山梨のジュエリー産業の変遷

山梨のジュエリー産業の変遷
明治後期〜大正時代
県内水晶産業、転換期を迎える
水晶工芸では機械化が進み、生産も増加した。これにともない流通・販売も活発化し、甲州水晶は、
全国に浸透していく。江戸末期からそれぞれ別々に発達してきた水晶工芸と飾りが結びつき、新たな
産業の時代を迎えることになるが、一方では、県内の水晶原石の採掘に陰りがみられるようになって
きた。
■減る一方の県産原石
明治20年から明治30年にかけて、県産水晶の採掘が最盛
期にあり、金峰山一帯を中心に各抗はいずれも盛況をきわめた。しかし、記録によると、明治23年
以降は生産量が半減し、ことに明治25年の生産量は十分の一
以下となっていることから、少なくとも水晶の豊産は明治22
年までであったと思われる。この期に各産地で水晶が増産した
のは、業者間の猛烈な採掘競争により、いたるところで乱掘さ
れたためで、この結果、金峰山一帯の各抗はたちまち掘り尽く
され、明治の後期に入ると、産出量はますます減少していく。
○明治末期には、原石が枯渇
明治40年、大水害により各河川沿岸伐採開墾禁止され、
水晶採掘が不可能なり、県内原石は全く底をつく。
これらの水害は、嶮しい地形にもよるが、水晶の採掘跡の
放置も山腹崩壊の原因と考えられたための措置であった。
○原石難から転廃業業者現れる
県内産の払底から、水晶業者は勢い県外産にこれを求めるようになり、この獲得をめぐっても
業者間に激しい争奪戦が行われた。原石は、他県や外国から盛んに移入されまたが、いずれも絶
対量が少なかったので、深刻な原石難を緩和するまでには至らず、転廃業を余儀なくするものも
現れた。
○県内水晶の奪い合い。ブラジル産水晶原石、危機を救う
明治中期の乱掘と、明治末期の治山治水にしばられて、大正初期には県産水晶の生産は微々た
るものになった。移入をはじめた国内各地産や朝鮮産の原石もその数量は少なく、さらにセイロ
ン島産の各色原石も少なく、いずれも原石難を緩和することはできなかった。このような水晶工
芸の危機を救ったのは、大正7年(1918)に大量に輸入されるようになったブラジル産水晶
原石であった。ブラジル水晶が大量に輸入されるようになると、原石の規格をきめ、製品の量産
を一段と促進した。
■能率化した加工方式
ブラジル産水晶原石の輸入により、大正5年(1916)頃から、再び対米販路が開けて、首飾り
を中心に新しい意匠、美麗な図案と精巧な技法により、各種の装身具類や置物類が輸出されるように
なったため、水晶工芸業界も次第に活気を取り戻していった。
大正14年(1930)には、15の首飾り工場が出現。輸出の販路も年ごとに拡大し、製品も根
付、かんざし玉から、ネックレス、ビーズに代わっていく。
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■水晶産業、手加工から機械化へ
原石難から転廃業する業者も現われたが、これとは
反対に加工法は進んで、明治の末から大正の初めにか
けて、次第に機械化され、研磨も手磨り(てずり)から
円盤磨り時代へと飛躍的な発展を遂げていく。
○水晶加工技術面の改善努力、量産基盤の確立
大正初期には電力の導入が行われ、加工技術は
著しく能率化して加工の分業化が始められた。
この期には、とくに業者の発明創案が多く、大正
10年(1921)
、石原益太郎が首飾玉の連結
磨りを考案、内松多三郎も一度に120個の玉の
研磨ができる機械を考案するなど、いずれも技術
革新に貢献をしている。
加工技術や機械の進歩とともに、製品の種類も増
加し、質も向上していく。
大正10年(1921)石原益太郎により考案
された、平盤面で一度にたくさんのカットを入れ
ることができる連結磨りは、そのカットの種類は
120余種。
そのうち、最も複雑なものは、72面体であった。
■北海道産めのう原石買付け、めのう加工の基礎が固まる
大正末期には、北海道産めのうの原石買付けも実現し、水晶加工だけでなく、めのう加工の基礎も
固まり、水晶、めのうの輸出も軌道に乗る。また、内需向け製品も増加して、業界の安定と繁栄の基
礎が確立された。
○研磨山梨の名を高めた、めのう細工始まる
県下でめのう細工がはじめられたのは、大正元年(1911)である。明治5年(1872)
土屋宗八の大福帳に「めのう穴直し」と記載されており、これが最初ではないかと見られている
が、若狭などでつくられた細工品の手直し程度のようだ。
○めのう細工に苦労
めのうは、採掘したままの生の原石は、ほぼ乳白色で硬度は8度。これに火入れ(加熱)する
と、赤味や黄色味のある部分が赤変して、硬度も7度に近くなり、水晶の加工設備をそのまま利
用が可能となる。しかし、めのう火入れ法は、若狭では、門外不出で、伝授の要請は拒否してい
たため、この時代にめのう加工をしようとするには、すべて若狭から高価な火入れした原石を購
入して行うほかはなかった。昭和3年(1928)
、土屋孝は、5年間の苦労と努力の末、ついに
真空状態の中で焼くことで、立派に焼き上がることを知り、ようやく火入れ法を完成した。
■貴金属工芸移行の基礎がつくられる
金入り指輪や守り玉などによって、水晶加工と結びついた水晶飾りも、明治末期から現れた極端な
水晶原石の減少を反映し、水晶の多くは自然のままの形を生かすように加工されたので、飾りも一つ
ひとつその石に合わせて作ることを余儀なくされ、しばらくは伸び悩んでいた。
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○第一次大戦勃発、日本経済は好景気
大正3年(1914)、第一次大戦勃発により、軍需品や機械製品などは、広大な外国市場を獲
得して盛んに輸出され、一方輸入の激減から国産品の内需も増大するなど、日本経済は戦争中の
4年間に、かつてみない発展を遂げた。
○金製品に需要が殺到
この好況の波に乗り、飾り工芸も、大正5(1915)、6年頃から、素材としての金の使用が
急増し、金指輪をはじめ懐中時計の金ぐさり、羽織ひも金環などに需要が殺到し、少数の業者で
はとうてい応じきれないほどの盛況を示した。
○貴金属工芸移行の基礎がつくられ、量産への道を歩み始める
こうした状況により、県下の飾り業は、文字通り貴金属を材料とする高級装身具製造の、いわ
ゆる貴金属工芸へ移行する基礎がつくられ、また機械化も進んで手加工から機械による量産への
道を歩み始めた。
大正5年(1915)、保坂貴金属の保坂常造が、県下のトップをきって、プレス、圧延ロール
などの諸機械を施設し量産態勢を整え、東京から優秀な技術者を招いて、堂々と東京の業者に対
立。金ぶち眼鏡のほか、紫、黄水晶などを配した高級指輪や帯留めなどを生産。金ぶち眼鏡は金
指輪、金ぐさりとともに一大流行をさそった。
■研磨装飾品産地としての基礎を築く
大正7年(1917)、「甲府勧業博覧会」を開催。ほとんどの全業者が参加出品して、甲府の飾り
産業の真価を世に問い、大好評を収め、新販路を開拓して、研磨装飾品産地としての基礎を築くこと
になった。
■1000人が全国へ行商
特産水晶細工を「甲州水晶」として、日本全国へ売り始めたのは、水晶行商人とカタログによる通
信販売であったが、明治末期には、実に1000人以上の行商人が専業化して販路を開拓し、また企
業も専門外交員や販路拡張員などをおき、全国の販売業者を巡回させ、また展示会などを通して、販
路は、東京を中心に、北海道や台湾にまで及んでいた。
○全国で売り歩く
道路や交通機関の発達,産業経済の進展にともない、明治後期には、全国各地で、博覧会、共
進会などの開催が盛んに行われたため、水晶業者は競ってこれに出品し、宣伝するとともに、会
場内に臨時出張販売店を設けて売りまくる業者も現われた。また、これらの博覧会、共進会など
で、出品物が受賞すれば、それをすぐにうたい文句にして宣伝するという、抜け目のない商法も
この時代の特徴であった。
○欧州市場開拓に努力
大正13年頃から、輸出の王座をしめていた水晶首飾りが、財界や米国の需要一巡から不振に
陥っていたが、英国では、人造真珠首飾りから水晶首飾りに人気が移って良好の売れ行きを示し
ていたため、新たな市場として欧州の開拓に乗り出し、昭和10年(1935)までは、順調に
推移して続いたようである。
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○デパートに進出
大正14年、5業者が集まり、県外進出に乗り出し、水晶細工を中心に、特産品をデパートで
の物産展などに、定期的に出品して、宣伝した結果、販売に大きな成果を収めた。
米国への輸出の好調で、水晶工芸品は、甲府市だけでなく周辺の町村にまで広がって、生産が急増
し、貴金属工芸(飾り)も、かんざし飾りを受け継いで、高級飾品の製作に努力し、これら製品は、
行商人や物産展などを通して、全国で販売されるようになっていった。
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参考資料:「水晶宝飾史」
発 行:甲府商工会議所
【お願い】
この宝飾史に関する文献、製品、資料等がありましたら、ご一報ください。
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