月舘町の地名の由来

地名の由来・地名に関する伝承
小手
お での ほ
古代から中世にかけ、辺り一帯を小手保と呼んでいたことに由来する。
ここから小手姫の伝説ができたとされる説もある。
かないし
金石
昔この土地では蛙同士が激しく戦いあう蛙合戦が行なわれていた。その蛙の
霊を供養した時に鉦を叩いたことに因んで「金石」の地名が起ったと言われ
ている。
くぬぎづか
椚塚
九人塚のなまったものか。
倉ヶ入
昔その周辺に月見館の穀倉があったため。
作ノ内(下手渡) 月舘で麦や綿花の栽培を始めたと言われる、大道久馬の屋敷の柵の内で
あったことから言われている。
三郎内
さんびょうし
三拍子
新田三郎の館があったといわれる。
御幣の振り(風)と護摩の火(暑気)太鼓の音(雷雨)の三つが調和す
れば豊作、不調ならば凶作、いわば神前において行う三つの所作が農業
の凶豊を教えてくれることから。
せんぶさわ
宣撫沢
昔から非常に寂しい所で、夜な夜な怪しげな妖怪が出没し、何時も里人
を苦しめるので里人は恐れおののき、昼でさえ近づく者が無かったと言
う。ある日、この里人の難渋を知った一人の旅の高僧がやってきて、い
せ んぶ
く日かに渡り有り難い「宣撫」のお経を施したところ、妖怪は以後プッ
ツリとその姿を現わさなくなったという。里人はこの有り難い宣撫のお
経からとって、ここを「宣撫沢」と呼ぶようになった。
にしきでのおうじょ
はちこの お う じ
小手姫がその娘錦 代 皇女を伴い、息子である蜂子皇子を探し求めて布川
に来たとき、錦代皇女の美しさに魅せられた、近郷近在の若者達が姫の
意を得んものと寄り集り申し入れをした。姫はこの時使いの若者に「毎
夜、宣撫沢に錦木を 1 本ずつ立て、2 年 9 カ月で千本を立てる事の出来
た勇気と根気のある若者に、我が意を叶えさせる」と言い伝えた。
それから若者たちは、毎晩勇気を振り絞って恋の錦木を立て続けたと
「千本沢」そして「宣撫沢」と呼ぶようになっ
いう。このことに因んで、
たという。
手渡
館山城主の手土氏に由来するものか。手渡八郎の伝説も存在する。
(手渡
八郎についてはあくまで伝説であり、南北朝時代に手土氏は月舘にまだ
来ていない。
)
月舘
現在の市街地を築館と称されたこと、町の東南に天成の頃須田親重の居
城で後に伊達政宗により落城されたと伝えられた城跡が月見館と称され
ていたことに由来する。
なかまち
中町
中町の町は「待ち」が変わったもので、昔はかごかきなどのたまり場だ
った。
糠田
空までとどくような大男が住んでいて、大徳坊山と経塚山に足をかけて
太陽の光をさえぎり、村は鬱蒼としていたために霧が窪と呼ばれていた。
しかし、機嫌のいいときには、村人が刈りとってきた稲の穂をこき落し
たり、大きな手で実の入らない稲穂をもんで軽いもみ殻を空に吹き飛ば
したりと、手伝いをしてくれた。このもみ殻が積もって出来たのが大糠
塚、小糠塚である。やがて大男はどこかへ去り、よい米がとれるように
なったことから糠田と呼ばれるようになったという。
布川の地名(水
布川の地名(水沼・古田など)…昔、無垢路岐との太郎坊山の谷間は広
沼・古田など)
い千畳程もある沼だった。沼の岸には古い谷地で草や木が生い茂り、谷
(古田)と波が立っている深
の合間のあたりはいつも「ふった、ふった」
みであったという。その沼に「赤めだら牛」という沼の主が住んでいた。
しかし天地の異変で、その沼もぶんぬけ(桧木田)
、赤めだら牛は沼の水
と共にひょいと(兵衛田)とんだりはねたり(羽石)して、のんのがの
んのが(布川)流され、つきあたった(月舘)ところは広瀬川、やがて
着いたところが「越河の馬沼」
。そして馬と共にそこに住むようになり、
沼は馬牛沼となったという。
馬城内
み よどが いり
三淀ヶ入
昔馬を走らせるところであったといわれる。
昔「よど」になっていたので「みよどがいり」という地名がつけられたとい
う。
女神山
参考文献
「月舘町史」
「月舘町の民俗」
小手姫伝説からか。