音楽を一緒にすると云う意義 板谷 みきょう 【バンド演奏】を、 「音楽的表現」のグループワーク(集団活動・集団療法)と仮定した場合は、 以下の基本的定義にのっとって行う必要があります。 ●グループワークの基本姿勢と流れについて ★グループワークの基本は、役割としてのコンダクター(進行役)とコ・コンダクター(補助) そしてメンバー(参加者)によって構成される。 ★場所の準備から、コンダクターの「開始」に始まり、メンバーの感想とコンダクターの「終了」 で終わる。 ★活動のありようとしては、目的・テーマ(課題)の変化・プロセス(経過)が重要になる。 ★活動の変化を三つのポイント(焦点)から観察する。 1 参加者の積極的な自己開示 2 他者からのフィードバック(評価・助言・感想) 3 自己・相互洞察(振り返り) この三点を<言葉による表現>と<態度や姿勢・動作による表現>を使って、お互いに観察し ながら交流し納得や理解を深める。そのためには、テーマ(課題)に囚われず、コンダクターも コ・コンダクターもできるだけ自由に「本来の自分」の立場で参加することを心掛ける。 ●【個と集団】の関係性について 『個人としての人』は『集団という社会』で生活し暮らす中、暗黙のうちに互いに協調性や調和・ 同調を強いられています。個人の行動は、日常生活のなかで特に意識せずに様々な形で集団に 影響を与えているのです。集団での調和そのものが、個人のストレス(心と精神の負担)を産 み、そのストレス発散の手段が、集団場面の関係性の「良し悪し」を、明らかにし「集団」そのもの の「良し悪し」を形成していきます。 ここで云う「良き集団」とは、ストレスを全て解消できる状態を指すのではなく、ストレスを適 度に保ちつづけ、継続される集団を指します。逆に極端に「悪しき集団」とは、心の洗濯やストレ ス発散の方法が破壊的で暴力的・攻撃的な行動に陥り易い集団を指します。 定期的な組織や集団から離れて、自ら興味や関心のある者同士の別な集団に身を置いてストレ ス発散や、心の洗濯を行うことが、集団活動の目的となるのです。一般的な例を挙げると、就労 の後の飲酒、休日の運動や遊びなどでリフレッシュ(心の洗濯)をすることが当てはまるでし ょう。それが、 「良き集団」の形成を促進するのは、元来個々人の心的機構として機能されている からです。 心的機構システムとは、どのような人の心の中にも発達プロセス(成長過程)として、秘め組 み込まれてられているものです。それは、人が持つ基本欲求から発生する<成長したいと云う 可能性>として二次的欲求や高次欲求として働いています。 しかし人は、集団の中で無意識のうちに《他者との比較》→《劣等感》→《自己否定》を抱き易くな っています。たいていの場合は《他者との比較》で、必ず自身の立場より優位な者とを比較する ようになっています。そこでは《劣等感》を自覚する訳ですが、<成長したいと云う可能性>が そうさせているからなのです。無意識からの<心や精神を豊かにしたい>と願う努力の原動力 なのだと解釈できるようにならなければ気付けない機能なのです。 その気付き体験は、 《劣等感》の自覚を繰り返して行くうちの或る時を境に起こります。その気 付きとは本当に大切なことが《他者との比較》→《劣等感》→《自己否定》ではなく、 《他者との比 較》→《劣等感》→《自己肯定》へ至ることだと云うものです。 勿論、悪しき傾向としては 《他者との比較》→《劣等感》→《他者否定》や 《他者との比較》→《優越感》→《自己満足》そして 《他者との比較》→《優越感》→《他者否定》へとも流れていく場合もあります。 その為には、あるがままの生き方や考え方に対して卑下せず、良い意味で開き直る力を身に付 けることです。それが思いやりや優しさをも育むことにつながるのです。ですからグループワ ークは、心や精神を豊かに成長させるための、きっかけ(方法)の一つとして在ることを意識 するべきでしょう。 しかし、以上に述べた事柄に対して私は、趣味として観衆の目や耳を対象にしない【レクリエー ション】としての「音楽的表現」活動のグループワークの一つとしての意義形態と考えます。 ●集団活動の手段として選択した方法が、観衆の前で行う「音楽的表現」だった場合について 当然ですが音楽的表現行為自体には、性別・年齢・障害の有無は関係ありません。集団(当事 者と支援者)が、一緒に楽器を鳴らしたり、歌い踊るなかで大切な事は上手く演奏することで はなく、<一緒に楽しむ知恵を出し合える関係>を<場と空間>で築けられるか否かに他なら ないと考えます。ですから、自ずから支援者や当事者といった境は在るべきではないと考える のです。 勿論、 「音楽」と云う形態を使って表現するのですから、障害を抱えていようといまいと「音楽表 現」には技術的制約が生じ、その演奏方法や手段の選択すら限られてくる訳です。音楽的な技術 や能力の違いはあっても構いませんが「療法や学習・教育としての意識」は不要です。必要なの は充分に発揮できる<場と空間>を、きちんと互いが役割として自覚し、<一緒に楽しむ知恵 を出し合える関係>を意識し、提供し合えることができているか否かが問われるべきでしょう。 ですから、セッション(介在)し合う場合は、自己を積極的に開放していける常識に囚われる ことのないアイディア(発想)と、選択肢の提供を可能とする「能力」と「感受性」が要求される はずです。 ①練習においては、音楽的な技術的能力を別にしても、表現の中には制約や見えない約束事が あること。 ②技能に応じても、集団で活動するには避けられないストレス(負荷)が制限として必ず生じ ていること。 ③それに耐えながら根気よく<場と空間>のなかでの役割を意識し自覚し、継続することが可 能な環境を互いに作り合うこと。 4 それが舞台発表を通して、観衆に受け入れられ賞賛された時(達成感)の期待と想起を生 み出すこと。 以上の四点を踏まえたものでなくては、目的や意味を見失う可能性が高いと思います。 ●舞台に立ち観衆の前で「音楽的表現(パフォーマンス)」を見せる根底に流れるものについ て 必要なことは、 「表現能力」を重視した音楽的演奏技術ではなく、練習の延長線上の目標にして いる【開放的自己表現意識】の<場と空間>における観衆との共有です。それには、 【表現者とし ての意識や自覚】が産む、即興的な演出能力も必要となるのです。観衆(他者)から見られてい るという自覚に成り立つ、揺るぎない表現者としての意思だと考えるのです。 各々が違う「表現能力」で「音楽」を媒体にして舞台の上で<生きる喜び>や<人間関係(ふれ あい)>を育む姿を、方法や能力を補い合いながら自然に表現しあう。 舞台空間でそれ ぞれに【音楽的表現】を通して自己開示していくためには、支援者も当事者も同様な意識で向き 合う必要が生じてくるのです。同じように精一杯の表現・積極的な参加型の自己開示としてで す。 参加する中で大切なものは指導することではなく、人間性豊かな一人一人と大切にかかわろう とする心と積極的な明るい雰囲気(楽しみたいという心)です。各々の能力(技術)を補助し 高めながら、明るい笑顔や激励が自然に舞台の上でも行われることを一緒に想い、自分が自分 であることの喜びを、そして願いを抱くことなのです。 「音楽表現(楽器演奏やステ-―ジング)」のバンド練習に、不可欠なのは『これで良いのだ』と 云った積極的に意識する「絶対的自己肯定」<私が私である生きる喜び>なのです。集団内で各々 の個性が一定の限られた時間に「音楽的表現」を媒体にして、他の人達と交流をする。同性も異 性も年齢も異なる集団が、対人的交流の相互作用(好き嫌い・共通点や相違点・競争と協力な ど)を意識しながら、生きる意味を感じ合うことに尽きると考えるのです。個人(支援者・当 事者)が、集団の「音楽的表現」を学び、交流を通して豊かな気付きと心と出会えている実感が もてないのなら、それこそが問題だと私は考えます。 舞台で表現しながら、期待を持ち模倣し合い希望を抱く集団の<場と空間>で役割を見出すこ と。互いに感情や情動を喚起させ、自由に表現し理解しあうことで率直に交流しあうのです。お 互いに助言し合いながら、他の人の役に立つことに喜びを見つけること(思いやり・愛他精神 の認識と実践)そのものがバンドとしての「音楽的表現」なのです。 それには、集団の中で自分は認められて(受容)いることを自覚すること(肯定)が大切にな るでしょう。設定された課題「音楽的表現」に対しての可能性を信じ、影響しつつ葛藤しながら、 修正を繰り返し行動する雰囲気が大切なのだと思うのです。改めて明記すべき点は、 「行われて いる表現行為は<療法でも学習でも教育>でも無い。」ということです。出発点は、自己表現で あり、方法が「音楽的」なバンドであっただけのことなのです。 お互いが認め合う「貴方は貴方のままで良い」と言い合える関係性の中で、必要な「他人を認め る」前にするべきことは、 「自分を先に認める」ということ以外に他ならないでしょう。そのため には、 「あるがまま」の「そのまま」の「どうしようもない」自分を、具現化すること(自己開示・ 明かすこと)が大切だと考えます。 あえて飾らず「包み隠さず」明らかにする努力は、 「自己容認」 「自己受容」 「自己肯定」につながり ます。自己開示による自己主張が、互いの意見の食い違いや衝突につながらないように繊細な 配慮も必要になるので、お互いの能力を自由に発揮し合い相互に支えることも必要になる場合 もあるでしょう。刹那的な親しみのある即興劇(アドリブ)的な対応も当然、必要になる場合 もあるでしょう。 楽しげにできるのであれば、楽しげにすべきなのです。笑顔が喜びに変容して共感を呼び、それ がいつしか本当の喜びに替わるのです。 「音楽的表現」の形態の一つが演劇的体験(ドラマ)と 考えると良く分るかもしれません。 「音楽的表現」で、集団の中における役割を演じることを通 して、感情の浄化や開放・昇華を自然に行われるようになれば観衆もまたいつのまにか「音楽 的表現」の参加者となりうるのです。 感情を演じているが、感情に支配されずに演じつつ自分が<どうする必要があるのか>を常に 意識していく。そういう意味での冷静さは当然必要です。頭で考え心で響きあうその演技が、共 感を呼べるのであれば、いつしかその演技は本物を上回ることを知るでしょう。 社会の縮図として在る集団交流の意識も当然持つ必要もありますが、 「音楽的表現」においては 出来る限り自由な発想を大切にしたいと考えています。 ●具体的な練習方法にについて 練習時間を60分から120分とするならば10分から20分ほどは準備時間(ウォーミン グアップ)が必要だと思います。その導入時間で相互に前回の復習と協力し合う目標とを確認 した方が良いからです。途中に5分から10分の休憩も必要ですが、その時にも休憩前の練習 時間の出来事を想起し合うことも忘れてはならないと思います。 凝縮した集団の限られた時間に対しての参加者自身の葛藤ですから、留意すべき点の一つです。 絶対的権威を持つ指導者(リーダー)の姿が、一転して率直に機知のある食い違いの解消を図 ることに努める姿は、集団に充分な耐性と安定性があれば、集団の潜在力と解放性を高めるの に貢献できると考えます。 集団の中での意見の不一致は、ややもすると分裂を招きがちですが、意見の食い違いを明らか にすることから個人における<感情と葛藤の解決>を、学習する良い機会になります。意見の 相違よりも一番、注意すべき点は集団のなかの黙殺でしょう。 「音楽表現」は、治療やリハビリ活 動ではないのですから、計画的欠席(さぼり)や脱落や除外・排斥には充分な気配りで対応す るべきでしょう。逆説的ではありますが、音楽的表現を追求するなかでは、楽天や依存や拒否、 不安、妨害、攻撃、敵意が生じる場合もあるべきなのです。そういった感情交流を集団で共鳴し あいながら、協調と調和の相互作用で重要な題材や意見を見出していく姿に直面すること(集 団のなかでの個人の疎外・闘争に対して、自ずと支援の意義が集団から個人にも行き届く状況) を提示することが目的の一つでも在ると思うのです。 最後に今回のレポート作成に関しての意図は、<集団の成熟度>による「音楽表現」についての 意見の相違と方向性が曖昧と私自身が感じた為のものであることを追尾しお断りしておきま す。 「草の実バンド」との関りも、五年目を迎えた中で今後の「音楽表現」を、一緒に行うため の指針としての覚書。 2003年3月某日 文責 板谷みきょう
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