Page 1 Page 2 「解説」 眉山大崩壊と津波被害 ー792年5月 2ー日 (寛政

熊本大学学術リポジトリ
Kumamoto University Repository System
Title
眉山大崩壊と津波災害
Author(s)
堀川, 治城
Citation
熊本地学会誌, 86: 2-14
Issue date
1987-12-01
Type
Departmental Bulletin Paper
URL
http://hdl.handle.net/2298/28172
Right
「解説」
眉山大崩壊と津波被害
東町中学校堀川治城
1792年5月21日(寛政四年四月朔日)
島原半島にある眉山が崩壊し、山体をつくっ
ここでは、災いを引き起こした島原側とそ
のために被害を被った熊本側について述べる。
ていた土石が海中に流れ出したため津波が発
生し、島原及び熊本地方合わせて死者1万5
I地変が起きた島原帆I
千人、家屋倒壊千2百戸の大惨事が起こって
いる。以来196年、やがて二百年目を迎えよ
1.眉山大崩壊に至る経緯
寛政地変は、日本の津波災害でも特異なも
うとしている。
寛政地変は規模において災害史上に特筆さ
のであった。それは火山活動に関連して狭い
れるものであり、日本最大の火山災害になっ
湾内で発生したものであって、火山活動の副
ている。この地変を島原大変と呼び「島原大
産物としての津波である。
変肥後迷惑」のことばはこの地変を端的に表
この大崩壊の原因は一体なんだったのであ
している。日本の火山災害史上例をみない大
ろうか。先にも述べたように、古くから地震
惨事を引き起こした雲仙岳の噴火、地震につ
崩壊説、火山爆裂説があり、そして熱水増大
いては、当時の記録がかなり残され、後年に
説も提唱されるようになった。1980年の
整理、編集されたり、それらをもとに研究さ
セントヘレンズ火山の大爆裂や1配4年の
れた寛政地変に関する文献も多く、その実態
木曽御岳山で地震動による岩屑崩の発生は火
はほぼ掴むことができる。
山体に発生する巨大崩壊のメカニズムにつ
当時、雲仙火山の主峰である普賢岳は火山
いて多くの示唆を与えた。太田(1987)
活動が活発で溶岩の流出などもみられた(図
による眉山大崩壊の見解は以下のようである。
1参照)o眉山崩壊の原因は謎につつまれて
寛政地変の前年あたりから、雲仙岳の一帯
いる部分もあり、古くから地震崩壊説と火山
で地震や噴火がみられたことは数多くの古記
爆裂説とがあり、最近ではそれに加えて温泉
録に残されている。その中で片山(1974)
水が大量に出たため地滑りを起こしたとする
は自然科学的吟味を行っており、、それによる
熱水増大説も提唱されている。しかしながら、
と
、
激論がたたかわされてきた眉山大崩壊の原因
眉山大崩壊が発生したのは1792年5月
を、単に「地震崩壊」、「火山爆裂」、ある
21日であるが、雲仙火山ではその前年の11月
いは「熱水増大」と特定することは困難とし
頃から地震が群発を始めていた。震央域
た太田(1987)は、「眉山大崩壊は、脆
は反対側の西麓とみられ、千々石湾に面し
弱な山体が火山活動によって激増した熱水と、
た現在の小浜、千々石両町一帯で被害がみら
直下型浅発中∼小地震との複合作用により瞬
れた。この地域では、1922年と1984串こ
間的に安定性が低下して発生した。岩屑流は
も被害地震が発生していて、日本では有
海中に突入し、津波を誘発、死者1万5千人
数の地震多発地域として知られている。その
に達する大被害をもたらした。」とまとめて
三カ月後には、眉山に隣接する普賢岳で噴火
おり、その見解が今日では代表のようになっ
が始まり、やがて溶岩(新焼溶岩)を流した
ている。
した。この溶岩流出はほぼ50日間で終った
−2−
が、噴煙活動は半年以上に及んだ。その近傍
分くらい、二回目の地震は漂う舟のようにゆ
からは、1663年にも溶岩(古焼溶岩)を
っくり揺れたが大音響を伴っていて、やがて
流出しているが、有史後の噴火はこの普賢岳
津波が押し寄せてきた。当夜は大潮であり、
に限られている。地震活動はその後も断続し
闇夜で何事か実態は把握されなかった。翌朝
たが、噴火開始二カ月後の4月に入ると21日
になって眉山の大崩壊が確認され、山頂は、
から25日にかけて最大規模の地震が発生
150メートル低下し、海岸線は約800メ
し、眉山では局部崩落、島原城一帯では地割
ートル前進していた。崩壊壁からは地下水が
れを生じた。また、眉山の背後では炭酸ガス
噴出していて、押し寄せてきた津波には温か
の噴出がみられ、29日に至ると、眉山では
いところもあった。前面には多数の流れ山が
「故なくして自ずから」小規模な地滑り(楠
形成され、崩壊量は3億4千万立方メートル
平)が発生した。ここは、その後発生した大
にも達していた(図2参照)。
崩壊の中心地である。そして、西側から東側
以上のような経緯は、片山(1974)に
へ移行してきた一連の活動のクライマックス
よって四段階にまとめられている(表1)。
は、5月21日の夜に演じられた。その日の
噴火地点と大崩壊との位置関係は図1に示す‘
17時頃より地震が数回あり、20時には強
いのが二回発生した。これらは4月25日の最
2.地変資料
大規模の地震に比べると揺れの大きさは半
島原の城下町は、眉山山麓に位置していた
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図1雲仙火山における有史後の噴火地点と眉山大崩壊発生位置
(太田一也、1987)
−3−
擬峨。
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一二一一一一一一m一一一一一一一一一一国一一一
鯨
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上
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表1島原大変に関連した自然現象の日誌(片山信夫、1974)
西暦と日本標準時
活動段階
口
年・月・日・時
前駆地震群
錫
記
1791.11.3.20
1792.2.11
22ZlO半
2.29.−3.1
普腎岳噴火
a21.16半
421.17−4.22
三月朔地震群
4.23
a21.20
5.25.5.26
強い地震。
a30
上の原の井戸自噴、水勢強し。
6.17−
II山の肋れ跡に6本のたて割れを認む°谷底では沸くようなはげしい音、割れ口から混土
を咽き出す。前山の割れ筋の一部から煙立つ。
回国四回目回国
墨
眉山
僻嬢瀞
竪詞
勤
陶
臓
翰
_
=
蝿慶
図2眉山崩壊による岩屑流・土石流流下区域と流れ山の分散状態
(太田一也、1984)
−4−
c c
表21792年眉山大崩壊原因諸説(太田、1987を除く)
提 唱 窄
燐イ云蔵(19
鮪1田亥久雄(ic
言谷専彦(1978
紫房吉(190
ことと海港でもあったために、崩壊の直接被
この問題が最近再燃し、中でも長い間の争
害と異常な津波による被害との二重の被害を
点であった眉山崩壊についての火山爆裂説と
受けた。「島原一件書状之写」(P7の@で
地震崩壊説については、温泉化した地下水の
説明)は、前駆現象としての地震と噴火や眉
上昇によるものとした片山(1974)と火
山崩壊及び津波などによる被害の概要を端的
山爆発活動にともなった粉体流のような形で
に表している。
死者1万5千人は、島原半島と肥後の割合
流下したとする古谷(1974)や、地震動
によって流動化現象を来して発生した円弧地
がおよそ2:1で、「島原大変肥後迷惑」と
滑りと判断した太田(1969)などが提唱
v,う言伝えは、島原の大異変とその巻添えを
され(表2)、科学的、多角的な追究が進め
こうむった熊本側の状態を言い表したもので
られてきたが、冒頭にも紹介したように、太
ある。
田(1978)の「眉山大崩壊は、脆弱な山
噴火・崩壊の被害概要に関する注目は、地
体が火山活動によって激増した熱水と、直下
元の篤志家金井俊行・菊池寛容などによる境
型浅発中∼小地震との複合作用により、瞬間
政四年島原*睦記」・「島原地震喉己」という形
的に安定性が低下して発生した」としてまと
で関係資料の収集として始められ、今世紀の
められるようである。
初め頃から研究がなされている。先にもふれ
たが、その中で眉山崩壊の原因については、
明治時代末から大正時代にかけて論争が展開
Ⅱ被害をこうむった熊本側
1.被害内容と古文書
されてきた。その争点は、その時の地震で山
眉山崩壊を含めて雲仙火山群に関する研究
麓の島原城下の家屋等の構造物に被害を生じ
は進んでいるが被害そのもの、特に津波被害
ていないことにあり、その様な弱い地震で山
については、相対的大局的に被害の実態が充
体崩壊を起こすはずもなく、眉山自体の噴火
分に分析されているとはいえないようである。
であるとする火山爆裂説と、そのような形跡
被害がはっきりしない原因の一つには、津波
がないことから、岩体が脆弱であったので地
発生の時刻が夜であり、島原や対岸の肥後の
震動で崩れ落ちたとする地震崩壊説との対立
人々は地震や山崩れの大音響を耳にはしたも
であった。しかし、前者は決定的な証拠を欠
のの、闇夜の中では津波の襲来を目にするこ
き、後者は爆裂とする根拠薄弱をもって論拠
とは出来なかったことにもあるだろう。被害
としている。
状況を記した古文書には、「日本の歴史災害」
−5−
(菊池万雄、1980)によると次のものがある。
あげたものである。
⑨候梅亭文章(島原半島史収録)
①島原大変記(長崎県立図書館所蔵)
寛政四年温泉岳活動の概要と、付近の村人
⑩寛政四年島原地変記(島原半島史収録)
や島原城下の様子を記し、後半に「大変二
南高来郡の郡長をつとめた金井俊行が、郷
付近国御大名より御進物御使者之事」とし
土の天災地変を子孫に伝えるべくその実態
て近国諸大名からの救援状況や、城内にお
把握に全精力を注いだ努力の結晶である。
⑪肥前島原温泉岳焼崩大変仕末(九州大学図
ける対処などについて書き上げている。
②寛政四年四月朔日高波記(長崎県立図書館
書館所蔵)
⑫肥前高来郡島原温泉山大変略記(九州大学
所蔵)
明治24年に金井俊行が写本したもので原本
図書館所蔵)
は不明。同様の内容のものが熊本県立図書
@の書に合体になっているが、内容は肥後
館にもあるが、それは昭和11年に上妻博之
川尻の住人塩屋源蔵記誌となっており概要
が写本したもの。内容は大変記と大差なく、
を述べながらも、高波被害、特に肥後の分
多少津波に就いての記述が多い。
について詳細に記されている。
③寛政四年島原地変郡奉行所日記書抜(長崎
⑬損害損耗誌(熊本大学図書館所蔵)
県立図書館所蔵)
藩内における被害損耗を年代順に記録したも
高橋正路編集、島原大変記(弘化5年)と
ので、寛政四年四月朔日の項に津波被害と
最初にあり、郡奉行衆の日記・代官所日記
して老中へ急報したものである。
(村方からの届出書)など、原文に忠実な
実地踏査やその報告書などに基づいた信懇
⑭肥州島原一件間書井見物之所荒略記(熊本
大学図書館所蔵)
ル性の大きいものである。公文書的色彩が濃
島原から長崎への報告書の内から珍しい事
厚。(明治25年金井俊行写本)
件を書き留めておいたもので、内容は島原
領内についてが主である。
④旅比雑録(長崎県立図書館所蔵)
⑮津波一件(熊本大学図書館所蔵)
⑤龍珠日記(長崎県立図書館所蔵)
菊池寛容が明治壬辰四月遭災百回忌を記念
「後藤太兵衛島原表之様子咽之次第粗左之通
して著した島原地変略記の中に収録してあ
…」と、後藤太兵衛覚書として付記がある。
るもので、島原地域の被災状態が特に詳細
内容は島原一件聞書とほぼ同様の記載であ
に記されている。
る
。
⑯寛政四年日記(熊本大学図書館所蔵)
⑥守山庄屋寛政日記(島原半島史収録)
大変前後にわたって、島原藩主が避難先と
肥後領分の荒尾・飽田・玉名三郡村々の高
した守山庄屋中村佐左ヱ門が、自らの体験
波被害について詳細である。
を記録したもので信葱性は大である。事変
全般にわたっているが藩中心に記されてい
⑰千代の不知火(熊本県立図書館所蔵)
肥後領内の被害については具体的でミクロ
な視点に立っての記述が成されているが、
る。
⑦寛政四壬子年島原山焼山水高波一件(島原
人情美談集の傾向が強い。
⑬寛政年間両大変記(熊本県立図書館所蔵)
半島史収録)
③深溝世紀巻一六定公下(島原半島史
吹寄収録では、福田狸翁覚書よりの写しと
収録)
の事であるが、原本は所在不明、内容は寛
漢文体で書かれた藩の歴史であるが、この
政四年の大変と同八年五月の大洪水とを収
巻に島原大変記同様、地変の概略をまとめ
録したもので、島原大変については、特に
−6−
荒尾手永の被害が詳しい。
四月朔日津波被害三百四拾余人(正運寺)
⑲肥前国高来郡島原大変(熊本県立図書館所
三月一日ヨリ地震昼夜二三拾度・四拾度
蔵)
島原雲仙岳鳴動大二崩し四月一日暮六ツ
島原半島部の北半について特に詳細。
時当国之海辺高波溺死数千人有之
⑳両肥大変録(熊本大学図書館所蔵)
長須(長洲)ヨリ三隅(三角)ノ浦迄
寛政十一年に上村貞助が写本したものを、昭
人倫六畜屋舎田地船津大二損(真証寺)
和十六年に、更に上妻博之が写本したもの
(「日本の歴史災害」、P.102-103より)
で、上・下巻よりなっている。内容の特色
としては、高波被害、特に玉名郡について
Ⅲ津波被害
詳細である点があげられる。
、島原一件書状之写(熊本県立図書館所蔵)
1.被害の概要
佐多九州と号する人が、島原大変に関する
寛政地変の死亡者数を記載してある文献別
書状・報告書・覚。などを、大変の年五月
に並べてみると、
にまとめたもので、内容は島原半島南半の
日本噴火史(震災予防調査会、1918)
被害が詳細で、高来郡島原大変と対照的で
15,188人
ある。
日本被害地震総覧(宇佐見龍夫、1975)
この他に、肥後藩の近代史研究家渋谷敏実
15,030人
氏所蔵の資料が熊本工業大学の図書館にあ
津波高潮海洋災害(和達清夫、1970)
る。その中に「寛政津波被害之図」咽3)
14,920人
などがある。
雲仙火山61,川琢治・本間不二男、1926)
14,715人
2.寺院過去帳による記録
島原半島史下(林銑吉、1954)
島原大変の被災地域の島原市と熊本地方の
14,430人
各寺院の過去帳の中には、大変による死亡者
雲仙岳(日本火山学会、1926)
が膨大になるため、被災者のみの別冊過去帳
14,300人
をしつらえてある寺院も多く、本来したため
理科年表
ることのないはずであるにもかかわらず、し
15,030人
たためずにおられず記入したと思われる大変
を記載している。死亡者数の違いは寛政地変
事についての記事もみられる。
の被害の激甚さが数の読み上げどころではな
六十人の忌是より皆流死也……(浄源寺)
かった事を示しているように思える。「日本
と驚‘階しての書き出しがあり、他に
の歴史災害」によると被害・死亡者数につい
寛政四年四月朔日温泉前岳崩壊海岸溺数
て以下のように述べている。
知レズ(光応寺)
当時の記録の中から信葱‘性の高い島原藩主
など、数知れぬ被災者を弔う寺院の当惑と、
松平主殿頭から幕府御用番松平伊豆守へ提出
被害の始終を簡潔に記録した過去帳もある。
した被害届(寛政四壬子年島原山焼山水高波
当正月拾八日より温泉普現岳二火出其日
一件)9,531人や、島原対岸天草(寛政四年
より毎日毎夜大地しん四月朔日迄不止朔
島原地変記)343人、及び熊本領の被害届
日暮六ツ時二温泉前山くずれ津波も同時ニ
(千代の不知火)4,751人によって統計する
テ肥後国中二溺死亡人数四千余人拙寺P!
被災死亡者数は14,625人となっている。島原
徒弔通………
大変記には、
−7−
田
名玉土
郡飽
字
……南目・拾ケ村都合弐拾ケ村
表3肥後側の津波被害
一、流死人数領内二而凡壱万五千余人
一、怪我人凡六百五拾人余但七分通死ス
ー、家数凡五千六百余軒
(菊池万雄、1鯛0より編集)
手永
寛政4年4月10日
同
被災人数○は資料
近禅
⑯⑱咽⑩⑫⑯
7)。
塩屈
船揮
606060060
000050005
555438258
碑等の分布によっても知ることができる(図
河内
3
蔵)や、それとほぼ一致する沿岸各地の供養
白顔
d可、’’﹁0可d可d可
は「両肥沿岸被害之図」(長崎県立図書館所
五町
〃残く残
膨大になることが記してある。その被害範囲
飼三町嗣−0個圃一佃一⑭︵Ⅲ
3
小剤
塩田、築堤、山林、家畜の被害を考えれば、
⑳⑯⑫⑯⑯一⑫
&
900500000
328906682
一、嶋々凡五百三拾余
と、人的被害に加えて、家屋は勿論他に耕地
高橋
梅堂
千金耳
楢崎
1
池田
03程040
02余9−
一、旅人数不知……
流失戸劉
○は資剰
残、不無徳不
一、生馬凡四百八拾足程
横手
銀塘
破滅スル死後ノ磯辺ノ廻り凡三十余里イツ
句
ヨ
q
■
1
■4夕−口04p“夕
およそ二十数キロメートルの半円内に入る地域
0
⑪一四個一国一国一四
る。これらの地域は、眉山崩壊地点より半径
OOOOO0
999958
坂下
などによって、その被害範囲が明らかにでき
噸癌細麺鍋顕雨
クヨリモ島原渡海七里ナリ(両肥大変録)
2
11︲loj’1︲︲’1011︲
天草ハ富岡ヨリ大矢野領大二損減有…・・・…
弓
671224
…網田戸口三浦迄ノ村々打崩シ人多ク死ス
不残q
⑳⑳⑳⑬⑳⑧⑳⑱⑳⑱⑳⑱ ⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑱
00060残055905 0000硯O残
……肥後ノ浦北ハ大島ヲ初長須ヲ打崩シ・・・
⑳⑱⑳⑳⑱⑳⑱⑱⑳⑱
0300506703
(温泉焼崩大変仕末)
045004303
肥後国飽田郡益城郡宇土郡以上四部……
7536484
荒尾
噴水調屋浜願胴赤沖
大牛長塩高清平肢上
肥後側の被害については、
塘町丈町
銀五方二
2.肥後の被害内容
で、被害人口のほとんどは異常な高波による
無醗
大拶
小田
部田員
損している。また、肥後側でみる被害の特徴
は、人命損失に比べて耕地の被害が大規模な
ことである。「熊本御領は大国にして地平ら
なり、故に人の死亡は少なしといえども田畑
の流失は移し」とあるとおりである。2,630
−8−
qOOO60
00残9残残
6
家屋は勿論流失し、大小かなりの船も流失破
64不8不不
1
2肝
111
津波は地表物の全てにわたって打撃を加え
⑰⑯⑳⑳⑯⑰⑰
5000知0m
4000不2イ
郡浦
ー000残叩
松山
波被害之図」には肥後側の被害が詳細に記録
角瀬口田浜
三赤戸網長
それを図化したものである。また「寛政津
されている(図4)。
5咽
立71
小ヌ
堤害」では表3のようになっており、図5が
000
ものである。寛政津波被害は、「日本の歴史
不残
一軒不残
⑫肥前高来郡島原温泉山大変略記⑯寛政四年日訳
⑰千代の不知火⑱寛政年間両大変記⑳両肥大変錦
わゅ酷・守﹄
﹃一剥率短
重
難
池
800
菊
上抑須
驚
灘
戦里一
r控
絢
蝿撫
鎖
死亡者数(人)
ミ
詮
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白浜
蕊巽
船津
内川
1近瀧
’近
烏
潟
白ノ
▲
鵬
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Ⅲ
明
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け■■・■ひ■■■
蕊
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胃垂、緑
■二一一国
▲?
勺。
もら●
長浜
田
4 6 R
0航
図5寛政津波による熊本側(網田以北)の死亡者数の分布
町歩を越える田畑と、20町歩余りの塩浜が被
松尾町梅洞にも浪先石がある。これらが津波
災している。
侵入範囲の復原と被害の推定に役立つことは
熊本平野の臨海低地の新開地は堤塘が生命
線であったが、津波はこの堤防を猛然と襲っ
いうまでもない。肥後側の波先・津波侵入を
考える資料として次のものがある。
た。そして、潮塘6,390間、川塘90間、江子
小島町下の人家ハ床之上に三、四尺計波打
塘50間にわたって大きく破壊し、その勢いを
上けたり……(島原温泉岳大変略記)
もって内陸に進入していった。痛ましい地変
尾島町内上二弐参尺程も水上リ仕候様式…
の跡には、粉砕された津波の爪痕が手の施す
……(寛政四年日記)
すべもない惨状を呈していたであろう。
百貫石之上之畑二打揚け候由………………
……(千代の不知火)
3.肥後側の津波侵入深度
高橋町半田等ニセ波先五尺計り上ル……・・・
飽託郡河内町塩屋に浪先石と呼ばれる寛政
四年の津波の浪先を示す石碑がある。熊本市
……(両肥大変録)
また、他にも波先を物語る記載に、
−9−
−10−
戯
−
仰欺く-総哩
鍬嬉惇くぺ揮認
息
芳
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録
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農
fi笠塗繍、
蝋繰…“
−11−
網田
共に打寄する大波に山の腰に打上
られ(島原温泉岳大変略記)
っている。この他、隈部守(1969)は次のよ
住吉
麓まで三四はかり汐満波蕩々とし
うに述べている。
史料によると、「酉の中刻大に島原の海上より襲、
て(島原温泉岳大変略記)
永福丸……弐千石余の船……大塘
来し」、「宇土爵に国(三角)と名づくる所よ圧E
を打越て(島原温泉岳大変略記)
名郡大島という地に至るまで連亘せる海辺-'一九
汐ハ忽ち石垣を越して住居の敷居
里の民居悉く流亡」ということであり、島原
の上に(島原温泉岳大変略記)
半島側と等しい沿岸距離に亘って被害を受け
立花は西二満込御囲塘筋不残根仕
たのであった。三角町太田尾部落に寛政地変
・・・…(寛政四年日記)
の記念碑がある(図6)◎その位置は標高約
方丈
川内
立フ『
等がみられ、波高・波先を知る手がかりとな
15メートルの所で、記念碑には「津波境
寛政四子四月朔日戊刻山本二十七金助立之」
と記されているところから津波の波高を示す
ものとして特記される。また、この碑は海岸
から200メートルばかり奥に入ったところ
にあることから、津波の侵入深度を示すもの
でもある。眉山大崩壊によって生じた津波が、
対岸の熊本側に、しばらくした後襲ったこと
もわかる。宇土市網田にある辺目田神社は海
岸より150メートルばかり奥に入ったとこ
ろにある。寛政地変の津波で漂着した太鼓と
図6「津波境」(三角町太田尾)
伝えられるものを保存している。熊本平野で
は「寛政津波被害之図」(図3)で示されて
いるように奥深くまで津波が侵入した模様で
建些、房イ
一名
ある。
表4熊本県側の地変犠牲供養地一覧
及び波先石の所在地(※印は波先石
玉名郡岱明町扇崎「鬼除千人塚」
飽託郡河内町船津蓮光寺
飽託郡河内町亀石
※飽託郡河内町塩屋
※熊本市松尾町梅堂
熊本市小島町小島小学校校門横
飽託郡天明町良覚寺
宇土市東長浜,長浜
宇土市網田
※宇土郡三角町太田尾「津波境」
天草郡有明町大浦
本渡市佐伊津
三一‐尋
こ」芋。
三
天草郡五和町御領
言
一
一や
図7有明海沿岸の寛政地変供養塔分布
(隈部守、1969に湯島を加筆)
−12−
天草郡五和町鬼池二カ所
天草郡苓北町富岡
天草郡大矢野町湯島「いつちよばか」
図8「鬼除の千人塚」(岱明町扇崎)
図9供養塔には寛政地変犠牲者追福
の碑文が刻まれている。
Ⅳ犠牲者供養
がある。
「溺死四百六十有七名鳴呼非常之惨状哉
1.被災記録
寛政四年津波記録(熊本県立図書館所蔵上
妻文庫第161冊)、の中に
此外三十有余名者来死骸不分明」
と当時の生々しい記事があり、死亡者名記録
がある。
一、船津村・近津村・河内村之内塩屋村へ
有来以諸帳面不残流失
一、寺壱字船津村連光寺
河内一帯は溺死するもの多く、その数は
765人を数えている。眉山の正面の飽田町
天明町よりやや南北にずれている宇土郡、河
但沸具其外庫裡物置流失、本堂者作業
内・玉名の方が被害が大であることを史料も
二付解除、新材木は小屋組程二仕上有
示している。
之以分悉流失、本尊者別条無之
……川尻・川口の村に死人有といへども網
とある。
田・長浜の死骸の擁ほとはなし少々宛の庇
河内町連光寺には、貴重な記録が残されて
はあり……川内(河内)・長浜共死骸の有
いる。連光寺由緒沿革の中に、
様網田長沢に同じo(肥前高来郡温泉山大
「・・…・不幸にも寛政四年四月一日。対岸の雲
変略記)
仙岳突如爆発したため、正面より高波来襲し
て本堂庫裏など悉く流失し、剰すさえ居合せ
2.犠牲者供養
た徴映を初め寺族六名と役僧など溺死の悲運
にあった。たまたま流情は続席のため京都本
古来肥後の津波記録としては、744年、
869年、1733年、1746年とあるが勿論こ
願寺に上山中危うぐこの難を逃れた。やがて
の寛政の津波が最大であった。多数の犠
継職して復興に取り掛かり門徒の協力を仰し
牲者を出した各地には供養塔が建てられて
で現在の本堂を再建し……」
いる。図7、表4)。玉名郡岱明町扇崎と熊本
とあり、高波のため寺は破壊され、当時の住
市小島、宇土市網田の三カ所に立派な犠牲者
職は2回目の高波でさらわれ、多くの寺続役
供養の塔がある。先に紹介した蓮光寺の境内
僧が溺死している。蓮光寺門徒の犠牲者は寺
にも供養塔が建てられている。
の過去帳に記されている。その中に次の記事
通祢「鬼除の千人塚」と呼ばれる荒木庄屋
−13−
が建てた玉名郡内の犠牲者弔魂碑は鍋扇崎の
ない。わが国は台風や地震なども含めて天災
高台の上にある(図8、図9)。碑の正面に
が多い。それに対し、防災意識はどれほどあ
は、南無阿弥陀仏と大害され、三面には次の
るのだろう。「天災は防げない、しかし災害
文が刻まれている。「ことし寛政四の年壬子
は防げる」という言葉がある。
正月より肥前国温泉乃獄煙たち炎火日に月に
職にして、おなしき四月一日の夜山崩れて海
文献
に入り潮溢れて我が国飽田宇土玉名三郡の浦
次の文献を参考にし、一部引用した。古文
浦に及び良民溺れ死する者玉名郡に二千二百
書については、本文の中で紹介したのでここ
余人飽田宇土を合わせて四千数百余人たまた
では省略する。
ま活き残りたるも父母を失い或は老いたるか
隈部守(1966):有明海沿岸地域における
子むまごにおくれて泣きさまようあわれとい
寛政地変の歴史地理学的研究。立命館文学、
うもさらなりかかる事はふるき史にもまれな
第248号、35−59・
ることになん夫民は国の本なりとて同じき六
片山信夫(1974):島原大変に関する自然現
月に宮より僧に命して追福の事を修せしめそ
象の古記録。九大理・島原火山研究所報告、
の九月に一郡に一基の塔を建てられ死者の名
9,1−45.
を録してここに納め霊魂を鎮せしむ死者もし
古谷尊彦(1974):1792年の眉山大崩壊
志る事あらば千年の後までも死して朽ちずと
の地形学的一考察。京大防災研報、17B、
おもうなるべし」。
259−264.
小島の供養塔でも百年祭と百五拾年祭が営
古谷尊彦(1978):再び1792年(寛政四年)
まれている。碑文同様、地変犠牲者追福の自
の眉山(前山)大崩壊について。自然と文
然のあらわれであろう。
化、神尾明正先生退官記念論文集、6−12、
菊池万雄(1980):日本の歴史災害一江戸後期
以上、寛政地変について述べてきたが、余
りにも悲惨な地獄絵図であった。眉山崩壊は
二度と起こらないとはいえないし、山体が崩
れるような地変は最近では、御岳山の山体崩
の寺院過去帳による実証一。古今書院、
95−121・
太田一也(1984):雲仙火山一地形・地質と火
山現象一。長崎県。
壊等も起こっている。多くの死者を出した自
太田一也(1肥7):眉山大崩壊のメカニズムと
然災害は、災害史をみる限り絶えず起こって
津波。月刊地球、1987.4,214-220・
いる。島原側からみると、これほどの災害が
宮地六美・小林茂・関原祐一・小野菊雄・赤
何の前触れもなく起こったわけではない。予
木祥彦(1987):硫島原大変”に関する徳川時
兆はあり過ぎるほどあったが、当時の科学の
代の古絵地図の地質学的解釈。九大教養地
知識では対策を立てるすべもなく、予測する
研報25号、39−52.
ことも不可能であった。いわば天災である。
有明海沿岸地域に住む年老いた人達は、祖
父母からの言伝えによるのか、寛政の津波の
事、津波被害の事を知っている。古老の話によ
ると、赤瀬、太田尾など宇土半島の沿岸低地に
家を建てるなど考えられないことであった様だし、
村人もそれを許さなかったということらしい。大
きな災害は何十年に一度しかこないのかも知れ
−14−
駒田亥久雄(1913):寛政四年肥前島原眉山爆
裂前後の状況に就て。地質学雑誌、20,
235,150-162o
佐藤伝蔵(1925):温泉岳前山の山崩説を駁す。
地球、4,6,21-30o
大森房吉(1908):寛政四年温泉岳の破裂、地
学雑誌、15,181,447−450。