意識的制御が存在し、欲望や渇望は制御の下で保持されているのだ。Paravairágya(至高の欲望
の放棄)は、快楽の放棄だけではなく、快楽が深く根ざした印象でさえも放棄することを含んでいる。
パ
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
ラ
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
低い欲望の放棄は元に戻る可能性があるが、探究者が至高の欲望の放棄に到達するとき、渇望や欲情の
パ
ラ
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
生活には戻らない。至高の欲望の放棄は、あらゆる欲望の形態の不在がその特徴だ。そこには、喜び、
プ
ル
シ
ャ
楽しみ、知識、眠りの欲望さえも存在しないのだ。その境地は、そこに純粋精神の真の性質への気づき
サマーディ
プ
ル
シ
ャ
が存在するときに生じる。霊的探究者は、瞑想や 三 昧 の中で、自身の純粋精神に気づく。彼は直接に
プ
ル
シ
ャ
パ
ラ
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
純粋精神を直感認識し、それが至高の欲望の放棄を生じさせるのだ。探究者はあらゆる魅惑を超越し、
世間の快楽が彼に差し出されても、動揺しないのだ。
カタ・ウパニシャッドの中に、ナチケータがヤマ、死の神に提供されたあらゆる世間的喜びを拒否し
て、死後の魂に何が起こるのかを知りたいという渇望に駆られた物語が描かれている。ナチケータは、
全ての世間的喜びを拒否することで、至高の知識を受け取る資質を証明したため、最終的に真の知識を
パ
ラ
サ ッ ト サ ン ガ
ヴ ァ イ ラ ー ギ ャ
獲得した。この至高の欲望の放棄の状態は、読書や聖なる集いや他のどんな実践を通じても達成できな
プ
ル
シ
ャ
い。それは、あなたが純粋精神の直感的直接知識を得たときにやって来るのだ。
プ ル シ ャ キ ャ ー テ ー ヘ
プ
ル
シ
ャ
私たちは puruøakhyáteë (純粋精神 の認識)が何を意味するのか、明瞭に理解しなければならな
プ
ル
シ
ャ
い。・・・ヨーガによれば、純粋精神とは心の内容を持たない気づきだ。それは心のどんな内容からも
プ
ル
シ
ャ
プ
ル
シ
自由なのだ。純粋精神は、どんな 5 種類の心の活動も存在しない、意識の顕現だ。
ャ
プ ラクリ ティ
ヨーガでは、純粋精神は意識の至高の顕現と考えられ、それは根本原質とのどんな関わりからも自由
ヴ リッテ ィス
ブ
ッ
デ
ィ
であると同様に、心の活動からも自由だ。普通、私たちの意識は、感覚器官、心、認識知性を通じて活
プラティヤヤ
動する。瞑想において、意識はより深いレベルで活動するが、その状態の中に pratyaya つまり心の
内容(*心の活動)が存在している。しかし、そこにはたった一つの関わり、つまり『私』(*自我)の観念、
『私』の感覚だけが存在するのだ。最終的に、瞑想を超越し、『私』の感覚もまた消滅する。そしてそ
プ
ル
シ
ャ
プ
ル
シ
ャ
サットワ・グナ
ラジョーグナ
タモーグナ
こに残るものが、純粋精神と呼ばれる意識だ。この純粋精神への至高の気づきは、純 質 、激 質 、闇 質
グ
ナ
サットワ・グナ
ラジョーグナ
と呼ばれる 3 つの構成要素から解放させるのだ。 純 質 は、知識、平和、光を意味する。 激 質 は、貪
タモーグナ
グ
ナ
プ
ル
シ
ャ
欲、怒り、緊張を意味する。闇 質 は、停滞、怠惰、鈍さを意味する。構成要素からの自由とは、純粋精神
グ
ナ
への気づきが生じるとき、心が 3 つの構成要素に影響されないことを意味するのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
ヴ ィ タ ル カ
Ⅰ-17
ヴィチャーラ
ア ー ナ ン ダ
ア ス ミ タ ー ル ー パ
ヴィチャーラ
推理、分析的思考、論理的推測
vitarka
ア ー ナ ン ダ
至福、歓喜
asmitárépa
ア ヌ ガ マ ー ト
ャ
asmitá
自我意識、私意識 répa
形、外観、現われ
サ ム プ ラ ギ ャ ー タ ハ
anugamát
ギ
熟考、識別、直観
vicára
ア ス ミ タ ー ル ー パ
ánanda
ラ
サ ム プ ラ ギ ャ ー タ ハ
vitarka vicára ánanda asmitárépa anugamát saóprajðátaë
ヴ ィ タ ル カ
プ
ア ヌ ガ マ ー ト
連合により、構成する
ー
サマーディ
saóprajðátaë
ヴィタルカ
ヴィチャーラ
アーナンダ
高度な認識の伴う三昧
アスミター
高度な認識(が伴う 三 昧 )は、 推 理 、 識 別 、 至 福 、私意識で構成される。
ヴィタルカ
「集中した心が、知覚された粗大な形態、つまりそれらの認識に満たされるとき、それは推 理 と呼ば
ヴィチャーラ
アーナンダ
れる。同様に、 識 別 は精妙な対象物に関係する集中だ。第三番目の至 福 は、幸福の感情 ── 至福の
アスミター
感情が心を満たすことだ。私意識は、私意識つまり個人性への気づきだ。これらにおいて、第一番目の
サヴィタルカ・サマーディ
有 推 理 三 昧 (savitarka-smádhi)では、これら 4 つの(*集中)対象全てが存在している。第二番目の
サヴィチャーラ・サマーディ
サアーナンダ・サマーディ
ヴィタルカ
有 推 理 三 昧 (savichára-smádhi) は 、 推 理 か ら 解 放 さ れ て い る 。 第 三 番 目 の 有 至 福 三 昧
ヴィチャーラ
アスミター
マートラ
(sánanda-smádhi)は、 識 別 から解放されている。第四番目の私意識の形態つまり純粋な私意識は、
至福の感覚からも解放されている。集中のこれらの状態の全ては、集中された対象物を持っている。
」
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
「心の常習的一点集中状態の中で十分に達成された集中は、あらゆる苦悩の根源を除去する知識をもた
サムプラギャータ
ヨ ー ガ
らし、それは知識を伴うヨーガ(samprajðáta-yoga)と呼ばれる。そのような目覚めた知識を生み出す
サマーディ
それらの三 昧 または集中には、4 つの異なる区分が存在する。それらの集中対象がその相違を区分けし、
サヴィタルカ
ニルヴィタルカ
サヴィチャーラ
ニルヴィチャーラ
それらの集中対象に由来する知識の区分は、有推理と無 推 理 、有 識 別 と 無 識 別 等々であり、それら
は集中対象と集中する性質を基盤としている。
もし心の様態が、粗大な物体に関する対象の名前、対象自体、対象の知識の混合から成る、言葉の表
ヴィカルパ
ヴィタルカーンヴァイー
ヴィタルカ
現(vikalpa)が原因であれば、それはvitarkánvayæ つまり推 理 に属するものと呼ばれる。その物事は、
私たちの感覚器官により生じ、周囲の牛、壺、青、黄色などとして見られる、粗大な対象物だ。実際の
物事として、感覚器官によって音、色として現象し、それらが混合して、私たちの心にそれが一つの実
体として現れ知覚されるものが粗大な対象物である。たとえば牛は、私たちの感覚器官によって知覚さ
れるいくつかの特徴の複合であり、それが一つの実体として理解されるのだ。言葉を伴うそのような粗
サヴィタルカ
サマーディ
ヴィタルカ
大な事柄(*牛)が集中の対象となるとき、それは有推理-三 昧 と呼ばれ、そこにそのような推 理 が存在
ニルヴィタルカ
サマーディ
サマーディ
ヴィタルカ
しないとき、それは 無 推 理 - 三 昧 と呼ばれる。両方とも、 推 理 に関する高度な認識の伴う 三 昧
サムプラギャータ
サ ム
(samprajðáta-smádhi
プ ラ
ギャー
sam 伴う pra 高度な jðá 知ること)である。
粗大な対象に関する集中が熟達されたとき、集中状態の間に獲得された知識の助けによる心の分析の
サヴィチャーラ
サムプラギャータ
特別なプロセスによって、精妙な原理の完全な洞察が達成される。これが有 識 別 の高度な知識だ。分析
サヴィチャーラ
サマーディ
的思考は、言葉の助けなしには行なうことはできない。そういう理由で、有 識 別 -三 昧 もまた、その集
リアリティ
中対象が精妙ではあるが、対象の名前(言葉)、対象それ自体、対象の知識の複合による曖昧性(*実 在 そ
れ自体の知識ではない)によって特徴づけられる。瞑想的分析は、その対象の特別な形体を取る。その
ため、それは対象の粗大性には束縛されない。精妙な物事と精妙な知覚能力が、この集中の対象だ。そ
ヴィチャーラ
サヴィチャーラ
のような精妙な対象への集中が、識 別 つまり分析によって実現されるとき、それは有 識 別 と呼ばれる。
サヴィチャーラ
ニルヴィチャーラ
ヴィチャーラ
ヴィクリティ
有 識 別 と 無 識 別 は、 識 別 (分析)に関する集中だ。それは、瞑想的分析を通じて、私たちが v i k ì t i
つまり(プラクリティの)現象世界からプラクリティそれ自体(*非顕現)に到達するために通過しなけれ
ばならないプロセスだ。
アーナンダ
ヴィタルカ
ヴィチャーラ
至 福 への集中は、推 理 と 識 別 から解放されている。それは粗大や精妙な事柄に関係しない。この
サトヴィック
集中の対象つまり基盤は、ある特定の静寂状態による、心と感覚器官全てで感じる 純 質 な幸福の特別
な感情だ。身体は、心、感覚器官、行為器官、プラーナつまり生命力の容器だ。従ってその幸福の感覚
サトヴィック
サアーナンダ・サマーディ
は、まるで全身の平安または 純 質 な静寂の自然な感情のようだ。このように、有 至 福 三 昧 (心の至福
への集中)は、感覚器官つまり認識の器具と真に関係している。その平和つまり身体器官の非活動は、
サマーディ
アーナンダ
活動状態よりもより多くの幸福を与えることが、この三 昧 によって認識される。この至 福 を実現した
ヨーギは、このように自分の感覚器官を静寂にし、エネルギーを保存するのだ。
アーナンダ
特別なプラーナーヤーマ(呼吸の制御)や身体の活力部への集中を通じて、至 福 の感情が身体を満たす
アーナンダ
とき、その身体は静寂になる。もし集中がその感情だけを対象に実践されるとき、至 福 の感情は徐々に
サアーナンダ・サマーディ
ヴィタルカ
全ての感覚器官を包み込む。それが有 至 福 三 昧 の実践だ。そこには推 理 の場合のように、語られた言
アーナンダ
葉にはそれほど依存しない、なぜならそれは感情の事柄、感じられた至 福 の事柄だからだ。そこには、
ブ
ー
タ
タンマートラ
ヴィチャーラ
粗大要素から精妙素へと接近する事柄を考える必要は何もなく、 識 別 が支配する集中の基盤である精
ブ
ー
タ
アーナンダ
ヴィタルカ
ヴィチャーラ
妙な粗大要素の事柄さえも、考える必要はない。そういう理由で、至 福 へのこの集中は推 理 と 識 別 か
ら解放されているのだ。聖典は、不断の実践により外界の感覚対象の影響から感覚器官を自由にするこ
とから生じる幸福は、努力を通じて獲得したどんな天国や地上の事柄とも比較にはならない、と述べて
いる。
ヴィタルカ
ヴィチャーラ
推 理 と 識 別 の集中は、認識できる対象に依存し関連している。至福の感情を基盤にする集中は、認
プ
ル
シ
ャ
識器官に関連している、しかし純粋な私意識を基盤にする集中は、知る者(*純粋精神)と関連している。
後者(*純粋な私意識を基盤にする集中)は認識者のみに関連し、
『私は至福の認識者だ』のような観念で
あり、
『私』だけに関連し、それは至福の感触からは自由だ。それは至福の感情を超越した状態を暗示
サアーナンダ
しており、至福の感情の欠如ではない。平和(静寂)の性質は、至福よりもより深い状態だ。Sánandaディヤーナ
dhyána つまり至福の感情の伴う瞑想は、その基盤に幸福の感情や至福が知覚器官に浸透しているのだ。
サアーナンダ・サマーディ
私意識を基盤にした集中は、その集中対象が至福の感情ではなく、その受容者だ。これが有 至 福 三 昧 と
サ ア ス ミ タ ー サマーディ
プ
ル
シ
アスミター マートラ
ャ
有私意識 三 昧 の間の相違だ。純粋精神つまり純粋意識は、どんな集中の対象でもない。Asmitá-mátra
グラヒーター
つまり純粋な私意識は、この集中の対象だ。この私意識は、grahætá つまり認識する者と呼ばれる。そ
プ
ル
シ
ャ
サ ア ス ミ タ ー サマーディ
プ
ル
シ
ャ
れは純粋精神の助けを伴い顕現する。有私意識 三 昧 で集中する対象は、真の純粋精神ではなく、その模
エ
ゴ
マ
ハ
ッ
マ ハ ッ ト タットヴァ
ト
造品 ── 変化する自我または認識知性(*ブッディ)だ。サームキヤ哲学では、それは mahat-tattva
プ
ル
シ
ャ
ブ
ッ
デ
イ
と呼ばれている。それは純粋精神に模して形成される認識知性であり、『私は自身を知っている』の感
ブ
ッ
デ
イ
情であり、純粋意識と認識知性の間の同一化の感情だ。
ブ ッ デ ィ タットヴァ
ブ
ッ
デ
イ
Buddhi-tattva つまり認識知性の原理は、顕現する最初の現象だ。その知識は精妙ではあるが、知
プ
ル
シ
ャ
識の存在は知る者(*純粋精神)を暗示している。その知識が消滅するとき、つまり心が停止するとき、
エ
ゴ
プ
ル
シ
ャ
知る者と知られるものの関係性または自我は終焉し、純粋精神は自分自身に留まる。
ア ス ミ タ ー クレーシャ
プ
ル
シ
ャ
ブ
ッ
デ
イ
スートラの著者は、asmitá-kleùa (*私意識の苦悩)とは純粋精神と認識知性の同一化であると述べ
プ
ル
シ
ャ
ブ
ッ
デ
イ
ヴィヴェーカキャーティ
ている。純粋精神と認識知性の間には精妙な関係があり、 識 別 意 識 を通じてそれ(*私意識の苦悩)を
ブ
ッ
デ
イ
サ ア ス ミ タ ー サマーディ
除去するとき、認識知性は消滅する。そういう理由で、有私意識 三 昧 つまり純粋な私意識への集中は、
私感覚の原理、一般的慣習の『私』
、受容者の究極の認識なのだ。
サ
ム
プ
ラ
ギ
ャ
ー
タ サマーディ
高度な認識の伴う 三 昧 で、心は完全に停止するのではなく、部分的に停止しているのだ。そういう理
由で、集中の基盤(対象)が必要とされるのだ。」
スワミ・ハリハラーナンダ
ヴ ィ ラ ー マ プ ラ テ ャ ヤ
Ⅰ-18
ア ビ ャ ー サ プ ー ル ヴ ァ ハ
サムスカーラシェーシャハ
ア ニ ャ ハ
virámapratyaya abhyásapérvaë saóskáraùeøaë anyaë
チ ッ タ
ヴ ィ ラ ー マ プ ラ テ ャ ヤ
viráma 停止、休止、消滅 pratyaya citta(心)の内容
virámapratyaya
ア ビ ャ ー サ プ ー ル ヴ ァ ハ
abhyása 継続的実践 pérvaë 後に続く、上位の、先行する
abhyásapérvaë
サムス カーラシ ェー シ ャハ
saóskára 過去の潜在印象、潜在力 ùeøaë 残余、残留
saóskáraùeøaë
ア ニ ャ ハ
他の、もう一つの
anyaë
サマーディ
ア
ビ
ヤ
ー
サ
もう一つ(の 三 昧 )は、先行する継続的実践によって生じる心の消滅で、潜在印象のみが残存
する。
タ イプ
サマーディ
「 こ の 様式 の 三 昧 に 関 し て 、 知 識 人 た ち に よ っ て 誤 解 が 生 ま れ て い る 。 私 た ち は 、 ど の
サ
ム
プ
ラ
ギ
ャ
ー
タ サマーディ
う そう
アサムプラギャータサマーディ
高度な認識の伴う 三 昧 (*有想三昧)の深域でも、 無
アサムプラギャータサマーディ
えておくべきだ、そして 無
想 三 昧 の状態と混合していることを明瞭に憶
ニルビージャサマーディ
アサムプラギャータサマーディ
想 三 昧 は無種子 三 昧 ではない。 無
ニルビージャサマーディ
サマーディ
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
想 三 昧 は有種子 三 昧 の範疇に
サムプラギャータサマーディ
アサムプラギャータサマーディ
属している。無種子 三 昧 は至高の三 昧 であり、それだから 有 想 三 昧 と 無
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
ディヤーナ
想 三 昧 の両方は、
サマーディ
有種子 三 昧 の種類なのだ。霊的探究者が 瞑 想 の領域から離れて 三 昧 に入るとき、その特定の状態は
ヴィタルカサムプラギャータサマーディ
アサムプラギャータサマーディ
推 理 有 想 三 昧 と呼ばれる。それが完成するとき、次に 無
ヴィチャーラサムプラギャータサマーディ
想 三 昧 が続くだろう。その次の段階
アサムプラギャータサマーディ
は 識 別 有 想 三 昧 であり、それは再び 無
ア ス ミ タ ー サムプラギャータサマーディ
アーナンダ
ア ス ミ タ ー サマーディ
想 三 昧 へと進展する。至 福 と私意識 三 昧 も同様だ。
ニルビージャサマーディ
私意識 有 想 三 昧 は、最終的に無種子 三 昧 の絶頂に到達するのだ。
ヴィラーマ
プラティヤヤ
このスートラの、viráma は停止すること、または完全に停止させることを意味する。pratyaya は
心の内容だ。私たちの意識は集中の間何かを考えている。その保持(*集中)、それは粗大か精妙なある
オ ー ム
プ ラティ ヤヤ
象徴、または特定の観念であり、それらが心の内容と呼ばれるのだ。あなたが Aum を瞑想するとき、
オ ー ム
心にとて Aum の形態が心の内容だ。他の象徴も同様だ。至高の存在は無形なのだから、象徴は必要
ないことがしばしば論じられるが、それは個人が生み出す神学的、哲学的素朴な混乱だ。神や至高の存
在は形を持たないことは真実だが、探究者の心は瞑想のプロセスの間、何か心が定まる場所を持たねば
サムプラギャータサマーディ
アサムプラギャータサマーディ
ならないのだ。 有 想 三 昧 と 無
想 三 昧 の間の相違は、そのためにパタンジャリによって明瞭に
されているのだ。
ヴィラーマ
アサムプラギャータサマーディ
無
プラティヤヤ
想 三 昧 においては、どんな象徴(*対象)への気づきも存在しない。これは viráma pratyaya
アサムプラギャータサマーディ
と呼ばれ、象徴への気づきの停止だが、しかし単なる象徴への気づきの不在は 無
アサムプラギャータサマーディ
てはいない。 無
ヴィチャーラ
想 三 昧 を意味し
ラ
ヤ
ヴィタルカ
想 三 昧 は、その背後に意識の動的な状態が存在している。この消滅の状態は、推 理
ヴィチャーラ
サ ム ス カ ー ラ
アーナンダ
と 識 別 との間、識 別 と至 福 との間、その他にやって来るが、それらは過去の印象から自由ではない。
ラ
ヤ
サ ム ス カ ー ラ
その意識は静寂ではないが、しかし象徴は不在なのだ。消滅の状態の間でさえ、そこには過去の印象と
サ ム ス カ ー ラ
呼ばれる下層の活動力が存在しているのだ。その過去の印象が完全に終焉するとき、意識(*心の波)は
ニルビージャサマーディ
完全に消滅する。その状態が無種子 三 昧 だ、なぜならそこに意識(*心)は必要ないからだ。このように
アサムプラギャータ サマーディ
無
プ ラティ ヤヤ
想 三 昧 には、そこに二つの異なる特徴が存在している。一番目は心の内容の消滅、二番目は
サ ム ス カ ー ラ
過去の印象の存在だ。
ヴィタルカ
ヴィタルカサマーディ
ヴィチャーラ
この状態は実践によって先行される。実践は、推 理 、識 別 、その他の状態を含んでいる。推 理 三 昧
では、探究者は対象だけに気づいていて、他の気づきはない。この実践が継続するとき、この象徴の意
プ ラティ ヤヤ
ラ
ヤ
ラ
ヤ
識、心の内容もまた停止し、それが消滅の状態だ。この消滅の状態から、探究者は次の高度な段階へと
ダーラナー
上昇するか、または象徴の気づきの状態へと再び戻ることだろう。それはまた、探究者が集 中 または
ディヤーナ
アサムプラギャータ
瞑 想 の状態へと戻るかも知れないのだ。 無
ニ
ロ
ー
ダ
想 の状態は、心の止滅の状態と似ている。そこから、
探究者は意識の深い状態へと上昇するか、あるいは粗大な状態へと戻るかもしれない。これは非常に重
要だ。
ヴィタルカ
探究者が 推 理 の段階に没入するとき、個人的な意識的意志力は活動を停止し、その全ての活動は
サ ム ス カ ー ラ
過去の印象によって維持されることを心に銘記することは重要だ。それはつまり、その活動的意識(*
サ ム ス カ ー ラ
ダーラナー
ディヤーナ
ヴィクシェーパ
過去の印象)が探究者を前方へと導くのだ。この同じ活動的意識はまた、探究者を集 中 、瞑 想 、心の動揺
へも引き戻す。
サムス カーラ
Samskára という言葉は、潜在印象、眠っているまたは過去の印象と翻訳できるかもしれないが、し
サムス カーラ
たね
サムプラギャータサマーディ
かし正確な意味ではない。Samskára は意識(*心)の種であり、 有 想 三 昧 の状態で(*その種は)顕
ニルビージャサマーディ
ニルビージャサマーディ
現する。その状態の後でそれは終焉し、無種子 三 昧 を生じさせる。無種子 三 昧 はある状態などでは全
くない。それは気づきの欠如した、意識(*心)の欠如した状態だ。ヨーガによれば、意識または気づき
ニルビージャサマーディ
は、(*心の)動きや波動の形態を取るが、無種子 三 昧 は(*心の)動きや波動の状態ではない。それは静寂
アサムプラギャータサマーディ
を伴うのだ。このように、このスートラによれば 無
ア
ビ
ヤ
ー
サ ム ス カ ー ラ
想 三 昧 は、過去の印象だけがそこに留まり、
サ
継続的実践により気づきの対象は消滅する。
サマーディ
三 昧 を実践せず、知的にのみ観察する学者たちの間に広く行き渡っている混乱は、明瞭にさせる必要
サ ム ス カ ー ラ
がある。その混乱は、(*三昧の)対象意識、過去の印象は、最終的には消滅するという信念の中にある
のだか、しかし実際にはそうではない。対象の意識は完全には消滅しないのだ。それは私たちの過去の
体験領域だけが変化するのだ。私たちはいつも、それらの領域を通じてその象徴を体験するが、実践を
通じて過去の体験領域が消滅するとき、対象が明瞭に見えるのだ。
ヴィタルカ
ダーラナー
ヴィチャーラ
このことが、推 理 から 識 別 、その他へと通過する実践者に生じる。集 中 では、その対象が粗大な
パターン
ディヤーナ
パターン
ヴィタルカサマーディ
意識の定型化された様式で現れる。瞑 想 では、そこに意識が集中した様式が現れる。推 理 三 昧 では、
パターン
ヴィチャーラサマーディ
そこに意識の超心理的(supramental)様式が現れる。 識 別 三 昧 では、静観熟視する(contemplative)
パターン
アーナンダサマーディ
パターン
プ ラティ ヤヤ
様式となる。至 福 三 昧 では、それは至福の様式となる、などなどだ、しかし心の内容(*潜在している
ヴィラーマ
プ ラティ ヤヤ
過去の印象)は最後まで残存するのだ。その心の内容は一時的に消滅し、それは viráma と呼ばれる。
アサムプラギャータサマーディ
無
プ ラティ ヤヤ
想 三 昧 では、心の内容あるいは象徴への気づきは消滅するが、それは一時的だ。それはまたそ
れ自体を復活させるが、しかしその気づきは同じ状態ではない。その気づきの状態は、より深いかより
アサムプラギャータサマーディ
粗大であることだろう。 無
想 三 昧 は永続的な状態ではない。それは中間的な状態であり、その中
で意識は異なる領域へと超越しつつあるのだ。それはまるで、自動車から降りて飛行機に乗るようなも
のだ。それは、一つの領域から別の領域へと進んでいく、一時的な時間なのだ。私たちのほとんどが体
アサムプラギャータサマーディ
験する、 無
ヴィタルカ
想 三 昧 の段階と同様に推 理 やその他の段階があるが、その唯一の困難はそれらの段階
が不安定であることだ。それらは変化して行くのだ。そういう理由で、その対象や象徴が何であれ ─
─ 十字架、シヴァリンガ、またはどんな対象であれ、私たちは決して実践を停止するべきではないの
アサムプラギャータサマーディ
だ。私たちは、継続した実践を通じて、ついには 無
想 三 昧 のより深い状態に到達するまで前進し
ようとするべきだ、しかしそれは実際、極度に困難なことでもある。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
バ ヴ ァ プ ラ テ ィ ャ ヨ ー
ヴ ィ デ ー ハ プ ラ ク リ テ ィ ラ ヤ ー ナ ー ム
Ⅰ- 19 bhavapratyayo videhaprakìtilayánám
バ ヴ ァ プ ラ テ ィ ャ ヨ ー
bhavapratyayo bhava 再誕生の原因となる精妙な潜在的無知 pratyayo 原因、手段
ヴ ィ デ ー ハ プ ラ ク リ テ ィ ラ ヤ ー ナ ー ム
videhaprakìtilayánám videha 肉体を離脱した(ヨーギ)
prakìti 根本原質 layánám 没入した、溶解した(ヨーギ)
プ ラ ク リ テ ィ
アサムプラギャータ・サマーディ
肉体を離脱したヨーギ(神霊)たちや根本原質 に没入したヨーギたちの( 無 想 三 昧 は)、
(精妙な無知が残存するため)再誕生の原因となる。
デーヴァ
「肉体を離脱したヨーギ(神霊): ヨーギが集中を通じて、粗大要素の真の性質を理解するとき、自身
の探究を放棄して喜び、その放棄を至高の達成であると考え、視覚、音、その他を完全に遮断し無視し
て、感覚器官とその対象物との接触を停止する、なぜなら感覚器官はその対象物との接触なしには顕現
できないからだ。このように感覚対象との全ての接触を停止し、心の平静を獲得したヨーギたちは、自
分の肉体を放棄するとき、自身の感覚器官を構成要素に分解し、対象の無い集中状態を獲得する、この
ようにして限られた期間、彼らの潜在意識の強度によって、カイヴァリャつまり解脱と類似した状態を
楽しむ。
プ
ル
シ
ャ
・・・至高の純粋精神を悟らず、肉体を離脱したヨーギたちは、究極の真理への無知の萌芽を持ち運ぶ、
こうして彼らは再び誕生し、永久の平和を獲得することに失敗するのだ。
プラクリティラヤ
アーチャーリヤ
プ ラクリ ティ
ヴァイラーギャート
Prakìtilaya : 原初の構成原理である根本原質 への没入。ガウダパーダ 導 師 の「 Vairágyát
プラクリティラヤハ
Prakìtilayaë」(離欲を通じた構成要素原理への没入)という表現によれば、離欲を実践しても、構成要
プ ラ ダ ー ナ
ブ
ッ
デ
ィ
素原理の知識を獲得しなければ、その無知のために、そのヨーギたちの死後、根本原質、認識知性、
ア ハムカ ーラ
タンマートラ
自我意識、五つの素粒子の中の一つ、または主要原理に没入する。
」
スワミ・ハリハラーナンダ
サマーディ
「一般に、三 昧 は信仰を通じ、勇気、記憶、知性の高度な形態によって達成される。これらの異なる
サマーディ
方法を通じ、適用と推進の強化により、実践者は遅かれ早かれ三 昧 を達成する。しかし、私たちは何も
サマーディ
実践せずに三 昧 の状態に非常に簡単に到達する、多くの人々を見出す。それは、誕生したとき、彼らは
自分の過去のカルマのあらゆる痕跡を獲得しているためだ。このように、非常に若い時代に低い意識の
障害を超越する人物たちの例が存在するのだ。たとえば、偉大な聖者ギャネーシュワル、同様に、アル
サマーディ
ナチャラのラマナ・マハリシだ、彼らは 10 代のとき三 昧 を達成した。このスートラで、パタンジャリ
プ ラクリ ティ
は二種類のヨーギについて述べていて、彼らは肉体を離脱した者、そして根本原質に没入した者であり、
アサムプラギャータサマーディ
誕生のときから 無
ダーラナー
んな準備段階も実践する必要がないのだ。
」
サマーディ
ディヤーナ
ヴィタルカ
ヴィチャーラ
想 三 昧 を実現する。彼らは、集 中 、瞑 想 、あるいは推 理 や 識 別 その他のど
サビージャ
ニルビージャ サマーディ
スワミ・サッティヤーナンダ
サ ー ダ カ
「この三 昧 は、有種子と無種子 三 昧 の中間状態であり、修行者はあらゆる心の動揺から解放される
が、潜在印象、サムスカーラは、彼がその状態から離れた瞬間に顕現する。ある進化した存在たちは、
スピリット
エンジェル
プ ラクリ ティ
精 霊 たちや天 使 たちとして、身体なしに動き、他の存在たちは自然の要素、根本原質の中に没入する。
身体なしの感覚の網に捕らえられ、自然に没入した彼らは、霊性の梯子の最上段に上ることを忘れ、
ニルビージャ サマーディ
サ ー ダ カ
カイヴアリャ
無種子 三 昧 への到達に失敗する。解脱ではなく、孤立の状態に到達した修行者は、解 脱 の道を見失わ
ないために、その状態から脱出しなければならない。」
B.K.S.アイアンガー
シ ュ ラ ッ ダ ー
ヴィーリャ
スムリティ
サ マ ー デ ィ プ ラ ギ ャ ー
プ ー ル ヴ ァ カ
イタレーシャーム
Ⅰ- 20 ùraddhá værya smìti samádhiprajðá pérvaka itareøám
シ ュ ラ ッ ダ ー
ヴィーリャ
スムリティ
ùraddhá 信仰、堅い確信
værya 努力、強い意志
smìti 瞑想対象の記憶、認識の記憶
サ マ ー デ ィ プ ラ ギ ャ ー
samádhiprajðá samádhi (有想)三昧、高度な集中 prajðá 知識、認識
プ ー ル ヴ ァ カ
イタレーシャーム
pérvaka ~を通じて、~によって
itareøám 他のヨーギたちは
サムプラギャータ
サマーディ
他のヨーギたちは、真の信仰、不屈の努力、瞑想対象の記憶、( 有 想 )三昧で得た高
アサムプラギャータ・サマーディ
度な知識によって( 無 想 三 昧 は実現する)。
ヴィデーハ
プラクリティラヤ
「私たちがすでに学んだように、videha とPrakìtilaya と呼ばれる二種類のヨーギたちが存在し、
サマーディ
彼らは誕生のときから三 昧 を達成するが、そのようなヨーギたちは稀だ。探究者たちのほとんどは、異
なる技法の規則的な実践を通じて進まなければならない、それがこのスートラに述べられているのだ。
シュラト
シ ュ ラ ッ ダ ー
ダ ー
ùraddhá という言葉は、二つの部分で構成されており、 ù rat は「真実」を意味し、dhá は「保持
シ ュ ラ ッ ダ ー
すること」を意味している。だから ùraddhá は「真実を保持すること」を意味するのだ。信仰(faith)
シ ュ ラ ッ ダ ー
という言葉はたぶん ùraddhá という言葉の正確な翻訳ではないだろう。信仰は普通盲目であり、信念
シ ュ ラ ッ ダ ー
シ ュ ラ ッ ダ ー
はいつも断固たるものだが、ùraddhá はそうではなく、真実を理解した後でのみやって来る。ùraddhá
は、真実の体験から生じるのだ。信念はいつも他の人々から学ぶのだ。それは真実の悟りの結果ではな
シ ュ ラ ッ ダ ー
シ ュ ラ ッ ダ ー
い、しかし ùraddhá は決して間違わない。ùraddhá は、ヨーガの探究者に要求される、第一番目の
シ ュ ラ ッ ダ ー
いちべつ
必須の原理だ。それは単なる信念とは異なる。ùraddhá は、真実を一瞥した後でのみ獲得できるのだ、
グ
ル
ちょうどスワミ・ヴィヴェーカーナンダやスワミ・ヨーガナンダが、彼らの聖師と接触したときに真実
いちべつ
いちべつ
の一瞥を獲得したようにだ。しかしそれは真実の全てではなく、ただの一瞥だけだ。それはヨーガの道
グ
ル
サマーディ
の単なる始まりなのだ。聖師は、彼自身の力を通じて真実あるいは三 昧 の体験を弟子の内部に生じさせ
シ ュ ラ ッ ダ ー
る、それにより ùraddhá が生まれるのだ。
ヴィーリャ
サマーディ
次に必須の性質は、værya と呼ばれ、心と同様に肉体のエネルギーだ。三 昧 に関連して、それは私
たちがヨーガの道での多くの障害を克服していく勇気を意味している。それは強い意志と決意を含んで
いる。探究者は、どんな犠牲を払っても自身の道を継続させなければならない。心は正しく制御され、
リ
シ
制御された心は勇気、エネルギーに満ちている。ヴェーダの中には、見者が勇気とエネルギーを獲得す
ヴィーリャ
オージャス
るために、værya と o j a s (*身体組織のエッセンス)を求める祈りがあるのだ。
スムリティ
ディヤーナ
第三番目の要因は、記憶だ。smìti という言葉は、ここでは実際には 瞑 想 を意味し、その中で探究
スムリティ
者は象徴を記憶する。 smìti を通じて、私たちは意識の覚醒を顕在意識の領域へと導くことができる
のだ。
サ マ ー デ ィ プ ラ ギ ャ ー
アサムプラギャータサマーディ
次に私たちは、samádhiprajðá に直面する。これは 無
想 三 昧 の実現にとって、非常に重要だ。
サムプラギャータサマーディ
ヨーガによれば、知性には二種類ある。日々の生活に成功するための世間的知性、そして 有 想 三 昧
の結果として発展する意識の高度な種類としての知性だ。この種の知性は私たちのほとんどの内部には
存在していないが、それは規則的実践を通じて発展させることができる。それがひとたび発展すれば、
探究者は非常に短期間に、途轍もない進歩を達成する。それは、霊的洞察力の特別な、有利な視点とし
て描写できるだろう。それは霊的覚醒を意味しているのだ。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、内部にこの能力を持っていた、それにより彼は、自身の内部に宗
教、神、人間の運命、その他に関する様々な対立する観念があったにもかかわらず、非常に迅速な霊的
サ マ ー デ ィ プ ラ ギ ャ ー
進歩を実現できたのだ。だから、この samádhiprajðá は特別な能力なのだ。それは、探究者が継続
的サトサンガ(*聖なる集結)によって、継続的自己浄化によって発展する、霊的態度あるいは霊的洞察
力なのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
ティーヴラサムヴェーガーナーム
Ⅰ- 21
ア ー サ ン ナ ハ
tævrasaóvegánám ásannaë
ティーヴラサムヴェーガーナーム
tævrasaóvegánám tævra 強い、極度な、激しい saóvegánám 熱望、真剣、精力
ア ー サ ン ナ ハ
ásannaë 極めて近くに、間近に、速やかに
アサムプラギャータ・サマーディ
強い熱意で精力的に修行する者には、( 無 想 三 昧 の)実現が極めて早い。
サムヴェーガ
「Saóvega という言葉は、ヨーガの科学の専門用語だ。私たちはその言葉を仏教経典にもまた見出
す。それは無執着を意味するばかりではなく、献身的実践における崇拝の感情を伴う性質をも意味し、
その結果その性質は(*実践者を)前方へと駆り立てる。それはまるで、あなたの前進のための勢いの集
結のようだ。無執着の潜在印象を賦与され、十分に熱心で精力的であれば、探究者が継続的に解脱の道
の達成のために熱心に従うとき、彼は前進する勢いを獲得するのだ。
」
スワミ・ハリハラーナンダ
サマーディ
「このスートラの一般的意味は、努力を通じて達成可能な 三 昧 は、速度か熱望が強い人々に極
サーダナ
めて容易であることだ。同じ種類の修行を実践する探究者たちの中で、ある人は迅速に目的地に
到達し、他の人々は長引くことが観察される。速度の速さは、探究者の熱意と誠実さに依存する。
熱意とは心理的な姿勢だ。それは、主ヴィシュヌの偉大な信者、ドゥルヴァによって実証されたの
と同様の熱烈さであるべきだ。ドゥルヴァは、彼の誠実さと激しい熱望により、神に到達した。同
サーダナ
様に、探究者はこれらの心理的性質を持たなければならない。熱意とは、厳しいまたは困難な修行
サーダナ
サムヴェーガ
を意味してはいない。たとえ最も簡単な修行であっても、あなたが激しい 熱 望 を持っていれば、
サーダナ
その修行は覚醒の最も近いところへと導くことが可能だ。スピードの迅速さもまた、短気(不忍耐)
と混同してはならない。それは激しい熱望とは非常に異なるものだ。パタンジャリは、熱心な人々
サマーディ
は、 三 昧 に非常に接近していることを表明しているのだ。」
スワミ・サッテイヤーナンダ
「このスートラ(*節)と次の節は、ヨーギが自身の目的地に向かって進歩して行く速度の、主要な要
因を定義しています。第一番目の要因は熱意の度合いです。実践者が、自身の探究対象に到達したいと
いう欲求が熱烈であればある程、彼の進歩もより迅速になります。努力のどんな分野の進歩においても、
熱意によって大きく決定されます。欲求の激しさは、全ての心理的能力に極性を与え、探究者の目的実
現への大きな助けとなるのです。ヨーガの進歩において、はるかに大きな度合いで探究者の熱意に依存
するのは、この理由によるものです。外的世界の進歩に関係する場合には、欲求の度合いと進歩が必ず
しも同じではないかもしれません。しかしヨーガの目的に関しては、変化は全てヨーギ自身の意識の内
部に含まれており、その障害は多かれ少なかれ(*ヨーギの)主体的性質であり、自身の内部に制限され
ているのです。そういう理由で、ヨーギの進歩は外的状況にはほとんど依存せず、上述のように彼の心
の制御は、内的な状況により従うのです。大志を抱く人が、もし力と影響を与える地位に昇りたいなら
ば、多数の人々の心と態度に影響を与えなければなりません、しかしヨーギはたった一つの心 ── 自
身の心だけを扱うのです。それは他人の熱心な心よりも、自身の熱心な心を扱う方がはるかに簡単です。
ヨーギと彼の目的(*解脱)の間には、自身の欲望と弱さ以外には何も存在せず、それらは熱意ある修行
者には簡単に迅速に除去されます。なぜなら、それらはたいてい主体(*修行者自身)の性質であり、た
だ理解と態度の変化だけが要求されるからです。
」
I.K.タイムニ
ム ル ド ゥ
マ
デ
ィ
ャ
アディマートラトヴァート
タ
ト
ー
ピ
ヴィシェーシャハ
Ⅰ- 22 mìdu madhya adhimátratvát tato’pi viùeøaë
ム ル ド ゥ
マ
デ
ィ
ャ
ア デ ィ マート ラ ト ヴァ ー ト
mìdu 温和な、穏やかな
madhya 中庸の、中位の
タ ト ー ピ
tato’pi (tatah+api) それ(速やかさ)においてもまた
adhimátratvát 強烈な、熱烈な
ヴィシェ ーシャハ
viùeøaë 差異がある、差別がある
アサムプラギャータ・サマーディ
(強い熱意と精力には)温和と中庸と熱烈とがあり、( 無 想 三 昧 実現の時間的)早さ
にもまた差異がある。
サーットヴィカ
シュラッダー
シュラッダー
「集中実践のための主要手段として確立された Sáttvika Ùraddhá または Ùraddhá(崇敬なる信
仰)は、最も迅速な方法だ。それはエネルギーに関しても同様だ。エネルギーの最も強力な形態は、他
の全ての探究を停止し、心の集中に専心することだ。実体や神などの原理への継続的記憶(知識)は、知
サムプラギャータサマーディ
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
ニルビージャサマーディ
識の最高の形態だ。集中においては、有 想 三 昧 は有種子 三 昧 の中で最高の形態であり、無種子 三 昧
アサムプラギャータサマーディ
の中では 無
カイヴァリャ
カイヴァリャ
想 三 昧 が最高だ。これらは 独 存 つまり解脱に到達する最高の手段であり、 独 存 は
集中の第一位の対象なのだ。
」
スワミ・ハリハラーナンダ
ステージ
「このスートラは、熱意が増大して行く強力な段階が述べられている。それらはそれぞれ、温和、中
庸、極度な強さと呼ばれている。多くの探究者たちは、最初は非常に熱中するが、しかし彼らの探究心
サーダナ
はむしろ虚弱だ、そのため彼らは自身の修行を長期間実践しても、期待できるその結果を得られない
のだ。やがて彼らの興味は失われ、彼らが最初に抱いていた情熱とエネルギーは消失する。彼らは
その段階では、それほどの希望もなく実践を継続することだろう。彼らが熱意の温和な強さの例だ。
タイプ
サーダナ
探究者たちの中庸の類型は、熱心なことは疑いもないが、しかし彼らは厳しい修行を通じて迅速に
アディマートラ
サマーディ
三 昧 に到達する準備ができていない。熱意の adhimátra(熱烈)は希有なことだが、もしそれがそ
こにあれば、熱烈さは探究者を一挙に目的達成へと集中させ、探究者は目的を達成するまで休息し
ないのだ。
サーダナ
探究者たちのこれら三つの段階は、彼らの熱意の強さによって、三つの異なる修行を行う。一般
的に、霊性の修行法を与える教師たちは、探究者たちの熱意を判断し、それによって探究者たちを
サーダナ
グ
ル
指導するのだ。良き探究者は、最初に高度な修行を要求するべきではない。彼は自分の聖師から授
サーダナ
サーダナ
与された修行が何であれ、熱意を持って実践するべきだ、なぜなら、実際、最初に行うべき修行に
サーダナ
は、高度か低度かの相違する修行などないからだ。より重要なことは、その熱意なのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「ヨーギの進歩の速度を決定する他の要因は、ヨーギが目的の探究に採用する手段の性質です。
アヴィディヤー
パタンジャリのアシュターンガ・ヨーガ(*ヨーガの八部門)は、人間の意識が 無 知 の限定から自
己覚醒を得て解放される間に従うべき、全体的方法の広範囲な原理だけを指摘しています。この体
系において、十分に洗練された技法が、この目的を達成するために提供されてきたことは事実です
が、この技法の異なる部分は厳正ではなく、実践者個人の必要性、性格、有用性に適応させるため
の十分に融通の効く技法なのです。
・・・パタンジャリの体系の価値は、それらに秘められた、偉
大な神秘を解明する目的を分かち合う、異なる種類の探究者たちの必要性に役立ち、その目的を達
成するための必要な努力と献身を生み出す準備が、その体系の融通性と範囲に設けられていること
です。」
I.K.タイムニ
Ⅰ-23
イーシュヴァラ
プ ラ ニ ダ ー ナ ー ド ヴ ァ ー
Æùvara praîidhánádvá
イーシュヴァラ
Æùvara 至高神、最高人格神、自在神
プ ラ ニ ダ ー ナ ー ド ヴ ァ ー
praîidhánádvá praîidhána 完全な帰依、信仰、祈念、瞑想 advá あるいは~によって
イーシュヴァラ
アサムプラギャータ・サマーディ
あるいは至 高 神 への完全な帰依によって(も 無 想 三 昧 は実現する)。
イーシュヴァラ
「一般的に Æùvara は、神と言う言葉で翻訳されるが、しかし神は私たちにとって、ある人格ではな
く、超越した霊性意識を意味するべきだ。それは肉体でも心でもなく、純粋な霊性だ。もし探究者が、
信仰(*真理への信仰)、精力的努力、その他の段階を通じた実践の不可能を体験するなら、そのときに
彼は、至高の目的地への到達のための他の手段を用いることができるだろう、それは主(神)への強烈な
サマーディ
信仰だ。あるヨーギたちは誕生(*前世の優れたカルマ)により 三 昧 を達成し、他のヨーギたちは、目
的達成のためには、強力で熱心な努力を行うべきだ。多くの探究者たちが要求される努力を行うこ
とができない、なぜなら彼らにはその必要不可欠な能力が欠けているからだ。しかし彼らにとって
希望はある。パタンジャリは、目的地に到達するための等しく確実な道として、神への強烈な信仰
を推奨しているのだ。
ヴァー
プ ラ ニ ダ ー ナ
このスートラの v á という言葉は、選択自由な方法を暗示している。Praîidhána という言葉
す
は、完全に、絶対に、徹底的に据えること(placing)を意味している。それは探究者自身の気づき、
イーシュヴァラ
す
心、想念と意識を、完全に至 高 神 に据えることだ。
このスートラは、異なる解説者たちにより、異なる方法で説明されてきた。たとえば、このスー
サマーディ
サマーディ
トラの意味は、三 昧 は神への自己献身によって獲得される、あるいは、三 昧 は主(神)への心の集
中により獲得される、などと述べられている。ある人は、それは神へ据えられた気づきである、と
述べている。このスートラを正しく理解するためには、私たちは神の明瞭な概念を持たなければな
らない。あらゆる異なる宗教において、その言葉(*神)は異なって用いられている。いくつかの宗
教は、人格神を信じ、いくつかの宗教は神を宇宙の支配者、または創造者と見ている。ある人々は、
そこに神は存在しないが、宇宙意識だけが存在すると感じている。私たちはこの関連において、ヨ
ーガ哲学はサームキヤ哲学、無神論学説の支脈であることに注目しなければならない。同様に、仏
教にも神は存在しない。
ここでパタンジャリが、彼の哲学的見解をサームキヤ哲学から取り上げ、神と神への信仰につい
て語るのは、実に不思議なことだ。たぶん彼は、人類の霊的幸福のために、主(神)の概念を使用し
たのだ。ヨーガ教師はもし自身が無神論者であったとしても、無神論を教えるべきではない、なぜ
なら世界のあらゆる国々の一般的人々は、神の概念の中で大きな慰めを見出すからだ。パタンジャ
リは、サームキヤ哲学の無神論が適応しないことを十分に知っていて、神の概念をヨーガ・スート
ラの中に持ち込まなければならなかったのだ、なぜならパタンジャリは、自身のヨーガの主要目的
は、人類へ人生の実践的方法を与えることだと知っていたからだ、その方法により人間は、自身の
信念、限界、想定に適応する霊的道程の進歩を実現するのだ。パタンジャリは、霊的教師が初心者
を指導している間、教師自身の体験を持ち込むべきではないことに十分気づいていた、そういう理
由で、パタンジャリは神の概念を自身の哲学の中に受け入れなければならなかったのだ、しかし彼
自身は無神論者だったに違いない。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
クレーシャ
カ
ル
マ
ヴ ィ パ ー カ
アーシャヤイヒ
アパラームリシュタハ
プルシャヴィシェーシャ
イーシュヴァラハ
Ⅰ-24 kleùa karma vipáka áùayaië aparámìøôaë puruøaviùeøa Æùvaraë
クレーシャ
カ
苦悩、苦痛、苦悩の原因
kleùa
ル
マ
karma
アーシャヤイヒ
ヴ ィ パ ー カ
行為
(行為の)結果、結実
vipáka
áùayaië 過去の行為の印象の蓄積、潜在している欲望
ア パ ラ ー ムリ シ ュタ ハ
aparámìøôaë 汚されていない、無傷の、影響されない
イーシュヴァラ ハ
イーシュヴァラ
Æùvaraë 至 高 神
プ
プルシャヴィシェーシャ
ル
シ
ャ
puruøaviùeøa 特別な純粋精神
カルマ
イーシュヴァラ
至高神とは、苦悩、行為、行為の結果、過去の行為の潜在印象に影響されない、特別な
プ
ル
シ
ャ
純粋精神である。
イーシュヴァラ
「神(至 高 神 )の性質がこのスートラで明瞭にされて来た。パタンジャリは人格神を信じていない。彼
アイデア
カ ルマ
の神の概念は、行為とその結果とのどんな関係からも完全に自由な、とても純粋な霊的意識だ。このス
サ
ー
ダ
ナ
ートラの理解には、インドの霊的修行の根本精神の明瞭な理解が必要とされるだろう。ラージャ・ヨー
サ
ー
ダ
ナ
ガ、ハタ・ヨーガ、マントラ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、ラヤ・ヨーガ、タントラなど、インドの霊的修行
リアリティ
に含まれるヨーガの様々な方法があるが、その根本基盤は至高の実 在 への帰依だ。それは一般信徒にと
って真実であり、高度に知的なインド哲学者たちにとっても等しく真実だ。
人間個人は、その人が自身の限定に気づくときにのみ、神に帰依できる。人間は自身の限定を知ると
き、道に迷わされずに、神に完全に帰依するだろう。人間が何か重要な性質を持っていると信じている
バ
ク
タ
バクティ
限り、真の信仰者にはなれない。信仰は、あなたが自身を真に知るとき、あなたが自身の性質を知り、
それを確信するときに開始する。人間は弱いが、無知を通じて、自身が強く有能だと考える。イーシュ
ヴァラ・プラニダーナ(至高神への帰依)は、寺院に行くことだけを意味してはいない。それは、実に長
時間に及ぶ自己分析の継続的プロセスによる、完全な帰依を要求するのだ。
サ
ー
ダ
ナ
イーシュヴァラ・プラニダーナに加えて、探究者は別の霊的修行も実践しなければならない。神への
帰依は、覚醒への最速の方法の一つだ。イーシュヴァラは、5 つの苦悩、3 種類の行為、3 種類の行為
カ ルマ
たね
プ
ル
シ
ャ
ラ ーガ
の結果、行為の種によって影響されない特別な純粋精神だ。5 つの苦悩とは、無知、私感覚(*自我)、愛着、
イーシュヴァラ
ドヴェーシャ
嫌 悪 、死の恐れだ。これらの苦悩は全ての人の心に根を下ろしているが、神(* 至 高 神 )はそれらから
カ ルマ
は自由だ。行為つまりカルマは 3 種類であり、善、悪、そしてそれらの混合だ。それらの行為は、寿命、
楽しみ、誕生の種類(*生まれた場所や種類)などの、良い結果、悪い結果、混合の結果を獲得する。神
はこれらの側面の全てから自由なのだ。
カ ルマ
私たちが好ましい、または好ましくない環境に誕生するのは、私たちの過去の行為によるものだ。私
カ ルマ
たちの健康、楽しみ、心の発展、寿命は、私たちの過去の行為の結果だ。これらに加え、私たちは自身
の行為の新しい痕跡を蓄積して行く。このように、その痕跡の貯蔵所はカルマーシャヤと呼ばれ、増大
し続け、私たちは来世においてその善か悪の結果を享受しなければならないのだ。神は、このカルマー
シャヤから完全に自由だ。
プ
ル
シ
イーシュヴァラ
ャ
サームキヤ哲学によれば、宇宙内には多くの純粋精神たちが存在し、至 高 神 はそれらの中で最も上位
の存在だ。まるで国王のように、彼は他の人類のように人類ではあるが、支配者である徳目により特別
イーシュヴァラ
プ
ル
シ
ャ
な身分であるように、同様に神(至 高 神 )は、他の純粋精神たちのように束縛される側面から完全に自由
プ
ル
シ
ャ
プ
ル
シ
ャ
プ ラクリ ティ
プ ラクリ ティ
な、特別な純粋精神なのだ。他の純粋精神たちもまた生来は根本原質から自由なのだが、彼らは根本原質
イーシュヴァラ
と関係し、そしてこの関係により、様々な誕生や再誕生を通じて進むのだ。 至 高 神 は永遠に自由だ。
プルシャヴィシェーシャ
特別な純粋精神は、上述の事柄を超越した特別の意識状態ではあるが、この地上の全ての人類の内部に
プルシャヴィシェーシャ
それ自身を顕現する。その理由で全ての人間は、特別な純粋精神である至高の存在に到達することが可
イーシュヴァラ
能ではあるが、探究者は至 高 神 の直接的概念か体験を得なければならない、なぜなら私たちが普通に所
持する知的概念では不十分だからだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
Ⅰ-25
タ ト ラ
ニ ラ テ ィ シ ャ ヤ ム
サルヴァギャービージャム
tatra niratiùayaó sarvajðabæjam
タ ト ラ
イーシュヴァラ
ニ ラ テ ィ シ ャ ヤ ム
そこに、その中に、至 高 神 に
tatra
卓絶した、無限の、最高の
niratiùayaó
サルヴァギャービージャム
sarvajðabæjam
sarvajða 全知、全ての知識 bæjam 種子、原因、源泉
イーシュヴァラ
至高神には、全ての知識の無限の源泉がある。
イーシュヴァラ
イーシュヴァラ
たね
「ヨーガで成功するために、至 高 神 に服従しなければならない最も重要な理由は、至 高 神 が全知の種
を含有しているからだ。種は、播かれると時間と共に植物へと成長し、実を結ぶ実体だ。それゆえ、私
イーシュヴァラ
たちが至 高 神 の前に帰依するとき、それは私たちの内部の全知の種の場所に心を位置付けることになる
のだ。そのような知識が実現するとき、私たちが通常持っている誤った自己理解は破壊され、ヨーガの
目的地へと到達する。知性と知識は、パタンジャリにとって、本質的に真の自己の特徴であるため、全
イーシュヴァラ
知の種は、無限定の知識の妨害を除去する、身体的、心理的浄化の種以外の何ものでもないのだ。至 高 神
はこのように、ヨーガの究極的促進者なのだ。」
シャーム・ランガナタン
イーシュヴァラ
たね
「至 高 神 は、人間の至高の顕現された意識だ。その中に、全ての知識の種が存在する。私たちの内部
サマーディ
プ
ル
シ
ャ
の聖なる究極の意識地点は三 昧 だ。私たちはすでに、純粋精神は進化の道程での意識の顕現であること
プ
ル
シ
ャ
を理解した、そしてこの宇宙内には無限数の純粋精神が存在するため、この進化の道程には無限の段階
が存在するのだ。私たちが人生の異なる体験を享受するとき、外界への私たちの意識は、ヴェーダーン
プ
ル
シ
ャ
タにおいて、ヴァイシュヴァーナラ・プルシャ(*目覚めている状態の純粋精神)と述べられている。夢
の状態の意識は、テージョーマヤ・プルシャと呼ばれている。熟睡中では、それはプラギャー・プルシ
イーシュヴァラ
プ
ル
シ
ャ
プ
ル
シ
ャ
ャと呼ばれる。神(* 至 高 神 )は、無限数の純粋精神を統括する、至高の純粋精神なのだ。
プ
ル
シ
ャ
スピリット
純粋精神は、一般に考えられている精 神 を実際には意味してはいない、それは意識の特別な顕現を意
プ
ル
シ
ャ
イーシュヴァラ
味するべきだ。至高の純粋精神は至 高 神 だ。彼は顕現する領域には存在せず、物事の非顕現領域(アヴ
ィヤクタ)に存在している。それは、パラブラフマンと呼ばれ、超越した存在だ。その内部に、無制限
サルヴァギャー
の知識の種が存在している。それは sarvajða(*全知)と呼ばれている、なぜならその領域の外部には宇
宙は存在しないからだ。
進化の至高の状態は、無限定の知識を内含している。それは全ての知識だが、その知識は外部から獲
イーシュヴァラ
得されたものではない。至 高 神 はその知識として顕現する、意識の至高の状態に到達した探究者は、全
ての知識と接触する、しかしその全ての知識は感覚的知識へと降下させる必要はない。普通の生活にお
いて、誰もがその知識の痕跡だけを示すのだ。」
スワミ・サッティヤーナンダ
「心はつねに、両極端の間を動かなければならない。あなたは有限の空間を考えることができる。し
かしまさにその観念があなたに、無限の空間をも与えるのだ。目を閉じて小さな空間を考えてみよ。そ
サークル
サークル
の 円 を認めると同時に、あなたはそれの周りに無限次元の一つの 円 を持つであろう。時間について
も同じこと、一秒を考えてみよ。同じ認識行為を持って、無限の時間を思わざるを得ないであろう。知
識についても同じことである。人の持つ知識は胚芽に過ぎない。しかしあなたはそれの周りに、無限の
知識を思わずにはいられないだろう。まさにわれわれの心の構造そのものが、無限の知識があることを
イーシュヴァラ
われわれに示しているのだ。そしてヨーギーたちは、その無限の知識を神(* 至 高 神 )と呼んでいる。」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
Ⅰ-26
サ
サ
プールヴェーシャーマピ
グ
ル
フ
カーレーナーナヴァッチェーダート
sa eøa pérveøámapi guruë kálenánavacchedát
イーシュヴァラ
sa
エーシャ
彼、至 高 神
エーシャ
esa
これ、ここ
プールヴェーシャーマピ
グ
pérveøámapi pérveøám 太古の、古代の api ~もまた
ル
フ
guruë
師、教師
カーレーナーナヴァッチェーダート
kálenánavacchedát
kálena 時間によって anavacchedát 制限されないため
イーシュヴァラ
グル
グル
至高神は、時間に制限されないため、太古の師たちにとっても師である。
イーシュヴァラ
グル
「至 高 神 は、古代においてさえも師だ、なぜなら彼は時間に制限されないからだ。彼は指導者たちの
イーシュヴァラ
中の最高の指導者だ。偉大な見者たち、賢人たち、預言者たち、教師たちも、至 高 神 よりも時間的には
後になるのだ。至高と想定される、私たちの内部に存在する意識状態は、身体の死と共には決して死ぬ
ことはなく、永遠だ。
イーシュヴァラ
イーシュヴァラ
人間と至 高 神 との相違は、人間は意識の顕現状態であり、至 高 神 は意識の至高状態であることだ。
顕現状態とは、人間、動物その他の異なる身体の媒体を取って、異なる誕生、異なる受肉をして顕現し
て行くことだ。最終的に、人間の意識は、進化の至高地点に到達するとき、精妙で高度な身体を取るの
イーシュヴァラ
だ。そういう理由で、誕生や死とは関係せず、時間もなく始めもない至 高 神 は、過去の預言者たちや指
グル
導者たちの師であると言われているのだ。
イーシュヴァラ
至 高 神 は、至高意識の究極地点だ。それは考えることだけを通じて、彼に到達することはできない。
私たちは、言葉、講義を通じても、知性や偉大な人々や聖典を通じて彼について学んでも、彼に到達す
ることはできない。考えることと体験することは二つの異なる事柄だ。インド哲学の全構造は、タット
ワ・チンタナとタットワ・ダルシャンに分割される。タットワ・チンタナは至高意識への熟慮と熟考を
意味し、他方タットワ・ダルシャンは至高意識の知覚を意味する。タットワ・チンタナはインド哲学の
6 つの体系(*六派哲学)を生み出した。それは至高意識を理解するための理性的な方法だが、不完全だ。
ミスティック
オ カ ル ト
そういう理由から、タットワ・ダルシャナは、ヨーガ、バクティ、心霊的、密教的実践を通じて発展し
た。チンタナは知識であり、ダルシャンは体験だ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「全ての知識はわれわれ自身の内にある、ということは事実だ。しかしこれは、もう一つの知識によ
って呼び出されなければならない。
・・・われわれの内にあるものを呼び出すには、知っている存在た
ちがわれわれと共にいなければならない。それだからこのような教師たちはつねに必要であった。世界
は決して彼らを欠くことはなかったし、いかなる知識も彼らなしに来ることはできないのである。神(*
イーシュヴァラ
至 高 神 )は、教師たちの『教師』である。
・・・ヨーギーたちは二つの独特の推論をする。その第一は、
限定されたものを考える場合、心は無限者を考えないわけには行かない、というものと、もしその認識
の一部分が真実なら、他の部分も同様であるに違いない、心の認識としての彼らの価値は同等なのだか
ら、というものである。・・・もし私が、少しの知識を持つ人がいると信じるなら、彼の背後には無限
の知識を持つ誰かがいる、ということも認めなければならない。第二の推論は、いかなる知識も教師な
しには来ることはあり得ない、というものである。・・・教師たちがいなければ、われわれはいかなる
知識も見出すことはできない。
・・・われわれは最後の結論として、時の限定を受けない一人の教師を
イーシュヴァラ
認めざるを得ない。始めも終わりもない、無限知を持つ、その『一人の教師』が、神(*至 高 神 )と呼ば
れるのである。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
タ シ ャ
Ⅰ-27
プ ラ ナ ヴ ァ ハ
tasya vácakaë praîavaë
タ シ ャ
tasya
ヴァーチャカハ
イーシュヴァラ
ヴァーチャカハ
その、彼(至 高 神 )を
vácakaë
示す、表す、暗示する
プ ラ ナ ヴ ァ ハ
praîavaë
聖音オームである
イーシュヴァラ
A U M
彼(至高神)を表す言葉は、聖音オームである。
オ ー ム
「パタンジャリは、知識の状態から知覚や体験の状態へと進展する方法を言及した。彼は、Aum は
イーシュヴァラ
イーシュヴァラ
至 高 神 を表す言葉であると述べている。私たちは、至高の意識、あるいは至 高 神 は、形を持たないこ
イーシュヴァラ
とを学んだ、しかし至 高 神 を表現するある伝達手段があるべきだ。これは、ヤントラ(*幾何学図形)、
マントラ(*聖音)、タントラ(*神像)によって描写される。これらの三つは、ちょうど数学の様々な公式
が、様々な過程の表現のために発展したように、無形の意識の表現なのだ。たとえば、E=mc の 2 乗
の公式だ。この方程式はアインシュタインによって提示された。これはエネルギーにおける物質の表現
であり、それは見ることはできないが、この方程式はエネルギーにおける物質の過程を表現している。
ヴァーチャカ
それが vácaka(*表す)の意味だ。科学で用いられる公式のように、私たちはタントラ聖典で用いられ
る、ヤントラと同様、マントラ、あるいはタントラを持っている。
ちょうど科学者が、直感を通じて見たか体験したエネルギーの原理を表現するように、同様にパタン
イーシュヴァラ
ジャリは至 高 神 の至高意識に、表現を、称号を与えた。それはマントラ、ヤントラ、タントラの形態で
あるだろう。マントラは音の形態による称号を意味する。至高意識は、音の公式により明示される。タ
サイキック
ントラでは、人間の形や動物の形などの画像の形式による象徴が存在する。ヤントラは心霊的な象徴だ。
オ ー ム
Aum はマントラとヤントラの両方だ。それはタントラではない、なぜならタントラは人間の象徴を持
ヴ ィ ジ ョ ン
たねばならないからだ。異なる国々の人々は、想念、怒り、情熱、霊的映像、至高の知識などの精妙な
オ ー ム
力を表す、公式化された象徴を常に持っている。Aum はマントラであり、どのマントラも二つの形態
オ ー ム
を持っている。音と形だ。Aum は目で見ることができる形を持ち、同時に音を持つ。だからマントラ
オ ー ム
としての Aum は、知覚と聞くことに従属している。ヤントラもまた図形と音を持つが、タントラは
音を持たない。それは見ることができるだけで、聞くことはできない。ヤントラでは、ビージャ(*種)・
マントラもまた付加され、ヤントラはビージャ・マントラを伴う音と形の組み合わせとなるのだ。
オ ー ム
イーシュヴァラ
私たちは、至 高 神 を目や耳で知覚できないが、マントラの助けにより彼を体験できる。 Aum は
イーシュヴァラ
至 高 神 を表すマントラなのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「あなたが持つあらゆる観念は、それに当たる言葉を持っている。言葉と思いとは不可分である。同
一事物の外側の部分を、われわれは言葉と呼ぶのだ。そして内側の部分が、われわれが思いと呼ぶもの
である。・・・音と思いとの関係は自然なものである。思いと音との結びつきは、もし意味されるもの
シンボル
シンボル
と象徴との間に真の結びつきがあるときにのみ、正しい。・・・象徴とは意味されるものの表示者であ
シンボル
シンボル
る。
・・・象徴とそれが意味するものとの間には自然な繋がりがあるに違いない。それゆえ、その象徴が
イーシュヴァラ
発音されると、表されているものが思い出されるのだ。注釈者(*パタンジャリ)は言う、神(至 高 神 )を
オ ー ム
表す言葉は Aum である、と。
・・・音を出す場合にはわれわれは、共鳴盤として喉頭と口蓋を使う。
・・・
キ
ー
最初の文字 A は、舌にも口蓋にも全く触れることなく発せられる、根本的な音、主音である。M は
唇を閉じて発せられるのだから、この連続の最後の音を示し、U は、口中の音響盤の根元から終わり
オ ー ム
のところまで転がって行く。このように、Aum は音の発生の全現象を代表しているのだ。それは異な
シンボル
る全ての音の自然な象徴であり、母体であるに違いない。それは、造られ得る言葉の全てとその可能性
を示している。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
タ ッ ジ ャ パ ハ
Ⅰ-28
タ ダ ル
タ
バ ー
ヴ ァ
ナ
ム
tajjapaë tadarthabhávanam
しょうみょう
タ ッ ジ ャ パ ハ
tajjapaë
タ
ダ
ル
タ
バ
tat それ(聖音オーム)
ー
ヴ
ァ
ナ
japaë マントラ(真言)の復唱、 称 名
ム
tadarthabhávanam
tat その artha 意味
bhávanam 瞑想、心理的熟慮、霊的感情
それ(聖音オーム)を、その意味を瞑想しながら復唱すべきである。
オ ー ム
「パタンジャリは、マントラ Aum を繰り返さなければならず、その意味を熟考すべきであること
を勧告している。このことは、サームキヤ体系の見解からの完全な離脱に違いない、なぜならサームキ
ヤ体系はどんな至高の存在も信じてはいないからだ。サームキヤ体系は、25 の基本要素の正しい理解を
通じてのみ、至高の知識は達成されると信じているのだ。パタンジャリは、これはわずかの高度に発展
オ ー ム
した人々だけが可能であることを理解しなければならなかった、そこで彼は、この Aum のマントラ・
ジャパの修行を展開させたのだ。これは全く新しい方法であり、いわゆる、バクティの方法だ。彼は無
オ ー ム
形の対象に直接瞑想することを要求する代わりに、Aum の形態の援助を提供したのだ。
オ ー ム
Aum の言葉の継続的繰り返しと、その意味への深い集中により、瞑想は完全なものとなる。ジャパ
オ ー ム
だけでは十分ではない。ジャパと瞑想は共に実践しなければならない。パタンジャリは、Aum のジャ
パの実践中、実践者はジャパへの気づきと、その意味の理解に向かうべきであることを勧告している。
オ ー ム
つまり、私たちは Aum の意味を理解しなければならないのだ。私たちはこのことが、マーンドゥー
オ ー ム
キャ・ウパニシャッドの中に、明瞭に述べられていることを発見する。Aum は、宇宙存在の至高意識
を表す言葉なのだ。
オ ー ム
Aum という言葉は、三つの文字で構成されている、つまり、A、U、M だ。A は、感覚、身体、楽
プ
ル
シ
ャ
しみの対象、ヴィシュヴァ・プルシャ(*目覚めている状態の純粋精神)世界との関連で理解されるべき
プ
ル
シ
ャ
だ。音節 U は、潜在意識、主観的楽しみ、純粋精神のテージャス(*夢)状態との関連で理解されるべ
プ
ル
シ
ャ
きだ。音節 M は、同様に無意識、無心、無享楽、純粋精神のプラギャー(*熟睡)状態との関連で理解
いちべつ
されるべきだ。これはマーンドゥーキャ・ウパニシャッドの一瞥だ。それは、音節 A、U、M は、意
識状態との関連で理解されるべきであると解説している。この方法により、探究者は顕現する意識の三
つの状態を超越し、最終的にトゥリーヤ状態と呼ばれる第四番目の状態に到達する、その状態は
プ
ル
シ
ャ
純粋精神の、非顕現、未知、表現されない状態なのだ。」
スワミ・サッティヤーナンダ
「なぜ繰り返さなければならないのか。われわれはサムスカーラ(*内的傾向性)の節を忘れてはいな
い。諸々の印象の総計は心の中に生きている、というのだ。それらは次第に潜在的にはなるが、しかし
そこに存続しており、然るべき刺激を受けるや否や、表に現れる。分子の振動は決して止むことはない。
この宇宙が破壊されると、全ての大きな振動は止む。太陽、月、星々、及び地球は溶けてしまう。しか
おのおの
し振動は、原子の中に残っている。各々の原子が、諸々の大きな世界と同じ働きをしている。それだか
チッタ
ら 心 の振動が止んでいるときにもそれの分子の活動は続いていて、衝撃を受けるや否や、再び現れる
のだ。われわれは今は、繰り返しとは何であるか、よく分かる。それは霊的サムスカーラに与えられ得
る、最大の刺激である。
『聖者と一瞬間共にいると、この人生の大海を横切るための船が作れる』、交際
オ ー ム
の力はこれほどのものである。それだから、この Aum の繰り返しとその意味を思うことは、あなた
の心中に善い付き合い仲間を作るのだ。学べ、それから学んだことを瞑想せよ。こうすれば、光がやっ
て来るだろう。
『自己』が現れるだろう。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
タ タ ハ
Ⅰ-29
プ ラ テ ャ ク チ ェ ー タ ナ ー デ ィ ガ マ ハ
ア ピ
アンタラーヤーバーヴァシュチャ
tataë pratyakcetanádhigamaë api antaráyábhávaùca
タ タ ハ
その(聖音オームの復唱)実践から
tataë
プ ラ テ ャ ク チ ェ ー タ ナ ー デ ィ ガ マ ハ
pratyakcetanádhigamaë
pratyak 内面に、源泉の方向に cetana 意識、気づき adhigamaë 到達、発見、成就
ア ピ
アンタラーヤーバーヴァシュチャ
~もまた antaráyábhávaùca
api
antaráya 障害、妨害 abháva 不在、消滅 ùca そして
その実践により、意識は内奥に向かい、そして(修行過程の)障害も克服される。
イーシュヴァラ
プラニダーナ
「病気その他のような障害は、 至 高 神 への 帰 依 を通じて除去され、ヨーギは自身の自己を覚醒
とくしん
ブ
ッ
デ
ィ
する。神は純粋で(篤信や罪から自由)、至福に満ち(無知のような苦悩から自由)、独存し(認識知性
プ
ル
シ
イーシュヴァラ
ャ
その他の性質から自由)、束縛のない(誕生、寿命、体験から自由)存在であり、純粋精神は(* 至 高 神
ブ
ッ デ ィ
の)信仰者の認識知性を反映する存在だ。
」
イーシュヴァラ
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
なにがし
イーシュヴァラ
「 至 高 神 自身は意識のみだ。何某かの心は至 高 神 の中に留まることはできない、なぜなら彼は
知覚対象として認識できないからだ。気づきとは自己認識であり、外界の事柄のような対象理解で
はない。・・・もし絶対の気づきが知られるものであれば、それは気づきではなく、空間を占め、
光、音、その他で形成される事柄であろう。事実、上述のように神を考えるとき、私たちは最終的
に自身の意識に到達する・・・
『自己の中の魂を覚醒する』とは同じことだ。これらの表現の意義
イーシュヴァラ
は、至 高 神 が自身と自身の自己内部の全ての無知から自由であることを熟慮することで明瞭とな
イーシュヴァラ
プラニダーナ
る。自己認識の理解とは、そのような事柄だ。これが、どのようにして至 高 神 への 帰 依 が探究
者自身の自己知識をもたらすかの理由だ。
」
スワミ・ハリハラーナンダ
「人間の意識は二つの側面 ── プラティヤクとパラーンガ ── を持っている、前者は内に向かう
もの、後者は外に向かうものだ。私たちの意識は、ほとんどパラーンガつまり外に向いたものだ。その
意識は外縁だけで機能する。それは生活の断片的見解を持つのだ。しかし意識を内に向けることは、そ
の外縁から中心へと移動することだ。この動きだけが統合を表す。心の一瞬間の、沈黙の声との調和に
イーシュヴァラ
より完全な静寂状態が到来し、それは意識の内向を意味している。これが正しい意味での 至 高 神 への
プラニダーナ
ヴィジョン
帰 依 だ。これは周辺から中心への動きだ。これが全体性の 光 景 だ。生活の障害が除去されるの
リアリティ
は、この光景の中でのことだ。
・・・その覆いが粉砕されるとき、実 在 それ自体の壮大な光景がそ
こに存在する。
・・・これは無時間の光景だ。この光景の後、探究者が時間の領域に帰還するとき、
この光景以前には困難に思われた障害の除去を体験するのだ。」 ローヒト・メヒタ
オ ー ム
ジ
ャ
パ
「Aum の繰り返しの結果として、二つの事が生じる。意識または気づきは内向し、障害が消滅する。
探究者がヨーガの道を前進するとき、彼の道を妨害する多くの障害がやって来る。パタンジャリは、次
のスートラでそれらの障害の明細を挙げるだろう。このように、平均的探究者のためにスートラ 23 節
サ
ー
ダ
イーシュヴァラ
ナ
プラニダーナ
から 29 節に述べられた、完全な霊的修行を得ることとなる。 至 高 神 への 帰 依 と呼ばれる、この
サ
ー
ダ
ナ
プ ラクリ ティ
霊的修行は、ヴィデーハたち(*肉体を離脱したヨーギ)でもプラクリティラヤたち(*根本原質に没入し
シ ュラッ ダー
ヴ
ィ
ー
リ
ャ
たヨーギ)でもなく、真の信仰、不屈の努力、その他の性質を持っていない探究者たちのための方法だ。
それは、心が不安定で動揺し、生活の低俗な事柄に執着する探究者たちのためのものだ。パタンジャリ
サ
ー
ダ
ナ
タ イプ
は、スートラ 23 節から 29 節の中で、霊的修行の準備的模範を述べ、彼らには非常に親切だった。これ
らの実践により、平均的探究者は最終的に高度な知性と鋭敏な心を獲得することだろう、それにより彼
サ
ー
ダ
ナ
は霊的修行の高度で深い道程を前進することが可能となり、至高の霊的目的地に到達するのだ。」
スワミ・サッティヤーナンダ
Ⅰ-30
ヴ ャ ー デ ィ
ス テ ャ ー ナ
サ ム シ ャ ヤ
プ ラ マ ー ダ
アーラシャ
アヴィラティ
vyádhi styána saóùaya pramáda álasya avirati
ア ナ ヴ ァ ス テ ィ タ ト ヴ ァ ー ニ
チッタヴィクシェーパーハ
bhrántidarùana alabdhabhémikatva anavasthitatváni
ブ ラ ー ン テ ィ ダ ル シ ャ ナ
cittavikøepáë
テー
ア ラ ブ ダ ブ ー ミ カ ト ヴ ァ
アンターラーヤーハ
te antaráyáë
ヴ ャ ー デ ィ
ス テ ャ ー ナ
プ ラ マ ー ダ
サ ム シ ャ ヤ
ア ー ラ シ ャ
vyádhi 病気
styána 無気力
saóùaya 疑い
pramáda 散漫
álasya 怠惰
アヴィラティ
ブ ラ ー ン テ ィ ダ ル シ ャ ナ
ア ラ ブ ダ ブ ー ミ カ ト ヴ ァ
avirati 快楽への執着
bhrántidarùana 妄見
alabdhabhémikatva 三昧境への不入
ア ナ ヴ ァ ス テ ィ タ ト ヴ ァ ー ニ
チッタヴィクシェーパーハ
テー
anavasthitatváni 三昧境からの脱落
cittavikøepáë 心の散乱
te これら
アンターラーヤーハ
antaráyáë 障害
病気、無気力、疑い、散漫、怠惰、快楽への執着、妄見、三昧境への不入、三昧境からの脱落、こ
れらが心の散乱であり、(修行過程の)障害である。
「これらの 9 つの障害は、心の散乱の原因だ。それらは心の動揺と共に生じる。それら(*9 つの障害)
が存在しないとき、心の動揺は起こらない。病気は、身体の体液、分泌液、諸器官の不調だ。無気力ま
たは無関心は心の無力性だ。疑いとは、
『それはこれで可能か、それとも不可能か。
』などの両方に関わ
る思考だ。散漫は、集中できないことだ。怠惰は、身体と心の重苦しさによって生じるやる気の無さだ。
たんでき
快楽への執着は、世間的対象への渇望または耽溺だ。妄見は、誤った知識だ。三昧境への不入は、ヨー
ガのどんな集中も堅固に確立されないことだ。三昧境からの脱落は、到達した集中状態の維持に失敗す
ブ
ッ
デ
ィ
アハムカーラ
マ
ナ
ス
ることだ。集中が確立されるとき、心の構成要素(*認識知性、自我意識、思考器官)が到達した状態で
堅固に留まる。これらの 9 種類の妨害は、ヨーガの敵またはヨーガの障害と呼ばれる。」
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
「私たちは、ジャパの実践が心を内向させ、障害を除去させることを理解した。その障害がこのスー
トラで列挙されている。それらが意識の 9 つの混乱させる力だ。霊性の探究者たちは、ジャパを通じた
それらの除去の方法を適切に知り、それにより霊性の道の進歩は妨害されないのだ。これらの障害は意
識とは相違せず、意識の一部であることに注目すべきだ。それらは意識の枠組みの明確な地点だ。
誠実な霊性の探究者は、自身の実践コースの間、これらの障害が必ずやって来ることを理解するべき
だ。病気はあるときにはやって来るだろう、普通胃の不調は脳かその他の器官に関連する。私たちは腺
の分泌物の科学から、意識が内向するとき、身体の新陳代謝と他の活動が変化し、調整されることを知
サ
ー
ダ
ナ
っている。あなたが瞑想のために座るとき、しばしば眠りに落ちる。同様に、霊的修行が長時間実践さ
れるとき、ときどき誤った知覚状態が生じるのだ。
霊的探究者は、自身の生活、家族の義務や他の責務についてたいてい不注意に眺めている。彼の心の
サ ー ダ ナ
中には、ある特定の修行法が正しいかどうか、果たして自分は目的地に到達するかどうかという疑問が
あることだろう。疑いはそこには必ずあるのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「
『病気』
、この肉体はわれわれを人生の海の向こう岸まで連れて行くポートである。それは大切にさ
れなければならない。不健康な人々はヨーギーにはなれない。『心の怠惰』はわれわれをして、対象へ
の生き生きとした興味の全てを失わせる。その興味がなければ、修行をしようという意欲もエネルギー
も生まれないだろう。たとえどんなに知的確信が強くても、遠くで聞くとか見るとかするようなある特
別の心霊的な経験をするまでは、科学上の真理については心中に『疑い』が起こるだろう。このような
べっけん
瞥見は心を強め、学習者を忍耐強くする。
『到達した境地からの脱落』
。修行中、何日間か何週間、心は
静かで、たやすく集中するだろう。それであなたは、自分は急速に進歩しつつあると思うだろう。ある
日突然、進歩が止まり、あなたはまるで、自分が座礁したかのように思うだろう。忍耐せよ。全ての進
歩は、このような起伏の形を取って進むのである。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
ド
ゥ
ッ
カ
ダ
ウ
ル
マ
ナ
シ
ャ
ア ン ガ メ ー ジ ャ ヤ ト ヴ ァ
シュヴァーサプラシュヴァーサーハ
Ⅰ-31 duëkha daurmanasya aïgamejayatva ùvásapraùvásáë
ヴィクシェーパ
サ
ハ
ブ
ヴ
ァ
ハ
vikøepa sahabhuvaë
ド
ゥ
ッ
カ
ダ
ウ
ル
マ
ナ
シ
ャ
duëkha 悲しみ、苦悩、不幸
daurmanasya 失意、落胆、憂鬱
ア ン ガ メ ー ジ ャ ヤ ト ヴ ァ
aïgamejayatva aïgam 手足、身体 ejayatva 震え、不安定
シュヴァーサ プラ シュ ヴァーサーハ
ヴィクシェーパ
ùvásapraùvásáë ùvása 吸息 praùvásáë 呼息 vikøepa 心の散乱
サ ハ ブ ヴ ァ ハ
sahabhuvaë 伴う症状
苦悩、落胆、身体の震え、呼吸の乱れが、心の散乱に伴う症状である。
「苦悩は 3 種類だ ── アーディヤートミカ(自身の内部から生じるもの)、アーディバウティカ(他
の生きものにより苦痛を与えられるもの)、アーディダイヴィカ(自然災害を通じたもの)。苦悩は、生
きものたちを取り乱し、生きものたちはそれを除去しようとする。落胆は、欲望の不満足を通じて、あ
るいは望んだ事柄が生じないことに起因する。身体的均衡や安定の乱れは、身体の震えを生じさせる。
普通の呼吸のプロセスにおける乱れもまた、心の散乱と関連している。これらの障害は、一般的に心の
散乱した状態で生じる。それらの症状は、平穏な心には現れない。」
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
「霊性の探究者であろうとなかろうと、誰でも、9 つの障害とそれらに伴う症状が生じる傾向がある。
ある人々にとって、これらの症状は実に自然な状態となる。気づきの内向プロセスにおける散乱は、注
意深く学ばなければならない。探究者は、障害が自然なプロセスとして生じているのか、あるいは瞑想
と他の実践によるものかどうか、理解しなければならない。たとえば、瞑想を実践している人でさえ、
疑い、作り事、不安に満ちていることだろう。病気は自然なプロセスとして、あるいは探究者が瞑想プ
サ
ー
ダ
ナ
ロセスに内向するときに生じるかもしれない。このスートラは、霊的修行の実践中、もしそこに苦悩、
こころ
あるいは心理的落胆、または身体の震え、または呼吸の乱れがあるならば、 心 は散乱した状態にある
ことを告げているのだ。
心の散乱の形態で提示された症状や、前のスートラで列挙された状態は、(*日常的な)心の状態では
サイキック
ない。それらは心霊的な現象だ。それらは、一般の人々にとっても、瞑想中に心が内向する探究者にと
っても、共通の事柄なのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「集中は、それが実践されれば必ず、心と身体に完全な休息をもたらす。実践のやり方が間違ってい
しゅ
たり十分に制御されていなかったりすると、このような障害が来る。オームの繰り返しと主への完全な
帰依が心を清くし、新しいエネルギーをもたらす。神経の動揺は、ほとんど誰にでもやって来る。決し
てそれらを気にせず、ただ実践を続けよ。実践がそれらを癒し、座を堅固なものとするであろう。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
「宗教は単なる陶酔状態ではない。そこには、奮闘、無味乾燥、疑いなどの退歩もあるだろう。しか
しそれらは探究者を過度に悩ますべきではない。たとえ意識が高揚しても、それは霊的進歩の兆候のみ
ではない。私たちは、自身の心が暗く沈滞したように思えるとき、最も力強く成長していることだろう。
私たちが努力を持続するとき、そこに失敗はない。
」
スワミ・プラバーヴァナンダ
タ ト プ ラ テ ィ シ ェ ー ダ ー ル タ ム
エーカタットヴァービヤーサハ
Ⅰ-32 tatpratiøedhártham ekatattvábhyásaë
タ ト プ ラ テ ィ シ ェ ー ダ ー ル タ ム
tatpratiøedhártham
エ ー カタ ット ヴ ァ ー ビ ヤ ー サ ハ
ekatattvábhyásaë
tat それら(心の散乱と症状)
pratiøedhártham 防ぐために、阻止するのに、除去するために
eka 一つ tattva 原理、方法 abhyásaë 継続する実践、不屈の集中
それら(心の散乱と症状)を除くためには、一つの原理への集中を継続すべきである。
イーシュヴァラ
「一つの原理の実践のためには、至 高 神 と私意識が最良だ。
『私は、心の中のあらゆる瞬間に生じ
る心のあらゆる現れの観察者である』 ── 集中を支えるそのような『私』の瞑想は、心を非常に
静穏にする。
もし神への集中だけが意図されて来たとすれば、スートラの著者は『一つの原理』という言葉を
用いなかっただろう。さらに、神への特別な帰依を通じて、全ての障害は除去されると言われてき
た。そういう理由から、一つの原理への集中の実践は、唯一の特別な方法なのだ。」
スワミ・ハリハラーナンダ
シ ュ ラ ッ ダ ー
「私たちはすでに、パタンジャリが不屈の意志と勇気を持つ探究者たちに、ùraddhá(*真の信仰)、
ヴィーリャ
værya(*不屈の努力)その他の 4 つの資質を奨励したことに言及した。弱くて堅固ではない探究者のため
オ ー ム
には、パタンジャリは熱心な帰依と Aum のジャパを奨励した。このスートラで、彼は障害とそれに
タットワ
伴う症状を克服する方法を教示している。その方法とは、一つの対象への心の集中に関係している。私
たちはこの意味を理解しなければならない。もしあなたがマントラを実践するなら、一つのマントラで
ディヤーナ
あるべきだ。もしあなたが瞑 想 を実践するなら、一つの象徴であるべきだ。瞑想の方法、技法、象徴を
リアライゼーション
変える人々は、しばしば障害で悩むことだろう。覚
醒 について、意識の深い段階について真剣な人々
は、このスートラを明瞭に理解するべきだ。探究者は、瞑想の象徴を変えるべきではない、なぜなら瞑
想のプロセスとは意識がより深くへと潜入するための基盤だからだ。もしその基盤がしばしば変化すれ
ば、そこには混乱が生じることだろう。
サ
ー
ダ
ナ
そういう理由で、パタンジャリはこのスートラで、一種類の修行方法を強調したのだ。もしあなたが
それを変えるなら、失敗することは確実だ。私たちは、多様な象徴の使用を強調する教派の場合に、こ
サ
ー
ダ
エ ー カ タ ッ ト ヴ ァ アビ ヤ ー サ
ナ
のことが生じることを発見する。たとえば、タントラと呼ばれる修行方法の中では、ekatattvábhyása
(*一つの対象への集中の継続)の原理を無視して、多くの象徴が用いられ、その結果多くの実践者たち
サ
ー
ダ
ナ
が悩んでいることが見出される。古代仏教のある種の修行方法の場合も同じだ、それは集中に用いる多
グ
ル
くの象徴という欠点のために、決して繁栄することはなかった。この事実は、真の聖師たちによって心
グ
ル
グ
ル
に留められる、聖師たちは一度弟子に与えたマントラは変えない、もしそのマントラが以前に他の聖師
によって与えられたとしてもだ。もしマントラを変えるなら、弟子の心に混乱が生じることだろう。賢
グ
ル
サ
ー
ダ
ナ
い聖師は、この混乱を決して生じさせないことだろう。彼は修行方法を、弟子の単なる好みによってで
はなく、その弟子の能力によって与えるだろう。
しゅ
異なる象徴間の実際的な相違は存在しない。探究者は、主ガネーシャ、またはシヴァ、カーリーその
他に帰依するかもしれないが、一つの象徴を決めた後に帰依の対象を変えるとすれば、必ず混乱が生じ
エーカタットヴァアビヤーサ
る。この混乱を排除する最良の方法は、一つの象徴を保つこと、ekatattvábhyása だ。障害は、探究
タットワ
者が乱雑に動く自身の心を許さず、心を一つの対象へ固定するときにのみ、探究者の道程から除去され
るのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
マ イ ト リ ー
カ ル ナ ー
ムディトーペ ークシャーナ ーム
ス
カ
ド
ゥ
ッ
カ
Ⅰ-33 maitræ karuîá muditopekøáîáó sukhaduëkha
プ ニ ャ ー プ ニ ャ
ヴィシャヤーナーム
バ ー ヴ ァ ナ ー タ ハ
チ ッ タ プ ラ サ ー ダ ナ ム
puîyápuîya viøayáîám bhávanátaë cittaprasádanam
マ イ ト リ ー
カ ル ナ ー
maitræ 友情、友愛
karuîá 同情、慈愛、哀れみ
ム デ ィ ト ー ペ ー クシ ャー ナ ー ム
muditopekøáîáó mudita 幸福、喜び upekøáîáó 無関心、中立、公平
ス
カ
ド ゥ ッ カ
sukhaduëkha sukha 幸福、健康 duëkha 不幸、苦痛、病気
プ ニ ャ ー プ ニ ャ
puîyápuîya puîya 美徳、有徳 apuîya 悪徳、不道徳
ヴィシャヤーナーム
バ ー ヴ ァ ナ ー タ ハ
つちか
viøayáîám その対象へ、そのことに対して
bhávanátaë 心の態度を 培 う、育む
チ ッ タ プ ラ サ ー ダ ナ ム
cittaprasádanam citta 心 prasádanam 純化、昇華、平和にすること
(他人の)幸福、不幸、美徳、悪徳に対し、それぞれ友愛、同情、喜び、中立の心の態度を育むこ
とにより、心は純化され静穏になる。
「心が純化されるまでは、つまり平和な性質になるまでは、心の集中の実践は不可能だ。このことに
関する最良の方法がこのスートラに示されている。それは、幸福、不幸、美徳その他の原因となる人々
や出来事に関して、友愛、同情、喜び、中立の態度を育む方法だ。この態度、つまり、幸福に対しては
友愛を、不幸に対しては同情を、美徳に対しては喜びを、悪徳に対しては中立を維持することにより、
探究者は心を動揺させる影響から解放され、その結果心が平和で静穏になる。心の内向のプロセスはそ
の結果として簡単に生じるのだ。心の性質には全く休息がなく、それはまるで大きな岩や石その他が池
の中に落ちて、池が乱されるようなものだ。動揺する心は簡単には集中できないのだ。
カタ・ウパニシャッドやその他で、心は外界に引き付けられる性質を持っていると述べられている。
内側を見ることは、心の性質ではないのだ。そういう理由で、あなたが心を内側に向けようとするとき、
障害と不純性は最初に除去しなければならない。嫉妬、嫌悪、競争の要素は、心の多くの不純性の原因
だ。私たちが幸福または裕福な人を見るとき、嫉妬を感じる。このことが潜在意識を動揺させ心の集中
を妨害する。これが不安な予感を生み出す。私たちがある人の苦しみに出会うとき、その人が敵であれ
ば私たちは喜ぶ。これもまた心の不純性の一つだ。同様に、私たちはしばしば美徳の人々を非難し、悪
徳の人々の行為を歓迎する。これら全ては、心の平和と瞑想の進路を動揺させる原因となるのだ。
パタンジャリは、これらの動揺を克服する方法を提示した。パタンジャリが私たちに求める 4 つの態
度は、顕在意識レベルばかりか、潜在意識の深い領域においても、心を動揺させる要因を除去すること
により、内的平和を発展させることなのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「われわれはこれら四種類の想念を持たなければならない。全ての人に対しては、友情を持つべきだ。
不幸である人々に対しては慈悲深くなければならない。人々が幸福であるときには、われわれは幸福で
あるべきだ。そして悪い人々に対しては、われわれは無関心(*中立、公平)でなければならない。われ
われの前にやって来る全ての対象に対しても同様である。もし対象が善いものであれば、われわれは好
意的に感じるであろう。もし思いの対象が不幸なものであれば、それに対し、慈悲深くなければならな
い。もしそれが善いものであれば、われわれは喜ばなければならない。それが悪いものであればわれわ
れは無関心でなければならない。心の前にやって来る様々な対象に対する、心のこのような態度は、そ
れを平安にするであろう。日常生活の中でのわれわれの困難の大部分は、自分の心をこのように保つこ
とができないところから来る。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
プ ラ ッ チ ャ ル ダ ナ
ヴ ィ ダ ー ラ ナ ー ビ ャ ー ム
ヴァー
プ ラ ー ナ シ ャ
Ⅰ-34 pracchardana vidháraîábhyáó vá práîasya
プ ラ ッ チ ャ ル ダ ナ
pracchardana
ヴ ィ ダ ー ラ ナ ー ビ ャ ー ム
呼息、吐き出すこと vidháraîábhyáó
ヴァー
vá
保息によって、制御によって
プ ラ ー ナ シ ャ
または、あるいは práîasya
呼吸の、プラーナの
あるいは、呼吸の吐く息と保つ息の制御によっても(心は不動になる)。
「性質上、全ての人々が神に帰依することはできない。ある人が神を信じていてさえも、その人は
イーシュヴァラ
プラニダーナ
至 高 神 への 帰 依 はできないだろう。パタンジャリはここで、心を純化し、制御し、安定させる方法を
提供する。
・・・
プ ラ ッ チ ャ ル ダ ナ
・・・このスートラで、パタンジャリはプラーナーヤーマを説く。私たちは pracchardana と
ヴ ィ ダ ー ラ ナ
vidháraîa の意味を理解するべきだ。前の言葉は呼息を意味し、後の言葉は呼息後の保息を意味する。
これはマハー・バンダを形成し、それはクムバカ(*保息)の間、ジャーランダラ、ウッディーヤーナ、
ムーラ・バンダと呼ばれる三つのバンダを一緒に実践することを含んでいる。初心者にはマハー・バン
ダを教えるべきではない。初心者はレーチャカ、つまり呼息だけを ── 21 回、51 回または 100 回行
うべきだ。これはカパールバーティあるいはアグニシャールと呼ばれる。
レーチャカ、クムバカ、三つのバンダを行うだけで、心に静寂の状態がもたらされる。古代の聖典の
一つの中に、意識は二つの支えを持つ、プラーナ(*生気)とヴァーサナー(*精妙な欲望)だ、と述べられ
ている。それらは、心が休息し意識が活動する支えなのだ。もしそれらの一つが動くと、もう一つも自
動的に動く。プラーナは、精妙であると同様に粗大だ。精妙なプラーナはエネルギーの形態を、粗大な
プラーナは呼吸の形態を持つのだ。
そこには 5 つの主要プラーナ、プラーナ、アパーナ、ウダーナ、サマーナ、ヴィヤーナがある。また
そこには 5 つの副次的プラーナ、デーヴァダッタ、ナーガ、クールマ、クリカラ、ダナンジャヤもある。
それらは全て、人間の身体内で異なる活動を担っているのだ。・・・
それらに加え、そこには 15 のプラーナの精妙な流れがある。それらはナーディーと呼ばれる。ナー
ディーは、神経またはエネルギーの流れ、または血液を意味する。それらは頭脳へ、そして頭脳から刺
激を運ぶ。
・・・身体内には全部で 72,000 本のナーディーがあり、それらは精妙な感覚刺激を運ぶのだ。
それらの中の 3 つが最も重要であり、それらはイダー、ピンガラー、スシュムナーと呼ばれている。そ
れら 3 つのナーディーはヨーガにおいては非常に重要だ、なぜならそれらは高度な知識の高度な流れを
運ぶからだ。スシュムナーはそれら 3 つの中で最も重要だ。それは、脊柱内の中心に位置する非常に精
妙な通路だ。それは肛門の源泉(*ムーラダーラ・チャクラ)から出現し、アーギャ・チャクラまたは延
髄へと上昇する。ムーラダーラから出現する 3 つのナーディーの合流地点は、ムクタトリヴェーニー(*
解脱をもたらす 3 つの合流地点)と呼ばれる。意識、感覚刺激は、ここで解放され、それらは一つにな
る。それらはアーギャ・チャクラで合流するのだ。
・・・
呼吸は、個人の活動に直接影響する。呼吸は、過去、現在、未来と同様、思考を制御する。・・・瞑
想は、スシュムナーが流れているときに実践するべきだ。・・プラーナーヤーマの呼吸は、非常にゆっ
くりと行われるべきだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「実践者は、吸息し、ゆっくりと呼息し、息を停止(*呼息後の保息)して、快適である間できるだけ
長く保息を維持するべきだ。この実践は、静寂な湖のような意識状態を確保する。」
B.K.S.アイアンガー
ヴィシャヤヴァティー
ヴァー
プ ラ ヴ リ ッ テ ィ ル ト パ ン ナ ー
マ
ナ
サ
ハ
スティティ
ニ バ ン デ ィ ニ ー
Ⅰ-35 viøayavatæ vá pravìttirutpanná manasaë sthiti nibandhinæ
ヴィシャヤヴァティー
ヴァー
viøayavatæ
高度な知覚、精妙な知覚 vá
または、あるいは
プ ラ ヴ リ ッ テ ィ ル ト パ ン ナ ー
pravìttirutpanná
マ
ナ
サ
ハ
manasaë
pravìtti 性質、強烈な活動 utpanná 生じる、起こる、現れる
スティティ
心、心の sthiti
ニ バ ン デ ィ ニ ー
堅固、不動、安定 nibandhinæ
原因になる、固定する
あるいは、感覚対象の高度な知覚が生じるときにも、心は不動になる。
「探究者が鼻の先端に集中するときに獲得する匂いの精妙な知覚は、高度な嗅覚だ。同様に、舌の先
端への集中では超感覚的味覚が生じ、口蓋では超感覚的色彩が、舌では超感覚的触覚が、舌の根元では
超感覚的音が生じる。これらの高度な知覚作用は、心を堅固に安定させ、疑いを除去し、集中を通じて
ランプ
獲得する知識への通路を形成する。太陽、月、惑星、宝石、灯火、その他などの知覚もまた、対象知覚と見
なされる。聖典、推理、教師たちの言葉による指導は、疑いもなく物事の真実の知識を生み出すが、先行す
る対象への方法は、探究者自身の知覚範囲内に入るまでは、そのような知識は間接的知識として留まり、救
済などの状態のような精妙な事柄に関する堅固な確信を生み出す助けにはならない。それゆえ、教師、聖典、
推理から得られる指導や知識に関する疑いの除去のためには、対象のある特有な特徴を明確に知覚しなけれ
ばならない。もし聖典から得られた知識の一部が、直接知覚によって事実であることが証明されれば、救済
のような精妙な事柄への信念が発展する、そういう理由から心の浄化のための訓練が命じられて来たのだ。
心の動揺の真っただ中で、上述したような方法で匂い、音、その他の特別な知識が生じ、ヴァシーカーラ・
サムギャーつまり完全な放棄が生じるとき、心はそのような事柄の完全な理解が可能となる。それが生じる
とき、信念、エネルギー、記憶、集中が、どんな妨害もなしに心にやって来るのだ。
」
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
イーシュヴァラ
プラニダーナ
「このスートラは、至 高 神 への 帰 依 や、マハー・バンダやプラーナーヤーマさえもできない人々が
実践可能な方法を述べている。多くの探究者たちが、正しい指導がないために、あるいは能力不足や適
切な栄養を摂取しないために、プラーナーヤーマの実践が困難なことは事実だ。このスートラは、感覚
の知覚作用の刺激を通じて、心を制御するより簡単な方法を提示している。ここでは、心が感覚知覚を
観察する。つまり、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を通じた知覚だ。心理的意識がこれらの感覚知覚に
融合することで、心は制御されるのだ。換言すれば心理的意識が、マントラの復唱、バジャン(*神の讃
歌)、キールタン(*神の名前の歌唱)、その他により、音意識の中に融合するのだ。教養人には、この興
味が分からないだろうが、もし実践者がより深く(*それらの音に)没入すれば、音意識によって心を制
御できるというのは事実だ。これがナーダ・ヨーガ(*音のヨーガ)の原理だ。
心はまた、ある特定の形への集中、トラータカ(*形体の凝視)を通じて心を形体意識に没入させ、制
グ
ル
御することもできる、触覚意識や味覚意識に関しても同様だ。触覚意識は、聖師が弟子の頭に触れると
き、味覚意識はケーチャリー・ムドラーによってもたらされる。心を鼻の先端に集中することで、精妙
サイキック
または心霊的な匂いが体験され、それが心の制御に利用される。味の意識は、舌の正面への集中により
サイキック
発展する。色の映像は、ケーチャリー・ムドラーでの上口蓋への集中により発展する。心霊的な触感は、
サイキック
舌の中央部分への集中によって体験される。心霊的音は、舌の根元の部分への集中により発展する。こ
サイキック
サイキック
れらの心霊的プロセスの全ては、自己制御の基盤となるのだ。これらの心霊的プロセスが発展するとき、
実践者はそれらに集中し始める。しばらくして、実践者の心はそれらを超越し、より深い領域へと進展
する。それが完全な心の制御の状態だ。これら全ては、ダーラナーとプラティヤーハーラの中で、イン
ドリヤつまり感覚器官の活動に関係するのだ。」
スワミ・サッティヤーナンダ
ヴィショーカー
ヴァー
ジョーティシュマティー
Ⅰ-36 viùoká vá jyotiømatæ
ヴ ィシ ョー カー
viùoká
ヴァー
悲しみのない、憂いのない、不幸から解放された
vá
または、あるいは
ジョーティシュマティー
jyotiømatæ
光を発する、明るい、輝く、光に満ちた
あるいは、悲しみのない、光明(の知覚)によっても(心は不動になる)。
ブ
ッ
デ
ィ
ブ
ッ
デ
ィ
「ハートの最奥の中心への集中実践により、認識知性の知識が得られる。その認識知性はまばゆく
ブ
ッ
デ
ィ
輝き、アーカーシャ(無限な虚空)のようだ。その集中に長くとどまることに熟達すると、認識知性
がまるで輝く太陽、月、惑星のように、あるいは光明を放つ宝石のように知覚される。同様に、純
粋な私意識の想念に没頭した心は、全てが純粋な私意識に浸透された、静穏で無限な波のない海の
ように現れる。それに関連して、『自己またはその純粋な極微の形態での自己への瞑想により、私
ヴィショーカー
の純粋な知識が生じる。
』と言われてきた。viùoká(悲しみのない)と呼ばれるこの高度な知覚は二つ
の要素を持ち、一つは対象物に関連し、もう一つは純粋な私意識に関連している。それらはジョーティ
シュマティー(光輝く)と呼ばれ、それらを通じてヨーギの心は不動性に到達する。」
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
「古代のヨーギたちは、ある霊的意識のセンターがあることを信じていた、それは腹部と喉の間に位
置する『ハートの蓮華』と呼ばれるセンターで、深い瞑想の中で姿を現す。それは蓮華の形を持ち、内
なる光によって輝く。それは『悲しみを超えている』と言われている、なぜならそれを見た者は平和と
喜びの途方もない感覚に満たされるからだ。
マスター
ずっと昔から、ヨーガの聖師たちはこの蓮華への瞑想の重要性を強調してきた。『至高の天国がハー
トの蓮華の中で輝く』とカイヴァリャ・ウパニシャッドは述べている。『混乱し渇望する人々はそこに
じゃくりょう
入りなさい。 寂 寥 の地に隠遁せよ。頭と首を一直線にし、垂直の姿勢で清潔な場所に座れ。全ての感
覚器官を制御せよ。自身の師を礼拝せよ。それからハートの蓮華に入り、そこで純粋、無限、至福に満
ちたブラフマンの存在を瞑想せよ。
』
」
スワミ・プラバーヴァナンダ
せいちょう
「心は、ナーダ(*内なる聖音)や眉間のセンター、ブルーマディヤへの集中による、内部の清 澄 な光
せいちょう
明の現れによって安定し制御される。内なる光明は非常に清 澄 、平穏、静寂、平和だ。それは鋭い光で
はない。それは深い瞑想中に体験する。それには二つの種類がある。眠っているとき、ときどき突然光
の爆発が現れ、それは心を非常に乱す。パタンジャリがここで述べているのはその光ではない。彼は静
せいちょう
寂な内なる光について述べている。心はその清 澄 な光の体験により、制御されるのだ。その光を見るた
めの多くの技法が存在する。それらの一つは眉間のセンターへの集中であり、他の一つはナーダへの集
中だ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「これは別の種類の集中法だ。スシュムナーに貫かれた、下方を向いた花弁のハートの蓮華を思いな
さい。吸息し、そして呼息する間、その蓮華の花弁が上方に向き、その蓮華の内部はまばゆく光輝いて
いると想像しなさい。その蓮華を瞑想しなさい。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
ヴィ ータラーガヴィ シャ ヤ ム
ヴァー
チ ッ タ ム
Ⅰ-37 vætarágaviøayaó vá cittam
ヴ ィ ー タ ラ ー ガ ヴ ィ シ ャ ヤ ム
vætarágaviøayaó
vætarága
ヴァー
vá
無欲の人、欲望を超越した人、無執着の人 viøayaó
対象
チ ッ タ ム
または、あるいは
cittam
心
あるいは、感覚対象への愛着を超越した人の心(の瞑想によっても)。
「もし、欲望から自由な、屈託のない、無欲望な態度の聖者との接触が持てるなら、それが無欲望の
しゅ
態度の観念を与えることだろう。さらに、欲望から自由なヒランニャガルバ(*全ての生命の至高の主)
やその他の存在(*神聖な神々)の心を想像すれば、もし探究者の心がそれらの存在たちに集中すれば、
同様の結果(*無欲望の態度の観念を与える)となることだろう。」 スワミ・ハリハラーナンダ
「あなたの心を幾人かの神聖な人格 ── 仏陀、キリスト、ラーマクリシュナに向けなさい。そして
その聖者のハートに集中しなさい。彼らがいかに偉大な聖者かを想像しなさい。彼らは純粋で感覚対象
に悩まされないブラフマンの知者だ。その聖者たちのハートが、あなた自身の身体の内部で、あなたの
ハートになったと感じなさい。さらに、その(*聖者の)映像への集中は非常に助けとなるだろう。ヒン
ドゥー教やキリスト教は共にこの瞑想形態を実践する ── 集中はハートだけではなく、ときどきは手、
足、全身の場合もある。
」
スワミ・プラバーヴァナンダ
ヴィータラーガ
「vætarága とは、ラーガつまり人間の情欲を放棄した人だ。心をそのような人物に集中することに
より、心は安定し制御される。そういう理由で、古代の伝統的瞑想では、イシュタ・デーヴァター(*理
グ
ル
想神)や聖師の象徴(*映像)を用いることが勧告されて来た、なぜなら彼らは人間の情欲を超えたある力
の概念を、あるいはサーダナーの力によりその状態に到達した人物の概念を現わしているからだ。情欲
や感情は、純粋で未熟で制御されていないエネルギーであり、それらは知覚の正常な状態を否定的にも
肯定的にも変えることができる。この未熟なエネルギーの訓練により、心の散乱したエネルギーを凝集
させ、それを注意の対象に集中させて、レーザー光線のような強力な心の力にすることが可能であるこ
とが実証されて来たのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
ヴィータラーガ
「vætarága とは、人間の情欲を克服し、ラーガ・ドヴェーシャ(*愛着と嫌悪)を超えた人々だ。その
サ ー ダ カ
ような魂の生涯や人格への瞑想は、修行者を自然にラーガ・ドヴェーシャから解放する、それにより
サ ー ダ カ
修行者の心の静穏と不動性は発展する。私たちの心を常に占めている思考が、私たちの人生を形成する
ことは、人生の法則としてよく知られている。もし私たちがある美徳を慎重に選択し、それを常に瞑想
したとすれば、非常に偉大な結果を生み出す。この法則の道理は人格の形成に用いられ、(*スートラ)
サムヤマ
第三章 24 節(*象やその他の力への綜制により、それらの力を獲得できる)で検討されているので、ここ
で詳しく説明することは不必要だ。しかし私たちは、パタンジャリが抽象的な美徳ではなく、人間の人
格の具体化として美徳を進めていることに注目すべきだ。そこには明確な理由がある。まず第一に、心
の不動性を獲得しようとしている初心者は、おそらく抽象的美徳への瞑想からは、それほど多くの利益
を引き出せないだろう。最愛の人間または聖なる人格と美徳との連結は、その美徳の莫大な魅力的力を
増大させ、それによりそれが私たちの人生に影響を与えるのだ。第二に、そのような人格への熱心な瞑
想は、その人格への信頼感を抱かせ、私たちの進歩を促進する力と影響の流れをもたらす。瞑想の対象
マスター
は、おそらく探究者の聖師、あるいは偉大な霊的教師、あるいは神の化身の一人であることだろう。」
I.K.タイムニ
ス ヴ ァ プ ナ ニ ド ラ ー
ギ ャ ー ナ ー ラ ム バ ナ ム
ヴァー
Ⅰ-38 svapnanidrá jðánálambanaó vá
ス ヴ ァ プ ナ ニ ド ラ ー
svapnanidrá
svapna 夢 nidrá 眠り、熟睡
ギ ャ ー ナ ー ラ ム バ ナ ム
jðánálambanaó
jðána 知識、体験 álambanaó 支える、集中する、瞑想する
ヴァー
vá
または、あるいは
あるいは、夢や深い眠りの中で得た知識を瞑想する(ことによっても)。
「夢の中で、外界の知識は締め出され、心の中の観念が鮮明に現れ出る。これらの鮮明な観念を採用
イメージ
しそれらに集中するためには、夢の映像に集中することだ。これは多分、ある気質の人々にとっては非
常に相応しいことだろう。それは三つの方法で行うことが可能だ。(1)対象の心理的映像を形成し、そ
れに集中して、その対象を事実であると考える。(2)(*夢の)想起の実践を行うとき、夢の中でさえも実
践者は自分が夢を見ていることに気づいていることだろう。次に望む対象に正しく集中するべきであり、
目覚めているときやその他のときに、その状態を維持するよう努力すべきだ。(3)夢の中で、何か素晴
らしい感情や観念が感じられたとき、即座に目覚めてその感情に集中すべきだ。どの場合においても、
外界の対象を締め出した夢のような状態を採用するべきだ。
」
スワミ・ハリハラーナンダ
「
『夢の体験』によってパタンジャリは、神聖な人格や神の象徴の夢を意味している。そのような夢
が体験と呼ばれる、なぜならそれらの夢は喜びや啓示をもたらし、私たちが目覚めた後でも残る。イン
ドの霊性の文献の中に、私たちは多くの信仰者たちの見た夢の例を発見する、彼らは夢の中である偉大
な教師からマントラを授与された。そのような夢のマントラは、目覚めているときに授与されたマント
ラと同様に神聖なものと見なされている、それを授与された信仰者は、その後の生涯を通じてそのマン
トラを使用し、そのマントラを瞑想するのだ。」
スワミ・プラバーヴァナンダ
「心は、意識的に夢見、意識的に眠る方法の発展によって制御される。意識的眠りとは、アンタル・
モウナ(*内なる静寂瞑想)の最後の状態だ。夢を意識的に見る方法があるが、それは危険でありわずか
サイキック
の人々だけがそれを実践できる。このプロセスは、特に心霊的な傾向の人々にとって有益だろう。意識
的眠りと夢の中で、実践者は夢と眠りの状態の意識を発展させる。
普通私たちは無意識で夢を見る。それらは体験されるが目撃されない。私たちは夢を制御しないが、
このスートラで勧告されている方法は、探究者が夢を導入させ、それを意識的に制御するのだ。私たち
は顕在意識の想念の制御、潜在意識の想念の制御、無意識の想念の制御により、想念を制御できる。こ
のプロセスで、意識的活動や知性だけが制御されるのではなく、潜在意識の活動さえも制御されるのだ。
意識的夢の間、実践者は外界からは何も聞かない。意識的眠りの中で、実践者は眠りの本(*状態)を読
サイキック
み進む。これら二つの状態への気づきは、心が集中する支えとなる。それは心霊的な人々だけに生じる
ことだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「ときどき人は、天使が自分のところに来て話をするのを見たとか、自分が恍惚状態にあるとか、空
中に響く音楽を聴いたとかいう夢を見る。そのような夢の中では彼は至福の状態にあるので、目が覚め
たときには深い印象を受けている。その夢のことを現実のこととして思い、それを瞑想せよ。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
ヤ
タ
ー
ビ
マ
タ
デャーナードヴァー
Ⅰ-39 yathábhimata dhyánádvá
ヤ
タ
ー
ビ
マ
タ
yathábhimata
yathá として、による abhimata 欲する、選んだ、好んだ
デ ャー ナ ー ド ヴァ ー
dhyánádvá
dhyánád 瞑想により vá または、あるいは
あるいは、(修行者を)魅了する(いかなる)対象への瞑想によっても。
「何であれ適切であると考えられる(ヨーガの目的に適う)対象に集中が可能だ。もし実践者がその対
象を通じて心を不動にできれば、他の場所(*対象)でもまた不動性を得ることができる。」
ヴィヤーサ解説、スワミ・ハリハラーナンダ英訳
「もし心がある特定の対象にある時間固定できれば、他の対象でもまた固定できる、それが心の習性
だ。もし実践者が思いのままに壺に一時間集中できれば、彼は小さな丘にもまた一時間集中できる。そ
れゆえ、選択したどんな対象の瞑想実践による心の不動性の達成によっても、実践者はタットヴァ(*対
象の本質)に没頭可能となり、それらの知識を通じて徐々にカイヴァリャ(独存)に到達するのだ。
」
スワミ・ハリハラーナンダ
「パタンジャリの哲学の最も魅力的な性質は、その視野の広さ、その普遍性だ。ここでは彼の見解の
下でのどんな特定の礼拝形式も強いられていない ── 私たちの無知の層を通じてたとえそれがかす
かに輝いていてさえ ── 私たちは自身の善の映像や象徴を作成し、それらを外界に投影する。もしそ
れが誠実さの中で考え出されたならば、そのような映像、象徴、観念の全ては神聖だ。それは粗野で子
供じみているかもしれない、それは他人に訴えかけないかもしれない。しかしそれは重要なことではな
い。重要なことの全ては、それに向かう私たちの姿勢だ。私たちが真に純粋に礼拝するものが何であれ、
私たちはそれらを聖なるものにするのだ。
それゆえ、私たちはいつも他人の宗教を尊重すべきだ、そして偏狭さに用心しなければならない。し
かしそれと同時に、スートラ 32 節で注目したように、私たちは探究の一つの道に自身を限定し、それ
を保たなければならない。そうしないと、私たちは単なる霊的『ウインドウ・ショッピング』で、自分
のエネルギーの全てを浪費してしまうだろう。もし私たちが神殿や聖地に何も持ち込まなければ、私た
ちは何も発見できない、私たちは外的な礼拝儀式を実践するときには決して忘れてはならない、つまり
リアリティ
真 理 があらゆる場所に存在するとはいえ、私たちは自身のハートの中でのみ真理と接触できるのだ。」
スワミ・プラバーヴァナンダ
「ここでは(*瞑想対象の)完全な自由が与えられている。それは、信仰対象のような実践者が好む瞑
想対象は、心を不動にし、制御し、平和にする最も確実な方法だからだ。実践者が瞑想のためにどんな
対象を用いようと、問題はない。それは十字架、またはスワスティカ(卍)、または偶像、または簡潔な
オ ー ム
Aum かもしれないが、何であれ実践者が賛同する対象だ。探究者は、自身の心を集中できる対象を、
自分のために選択するべきだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
「これは決して、悪い主題(*瞑想対象)を指しているのではなく、何であれあなたが好む善いもの、
どこであれあなたが最も好む場所、何であれあなたが最も好む風景、何であれあなたが最も好む想念、
何であれ心を集中させるものだ。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
パ
ラ
マ
ー
ヌ
パ ラ マ マ ハ ッ ト ヴ ァ ー ン タ ハ
ア シ ャ
ヴァシーカーラハ
Ⅰ-40 paramáîu paramamahattvántaë asya vaùækáraë
パ
ラ
マ
ー
ヌ
paramáîu
parama 究極の aîu 微粒子、原子
パ ラ マ マ ハ ッ ト ヴ ァ ー ン タ ハ
parama 究極の
paramamahattvántaë
ア シ ャ
asya
mahattva 大きなもの
antaë 終極、極点
ヴァシーカーラハ
この、彼の
vaùækáraë
完全な制御、熟達、征服
(心の不動性を発展させた)修行者は、極小から極大に及ぶあらゆる瞑想対象に熟達する。
「精妙な対象への集中により、心は極小の対象への不動性を確立する。同じく、巨大な性質への集中
により、心は無限に大きな対象にも不動性を確立する。これら両極間への瞑想を通じて、心は欲するど
んな対象であれ、不動性を堅持できる能力を獲得する。これが心の完全な支配であるだろう。それによ
り心は完全となり、実践によるそれ以上の不動性の獲得も、どんな心の浄化も不必要となる。
」
ヴィヤーサ解説 ハリハラーナンダ英訳
「タンマートラ(*極小粒子)とは、音その他のような微小の原子または粗大要素のモナド(*単子)だ。
それは粗大な物質の最も微細な状態だ。タンマートラの知覚能力と認識能力もまた微細な状態だ。
どんな特定の対象への心の集中の実践においても、もし心がどんな微小な対象または巨大な対象にで
ヴァシーカーラ
も不動性を堅持できるなら、その状態が Vaùækára つまり完全な支配と呼ばれる。心が制御されるとき、
どんな特定の対象への集中プロセスも実現する。その後でのみ、全ての心の散乱の除去による
アサムプラギャータ・サマーディ
無 想 三 昧 の実現が保持される。どのように心の支配が獲得されるかについては、次に続くスート
ラで述べられている。これは、知覚者(*瞑想者)の極微の状態と至高の状態の理解、知覚する媒体(*感
覚器官)、集中し没入した対象物によって実現される。」
スワミ・ハリハラーナンダ
サマーディ
「ここで質問が起こるだろう、これまでのスートラで教示されてきた実践法を通じて、三 昧 を達成でき
ノー
サマーディ
サマーディ
るのか?と。その答えは否だ。修行者は、これらの実践では三 昧 を達成できないが、しかし三 昧 の高
サイキック
スピリチャル
度な段階で必要となる心霊的、あるいは 霊 的 能力を確実に獲得できる。これはちょうど、高度な二次
試験を通過して、大学に入学するための資質を向上させるようなものだ。だから、これまでに述べられ
サ ー ダ ナ
てきた様々な修行法(*集中法)の実践により、修行者は微細な原子にも無限に巨大な対象にも同様に熟
サ ー ダ ナ
達する。彼は、極小と同様に極大な力の支配者となるのだ。これらの修行法は実践者に全能の力を授け
サマーディ
る。これらの実践は、三 昧 の微細な状態の精妙な知覚に向かう進展にとって非常に重要だ。まるで科学
者が、物質とエネルギーの微細な概念に到達するように、ヨーギは精妙な想念や無限性の概念にさえも、
集中が可能となるのだ。
私たちは、物事の精妙な意味を把握できない人々がいることを発見する、なぜなら彼らは自分の心を
支配していないからだ。上述した集中実践は、意識を非常に洗練する。心は意志によって内向できる。
これは、数学、科学、あるいは瞑想の問題を解決する場合に等しい。訓練により、心は正しく集中でき
サイキック
るのだ。ヨーガの最初の心霊的力とは、心の支配の達成だ。そのあとで、心は粗大であれ精妙であれ、
どんな対象にも集中できるのだ。
その興味深い例がある。スワミ・ヴィヴェーカーナンダがアメリカに滞在していたとき、彼は毎日数
冊の本を図書館から借り出し、次の日に返却するのが常だった。図書館の係員は、それほど多くの本を
スワミがたった一日で読むことが不思議で、スワミを試してみたいと思ったが、驚いたことにスワミは、
彼が読んだ本の全ての言葉と行を憶えていることが判明したのだ。これが、いかにヨーギが極小と極大
への心の支配を達成しているか、なのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
クシーナヴリッテーヘ
アビジャ ータシェーヴァ
マ ネ ー ヘ
グラヒートル
グ
ラ
ハ
ナ
グラーヒェーシュ
Ⅰ-41 køæîavìtteë abhijátasyeva maîeë grahætì grahaîa gráhyeøu
タ ト ス タ
タ ダ ギ ャ ナ タ ー
サ マ ー パ ッ テ ィ ヒ
tatstha tadaðjanatá samápattië
クシーナヴリッテーヘ
køæîavìtteë køæîa だんだん弱まった、動きが静まった vìtteë 心の波、想念
ア ビ ジ ャ ー タ シ ェ ー ヴ ァ
abhijátasyeva abhijátasya 透明な、洗練された、純化された iva ~のように
マ ネ ー ヘ
グラヒートル
グラヒーター
maîeë 水晶の、宝石の
grahætì 認識する者、知る者、知覚する者、grahætáとも呼ばれる
グ ラ ハ ナ
grahaîa 認識行為、認識すること、知覚すること、知覚器官
グラーヒェーシュ
タ ト ス タ
gráhyeøu gráhya 認識対象、知覚対象 eøu ~の中に
tatstha そこに留まる、安定する
タ ダ ギ ャ ナ タ ー
tadaðjanatá tat(d) その aðjanatá 色(質)になる、色(質)に染まる
サ マ ー パ ッ テ ィ ヒ
サ マ ー パ ッ テ ィ
じょう
とう じ
samápattië samápatti(ë) 定 、等至などと和訳される心の集中状態、三昧
サマーパッティ
定 とは、透明な水晶が傍らの対象物の色に染まるように、動きの静まった心が認識する者、
認識器官、認識対象(のいずれか)に定まり没入する状態である。
サ マ ー パ ッ テ ィ
じょう
「samápatti( 定 ) という言葉は、ちょうど多くの川から流れ込む全ての水を、大海が完全に受け入
れるような完全な受容を意味する。それは、プラーナーヤーマ、苦行、霊的修行その他のような、様々
な実践によって獲得される心の状態だ。
探究者は、心が透明でない限り瞑想の状態に入ることはできない。もし心が透明であれば、瞑想の状
ヴリティス
態は一般の人に眠りがやって来るように簡単にやって来る。そのためには、心の波が減少しなければな
ヴリティス
ヴリティス
らないのだ。その心の波は完全に消滅するのではないことを憶えておくべきだ。心の波は、ただ減少す
るか弱まるのだ。それはまるで列車の中で眠るようなものだ。その状態では、人は列車が(*駅で)停車
するときに人々が出入りするのに気づいているが、目覚めている状態のような完全な気づきではない。
それが減少した気づきと呼ばれる。その状態は、以前のスートラで述べられていた、心を不動にする様々
な技法を通じて達成できるのだ。
断片的意識もまた消滅するとき、心は水晶のように浄らかで透明になる。その心はどんな対象物にも
サマーパッティ
完全に融合できる。それが
定
チョーク
チョーク
だ。一片の白墨を色紙の上においても、(*白墨は)その紙の色にはな
らないが、もし水晶をその色紙の上に置けば、水晶はその紙の色を映し出す。それは水晶が完全に純粋
サマーパッティ
(*透明)だからだ。同様に
定
ヴリティス
の心と一般的な心とは異なる。心の波が心から除去された瞬間、心は
水晶のように活動する。その心は、純粋に対象物の対象意識を映し出すのだ。
あなたがシヴァリンガ(*シヴァの象徴)のような対象に、トラータカ(*凝視)や瞑想を実践するとき、
ヴリティス
いちべつ
心の波はゆっくりと減少し、最終的に心がその対象物と完全に融合するとき、そこに突然、意識の一瞥
が生じる。名前、形態、意味としての対象物の三つの側面が、個々に独立して体験される。そこには 6
サヴィタルカ
ニルヴィタルカ
サヴィチャーラ
ニルヴィチャーラ
アーナンダ
アスミター
種類の心の融合があり、それらはそれぞれ有推理、無 推 理 、有 識 別 、 無 識 別 、至 福 、私意識と呼ば
れている。それらはあなたが瞑想しているときの対象物に関連する、あなたの意識が融合する段階であ
り、最終的にその対象が消滅するときがやって来る。あなたがある境地に到達するときにのみ、その対
象があなたの意識から消滅することを憶えておくべきだ。
そこに心の融合があるとき、意識の表現はほとんど意識から消滅する。これはエーカーグラタつまり
サマーパッティ
一点集中だ。その状態の間、三つの事柄、瞑想と対象と意識は一つになる。実践者が
定
の状態に到
サマーパッティ
達しない限り、これら三つの事柄に気づいている。
定
の中で、これら三種類の気づきは一つの単独
の意識に融合する、それによりあなたはその単独の意識以外には何も見ない。瞑想の単独の意識だけが
その状態で光輝くのだ。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
タ ト ラ
シ ャ ブ ダ ー ル タ ギ ャ ー ナ ヴ ィ カ ル パ イ ヒ
サンキールナー
サ ヴ ィ タ ル カ ー
サ マ ー パ ッ テ ィ ヒ
Ⅰ-42 tatra ùabdárthajðánavikalpaië saîkærîá savitarká samápattië
タ ト ラ
tatra そこの、その中で
シ ャ ブ ダ ー ル タ ギ ャ ー ナ ヴ ィ カ ル パ イ ヒ
ùabdárthajðánavikalpaië ùabda 言葉、音 artha 対象物、対象物の知覚、意味
サンキールナー
jðána 知識、認識 vikalpa(ië) 想像の、不明瞭な
saîkærîá 混合した、混乱した
サ ヴ ィ タ ル カ ー
サ マ ー パ ッ テ ィ
じょう
とう じ
savitarká 問いのある、推理を伴う
samápatti(ë) 定 、等至と和訳される心の集中状態
サヴィタルカー・サマーパッティ
その中で、言葉と対象物(の知覚)と認識とが混合した没入状態は、 有 推 理 定 と呼ばれる。
「没入(*高度な心の集中)と(*瞑想対象の)知識は不可分だ。だから、ある特定の集中状態で獲得される
サ ヴ ィ タ ル カー
サ マ ー パ ッ テ ィ
タ ル カ
サマーパッティ
知識は savitarká samápatti(推理を伴う
定
)と呼ばれるのだ。Tarka という言葉は古代において、
ヴィタルカ
タ ル カ
言葉の助けを伴った思考、という意味で使用された。だから Vitarka とは、特別の種類の Tarka だ。
サマーディ
ヴィタルカ
サ ヴ ィ タ ル カ
サ マ ー デ ィ
う す いり
三昧 の中で獲得された知識に Vitarka が伴うとき、それは savitarka samadhi (有推理三昧)と呼
ばれるのだ。
タ ル カ
Tarka つまり言葉の助けを伴った思考は、分析すれば、言葉と、その対象物と、それにより生じた観
よつあし
念の混合を示している。
『牛』という言葉、つまり名称を取り上げて見よう。その対象物は四足の動物
だ。その動物についての観念が、私たちの内部に生じる。その観念はその動物と同じものではない。そ
の名称は、その牛についての知識と同一ではなく、その動物自体でもない、なぜならどんな名称も、そ
のような特性を伴った動物を暗示しているに過ぎないからだ。そういう理由で、三つの要因 ── 名称、
暗示された対象物、その知識 ── は、全く異なる。しかし一般的には、名前、暗示された対象物とそ
の心理的映像は、その対象物の知識とも同一視されているのだ。そこで、その三つの要因は同一ではな
ヴィカルパ
いという事実にもかかわらず、その名称の発声に従うそれらの同一性という混乱した観念が、Vikalpa
(想像、抽象)と呼ばれる。このように、私たちの一般的な思考、言葉と対象物と観念は、全てが混合さ
れているのだ。
・・・しかしながら、この過程を通じて最初ヨーギの知識は獲得される。事実として、
サ ヴ ィ タ ル カー
サ マ ー パ ッ テ ィ
言葉の助けを伴う瞑想を通じて得た知識が、savitarká samápatti(有推理定)なのだ。
」
スワミ・ハリハラーナンダ
「音(*言葉)はここでは、それを伝える神経の流れである振動を指す。そして知識(*認識)は、反応の
ことである。今までに述べた様々の瞑想の全てを、パタンジャリはサヴィタルカ(問いのある瞑想)と呼
んでいる。後に次第に、彼はより高度になるディヤーナ(瞑想)をわれわれに示すのだ。『問いのある(*
有推理)』と呼ばれるこれらの瞑想の中でわれわれは、言葉と意味(*対象)と知識の混じり合いから生ま
れる、主体と客体の二元性を保持している。そこには第一に、外界の振動すなわち言葉がある。これが
感覚の流れによって内に運ばれると、それが意味(*対象)である。そのあとでチッタ(*心)の中に反応の
波が現れ、それが知識(*認識)である。しかし、これら三つの混合が、われわれが知識と呼ぶものを形
成しているのだ。ここまでに至る全ての瞑想の中では、われわれはこの混合を、瞑想の対象としている
のである。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
ス ム リ テ ィ パ リ シ ュ ッ ダ ウ
スヴァルーパシューニェーヴァ
ア ル タ マ ー ト ラ ニ ル バ ー サ ー
Ⅰ-43 smìtipariùuddhau svarépaùényeva arthamátranirbhásá
ニルヴィタルカー
nirvitarká
ス ム リ テ ィ パ リ シ ュ ッ ダ ウ
smìtipariùuddhau smìti 記憶 pariùuddhau 浄化を通じて、純化によって
スヴァルーパシューニェーヴァ
svarépaùényeva svarépa それ自体の性質 ùénya 空、欠いて iva あたかも
ア ル タ マ ー ト ラ ニ ル バ ー サ ー
arthamátranirbhásá artha 対象、精髄 mátra ~のみ、~だけ nirbhásá 輝く
ニル ヴィ タ ル カー
nirvitarká 問いのない、推理のない
記憶が浄化され、あたかも瞑想者の主体意識が消えたかのようになり、瞑想対象のみが輝く
ニルヴィタルカー
境地が無推理定である。
サマーディ
「言葉の従来の意味の記憶が消滅するとき、三 昧 を通じて獲得された知識は、言葉上の指示や推理に
ヴ ィ カ ル パ
より形成された観念から成る Vikalpa(想像、抽象)から自由になる。それにより瞑想対象の真の性質が
ニルヴィタルカー
サ マ ー パ ッ テ ィ
むすいりじょう
現れ、この境地が nirvitarká samápatti(無推理定)、言葉による思考から解放された没入と呼ばれる。
これは最も高度な真実の直接認識であり、推理や証言の源である。この直接認識は、証言や推理からは
ニルヴィタルカー
サ マ ー パ ッ テ ィ
やって来ない。従って、nirvitarká samápatti の状態でヨーギが獲得した知識は、直接知覚以外のど
んな認識の形態にも影響されることはない。このスートラに、この種の没入の特色が教示されている。
」
ヴィヤーサ 解説
スワミ・ハリハラーナンダ 英訳
「記憶が完全に清められ浄化されるとき、心もまた浄化される。その両者は、別々な実体として機能
することを止める。無心の境地が体験され、外界の対象物に影響を受けない、汚点のない意識のみが輝
ニルヴィタルカー
サ マ ー パ ッ テ ィ
むすいりじょう
く。 これが nirvitarká samápatti(無推理定)と呼ばれる。
記憶とは、過去の思考と体験の回想だ。それは過去の印象の倉庫だ。その知識は再現された知識だ。
サ ー ダ カ
修行者は、記憶がとてつもない影響を知性に与えていることに気づくべきだ。ヨーガ実践の忍耐と持続
的自己訓練によって、新しい体験が浮上する。これらの新しい体験は、過去の記憶からは自由で、新鮮
で、直接的で、主体的だ。それらは記憶を消滅させる。
・・・標準的な人にとって記憶とは過去の心だ。
プ
ル
シ
ャ
覚醒者にとって、記憶とは現在の心だ。記憶が純化されるとき、知性は光明を発し、観る者(*純粋精神)
ニルヴィタルカー
サ マ ー パ ッ テ ィ
により近づき、その主体意識を失う。これが nirvitarká samápatti だ。」
B.K.S.アイエンガー
サマーディ
「ニルヴィタルカ(推理のない)と呼ばれる三 昧 の中で、私たちは高度な段階に到達する。私たちが達
成する集中対象との同一化は、名前(*言葉)、性質(*対象)、知識(*観念)への気づきと混合していない。
換言すれば、私たちはついに対象への反応である想念の波を鎮めることが可能となり、対象の真の姿と
しての、それ自体を、カント(*ドイツの哲学者)の用いた有名な用語『物自体』を知ることが可能とな
るのだ。・・カントは『物自体は私たちには全く知ることができない、対象はそれ自身で存在し、私た
ちの感覚知覚とは隔離している。私たちは対象を自分の知覚方法で知ることができるに過ぎない。』と
書いている。しかしパタンジャリはカントには同意しない。パタンジャリは、そこには感覚知覚を超え
た知識の高度な種類、超越知識が存在し、それにより『物自体』を知ることができる、と私たちに告げ
ている。これが、全ての宗教の実践的神秘家たちによって語られる根本的主張なのだ。」
スワミ・プラバーヴァナンダ
エータヤイヴァ
サヴィ チャーラー
ニ ル ヴィ チ ャ ー ラ ー
チャ
スークシュマヴィシャヤー
ヴ ャ ー キ ャ ー タ ー
Ⅰ-44 etayaiva savicárá nirvicárá ca sékømaviøayá vyákhyátá
エータヤイヴァ
etaya これにより eva それのみで、それ自体が
etayaiva
サヴィチャーラー
サマーパッティ
識別の伴う
savicárá
チャ
ca
定
うしきべつじょう
ニルヴィチャーラー
(有識別定)
nirvicárá
サマーパッティ
識別を超越した
定
むしきべつじょう
(無識別定)
スークシュマヴィシャヤー
そして
sékømaviøayá
sékøma 精妙な viøayá 対象、主題
ヴ ャ ー キ ャ ー タ ー
vyákhyátá
説明される、解説される、定義される
サマーパッティ
これら(前節の説明)により、さらに精妙な対象への
定
サヴィチヤーラー・サマーパッティ
である 有 識 別 定 と
ニルヴィチャーラー・サマーパッティ
無 識 別 定 も説明される。
サマーパッティ
「これらの没入(*
定
タ ンマー トラ
)が、空間、時間、因果律(原因結果)によって条件付けられ、精妙要素(*音、
サヴィチャーラー
触、色、味、臭素)の粗大な形態(*形ある対象物)の中で生じるとき、savicárá あるいは識別(*洞察)と
タ ンマー トラ
呼ばれる。その中では、瞑想対象が精妙要素の単一体として、属性を伴い認識され、その知識は瞑想状
タ ンマー トラ
サマーパッティ
態の中で獲得される。しかし、その精妙要素への
定
または没入が、時間つまり過去・現在・未来のど
タ ンマー トラ
んな変化にも影響されない精妙要素に定まり、その瞑想対象の全ての(可能な)特性と、全ての空間内の
位 置 ( 空 間に 制 限さ れ ない ) を 含 む存 在 のみ と 関わ る と き、 ─ ─ こ の 種の 全 て を含 ん だ没入が
ニ ル ヴィチ ャーラ ー
nirvicárá 、あるいは 超(*無)識別と呼ばれる。・・・そしてその知識が、識別から自由であり、瞑想
ニ ル ヴィチ ャーラ ー
サマーパッティ
む しきべつじょう
対象への没入からのみ生じるとき、それが nirvicárá(無識別 定 )である。 定 において、粗大な対
サ ヴ ィ タ ル カー
う す いり
む す いり ニルヴィタルカー
象に関係するものが有推理(savitarká)または無推理(nirvitarká)であり、精妙な対象に関係するもの
う しきべつ サ ヴ ィ チ ャ ー ラ ー
む しきべつ ニ ル ヴィチ ャーラ ー
が有識別(savicárá)または無識別(nirvicárá)である。
」
ヴィヤーサ 解説
スワミ・ハリハラーナンダ 英訳
ニルヴィタルカー
サヴィチャーラー
ニルヴィチャーラー
アーナンダ
アスミター
「 無 推 理 の後、そこにはさらに 4 つの段階があり、それらは 有 識 別 、 無 識 別 、至 福 、私意識と
スークシュマヴィシャヤー
サマーディ
アーナンダ
呼ばれる。sékømaviøayá(精妙な対象) という言葉は、 三 昧 の精妙な段階を意味している。 至 福 と
ア ス ミ タ ー サマーディ
アーナンダ
アスミター
サヴィチャーラー
サマーディ
私意識 三 昧 の中では融合する対象がそれぞれ至福(*至 福 )と気づき(*私意識)だ。有 識 別 以前の三 昧
では、探究者は一つの対象の名前、形、性質に気づいている。これら三つが交互に、あるいはその本質
サヴィチャーラー
が知覚される。 有 識 別 では、その全体のプロセスは識別そのものとなる。そこに形は存在しない。そ
の説明は困難だ。あなたは静かに座り、シヴァ神かその他の対象を瞑想する。その集中は形の内部の直
接的洞察であり、そこに言葉による思考はない。
洞察のプロセスには言葉は存在しないが、一般的思考においてはいつも言葉が含まれている。言葉は
サヴィタルカー
ニルヴィタルカー
ヴィチャーラー
有 推 理 と 無 推 理 の段階において存在する。思考において言葉が存在しないとき、それは 識 別 と呼
サヴィチャーラー
サヴィチャーラー
ばれる。 有 識 別 では、三つの事柄が存在する。それらは時間、空間、そして概念だ。 有 識 別 では、
時間、空間、概念が交互に心に生じる。そこに融合はない。そこにはそれぞれ(*時間、空間、概念)へ
ヴィチャーラー
の完全に純粋な気づきが個別的に存在するのだ。その時間、空間、概念は 識 別 と呼ばれる。それは思
ヴィチャーラー
考ではない。 識 別 の定義とは、意識が言葉の基盤なしに流れることだ。形への瞑想には言葉が含まれ
ヴ ィ ジ ョ ン
ていることを憶えておくべきだ。一点集得中の状態でさえ、言葉を基盤にしている。探究者は、霊的光景
の突然のひらめきを通じてのみ、言葉の基盤を超越できるのだ。
サヴィチャーラー
プラティヤビギャー
有 識 別 のその意識は pratyabhijðá と呼ばれ、覚醒した意識を意味する。その意識は、意識のより
ニルヴィチャーラー
深い状態内の私たちの全てのプロセスを指導する。 無 識 別 で、空間、時間、概念は消滅するが、その
背後にはあるものは残留し、それは思考の本質と呼ばれる。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
ス ー ク シ ュ マ ヴ ィ シ ャ ヤ ト ヴ ァ ム
チャ
ア リ ン ガ パ リ ャ ヴ ァ サ ー ナ ム
Ⅰ-45 sékømaviøayatvaó ca aliïgaparyavasánam
ス ー ク シ ュ マ ヴ ィ シ ャ ヤ ト ヴ ァ ム
sékømaviøayatvaó sékøma 精妙な viøayatvaó 対象、主題
チャ
ca そして
ア リ ン ガ パ リ ャ ヴ ァ サ ー ナ ム
ア リ ン ガ
プ ラ ク リ テ ィ
aliïgaparyavasánam aliïga 無痕跡(非顕現の根本原質) paryavasánam 進展、極点、終点
サマーパッティ
ア リ ン ガ
プ ラ ク リ テ ィ
( 定 の)対象の精妙性は、無痕跡(根本原質)にまで進展する。
アプ
ガ ンダ
クシティ
ラ
テージャス
サ
ル ーパ
ヴァーュ
アーカーシャ
スパルシャ
「 土 要素の精妙な形態は、香素であり、水要素は味素、 火 要素は光素、空気要素は触 素 、虚 空
シャブダ
ア ハンカ ーラ
タンマートラ
要素は音素である。それよりも精妙な形態、つまり精妙素の構成要素は自我意識であり、さらに自我意
ブ
ッ
デ
ィ
マ ハ ー ン
マ ハ ッ ト
タ ット ヴァ
識よりも精妙な形態は認識知性(Mahán または Mahat-tattva)である。
ブ
ッ
デ
ィ
プ ラ ク リ テ ィ
第一番目に顕現した認識知性のより精妙な形態は、非顕現なるもの、つまり根本原質である。その非
プ ラ ク リ テ ィ
プ
ル
シ
ャ
顕現なるもの(*根本原質)よりも精妙なものは存在しない。もし純粋精神がそれよりも精妙であろうと
プ
ル
シ
ャ
プ ラ ク リ テ ィ
云うのであれば、その答えは『それは真実だが、しかし純粋精神の精妙性は、非顕現の根本原質の精妙
プ
ル
シ
ャ
ブ
ッ
デ
ィ
性とは種類が違う。』というものだ。純粋精神は、第一番目に顕現した対象物である認識知性の物質的
プ ラ ダ ー ナ
原因ではなく、その効力ある(*精神的)原因なのだ。そういう理由で、その精妙性は根本基盤または
グ
プ ラ ク リ テ ィ
ナ
根本原質(三つの Guna または三つの構成原理の均衡状態)が到達終点であると言われてきたのだ。」
ヴィヤーサ 解説
アーナンダ
スワミ・ハリハラーナンダ 英訳
ア リ ン ガ
ア ス ミ タ ー サマーディ
ア リ ン ガ
グ
ナ
サットヴァ
ラジャス
「至 福 と私意識 三 昧 の体験領域は、無痕跡にまで進展する。無痕跡は、三つの属性(*純 質 、激質、
タ マス
グ
ナ
闇質)が均衡し相互に完全に混合する最終状態を意味する。属性には四つの段階があり、最後の段階が
ア リ ン ガ
無痕跡と呼ばれる。それは何の痕跡もなく、区別できるどんな性質もないのだ。
グ
ナ
ヴィシェーシャ
う とくせい
アーキタイプ
属性の第一番目の段階は有特性(* v i ù e ø a )と呼ばれる特定の段階だ。第二番目の段階は 元 型 、ある
アヴィシェーシャ
むとくせい
リンガマートラ
む こんせき
アリンガ
いは無特性(* a v ù e ø a )だ。第三番目は痕跡を伴い(*lingamátra)、第四番目は無痕跡(*alinga)だ。
サヴィタルカー
ニルヴィタルカー
アサムプラギャータ
有 推 理 、無 推 理 、 無
アサムプラギャータ
そして 無
サヴィチャーラー
ニルヴィチャーラー
アサムプラギャータ
想 の瞑想の後、有 識 別 、無 識 別 そして 無
アーナンダ
アサムプラギャータ
想 、至 福 、 無
ニルヴィージャサマーディ
アスミター
想 、私意識
たね
想 に進展し、無 種 子 三 昧 が開始する。この地点に到達するまでは、私たちは種(*過去の
サマーディ
たね
潜在印象)を伴う三 昧 について検討しているのだ。ときどき種は、ラーマ、クリシュナ、シヴァなどの
たね
アーキタイプ
特定の種、特定の基盤を持つ。さらに進展すると、普遍的な 元 型 が現れ、それを超えるとある痕跡が
オ ー ム
存在する。ある象徴があなたにやって来るだろう、たぶんキリスト、十字架、シヴァ、あるいは Aum
かもしれない、しかしその象徴はあなたが以前に見たものとは異なることだろう。それはただの痕跡だ。
あなたの意識はある痕跡としてあなたに見えるのだ。第四番目の段階には、何の痕跡も存在しない。あ
なたは意識がどこにあるのか語ることはできない。そこには第一に気づきが存在するのだ、だから
ア リ ン ガ
グ
ナ
サットヴァ
ラジャス
タ マス
無痕跡は三つの属性、純 質 、激質、闇質の第四番目の段階なのだ。
サットヴァ
ラジャス
タ マス
サットヴァ
第一番目の段階では、純 質 、激質、闇質の組み合わせが存在する。第二番目の段階では、純 質 が発
ラジャス
タ マス
サットヴァ
サットヴァ
展し激質と闇質は従属的となる。第三番目の段階では純 質 だけが留まり、第四番目の段階では、純 質 、
ラジャス
タ マス
グ
ア リ ン ガ
ナ
激質、闇質が均衡する。三つの属性が均衡するとき、無痕跡の状態は達成されるのだ。」
スワミ・サッティヤーナンダ
グ
ナ
ヴィヤーサ解説による属性の四つの段階
ヴィシェーシャ
有特性
マ
アヴィシェーシャ
無特性
ナ
ス
マ ハーブ ータ
ア ハムカ ーラ
タ ンマー トラ
── 自我意識、五素粒子。
リ ン ガ マ ー ト ラ
ブ
ッ
デ
ィ
痕跡を伴う ── 認識知性。
ア リ ン ガ
ギャネーンドリヤ
カルメーンドリヤ
── 思考器官、五大要素、五知覚器官、五行為器官。
プ ラ ク リ テ ィ
無痕跡 ── 根本原質。
タ
エーヴァ
サビージャハ
サ マ ー デ ィ ヒ
Ⅰ-46 ta eva sabæjaë samádhië
タ
ta
エーヴァ
これら
~のみ
eva
サマーパッティ
サビージャハ
たね
sabæjaë
種を伴う、対象を持つ
ビージャ
サ マ ー デ ィ ヒ
samádhië
三昧
サマーディ
これら(の 定 )は、全て 種 のある三昧である。
サマーパッティ
「前に述べた 4 つの没入(*
定
)は、それらの対象が外界の事柄だ。そういう理由で、それらの対
う す いり
サ ヴ ィ タ ル カー
む す いり
象は展開する物事に依存しなければならないのだ。それらの 2 つは、有 推理 ( savitarká )と無 推理
ニルヴィタルカー
サヴィチャーラー
う しきべつ
む しきべつ
ニ ル ヴィチ ャーラ ー
(nirvitarká)で、粗大な対象と関連し、その他の 2 つは、有識別(savicárá)と無識別(nirvicárá)で、
精妙な対象と関連している。
」
ヴィヤーサ 解説
プ ラ ク リ テ ィ
スワミ・ハリハラーナンダ 英訳
サムヤマ
「根本原質の領域内の全ての対象物に綜制(*集中)が実践され、それらの相対的真実が発見されるこ
サマーディ
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
とは、1 章 45 節で要約した。これらの対象物に関するどんな三 昧 も、有種子 三 昧 と呼ばれ、その理由
サムヤマ
たね
は 1 章 42 節で説明した。綜制が実践される対象物は、それが粗大であれ精妙であれ、専門的に「種」
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
サマーディ
と呼ばれる。そこで、有種子 三 昧 はまた客体的(*対象物)三 昧 とも呼ばれ、それとは反対に、そこに「対
たね
サマーディ
ニルビージャサマーディ
サマーディ
象物」や「種」の存在しない三 昧 は、無種子 三 昧 または主体的三 昧 と呼ばれる。後者は、探究者自身
プ ラ ク リ テ ィ
が探究の対象だ。根本原質の領域内の全ての対象物の真実を見た探究者は、次に自分自身の真実を見た
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
プ ラ ク リ テ ィ
ニルビージャサマーディ
いと望む。有種子 三 昧 と無種子 三 昧 の区別は、根本原質の相対的真実(*客体)に関連する対象物が存在
プ ラ ク リ テ ィ
ニルビージャ サマーディ
プ
ル
シ
ャ
しているかどうかだ。無種子 三 昧 では、根本原質の領域を超越した純粋精神が「対象(*客体)のない」
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
対象(*主体)だ。彼は探究者であり、同時に探究する対象なのだ。有種子 三 昧 においてもまた、彼は実
ヴィジョン
ニルビージャ サマーディ
際自分自身を探究しているのだが、自身の光 景 は覆われ、曖昧で、不明瞭だ。無種子 三 昧 において、
ヴィジョン
ヴィジョン
彼は自分自身の完全な光 景 を獲得するために、最後の覆いを引き剥がそうと試みるのだ。その光 景 こ
I.K.タイムニ
そが、自己覚醒と呼ばれるものだ。
」
たね
「あなたが瞑想する対象はビージャ、つまり種だ。それは意識を支える基盤を形成する。最終的に、
ビージャ
ビージャ
意識がその 種 の形態に集中するとき、それら(*意識と 種 )は塩と水のように一体になる、そして心の
ビージャ
主体性が消失する。心は 種 の中で心自体を消失し、その逆もまた同様だ、そのあと、そこにはこの意
アスミター
識さえも除去されるべき段階が来る。私意識が最後であり、意識の至高の段階だ。その状態では、意識
も意識の対象も消失しないが、それらは相互に依存している。そこに区別はないのだ。このように、こ
ビージャ
アスミター
のあと、私意識の気づきも消失する。かくして、 種 と同様に意識も消失するのだ。それはちょうど、
水が塩と水の混合から蒸発するようなものだ。気づきのプロセスそのものが消失する、これは実に難し
いことではあるが。
ヴィタルカー
サ ビ ー ジ ャ アサムプラギャータ
アスミター
推 理 から私意識への全てのプロセスは、有種子無想三昧だ。そこでは、超越意識がその基盤となっ
ニルビージャ
ロ ーカ
ている。この後にやって来るのが、無種子だ。その領域や境域を通じて進んで行くその矢(*意識)は、
ロ ーカ
サヴィタルカー
ニルヴィタルカー
あなたの個人的意識だ。各境域で、あなたは有 推 理 と 無 推 理 を体験する。つまり、最初そこには肯定
的な進展が生じ、そのあと否定(*超越)的な進展が生じるのだ。最初そこには気づきの基盤として言語
があり、次に洞察があり、そのあとそこには簡潔な体験がある。そこには言葉も、観念も、何もないの
サムプラギャータ
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
だ。あなたはそれが何かを知らない。それはただ気づきのみだ。有想三昧と有種子 三 昧 は異なることに
アサムプラギャータ
ニルビージャ
ニルヴィカルパ
サマーディ
注目するべきだ。無想三昧、無種子、無 想 念 は、三 昧 の異なる段階だ。それらを混同または同等と見
なすべきではない。
」
スワミ・サッティヤーナンダ
Ⅰ-47
ニルヴィチャーラヴァイシャーラディエー
アディヤートマプラサーダハ
nirvicáravaiùáradye adhyátmaprasádaë
ニルヴィチャーラヴァイシャーラディエー
nirvicáravaiùáradye nirvicára 無識別定、超識別の三昧
vaiùáradye 熟達、完成、純粋な不断の流れ
ア デ ィ ヤ ー ト マ プ ラ サ ー ダ ハ
adhyátmaprasádaë adhyátma 霊性の、真の自己に向かう、内的認識力
prasádaë 光明、啓示、清らかな照明
ニルヴィチャーラ
無識別定に熟達するとき、霊性の光明が啓示する。
ブ
ッ
デ
ィ
ラジャス
タ マス
「認識知性の照らす性質を覆う不純性が除去されるとき、激質と闇質の汚れから自由な静穏な認識の流
ニルヴィチャーラー
ニルヴィチャーラー
れが生じ、それは(*無識別定の)熟達と呼ばれる。ヨーギが無識別定の集中でその熟達を得ると、同時
に知覚の内的器官が純粋無垢となり、物事をあるがままに認識する力を獲得する。つまり時間を超越し
た、瞑想対象のあらゆる側面を含む、覚醒の力を通じた知識の透明な光を獲得する。この境地に関して
(マハーバーラタの中に)次のように記されている。『丘の頂上にいる人が平原にいる人を見るように、
知識の宮殿に登って悲しみから解放された人は、(*同情心に満ちて)苦しんでいる人々を見る。
』と。
」
ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳
ラジャス
タ マス
ブ
ッ
デ
ィ
サットヴァ
「激質 と闇質 の影響から解放されるとき、認識知性 の 純 質 つまり照明性が優勢となる。それが
ア デ ィ ヤ ー ト マ プ ラ サ ー ダ ハ
ブ
ッ
デ
ィ
adhyátmaprasádaë(霊性の光明の啓示)だ。認識知性は認識の至高の器官だ。だからその清浄さはそ
の他全ての感覚を照らす。そこで知覚は最高の状態へと発展し、そのとき認識されるものが何であれ、
それは完全な真実だ。その知識は一般的知識のように部分的に生じるのではなく、その状態の中では対
象のあらゆる特性と変化とが同時に現れ認識されるのだ。前にも述べたように、推理や言葉の伝達を通
サマーディ
じた知識は一般的な知識だ。特別な境地と関わる直接の認識は、三 昧 の中で至高の発展を遂げる。そう
いう理由で、究極の境地はこの過程を通じて認識される。聖者たちはこの方法により知識を獲得し、シ
ュルティ(聖典)という形式で他者に伝達する。その形式は救済の哲学なのだ。」
スワミ・ハリハラーナンダ
ニルヴィチャーラーサマーディ
「このスートラは、ヨーギが 無 識 別 三 昧 の最終段階に到達するとき、心に霊性の光明が押し寄せ
ブ
ッ
デ
ィ
ることを指摘している、そしてその光明は知性と次のより高度な霊的原理、認識知性つまり直感とを区
ブ
ッ
デ
ィ
分する境界地帯だ。この段階で、知恵と霊性の源泉である認識知性の光は、その輝きを知性に放射し始
アートマー
ブ
ッ
デ
ィ
マ
ナ
ス
める。このように照明された知性は、低い自己の奴隷であることを止め、自 己 ・認識知性・思考器官を
通じて活動する、自発的な高度な自己の媒体となる。なぜなら、知性と連結した歪曲や妄想は、この
ブ
ッ
デ
ィ
ブ
ッ
デ
ィ
認識知性の原理には内在していないからだ。歪曲や妄想は、霊性の光明の不在によるものだ。認識知性
アートマー
の光に照らされ、自 己 に制御された知性は、覚醒者たちが彼らの活動で常に用いている、素晴らしく強
I.K.タイムニ
力な媒体なのだ。
」
ニルヴィチャーラーサマーディ
「パタンジャリは、 無 識 別 三 昧 の状態において、心は『純粋』になり『真実に満ちる』と述べて
ニルヴィチャーラーサマーディ
いる。心が純粋になると言われるのは、この状態(* 無 識 別 三 昧 )で副次的な全ての想念の波が、集中
たね
する一つの対象への巨大な波によって吸収されてしまうからだ。この波の内部には執着の『種』がなお
たね
存在していることは事実だが、しかしそれは活動を一時中断した状態だ。そのとき、『種』は集中の害
たね
にはならず、その力も復活しないだろう、なぜならこの状態にまで進歩するとき、『種』が絶滅する最
終段階は、そう遠くはないからだ。
」
スワミ・プラバーヴァナンダ
リ タ ム バ ラ ー
タ ト ラ
プ ラギ ャ ー
Ⅰ-48 ìtaóbhará tatra prajða
リ タ ム バ ラ ー
ìtaóbhará ìtaó 真実、実体、精髄 bhará 完全な、十分な、満ちた
タ ト ラ
プ ラ ギ ャ ー
tatra そこ
prajða 特別の直感、直接認識、超越意識
リ
タ
ム
バ
ラ
ー
その(霊性の光明の啓示)中で、完全な真実の直接認識が生じる。
ブ
ッ
デ
ィ
リ タ ム バ ラ ー
サマーディ
「認識知性が浄化されるとき、その三 昧 の心の中に現れる知識は ìtaóbhará(純粋な真実に満ちた)
と呼ばれ、その名称の理由を示す。それは偽りの痕跡が全く存在しない、真実だけを保持している。こ
れに関して次のように言われて来た。
『聖典の学習、推理、瞑想実践への固執、これら三つの方法を通
じて強力な内的洞察は発展し、完全なヨーガ(無種子つまり対象の無い集中)は実現する』と。」
ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳
リ タ ム
サッティヤム
「ritam と satyam は、その上にヒンドゥ教の信条全ての構造が成り立つ二つの言葉だ。信仰と迷
リ タ ム
サッティヤム
信はヒンドゥ哲学と宗教の基礎ではなく、 ritam と satyam がそれだ。ヒンドゥー哲学者たちは、
この世界とその創造は進化(展開)のプロセスだと考えるが、しかしこの宇宙が単なる自然や物質の現れ
であるとは信じていない。彼らは、エネルギーこそがこの宇宙の根本原因だと考えている。
サット
サット
リ タ ム
サッティヤム
Sat(*究極の存在)はエネルギーよりも精妙だ。Sat は存在を意味する。それは ritam と satyam と
サッティヤム
リ タ ム
呼ばれる二つの側面を持っている。satyam は創造の相対的な側面であり、ritam は絶対または普遍
サッティヤム
的側面だ。satyam は感覚器官によって知覚可能であり、心によって理解できる。その世界は変化する。
リ タ ム
それは相互依存の領域だが、ritam はそうではない。それは変化しないのだ。これらが全宇宙の二つの
サッティヤム
リ タ ム
側面だ。惑星や恒星の世界は相対世界なので satyam だ、しかし絶対世界である ritam は、エネル
リ タ ム
ニルヴィチャーラー
ギーと変化を超越している。ritam は物質とエネルギーを超越した究極の真実だ。無識別定のあと、霊
リ タ ム
性の探究者の超越意識は、絶対の知識である ritam に満たされ、そこでは感覚器官は機能しない。そ
れはまるで、音が最高の波動になるとき無音になるようなものだ。光が最高の波動になるとき闇になる。
くう
そのように、内的体験が最高の波動になるとき、それは空となって現れるのだ。
くう
シ ュ ー ニ ャ
この特別な状態である空つまり shénya は、とてつもなく高周波で振動しているために、静寂とな
リ タ ム
リ タ ム
サッティヤム
る。それは見えず、それは、ritam ── 普遍的実在と呼ばれる。全宇宙の創造は ritam と satyam と
サッティヤム
リ タ ム
共に開始する。satyam は最終的には ritam の部分となる。ヒンドゥ哲学者は、創造は永遠であると
信じている。そこには創造者も破壊者もいない。宇宙は決して創造されなかった。数百万年前、エネル
ギーと物質は(*現在とは)異なる形で存在していた。そこには創造主もなく、創造の日もなかった、な
ぜなら宇宙は無からは生じないからだ、またどうして無が存在できるだろう? どうして無が全てのも
のになることができるだろう? そういう理由でヒンドゥ哲学者は、創造主はいないと信じているのだ。
宇宙には始まりがないように、宇宙には終わりもない。物質とエネルギーは、名前と形を通じて変化し
続けるだろう、しかしこの宇宙法則は、霊的な意識を通じてのみ理解できるのだ。」
スワミ・サッテャーナンダ
ブ
ッ
デ
ィ
サマーディ
「認識知性の光が心を照らすとき、三 昧 で獲得される知識は、誤りや疑いから自由であるばかりか、
現象世界を支配する宇宙法則の基盤とも関連している。それは真理の基盤だけではなく、正義の基盤で
サマーディ
プラギャー
リ タ ム バ ラ ー
もある。そういう理由で、三 昧 のこれらの高度な段階で活動する 直 感 または意識は、ìtaóbhará(完
全な真実)と呼ばれるのだ。
・・・そのような知識を基盤とする生活と活動は正しく、全宇宙を支配する
偉大な法則に従っているのだ。
」
I.K.タイムニ
シ ュ ル タ ー ヌ マ ー ナ プ ラ ギ ャ ー ビ ャ ー ム
アニャヴィ シャヤー
ヴィ シェ ーシャ ール タト ヴァ ート
Ⅰ-49 ùrutánumánaprajðábhyám anyaviøayá viùeøárthatvát
シ ュ ル タ ー ヌ マ ー ナ プ ラ ギ ャ ー ビ ャ ー ム
ùrutánumánaprajðábhyám ùruta 証言、伝承 anumána 推理 prajðábhyám ~からの知識
ア ニ ャヴ ィ シ ャヤ ー
anyaviøayá anya 他の、異なる viøayá 主題、対象
ヴィシェーシ ャール タトヴァ ート
viùeøárthatvát viùeøa 特別な、特有の、異なる arthatva 意義、目的、対象 át ~の理由で
リ
タ
ム
バ
ラ
ー
(完全な真実の直接認識は)対象が特別であるため、証言や推理(による認識)とは異なる。
「知性を超越した霊性の領域の知識は、証言や推理のどちらでもなく、直接認識だけを根拠としてい
る。しかしこの直接認識は、感覚器官を通じた直接認識とは異なり、誤りには支配されず、証言や推理
による訂正を必要としない。
・・・意識の高度な領域では、各対象物は孤立しておらず、全ての真実、
法則、原理全体の正当な部分として認識されるのだ。・・・直感の意識は、大空全てを同時に、真の視
点から見ることが出来る目のようだ。
」
I.K.タイムニ
「われわれは一般的な対象の知識を、直接の知覚、それを基にした推理、および資格ある人々の証言
から得なければならない(*1 章 7 節)。
『資格ある人々』を、ヨーギたちは常に、リシ(見者)たち、すな
わち聖典 ── ヴェーダ ── に記されている思想を悟った人のことだ、と解釈している。彼らに従う
と、諸聖典の唯一の証拠は、それらが資格ある人々の証言であった、ということである。しかし彼らは
言う、聖典はわれわれを悟りに至らしめることはできない、と。われわれは全てのヴェーダを読みつく
すことはできるが、それでも何ひとつ悟りはしないだろう。しかしそれらの教えを実践するとき、諸聖
典が述べているあの境地、理性も知覚も推理も到達し得ず、他の者たちの証言も不可能な境地、に到達
スートラ
するのだ。これが、この格言が言っていることである。
悟り(realisation)、が真の宗教であって、他の全ては準備にすぎない ── 説法を聞いたり、書物
を読んだり、論理を辿ったりするのは、単に基礎を準備しているにすぎない。それは宗教ではない。知
じか
的同意と知的反対は共に宗教ではない。ヨーギたちの中心思想は、われわれが感覚の対象と直に接触す
るのと同様、宗教でさえも遥かにもっと強烈な感じで直接認識することができる、というものである。
宗教の真理は、神や魂と同じように、外に向いた感覚では知覚することはできない。私は、この目で神
を見ることはできないし、この手で神に触れることもできない。またわれわれは、感覚を超えて推理す
ることもできない、ということも知っている。推理はわれわれを、実に不明瞭なある一点で見離すので
ある。この世界が幾千年間もやって来たように、われわれは一生涯、推理し続けるだろう。しかもその
結果、自分たちは宗教の事実を立証することも反証することもできない、と知るのである。直接知覚す
るものを土台として、それを根拠にわれわれは推理する。それだから、推理は知覚という境界の内側を
走り回らなければならないのは、明らかである。決してそれを超えることはできない。悟りの全領域は、
それゆえ感覚の知覚の彼方にあるのだ。ヨーギたちは、人は直接の感覚知覚の彼方に、そして彼の理性
の彼方にも行くことができる、と言う。人は自身の内に能力、自身の知力をさえ超える力、あらゆる存
在、あらゆる生きものの内に潜む力を持っている。ヨーガの実践によってその力が目覚めさせられると、
そのとき人は理性の一般的限界を超越し、全ての理性の彼方にあるものを直接認識するのである。
」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
タッジャハ
サ ム ス カ ー ラ ハ
ア ニ ャ サ ム ス カ ー ラ プ ラ テ ィ バ ン デ ィ ー
Ⅰ-50 tajjaë saóskáraë anyasaóskárapratibandhæ
タッジャハ
tajjaë それ(真実の直接認識)から生じた
サ ム ス カ ー ラ ハ
saóskáraë 個人の潜在意識に蓄積された過去の体験の印象、その印象の総計が個人の現在の性格、
ぎょう
傾向性を作り出し、新たな行為を生み出す。仏教では「 行 」と訳される。
ア ニ ャ サ ム ス カ ー ラ プ ラ テ ィ バ ン デ ィ ー
anya 他の saóskára 過去の潜在印象
pratibandhæ 除去する、抑滅する
anyasaóskárapratibandhæ
リ
タ
ム
バ
ラ
ー
サムスカーラ
それ(完全な真実の直接認識)から生じる潜在印象は、他の潜在印象を抑滅する。
「集中によって得た真実の認識の潜在印象は、過去の体験の潜在印象を抑滅する。過去の体験の潜在印
サマーディ
象が抑滅されるとき、もはや過去の心の印象は現れ出なくなる。心の印象が遮断されるとき、三 昧 つま
サマーディ
サマーディ
り集中は達成される。そのあと、その三 昧 の潜在印象を伴う、三 昧 の知識がやって来る。これが、ど
のように新しい潜在印象が育まれていくかの過程だ。なぜこの新しい潜在印象は、心が現れ出る性質を
抑滅するのか、という問いが起こるに違いない。その答えは、これらの新しい潜在印象は、苦悩(*心の
動揺)を破壊し、心が活動する傾向性を造り出さないからだ。また、その新しい潜在印象は、(心が活動
ヴィヴェ ーカキャーテ ィ
する)性質も抑滅させるのだ。(*集中による)心理的努力は、識別による知識(*Vivekakháti と呼ばれる
プ
ル
シ
ャ
ブ
ッ
デ
ィ
純粋精神と認識知性の識別の知識)を獲得するまで存在し続ける。」
ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳
サ ム ス カ ー ラ
「心のどんな認識も生来の活動も、それらの印象を形成し存続させ、それらは saóskára つまり潜
在印象と呼ばれる。(過去の)知識の印象の思い出は記憶と呼ばれ、行為の印象の再現は自動的活動と呼
ばれる。全ての知識と活動は、潜在印象の援護を伴って生じる。一般の人間にとって、以前の潜在印象
を完全に放棄して、新しく知ることや行為を為すことは不可能だ。
潜在印象は二つの種類に分けらける。有害なものと有益なもの、つまり無知から生じるものと正しい
知識に満ちたものだ。その知識が無知に対抗するものであるとき、真の知識の潜在印象は無知の印象を
サ ム プ ラ ギ ャ ー タ
サ マ ー デ ィ
破壊する。samprajðáta samádhi(高度な知識を伴う三昧)から生じる知識は知識の頂点だが、その最
プ
ル
シ
ャ
ブ
ッ
デ
ィ
サマーディ
終段階は(*純粋精神と認識知性の)識別の覚醒だ。そういう理由で、三 昧 を通じて生じた知識の印象は、
無知の潜在印象を破壊する。心の動揺は、実に愛着、憎しみ、その他の無知によって生じるため、無知
の潜在印象が弱まるとき、心の動揺もまた弱まるのだ。
サ ム プ ラ ギ ャ ー タ
ヨ ー ガ
心の動揺の性質は、心の潜在印象から生じる。それだから、samprajðáta yoga(*高度な知識を伴う
三昧)を通じて生まれた印象もまた、心にそのような影響を与えることだろう。しかしこの場合の影響
サムプラギャータ
は心の動揺とは異なる。高度な知識 の印象は、不幸を生み出す心の印象を除去する印象なのだ。
サムプラギャータ
高度な知識の印象がより強まるとき、心の活動が停止に至るまで弱まって行く。
サ ム プ ラ ギ ャ ー タ
ヨ ー ガ
ヴィヴェーカキャーテ ィ
samprajðáta yoga が Vivekakháti つまり識別の覚醒の至高の段階に到達するとき、心の活動は停
ブ
ッ
デ
ィ
プ
ル
シ
ャ
止する。それを通じて、全ての悲しみの受容器である認識知性と、普遍の認識者である純粋精神の相違
プ
ル
シ
ャ
カイヴァリャ
に目覚め、至高の無執着が達成され、心は活動を停止する、そのとき見る者(*純粋精神)は、Kaivalya つ
まり解脱の状態に達したと言われるのだ。
」
スワミ・ハリハラーナンダ
タ シ ャ ー ピ
ニ ロ ー デ ー
サ ル ヴ ァ ニ ロ ー ダ ー ト
ニルビージャハ
サ マ ー デ ィ ヒ
Ⅰ-51 tasyápi nirodhe sarvanirodhát nirbæjaë samádhië
タ シ ャ ー ピ
ニ ロ ー デ ー
tasyápi tasya その api でさえ、もまた
nirodhe 抑止、抑滅、破壊、除去、封鎖により
サ ル ヴ ァ ニ ロ ー ダ ー ト
sarvanirodhát sarva 全て nirodhát 抑滅、破壊、封鎖によって
ニルビージャハ
サ マ ー デ ィ ヒ
nirbæjaë 種の無い、無種子の
samádhië 三昧
リ
タ
ム
バ
ラ
ー
サムスカーラ
それ(完全な真実の直接認識 から生じる潜在印象 )さえも抑滅されるとき、全てが抑滅され
ニルヴィージャ・サマーディ
無 種 子 三 昧 が実現する。
ニルヴィージャ・サマーディ
サ ム プ ラ ギ ャ ー タ
サ マ ー デ ィ
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
「その対象の無い集中(* 無 種 子 三 昧 )は、samprajðáta samádhi(*有種子 三 昧 )に対抗するもの
サマーディ
ニ
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
ロ
ー
ダ
であるばかりか、その三 昧 (*有種子 三 昧 )の潜在印象の形成にも対抗する、なぜなら Nirodha(止滅)
サ ム プ ラ ギ ャ ー タ
サ マ ー デ ィ
の潜在印象は、心の活動を完全に停止させるものであり、その至高の無執着は samprajðáta samádhi
リ
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
タ
ム
バ
ラ
ー
(*有種子 三 昧 )の潜在印象を撲滅するからだ。心が知識(*完全な真実の直接認識)を獲得し、その活動を
サ ム プ ラ ギ ャ ー タ
停止している間、その停止状態の潜在印象の存在が推測できる。その状態のとき心は、samprajðáta
サ マ ー デ ィ
カ イ ヴ ァ リ ャ
サ ビ ー ジ ャ サマーディ
samádhi(*有種子 三 昧 )の潜在印象と、Kaivalya つまり解脱の境地へと導く潜在印象とが共に、心の
リ
タ
ム
バ
ラ
ー
プ ラクリ ティ
源泉であり恒常する根本原質へと融合する。そういう理由で、そのような知識(*完全な真実の直接認識)
の潜在印象は心の活動する性質を撲滅し、心の活動の継続には寄与しないのだ。なぜならその局面の終
極では、その潜在印象が救済(解脱)へと導く力を結集するため、心は活動を停止するのだから。心が活
プ
ル
シ
ャ
プ
ル
シ
ャ
動を停止するとき、純粋精神は自身に独存する、それだからそのとき純粋精神は、純粋で解脱した者と
呼ばれるのだ。
」
ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳
「われわれの目標は魂そのものを認識することだ、ということは、皆さん記憶しておられるだろ
う。
・・・無知の人は彼の肉体を魂であると思う。学識ある人は、彼の心が魂であると思う。しかしど
ちらも間違いである。何が魂を、これら全てと混同させるのか。チッタ(*心)の中に様々の波が立って
魂を覆い隠す。われわれはこれらの波を通して魂のほんの少しの反映しか見ない。それで、もしその波
が怒りの波であれば、魂が怒っているのだと思って、『私は怒っている』と言うのだ。もしそれが愛の
波であれば、われわれはその波に映っている自分を見て、われわれは愛している、と言う。・・・これ
ら様々の想念はこれらの印象、魂を覆っているこれらのサムスカーラ(*過去の潜在印象)から来るので
ある。魂の真の性質は、チッタ(*心)の湖にたった一つの波でも立っている間は見えない。この真の性
質は、全ての波が静まるまでは決して見ることはできないであろう。それだから・・・パタンジャリは
われわれに・・・云わば火が火を飲み込むように、どのように一つの波を、他の全ての波を抑えるほど
に強くするか、ということを教えているのだ。たった一つの波が残ったときには、それをも抑える、と
たやす
いうことは容易いことであろう。そしてそれ(*最後の一つの波)が消滅してしまうとき、このサマーデ
た
ね
ィすなわち集中が、種子の無い、と呼ばれるものなのである。それは何ものも残さない。そして魂が、
そのあるがままに、それ自らの栄光のうちに現れる。そのときに初めてわれわれは、魂は合成物(*身体
や心)ではない、ということを知るのだ。それは宇宙の永遠なる単一体であり、誕生することはなく、
死ぬこともない。それは不死、不壊、永遠に生きる、知恵の本質なのである。」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ