解 説 書 - 明日香村

水落遺跡と水時計
解 説 書
奈 良 県 明 日 香 村
関西大学文学部考古学研究室
平成 27(2015)年 4 月
わたしたちの明日香村は、古墳・寺院・宮殿跡など『古事記』『日本書紀』
『万葉集』の世界が今なお色濃く残り、自然豊かな景観も「日本人の心のふ
るさと」として人々に親しまれています。先人から受け継いできた貴重な
文化財や自然景観を後世に引き継ぐため、明日香村では様々な保存整備事
業を実施しています。
それら事業の一環として、明日香村と関西大学は平成18年2月に地域
連携に関する協定書を交わしました。そして連携事業のひとつとして「古
代遺跡再現事業」『石舞台古墳~巨大古墳築造の謎~』(平成24 年)、
『飛鳥
寺と飛鳥大仏』(平成25年)を制作し、このたび前2作に続く第3作とし
て『水落遺跡と水時計』が完成いたしました。
前2作と同様、関西大学文学部 米田文孝教授の監修のもと、CGムービー
と解説書により、水落遺跡を通して当時の様子や漏刻(水時計)の仕組み
がわかりやすく説明され、小学校・中学校の児童・生徒の学習用資料など
として幅広くご利用いただけるものとなっています。
明日香村は「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の世界遺産登録を目
指し、飛鳥地域の魅力を広く発信していくことに努めています。この作品
をご覧いただくことで、今日まで守られてきた文化財やすばらしい景観を、
より多くの人に身近に感じていただくことができれば幸いです。
最後になりましたが、この DVD 及び解説書の制作につきまして、ご指導、
ご協力を賜りました先生方をはじめ、多くの関係機関のみなさまに厚くお
礼申し上げます。
平成27年3月
明日香村長 森川 裕一
目 次
シーン一覧 ………………………………………………………………………………………… 2
Ⅰ 斉明朝の飛鳥 ………………………………………………………………………………… 5
Ⅱ 水落遺跡 ……………………………………………………………………………………… 7
Ⅲ 漏刻(水時計) ………………………………………………………………………………… 9
Ⅳ 水落遺跡の意義 ……………………………………………………………………………… 16 ​
Ⅴ 飛鳥の石造物 ………………………………………………………………………………… 19
飛鳥・藤原京の時代 ~乙巳の変以降~ ………………………………………………………… 22
関連史料 …………………………………………………………………………………………… 24
用語解説 …………………………………………………………………………………………… 25
年表 ………………………………………………………………………………………………… 26
主要参考引用文献・図版出典 …………………………………………………………………… 27
例 言
ⅰ.本書は「水落遺跡CG」の解説書として作成した。
ⅱ.「水落遺跡CG」の制作、および資料の収集に際してご協力を賜った個人・機関は以下のとお
りである。
藤田尚・米田文代・西光慎治・重森詩円(明日香村)、池内克史・大石岳史 ( 東京大学池内・
大石研究室 )、角田哲也・鎌倉真音(アスカラボ)、早川和子、奈良県立橿原考古学研究所、
奈良文化財研究所、岩波書店、中国陝西省茂陵博物館(順不同・敬称略)
ⅲ . 本CGムービー中に用いたイラストは、早川和子氏の作成した原画を使用した。
ⅳ . 本CGムービー中における音声担当は、朱雀(スー)= 桜井美宇、白虎(タイガ)= 橋爪玲奈である。
ⅴ . 本書は米田文孝・北嶋未貴・周吟・鮫島えりな(関西大学)が執筆した。執筆にあたっては、
須藤聖子・近藤康司・西光慎治 各氏の御教示を賜った。
ⅵ . 本書はⅠを鮫島、Ⅱ・Ⅴを北嶋、Ⅲを周・北嶋、Ⅳを鮫島・北嶋、「飛鳥・藤原京の時代 ~乙
巳の変以降~」を米田が執筆した。
≪経歴≫ アニメーター時代に「天才バカボン」
「はじめ人間ギャー
トルズ」「ガンバの冒険」などの動画を担当する。整理員を経て
1989 年頃から考古学復元イラストを描くようになる。
『日本歴史館』・『よみがえる日本の古代』( 小学館 )『日本史復
元』( 講談社 )『発掘された日本列島』(2004 ~ 2007)( 朝日新聞社 )
奈良文化財研究所が開催した「平城京展」「長屋王展」「飛鳥・藤
原京展」などの図録、馬高縄文館、いましろ大王の杜ほか、遺跡
早川 和子
案内パネルの復元画を多数作成している。
1
シーン一覧
シーン① シーン②
シーン③ シーン④
シーン⑤ シーン⑥ 2
シーン⑦ シーン⑧
シーン⑨ シーン⑩
シーン⑪ シーン⑫ 3
シーン⑬ シーン⑭
シーン⑮ シーン⑯
シーン⑰ シーン⑱ 4
Ⅰ 斉明朝の飛鳥
飛鳥時代とは、一般的に 588 年の飛鳥寺造営工事の開始、あるいは 592 年の推古天皇の即位に
始まり、平城京へ遷都するまでの約 120 年間のことを指します。この約 120 年間で、日本は新し
い文化や大陸の制度を積極的に導入しました。仏教が豪族や皇族の間に浸透し、飛鳥寺・山田寺・
川原寺など、飛鳥・藤原地域に複数の寺院が建立されました。645 年の乙巳の変を契機に、改新
こう ご ねんじゃく
の詔が発布され、庚午年籍が作られるなど、天皇中心の国家体制づくりが進められていきました。
このような内政整備の背景には、中国大陸の情勢が関係しています。581 年に隋が南朝の陳を
滅ぼし、中国統一を果たしました。その後 618 年に唐が成立します。唐は律令法に基づく中央集
権国家を発展させ、その影響は周辺諸国にも及びました。また、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済
の三国がそれぞれ領地拡大を目指して、結託や侵攻を重ねていました。642 年、高句麗は百済と
組んで新羅に侵攻し、唐がこの争いを征討しました。新羅は唐と協力して百済を滅ぼすと、百済は
日本に援軍を求めました。663 年、日本・百済連合軍は白村江の戦いで、唐・新羅軍に惨敗します。
このような国際関係下において、日本は中国の文化や制度、軍事力を知り、それらに倣うことで
国家の基盤をより確かなものにしようとしたのです。そのために 607 年から遣隋使が、630 年か
ら遣唐使が送られ、彼らや彼らとともに中国へ渡った留学生や学問僧は後の国政改革に大きな影響
を与えました。
白村江の戦い当時、日本では斉明天皇が在位していました。朝鮮半島や中国の使節が来たり、日
本からも使節を派遣したりと、国外との交流が盛んに行われた時代でした。斉明天皇は、皇極朝に
あ す か いたぶきのみや
のちの あ す か おかもとのみや
造営された飛鳥板 蓋 宮の跡に後飛鳥岡 本 宮を、また後飛鳥岡本宮のまわりに様々な施設を造りま
した。現在、発掘調査で確認されている遺跡だけでも酒船石遺跡や飛鳥京跡苑池遺構、石神遺跡、
水落遺跡などがあります。
このように、斉明朝では宮殿だけではなく、飛鳥地域全体が都として整備される対象となってい
ました。これらの施設の造営目的は、飛鳥において中央集権の体制を整えるためであったと考えら
れ、後の律令国家成立の基盤の一つとなったと推測されます。
本書では、斉明朝に造られた水落遺跡について考えていきます。『日本書紀』斉明6(660)年
条に「皇太子(中大兄皇子)が漏刻(水時計)を造り、人びとに時を知らせた」という記事があり
ます。発掘調査の成果とあわせて、この漏刻が設置された施設が水落遺跡であると考えられていま
す。『日本書紀』の記事からは、日本で時間という考え方が取り入れられたのは、飛鳥時代からで
あると読み取ることができます。また、水落遺跡と、その北に位置する石神遺跡は、地下の水路で
つながっています。石神遺跡では、噴水機能を持つ石造物が出土しており、饗宴施設ではないかと
いわれています。その他にも斉明朝では、水と関連のある施設や特徴的な石造物が造られました。
これらを通して水落遺跡が造られた時代の飛鳥地域について考えていきたいと思います。次章から
は、水落遺跡や漏刻の特徴と、前述のような国際関係において漏刻が設置された意義について紹介
します。
5
第1図 飛鳥・藤原地域の遺跡分布図
6
Ⅱ 水落遺跡
1.水落遺跡の調査
き
た さだきち
あすか
水落遺跡周辺では、昭和初期から地中に石敷き遺構が確認されており、喜田貞吉氏はこれを飛鳥
きよ み はらのみや
浄御 原 宮 推定地であるとしました。このような推定のもと、1972 年に発掘調査が行われ、花崗
岩が三段ほどに積み重ねられた、一辺 22.5 mの方形の基壇が存在することが明らかになりました。
さらに基壇の周りには幅 1.8 mの石溝が巡っていました。
その後、1981 年に行われた史跡整備にともなう発掘調査を契機に、遺跡の性格について議論が
おこりました。基壇上面からは 24 個の柱穴が、基壇中央からは台石が出土しました。また、基壇
の内部には銅管や木樋が設置されていました。銅管や木樋の中には、細かい砂や粘土が残っており、
水が流れていたと考えられました。
この遺跡は、飛鳥浄御原宮にともなう宮殿、楼閣、饗宴施設であるといった説が挙げられましたが、
『日本書紀』斉明6年条に「皇太子が漏刻を造り人びとに時を知らせた」という記載があることと、
基壇中央の木箱や水が流れたと考えられる木樋・銅管から、漏刻が設置された施設であるという説
が有力視されています。現在、水落遺跡は整備され、基壇や復原された台石を見ることができます。
2.水落遺跡の構造
発掘調査によって確認された基壇と建物の柱穴から、ここには建物があり、漏刻はその内部に存
在したと考えられます。直径 0.6 ~1m大の花崗岩を敷き詰めた方形基壇によって、建物は周囲よ
り 30㎝ほど高くなっています(第2図)。
【楼閣状建物】
基壇上面で検出された柱穴は、4間×4間の総柱建物に復原できます。総柱建物とは、建物の角
や側辺だけではなく、内部にも柱を建てることによって、より強度を上げた建物のことです。古代
では倉庫などに用いられていました。しかし、この建物の中央部には柱穴がなく、本来 25 本ある
はずの柱は 24 本しかありません。中央部には穴があり、穴の中央に花崗岩製の台石(長さ 2.3 m、
幅 1.6 m)が設置されていました。台石は表面が方形に刳り抜かれ、漆が付着していたことから、
漆塗りの木箱が置かれていたと考えられています。
この建物の特徴として、念入りに造られた基礎構造を挙げることができます。基壇の表面から1
m下に礎石を置き、その上に柱を建てました。礎石とは、柱の下に置かれた石のことで、柱の沈下
や腐食を防ぐ役割があります。さらに水落遺跡では、礎石と礎石を結ぶように列石を配置する「地
中梁工法」という工法を採用しています(第3図)。礎石は同時代の寺院でも用いられていますが、
礎石間に列石を用いた施設は他には例がなく、特殊な工法であるといえます。総柱建物であること
や地中の基礎構造から、強固な基壇であることが分かります。これは、建物の振動や沈下を防ぐた
めのものであったと想定できます。
7
基壇の内部には、木樋や銅管が設置されています。これらは、建物の中央部を通るように設計さ
れており、漏刻で使用する水の汲み上げや排水に用いたものであると考えられます。銅管等を用い
た漏刻の構造については、後の漏刻の項で詳述します。
また、
『日本書紀』天智 10(671)年条に「初めて時をうつ。鉦鼓が動く。」という記載があります。
漏刻とともに鐘鼓(鉦・太鼓)を置き、打ち鳴らすことで、人びとに時刻を知らせていたと推測さ
れています。
第 2 図 水落遺跡 基壇と漆塗木箱の痕跡
第 4 図 水落遺跡復原図
8
第3図 地中梁工法
Ⅲ 漏刻(水時計)
水落遺跡の漏刻は、中国の考え方や技術に基づき製作されたものと考えられています。水落遺跡
に置かれていたと考えられる漏刻の構造と、あわせて中国における漏刻の歴史を概観します。
1.漏刻の構造
【漏刻】
漏刻とは、水を流し、容器に溜まった水位の変化から時間の推移を読みとるものです。水落遺跡
に設置された漏刻は、同時期の中国の例を基に、複数の水槽同士をつなぐ管によって構成されてい
せん こ
たと考えられています(第5図)。その中でも一番下段の水槽のことを「箭壺」といいます。箭壺
せん
の上には人形が置かれ、人形が持つ「箭」に十二辰刻制に基づいた時刻が書かれていました(第6図)。
箭壺の水位が上昇するにつれ、箭も浮上します。箭の動きによって、人々は時刻の変化を読みとっ
ていました。
時を正確に刻むためには、箭壺に注がれる水量が一定でなければなりません。水の流量が不安定
だと、箭の動きが乱れ、時刻にずれが生じてしまうからです。一定の間隔で水を注ぐために、複数
ろう こ
の「漏壺」と呼ばれる水槽が置かれました。漏壺を複数個設けることによって、水が注がれる最上
段の漏壺の水位の変化にかかわらず、中間の漏壺の水位は一定に保たれます。その結果、箭壺に注
がれる水量も一定に保たれることになります。水はサイフォンの原理によって管の中を通り、下の
漏壺へと一定の流量で流れていきます。また、水中に少しずつ水が排出されるため、水面が波立ち、
流量が不安定になったり、こぼれたりするということもありません。
漏壺
箭
箭壺
第5図 漏刻復原模型
第6図 人形と箭
9
【地下水路】(第7図)
漏刻で使用される水は、地中の木樋や銅管を通して取水・排水が行われました。地下水路でも高
低差を利用して、サイフォンの原理が用いられています。水落遺跡周辺の地形は、東から西へ傾い
ています。東西にはしる木樋の東側から水が流れ、地中に設置された桝に注がれます。桝は北への
びる木樋とも接続していて、流れてきた水の一部は石神遺跡の方向へ流れていくと考えられます。
この桝をせき止めると、東から流れてきた水は行き場をなくし、木樋から建物内部までのびる銅管
を通って汲み上げられます。そして、汲み上げられた水は、建物内部に蓄えられました。漏刻を管
理していた役人が水を汲み、漏壺に注いでいたと考えられます。箭壺まで流れた水は、飛鳥川へむ
かう木樋を通って排水されました。
第7図 地下水路の復原模型
2.漏刻の使用
漏刻の使用には、複数の役人が従事したと考えられています。
まず、水を一番上の漏壺に注ぐ人がいます。水は銅管を通って次の漏壺へ、一定の量と速さで流
れていきます。そして、水は箭壺へ少しずつ溜まっていき、人形が持つ箭が浮き上がります。ここ
に箭の時刻を読む人がいたのではないでしょうか。そして、定められた時刻になると鐘鼓を鳴らし、
飛鳥に居住する人々に知らせる役割を果たす人もいたと思われます。
漏刻の水の流れが途切れてしまうと、時刻にずれが生じてしまいます。そのため、水を昼夜問わ
ず漏壺に注ぐ必要があります。8世紀に規定された『養老令』によると、漏刻の管理にあたる役職は、
他の天文や占星という分野の役職と比較すると、倍近くの人数が配置されています。これは、昼夜
交代で漏刻の番にあたったためと考えられています。水落遺跡でも同じような管理体制が敷かれて
いたと想定されています。
10
10
9
8
酉戌
7
6
申
7
5
6
午未
11 12
4
5
9
1
2
3
うな時間の考え方も、飛鳥時代に中国から伝わったものと想定
8
それぞれに十二支の名前をつけたものです(第8図)。このよ
表現が増えていきます。十二辰刻制とは、24 時間を 12 で割り、
昼
ぎた頃から、「亥時」「酉時」といった、十二辰刻制に基づいた
夜
卯辰
風景を示すと考えられる表現が用いられています。600 年を過
明(あかとき、あけぼの)」、
「昼」、
「一夜」といった簡単な言葉や、
亥
3
寅
600 年前後の記事までは、具体的な時刻を示す言葉よりも「会
子丑
2
て生活を送っていたと考えられます。その証拠に、『日本書紀』
1
4
日の入りとともに寝るといったように、太陽の動きに合わせ
11 12
10
巳
昔、時計がなかったころは、人びとは日の出とともに起き、
【時間の表現】
第8図 十二辰刻制
されています。水落遺跡の漏刻も、十二辰刻制に基づいて管理
されていたのでしょう。
3.中国の漏刻
こうてい
中国における漏刻の歴史は古く、伝説的な話に及びます。『隋書』には「昔、黄帝が漏れる水を
ぎょう
ぎ
か
みて、漏刻を思いついた」と記されています。また、『書経』には「帝尭が、天文学者の義和に命
つつし
したが
じて、天に欽み若い、日月星辰を歴象し、民に時を敬授せしむ」という記載があります。これには、
中国の天文に対する考え方が表れています。皇帝のことを「天子」と表現することがあります。天
文現象は天の意志の表れとみなされ、それを観察・記録することは、「天子」である皇帝にのみ許
されたことでした。さらに皇帝として、天の意志に基づいて日々の生活や社会を秩序づけるために、
人びとに時刻や暦を授けました。これらの行いは、皇帝の務めであると考えられていました。
そのため、暦や天文台は国に管理され、天文事象の記録や暦
の研究が重ねられ、発展していきました。
【四段式の沈箭漏までの歴史】
しゅらい
『周 礼』の記載によると、中国では西周(紀元前 11 世紀頃
-771 年)にはすでに漏刻が使われていました。また、漏刻を管
けっ こ
し
理する専門職の「挈壺氏」も設置されていました。
現在、発掘調査でみつかった最も古い漏刻は、前漢(紀元前
202- 紀元後 8 年)のものだといわれ、三脚がついている円筒
の形をしています(第9図)。底より少し上の側面に注口があり、
そこから水が流れます。そして、蓋の中央にあけられた穴に箭
ちんせんろう
を通します。このタイプは「沈箭漏」といい、水が減ると箭が
沈んでいき、目盛の刻数を読めば経過した時間が分かります。
しかし、箭を水面に浮かべるために、どうしても波が立って
11
第9図 沈箭漏
第 10 図 秤漏
第 11 図 蓮花漏
しまいます。水面に立つ波は、水が流れる量と速度に影響を与えてしまい、正確な時間が読み取れ
なくなってしまいます。この問題を解決するために、壺を二つに増やし、下の壺に箭を通しました。
そうすると、上の「漏壺」から流れ出た水が下の「箭壺」に溜まり、箭が浮かび上がってきます。
ふ せんろう
箭の動きが「沈箭漏」と逆なので、このタイプは「浮箭漏」と呼ばれるようになりました。「浮箭漏」
の出現は、前漢末期と推定されています。
「浮箭漏」は「沈箭漏」より精度が上がったとはいえ、まだまだ誤差が大きかったようです。漏
刻の精度を左右するのは、水の流量です。そして、その流量は壺の中の水面の高さに大きく影響さ
れます。水面をいつも同じ高さに保たなければ、漏刻はどんどん狂ってしまいます。そのため、後
ちょうこう
漢(25-220 年)の科学者・張衡は「漏壺」を一つ増やし、二段式の漏刻を造りました。そして、
流れた水を補充するときに、下の漏壺に水を足すようにします。そうすれば、下の壺の水面はかな
り安定するようになります。ただし、上の壺の水面の高さも時間が経つと下がっていくので、その
そんしゃく
安定を求めるために、360 年頃、東晋(317-420 年)の孫綽が漏壺をもう一つ増やし、三段式の
漏刻を造りました。
り らん
そして、北魏(386-534 年)の李蘭が出水管を改良するという発想から、サイフォンの原理を
しょうろう
導入し、「秤漏」というタイプのものを造りました(第 10 図)。秤漏は、「ししおどし」と同じ仕
組みを用いています。棹の端に壺を、もう片方の端に錘を付け、別に水を直接注ぐ壺を用意します。
サイフォンの原理は、水を注ぐ壺から棹に付けられた壷まで、水を移すために用いられました。秤
漏の発明により、人びとは単純な出水管よりサイフォンの原理を使った方が、漏刻の精度が高くな
るということに気付き、これ以後の漏刻の多くはサイフォンの原理を使うようになりました。水落
遺跡の漏刻でも、サイフォンの原理を用いていたと考えられています。
その後、さらなる精度を追求するために、唐(618-907 年)の呂才が漏壺をさらに一つ増やし、
四段式の漏刻を造りました。多段式の浮箭漏は、これが最終形態になりました。水落遺跡の漏刻も、
この三段式あるいは四段式の浮箭漏である可能性が高いといわれています。
えんしゅく
れん げ ろう
そのほか、北宋(960-1127 年)の燕 粛が「蓮 花 漏 」を造りました(第 11 図)。蓮花漏は、今
12
までの漏刻とは仕組みが異なります。二段式浮箭漏を改良し、下の漏壺の側面の上縁に切り込みを
いれることによって、オーバー・フローの現象をおこしました。すると、水位はこの切り込みの高
さに保たれます。流量の変化も少なくなり、安定した漏刻になりました。
【漏刻から水力天文機械へ】
こんてん ぎ
こんてんしょう
中国では漢から「渾天儀」と「渾天象」という天文機器がありました。渾天儀と渾天象は、中国
の天文台において重要な役割を担っていました。
渾天儀は目盛を刻んだ地平環・子午環・赤道環などを組み合わせ、中央に望遠鏡に相当する装
置が取り付けられている機械です(第 12 図)。渾天儀は、天体の動きを観測できるだけではなく、
天体の座標、いわゆる天球上の経度・緯度を測ることもできます。渾天象は渾天儀と似ていますが、
天体を観測する装置は付いておらず、その動きを表現するための機械です。
これらの天文機器と漏刻の技術を組み合わせることで、天文機器が天、つまり恒星と同じ速さで
一昼夜に一回転できるようになりました。二段式漏刻を造った張衡は、最初に水運の渾天象を造っ
た人物でもあります。漏壺から流れる水を動力として、渾天象に取り付けられた歯車装置を動かし、
渾天象自体を回転させました。漏壺から流れる水の量は一定値に保たれるため、渾天象も等速運動
を維持できます。また、その速度を天球の運動速度と同じようにコントロールできるので、昼夜の
交替や星の運行など、実際の天体の動きを表現できます。
しかし、時間が経つと、水の運動により天球が加速運動をしてしまい、実際の動きとずれが生じ
てしまいます。また漏刻から流れる水の流量も少なくなり、渾天象を動かすことはできなくなりま
す。そこで、後漢では、漏刻以外に人力による調整もあったと考えられます。
じゅん
そして、隋(581-618 年)には水力だけで動く渾天儀が造られました。『隋書』には「詢が渾天
儀を造り、人力を借りず、水で運転させる。」とあり、詢という人が人力の不要な渾天儀を造った
ことが分かります。現代の機械時計と同じような脱進装置が、この時すでに使われていました。
地平環
子午環
第 12 図 紫金山天文台の渾天儀
13
いっこう
りょうれい
脱進装置の出現により、水運の技術はさらに進歩しました。唐代には一行と梁令が、それまでの
すいうんこんてん ふ
し
ず
水運渾天儀に、時刻の報知装置を取り付けました。それが 723 年に造られた「水運渾天俯視図」です。
この機械は天体の動きを表示するだけではなく、中に人形が装着されており、決まった時刻になる
と人形が現れ、鼓を打ったり鐘を鳴らしたりして時間を知らせることもできます。
そ しょう
かんこうれん
すいうんこんてん ぎ しょう
さらに、北宋になると、蘇頌と韓公廉が「水運渾天儀象」を造りました(第 13 図)。これは渾天儀・
渾天象・機械時計を一体化した、小型の天文台のようなものでした。発明者の一人である蘇頌は、
しん ぎ しょうほうよう
『新儀 象 法要』という水運渾天儀象の説明書に相当する本を著しており、それによって構造が復原
されました。復原図からは、頂部に渾天儀、中段に渾天象、下部に水力機械時計が置かれているこ
とが読み取れます。漏刻から流れる水の動力は、脱進装置が取り付けられた歯車を通して、渾天儀
と渾天象を一緒に回転させていました。機械時計も連動し、時刻になると、時を打つ仕掛けになっ
ていました。現在、この水運渾天儀象は模型でしか見ることができませんが、宋の渾天儀を模した
ものは中国南京市の紫金山天文台で見ることができます(第 12 図)。
このように、中国では「時間」という概念は、宇宙とつながっていました。漏刻は単なる時計
として使われただけではなく、天文機器と連動し、天文台の重要な一部分という側面もありました。
水落遺跡の性格について、天文台であった可能性も指摘されていますが、それを証明できるような
遺構や遺物が出土していないため、推測の域に留まっています。
渾天儀
人形
漏刻
第 13 図 水運渾天儀象
14
4.日本の漏刻
中大兄皇子が天智天皇として即位し、近江大津宮への遷都にともない、漏刻は大津宮でも使われ
ました。『日本書紀』天智 10 年条に、「漏刻を新しい台に置き、時刻を知らせ、鐘・鼓を打ちとど
ろかせた。この日初めて漏刻を使用した。この漏刻は、天皇が皇太子であられたとき、御自身で製
造されたものである。」という記事があります。この記事から、飛鳥に置かれた漏刻が大津宮へ移
されたと考えられます。
近江大津宮推定地あたりにある近江神宮には、漏刻が復原されています(第 14 図)。6月 10 日
の「時の記念日」に、近江神宮では毎年漏刻祭がとり行われています。
8世紀の大宝令、養老令の陰陽寮の項目に、漏刻博士の設置が指示されていたと考えられること
から、その後も都では、引き続き漏刻が使われていたことが分かります。8世紀後半には、大宰府・
出羽国・陸奥国に漏刻が設置されたという記録が残っています。漏刻は、政治の中心地と、九州・
東北の拠点であった地域に設置されたと考えられます。その理由として、緊急時、時刻とともに都
にその内容を伝えることで、確かな情報とするためと『続日本紀』に記されています。
しょう は
し
さらに、漏刻に関する建物として注目したいのは、首里城です。首里城は、1406 年 尚 巴志が
中山を攻略してから 1879 年まで、琉球国王の居城として、政治や文化の中心地でした。「漏刻門」
という門があり、漏刻がこの付近に設置されていたと考えられています(第 15 図)。また、門をくぐっ
た先にある広場には、日影台と呼ばれる日時計と、鐘がつるされた小屋がありました。この数十メー
トルの空間に、漏刻と日時計と鐘を置いている構造は、非常に理に適っているといえます。正午と
その前後の時刻を日時計で観測し、さらに詳しい時刻を漏刻で計っていたというように、使い分け
がなされていたと伝えられています。日時計には十二支が刻まれた石の円盤の中央に銅の棒があり、
その影で時刻を読み取っていました。時代や地域、建物の構造は違っていても、水落遺跡で使われ
ていたようすを考える一つの手がかりになります。
第 14 図 近江神宮の漏刻(復原)
第 15 図 漏刻門
15
Ⅳ 水落遺跡の意義
1.古代の時刻制
日本では、7世紀に中国の制度に基づき、朝政(朝廷での政治)を行うようになりました。それ
にあわせて、時刻制も導入されました。
時刻に関する記述が『日本書紀』に初めてみられるのは、舒明8(636)年の記事です。ここで
は官人の出退勤の時刻について記されています。しかし、この頃は正確に時刻を計ることができな
かったと推定できます。なぜなら当時は日時計が使用されており、天候により時間に狂いが生じる
ことが多々あったと考えられるからです。斉明6年に漏刻が造られたことにより、天候にかかわら
ず常に時刻を知らせることができるようになりました。
おんみょうりょう
大宝元(701)年に制定された『大宝令』に、
陰 陽 寮の規定があったと考えられています。そこでは、
漏刻を維持・管理する漏刻博士を置くことが定められていました。その配下には、漏刻の目盛りを
しゅしんちょう
計り、鐘や鼓を使って時を報じる守辰丁がいました。律令制成立以前の水落遺跡でも、漏刻博士や
守辰丁のような役割を担う人々が時刻を知らせていたのではないかと考えられます。
『万葉集』では、
守辰丁のことが「時守」と記されていました。
【陰陽寮】
なかつかさしょう
中 務 省に属する役所の一つです。陰陽寮の職員数や職種は、『養老令』職員令によって規定され
ています。その内容は、『大宝令』の規定からほぼ変更されていないと考えられています。詳しい
職員構成については、表1に記しました。主な役割としては、天体の動きや気象の変化を観測し、
それらに異変があったときに天皇に密奏することや、暦を作ること、漏刻の管理と時刻を知らせる
こと、占いが挙げられます。また、陰陽寮は唐の官制を倣うさいに、秘書省管下の暦・天文を司る
たい し きょく
たいぼくしょ
太史局と、大常寺管下の陰陽を司る太卜署を一つに合わせたものと考えられています。
2.時刻制導入の意義
中国において、皇帝は時間と暦を支配する存在でした。漏刻の設置、時刻の報知や、暦の頒布と
いうものは、皇帝のみに許された権限でした。この中国の制度が、遣隋使や遣唐使により日本の飛
鳥時代に伝わり、受け継がれていきました。
飛鳥に漏刻を設置した意義は、大きく二つ挙げることができます。まず一つ目は、飛鳥という限
られた地域ですが、時刻制を開始したことです。二つ目は、飛鳥で生活する人びとに対して時間的
な規制をかけることです。時刻制の導入により、時刻の報知が行われ、官人の登・退朝が決まった
時間で実施されていたと考えられます。朝政を決まった時間で行うかたちは、大宝律令の制定以降
に定められた「時刻報知制」と「諸門開閉鼓制」という、二つの時を知らせる規定の原形となった
と考えられます。また、これらは官人だけではなく、飛鳥で生活をしていた人びと全てに対しても
影響があったと想定できます。鐘や鼓の音が聞こえる範囲では、同じ時刻を共有し、時間に基づい
た生活を営んでいたのでしょう。
16
現在、私たちは、時間に基づいた
表1 陰陽寮職員表
生活を送っています。一分単位で刻
官職
まれた電車の時刻表、学校の時間割、
頭
テレビの番組表など、色々なものが
時刻によって定められています。そ
れは私たちにとってごく当たり前の
ことですが、昔から時刻とともに生
活していたのではありません。時刻
に基づいた生活スタイルの原点が、
水落遺跡の漏刻です。時間制が採用
されるまでは、太陽の動きにあわせ
て、感覚で生活していたと考えられ
ます。斉明朝において、「時間」と
いうそれまで曖昧だった概念を漏刻
によって正確に計り、人々に知らせ
陰
陽
寮
1
助
允
大属
少属
陰陽師
卜
陰陽博士
占
陰陽生
暦博士
暦
暦生
天
文
天文博士
1
1
1
1
6
1
10
1
10
1
官職
職員数
せる必要があります。そこまでして
も、漏刻を造ることには意義があっ
たのでしょう。人びとに時間的な制
約をかけたり、宮の周辺施設の整備
をしたりすることで、飛鳥で官人や
民をまとめる環境を整えたといえま
す。これは、後の藤原京や平城京で
実現された律令国家の基盤となった
と考えられます。
従六位上
従七位上
従八位下
大初位上
従七位上 占筮、相地
正七位下 陰陽生等に教える。
陰陽を習う。
従七位上 暦を作り、暦生等を教える。
暦を習う。
従七位下 天文の兆しをみて異変があれば密奏す
る。天文生等に教える。
官品
職種内容
令
2
従五品下 天文の観察、暦数の稽定、日月星辰の
変・自然の兆しに異があれば、その属
を占うこと。
丞
令史
書令史
2
2
4
従七品下
司暦
2
従九品上 国の暦法を掌り、暦を作り四方に頒布
する。
きます。中国からその知識や技術を
らず、鐘の音の意味を人びとに知ら
職種内容
表2 太史局・太卜署職員表
おそらく、時刻制が定着するのは
学び、正確な漏刻を造らなければな
位階
従五位下 天文、暦数、自然の兆しを司る。それ
らに異変があれば密奏する。
天文生
10
天文の兆しを習う。
漏尅博士
2
守辰丁を率いて漏尅の節を見る。
20
漏尅の節を見て定時に鐘鼓を打つ。
漏 守辰丁
刻 使部
20
直丁
3
註:『養老令』職員令陰陽寮条による
ることができるようになりました。
簡単な道のりではなかったと想定で
職員数
暦 保章正
1
従八品上 暦生を教える。
暦生
36
暦を習う。
太
装書暦生
5
史
監候
5
従九品下 天文を観察する。
局
90
夜に霊台で天文を観察し、記す。
天 天文観生
文 霊台郎
2
正八品下 天文の変を観察し、これを占う。
天文生
60
挈壺正
2
従八品下 漏刻を知らせる。
司辰
19 正九品下 漏刻の事。
漏刻典事
16
漏刻の刻を見る。
漏
漏刻博士
9
漏刻生に教える。
刻
漏刻生
360
漏刻の節を習い、時を唱える。
典鐘
280
漏鐘を打つ。
典鼓
160
漏鼓を打つ。
令
1
正八品下 方兆・功兆・義兆・弓兆の方を掌る。
丞
2
正九品下
卜正
2
従九品下
太
卜師
20
卜
15
署 卜 巫師
占 卜博士
2
従九品下
助教
2
卜筮生
45
註:『唐六典』秘書省・太常寺条による
17
3.水落遺跡の遺構を漏刻以外とする意見
さて、ここまで水落遺跡は、日本で初めて漏刻が設置された施設として、その構造や意義につい
て検討してきました。しかし、漏刻そのものは現存していません。『日本書紀』の記載や発掘調査
によって確認された強固な建物の構造、地下の銅管・木樋から、水落遺跡に漏刻が存在したと考え
られていますが、異なる角度からの研究も進められています。本項では、水落遺跡は漏刻が置かれ
た施設ではないとする学説の紹介を行います。
【天文台説】
『日本書紀』天智 10 年条に「漏刻は台に置かれた」という記載があります。水落遺跡から記載
に相当すると考えられる台は出土していないこと、また、漏刻の使用に大きな楼閣状の建物は不要
であるという考えから、この建物は天文台であるという説が出され、上階が開放された構造であっ
たと推定されています。水落遺跡は、漏刻だけではなく天文台の役割を兼ね備えた施設であったと
も考えられています。
しかし、水落遺跡のすぐ西には甘樫丘と呼ばれる小高い丘があり、水落遺跡の場所は、西の空を
観測するには適していないという反論もあります。
【石神遺跡の付属施設説】
中国・韓国に現存する漏刻には、水落遺跡のように地下水路が存在する例がないようです。漏刻
の使用に大量の水を必要としないため、水路ではなく人力によって水を運び、漏壺に注ぎました。
このような現存する例と、水落遺跡では水をろ過する(管の中がさびたり、水つまりを起こしたり
しないようにするため)施設が認められないことから、漏刻ではないとする説があります。これら
の状況から、水落遺跡
は石神遺跡の噴水型石
造物のために大量の水
を貯蔵し、安定した高
い水圧を維持するため
の付属施設であると推
測されました。発掘調
査によって確認された
強固な基礎構造は、大
量の水の重量を支える
ためのもので、周囲の
溝は万が一、水槽の破
損などにより水が流出
した時に溜めておく場
所であったと考えられ
第 16 図 石神遺跡イメージ図
18
ています。
Ⅴ 飛鳥の石造物
斉明天皇の在位中、宮殿だけではなく飛鳥地域全体が整備の対象となり、様々な施設が造られま
した。本項では、それらの遺跡から出土する石造物に注目して、石造物や施設のもつ役割や当時の
ようすについて検討していきます。
し ゅ み せんせき
【須弥山石・石人像】(第 17・18 図)
『日本書紀』に漏刻が初めて記述される斉明6年5月是月の
条には続きがあります。「石上池あたりに須弥山石を造った。
廟塔のように高い。」この記述に登場する「須弥山石」と考え
られる石造物が、石神遺跡から出土しました。石神遺跡は、水
落遺跡の北に位置しています。水落遺跡の地下に配置された木
樋のうちの一つが北へのびており、この石神遺跡まで続いてい
ることが発掘調査によって確認されました。
石神遺跡の特徴は、須弥山石、石人像という噴水機能を持つ
石像物が出土している点です。『日本書紀』にも「須弥山像を
設置し、民を饗する」という記載があり、石神遺跡で饗宴が行
われていたと考えられます。石神遺跡からは東北や九州、朝鮮
半島、中国大陸で作られた土器が出土しており、これらは石神
遺跡に迎えられた客人らが持ち運んできたものであると推測さ
れています。
須弥山とは仏教の宇宙観において、世界の中心にそびえる山
のことです。三つの石のパーツが現存しますが、文様と内面構
第 17 図 須弥山石
造のつながりが合わないことから、本来は四つのパーツによっ
て構成されていたと推測されています。サイフォンの原理を利
用して内部に貯水し、最下段の石にあけられた穴から水が噴き
出るようになっています。
石人像は男女が抱き合ったような形をしています。水は地下
の管から石人像内部の細い孔を通って汲み上げられ、女の口と
男が持っている杯から吹き出るようになっています。
この須弥山石と石人像は、奈良文化財研究所飛鳥資料館の庭
に複製品が展示されており、当時のようすを想像することがで
きます。
【酒船石】(第 19 図)
酒船石は東西 5.5 m、南北 2.3 m、厚さ1mの巨石で、表面に
円・楕円形とそれをつなぐ直線が刻まれています。用途について
は、さまざまな説がありますが、未だに定説には至っていません。
19
第 18 図 石人像
お酒を造る施設や薬を作る施設、朱をとりだす施設、水を使う庭園の一部分など、多様な説があります。
酒船石は、飛鳥板蓋宮推定地の東にある丘陵上に位置しています。この丘陵は、発掘調査によっ
て、人工的に土をつき固めて築かれたものであることが明らかになりました。酒船石のある丘陵の
中腹に切石を積み、長さ 700 m以上の石垣を造っています。『日本書紀』斉明2(656)年条にも「天
皇は工事を好む。水工を使って渠を掘らせた。香山の西から、石上山に至る。舟 200 隻を以って、
石上山の石を積んで、宮の東の山に石を累ねて垣とする。(中略)石の山丘を造る。」という記載が
あります。
第 19 図 酒船石
第 20 図 酒船石遺跡亀形石槽
第 21 図 酒船石遺跡 石敷き広場
20
【亀形石槽】(第 20・21 図)
酒船石のある人工の丘陵の裾には、石で組まれた階段や、切石が並べられた空間が広がっていま
した。その中央から亀形石槽と小判形石槽、導水施設が出土しました。亀形石槽と小判形石槽は連
結しています。木樋などで湧水施設から流れ出る湧き水を小判形石槽に注ぎ、それが亀形石槽まで
流れ、甲羅部分に溜まったのち尻尾部分から排水されました。用途ははっきりと分かっていません
が、水を用いる祭祀に使われたと考えられています。
【飛鳥京苑池遺構】(第 22 図)
後飛鳥岡本宮に付属する苑池(庭園と池)の跡が、宮殿の北西から発掘されました。高さ 80㎝
の護岸石垣や、池底の石敷き、池の中に造られた島状の石積みが出土しています。中国の長安城や
洛陽城には「禁苑」という庭園が造られ、宴会場や軍事拠点など、さまざまな用途で使用されまし
た。飛鳥京苑池遺構は、これら禁苑のありかたに類似していますが、中国のものと比較すると面積
が狭い点から、そのような大規模な施設ではなく、苑池の観賞や宴会が主な目的であったと想定さ
れています。苑池遺構には石を槽状に刳り抜いた石槽、溝が彫られている導水用石造物と、噴水用
石造物からなる噴水施設が備わっていました。噴水用石造物には孔があけられており、そこから水
が流れるようになっています。
【猿石】
猿石は、江戸時代に欽明天皇陵古墳の南の水田(小字イケダ)から掘り出された石像の総称です。
4体あり、形はそれぞれ異なります。その造形から、法師、男性、女性、山王権現と呼ばれていま
き
び ひめのみこのひのくま
す。欽明天皇陵古墳の前方部の南側に並べられていましたが、現在は吉備 姫 王 檜 隈 墓内に置かれ
ています。用途については、はっきりと分かっていません。朝鮮半島出土の石造物に類似しており、
祭祀などに用いられたとする説や、饗応施設(平田キタガワ遺跡)などに設置されたオブジェとす
る説もあります。
現在飛鳥に残る石造物の多
くは、斉明朝の頃に造られま
し た。 実 用 的 と い う よ り も、
飛鳥京苑池遺構出土石造物や
須弥山石のように、噴水の役
割をもつものや、亀形石槽の
ように、何らかの祭祀に関係
するものであると考えられて
います。また、これらの石造
物の共通点として、水と関係
があることが挙げられます。
当時の飛鳥は、まさに「水の都」
「石の都」と称することができ
るのではないでしょうか。
第 22 図 飛鳥京苑池遺構
21
飛鳥・藤原京の時代 ~乙巳の変以降~
『日本書紀』によると、皇極 4(645)年 6 月、外国からの重要な使節が来訪したという偽りの
みつのからひと
知らせ(三 韓の調)により飛鳥板蓋宮に呼び出された蘇我入鹿は、中大兄皇子や中臣鎌足らに謀
られ、皇極天皇の眼前で斬り殺されたと伝えられます。いわゆる乙巳の変(大化改新)の勃発です。
馬子以来、蘇我三代といわれ隆盛を誇った蘇我氏ですが、入鹿に続いて抵抗をあきらめた蝦夷も自
刃し、蘇我本宗家は滅亡しました。その結果、皇太子の地位についた中大兄(後の天智天皇)が政
治の主導権を掌握しました。本シリーズ第 2 集『飛鳥寺と飛鳥大仏』では、古墳時代後期の後半
期から飛鳥時代の前半期について、大王家と蘇我氏の関係を中心に概観しましたが、第 3 集『水
落遺跡と水時計』では、その後半期の時代的な特質について考えます。
古墳時代には大和や河内の大首長を中心に、南と北を除く日本列島各地の首長たちが倭国連合体
制を形成していましたが、飛鳥時代には大王家を中心に、中央集権的な国家形成を指向するように
なります。乙巳の変以降はこの動きが鮮明になり、疾風怒濤のように加速されます。この背景には
中国大陸における隋唐帝国の成立や、朝鮮半島における高句麗・新羅・百済の統一へ向けた抗争な
ど、倭国・日本国をとりまく緊迫した国際情勢がありました。
墳墓では 6 世紀末、倭国首長連合の象徴であった巨大な前方後円墳の造営が一斉に停止さ
れ、大王墓が方墳化するとともに、その墳丘規模が急速に小型化しました。例えば、推古天皇
しながのやまだ
(磯長山田)陵と推定されている山田高塚古墳は、長辺 66m、短辺 58 mの規模です。内部主体の
形態や使用石材の種類、形状も変化し、副葬品の種類・数量なども減少して薄葬化が進みました。
おさかのうち
また、舒明天皇(押坂内)陵と推定される段ノ塚古墳から、大王墓には八角形墳が採用されます。
この八角形墳は、大王・天皇権力の強化にむけて創出された墳形と想定されており、慶雲 4(707)
ひのくまのあこのおかのえの
年に火葬された文武天皇(檜隈安古岡上)陵と考えられる中尾山古墳まで続きます。
なに わ なが ら とよさきのみや
また、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(前期難波宮)において中国風の本格的宮殿の基本形が成立し、
あ す か
宮殿構造の整備が進められました。飛鳥地域では斉明天皇の後飛鳥岡本宮や天武・持統天皇の飛鳥
きよ み はらのみや
浄御原宮と、飛鳥時代前半期とは異なり、狭義の飛鳥地域で宮殿の造営が進みました。また、宮殿
の整備と歩調を合わせて、官衙や諸施設の整備も進められましたが、狭い盆地内という制約から各
所に分散して造営されました。現在までに確認されている遺跡には、石神遺跡(饗応施設)や飛鳥
池遺跡(官営工房)、酒船石遺跡・飛鳥京苑池遺構(儀礼施設・苑池)などがありますが、これら
が機能・役割を分掌し、全体として宮都の機能を発揮していました。そのひとつに、中大兄皇子が
造営したと伝えられる漏刻台があります。
古代中国では時法の制定と暦の頒布(授時頒暦)は天子の大権であり、中大兄皇子による漏刻台
の設置は、時空間を支配しようとした中国の政治思想が、本格的に倭国・日本国に導入されたこと
を意味します。
『日本書紀』斉明 6 年の記事に、
「皇太子、初めて漏剋を造る。民をして時を知らしむ。」
とあり、漏刻台の造営と時刻制の導入を示した記事と想定できます。
この漏刻台の遺跡と推定されているのが水落遺跡で、旧飛鳥小学校の校地南辺に接した位置に
あります。昭和 47(1972)年、家屋新築計画にともない発掘調査が実施されましたが、この時の
調査では、正方形の基壇が確認されたものの基壇上は発掘されず、遺構の性格を論じるには不十分
でした。その後、昭和 56(1981)年に、史跡指定された水落遺跡の整備計画に先立つ発掘調査が
22
実施され、基壇から銅管や木樋、大石上の漆塗木箱、堅固な埋込式礎石などが確認されるに及び、
総合的に漏刻台である蓋然性が高まりました。
じゅ
律令官制によると、漏刻台の運用は中務省所管の陰陽寮が担当し、漏刻を管理する漏刻博士(従
しち い の げ
七位下相当)2 名、時刻ごとに鐘鼓を打つ時報係の守辰丁 20 名が置かれました(『令義解』職員
令陰陽寮条、天長 10〔833〕年)。官人層の増大にともない、朝参時刻の管理をはじめ、官僚の勤
務管理に必要不可欠な施設となりました。その後、漏刻台は大宰府や多賀城など、辺縁の要衝にも
ろ こく
うてな
設置されました。なお、『日本書紀』では「漏剋を新しき臺に置く。」(天智 10〔671〕年4月)と
あり、占星台と同様、水時計も「楼」や「殿」ではなく「臺」に置かれたと記録されています。今
回、CGで描いた水落遺跡の復原図はあくまでも一案であり、中国の天体観測施設が露天であるこ
とも含め、その上部構造には不確定な要素が多いのも事実です。その機能・用途についても天体観
測施設説や、水落遺跡の北側に隣接して造営された石神遺跡の須弥山石・石人像の噴水供給施設説
など、諸説があります。
つぎに、「授時頒暦」のもう一つの要素である暦についてみると、現代に生きる私たちは時に追
われる日常はもとより、「大安」「仏滅」というような暦注に左右される冠婚葬祭をはじめ、無意識
の中に暦の影響を受けて生活しています。飛鳥時代の人びとも、平成 14(2002)年に石神遺跡か
ら出土した暦木簡により、暦に支配されて生活していたことがわかりました。この暦木簡は、容器
の蓋と推定される円盤状の木製品に再利用されていましたが、その表裏には十二直という暦に用い
られる語句や月の満ち欠け、吉凶に関する各種の暦注が記載されていました。また、干支の組み合
げん か れき
わせなどの検討から、この暦木簡に記されたのは持統3(689)年 3 ~ 4 月の暦(元 嘉暦)であ
か
しょう
ると判断されており、現存する日本最古の暦です。元嘉暦は中国南朝・宋(420-479 年)の何 承
てん
天が作成し、元嘉 22(445)年に施行、天監8(509)年まで使用された暦ですが、石神遺跡出
土の暦木簡は、元嘉暦の実物が世界で初めて発見された事例でもありました。
官僚制度の整備では、『日本書紀』や『続日本紀』に記録される冠位の制定と展開があります。
冠位は推古 11(603)年の十二階冠位にはじまり、大化 3(647)年の七色十三階制で大きく改訂
されました。その後、孝徳朝(冠位十九階制、649 年)
・天智朝(冠位二六階制、664 年)
・天武朝(諸
王以上二四、諸臣四八階制、685 年)における改訂をへて、大宝元(701)年の『大宝律令』の施
行にともなう位階制(親王四階、諸王十四階、諸臣三十階)の採用まで、約一世紀に及んで用いら
れました。この官僚制度は、時間と暦の本格的運用と歩調を合わせて効率的運用が促進され、納税
時期の全国一律化などにも波及しました。
中大兄皇子による漏刻台の設置後、白村江の敗戦や壬申の乱をへた天武 ・ 持統朝に国号が倭国
から日本国へ、また称号が大王から天皇へとかわり、本格的な時刻制と暦の受容と密接に関連しな
がら、中央集権国家体制の整備が加速されました。大宝元年、整備された中国式の都城である藤原
宮において、文武天皇が即位して 5 回目の元日朝賀が執り行われました。元日朝賀とは、毎年元
日に天皇が貴族や中 ・ 下級役人の年賀を受け、君主と臣下の関係を確認する儀式です。このときの
こうもん
どう ばん
どう う どう
にちぞうどう
げつぞうどう
せい りゅう ばん
す
元日朝賀では大極殿の南門(大極殿閤門)に 7 本の幢幡(銅烏幢・日像幢・月像幢・青 龍 幡・朱
ざく ばん
びゃっ こ ばん
げん ぶ ばん
雀幡・白虎幡・玄武幡)が立てられ、その威容を高めていました。桓武天皇の命を受けて延暦 16
ここ
(797)年に撰進された『続日本紀』大宝元年春正月の記事に、「文物の儀、是に備われり(学問 ・
芸術 ・ 法律などすべてが整った)」と誇らしげに語られる時代を迎えたのです。
23
関連史料
【現代語訳】
①秋七月の己丑の朔に、大派王(敏達天皇の皇子)が、豊浦大臣(蘇我蝦夷)に、
に従わなかった。
いて時刻を知らせ、規則を守らせるようにせよ」と言われた。しかし大臣はこれ
前六時)の始に出仕し、巳(午前十時)の後に退出させよ。そのために、鐘をつ
漏刻や時刻に関する記載が『日本書紀』に残っています。このような記載から、 「群卿大夫や百寮(各官司の役人)が、朝廷への出仕をなまけている。今後は卯(午
政治や日々の生活に時刻制が浸透していった過程を読み取ることができます。
【原文】
天皇はこの小郡宮にあって宮廷での礼法をお定めになった。その制は、
①一二辰制
『日本書紀』巻二三 舒明天皇八年(六三六)七月己丑朔
秋七月己丑朔、大派王謂豐浦大臣曰、群卿及百寮、朝參巳懈。自今以後、卯始朝之、
「およそ位をもつ者は、かならず寅の時(午前四時)に南門の外に左右に整列し、
②この歳、小郡(難波小郡。外国使臣接待のための施設)を壊して宮殿を造営し、
巳後退之。因以鍾爲節。然大臣不從。
た者は入って庁舎におもむいてはならぬ。午の時(正午)になって合図の鐘を聞
日がさしのぼるのをまって庭に進んで再拝し、それから庁舎におもむけ。遅参し
②太陽の動きに基づいた生活
というものであった。
いたら退出せよ。鐘をつく係は、赤い巾を前に垂らせ。鐘の台は、中庭に建てよ」
『日本書紀』巻二五 大化三年(六四七)是歳
是歳、壞小郡而營宮。天皇處小郡宮、、而定禮法。其制曰、凡有位者、要於寅時、
南門之外左右羅列、候日初出、就庭再拜、乃侍于廳。若晩參者、不得入侍。臨到午時、
③ こ の 月 に、 宮 司 は、 勅 命 に 従 っ て 一 百 の 高 座、 一 百 の 納 袈 裟( 法 衣 ) を 造 り、
に な り、 民 に 時 を 知 ら せ た。 ま た、 阿 部 引 田 臣 が、 夷 五 十 余 を 献 上 し た。 ま た、
聽鍾而罷。其撃鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾臺者、起於中庭。
③飛鳥に漏刻を造る
れによって粛慎四十七人に饗応した。また、国中のあらゆる百姓が、何事もない
仁王般若の法会をもうけた。また、皇太子(中大兄皇子)が初めて漏剋をお造り
『日本書紀』巻二六 斉明天皇六年(六六〇)五月是月
是月、有司奉勅、造一百高座・一百衲袈裟、設仁王般若之會。又皇太子、初造漏尅。
のに武器をもって道路を行ききした。
石上池のほとりに須弥山を作った。その高さは廟塔(寺院の塔)ほどもあり、そ
使民知時。又阿倍引田臣、獻夷五十餘。又於石上池邊、作須彌山。高如廟塔。以
④大津宮に漏刻を設置する
皇太子であられたとき、御自身で製造されたものである、云々と伝える。
鐘・鼓を打ちとどろかせた。この日初めて漏剋を使用した。この漏剋は、天皇が
饗肅愼卌七人。又、擧國百姓無故持兵、往還於道。
『日本書紀』巻二七 天智天皇一〇年(六七一)四月辛卯
夏四月丁卯朔辛卯、置漏尅於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏尅。此漏尅者、天皇
(『日本書紀 下』井上光貞監訳 一九八七より引用一部改変)
④夏四月の丁卯の朔辛卯(二十五日)に、漏剋を新しい台に置き、時刻を知らせ、
爲皇太子時、始親所製造也、云々。
24
用語解説
しゅらい
【周礼】
ぎ らい
らい き
さんらい
中国儒家の経典の一つであり、『儀礼』・『礼記』とともに「三礼」と称します。周朝の政治家及
しゅうこうたん
び思想家である周公旦が作成したものとされますが、実際はその後の戦国時代に編集されたものと
考えられています。『周礼』は、当時のあらゆる官職を天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官の6
篇に分けて記しており、その記載から周の儀礼制度が窺えます。
こうてい
ていぎょう
【黄帝・帝尭】 司馬遷の『史記』に記載されている「五帝」のうちの二人です。「帝」の文字を使っていますが、
中国において「皇帝」号を初めて使ったのは秦の始皇帝であったため、この二人は皇帝ではなく、
せんぎょく
しゅん
こう
しょうこう
部落の首領です。そのほかに、研究者によって意見が異なりますが、顓頊、帝舜、帝嚳、少昊など
の人物も「五帝」の一人とされています。また、発掘調査によって、この二人は実在した人物とす
る証拠も出てきていますが、まだ根拠としては弱く、「五帝」は伝説上の人物であるとも考えられ
ています。
たいほうりょう
【大宝令】
日本における律令編纂は、681 年天武天皇の命によって始まったとされています。天武天皇は
即位以来、中国に倣った律令国家の建設を目指して、歴史書の編纂や儀礼・服装等の唐風化、藤原
京の造営などを行いました。そのような事業の一つが、律令の整備です。天武天皇の没後、持統天
皇が浄御原令として配布しました。その後文武天皇が、令の改訂と律の制定を目指し、刑部親王や
藤原不比等ら 19 名で律令の編集を行いました。『大宝令』が大宝元(701)年に施行され、
『養老令』
に代わる天平宝字元(757)年まで使われました。現在、律令ともに残っていませんが、大宝令の
一部は『養老令』に引用されており、現在に伝わります。
ようろうりょう
【養老令】
大宝令に続いて選定され、757 年に施行された令です。大宝律令から内容的な変更は少なく、
字句の修正が大部分であったことが、
『令集解』から読み取ることができます。令の解説書にある『令
義解』と『令集解』に大部分が引用され、現在まで伝わります。養老令の編纂にあたって、①編者
である藤原不比等の私的事業によるものと、②首皇子(後の聖武天皇)のもとで新律令を交付する
ためのものという、二つの説があります。
25
日中比較年表
渠
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【主要参考・引用文献】
飛鳥資料館編 1983『飛鳥の水時計』飛鳥資料館
飛鳥資料館編 1986『飛鳥の石造物』飛鳥資料館
飛鳥資料館編 1995『蘇我三代』飛鳥資料館 網干善教 1980『古代の飛鳥』学生社
有坂隆道 1984「古代の水時計」『講座飛鳥の歴史と文学4』駸々堂出版
市大樹 2005「飛鳥時代の暦」『飛鳥古代への旅』別冊太陽 平凡社
井上光貞・門脇禎二編 1987『古代を考える 飛鳥』吉川弘文館
井上光貞監訳 1987『日本書紀 下』中央公論社
今泉隆雄 1983『古代宮都の研究』吉川弘文館
大阪府立近つ飛鳥博物館 2010『ふたつの飛鳥の終末期古墳』 近つ飛鳥博物館
狩野久・木下正史 1985『飛鳥藤原の都』古代の日本を発掘する1 岩波書店
黒崎直 2007『日本史リブレット 71 飛鳥の宮と寺』山川出版社
斎藤国治 1995『古代の時刻制度:日本・中国・朝鮮:古天文学による検証』雄山閣出版社
蒋廷錫 ほか編 1934『欽定古今圖書集成 : 歴象彙編』中華書局
中国社会科学院考古研究所 1980『中国古代天文文物図集』文物出版社
中国社会科学院考古研究所 1989『中国古代天文文物論集』文物出版社
中国天文学史整理研究小組 1981『中国天文学史』科学出版社
趙貞 2006「唐代長安街鼓考」『上海師範大学学報』第 35 巻第3期
趙貞 2007「唐代的天文管理」『南都学壇』第 27 巻第6期
奈良県立橿原考古学研究所 2012『史跡・名勝 飛鳥京跡苑池(1)―飛鳥京跡Ⅴ―』
奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 111 冊
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 2008『宮都飛鳥』特別展図録第 70 冊
奈良国立文化財研究所 1995『飛鳥・藤原宮発掘調査報告Ⅳ―飛鳥水落遺跡の調査』
奈良国立文化財研究学報第 55 冊
奈良文化財研究所 2001「水落遺跡の調査―第 108-4 次」『奈良文化財研究所 紀要 2001』
奈良文化財研究所 2002「石神遺跡の調査―第 116 次」『奈良文化財研究所 紀要 2002』
奈良文化財研究所 2005「石神遺跡(第 17 次)の調査―第 134 次」『奈良文化財研究所 紀要 2005』
奈良文化財研究所 2009「石神遺跡(第 21 次)の調査―第 156 次」『奈良文化財研究所
紀要 2009』
奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原京展
―古代律令国家の創造―』
三宅和朗 2010『時間の古代史:霊鬼の夜、秩序の昼 歴史文化ライブラリー』吉川弘文館
山田慶児 1980『授時暦の道』 みすず書房
山田慶兒 1983「古代の水時計」『自然』1983 年3・4号
山田慶兒・土屋榮夫 1997『復元水運渾天儀象 十一世紀中国の天文観測時計塔』新曜社
27
楊東甫 1990「漏刻考」『広西師院学報』第3期
吉川真司 2011『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』岩波書店
李卓政 2007「漏刻―歴史久遠的計時工具」『力学與実践』第 29 巻
【図版出典】
1.狩野久・木下正史 1985『飛鳥藤原の都』古代の日本を発掘する1より、一部改編 岩波書店掲載許可
2・3.奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原
京展―古代律令国家の創造―』 奈良文化財研究所掲載許可
5~7.奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原
京展―古代律令国家の創造―』より一部改編 奈良文化財研究所掲載許可
9.中国社会科学院考古研究所 1980『中国古代天文文物図集』文物出版社 中国陝西省茂陵博
物館掲載許可
10.蒋 廷錫 ほか編 1934『欽定古今圖書集成 : 歴象彙編』中華書局よりトレース
11.山田慶兒 1983「古代の水時計」『自然』1983 年3・4号よりトレース
13.山田慶兒・土屋榮夫 1997『復元水運渾天儀象 十一世紀中国の天文観測時計塔』
新曜社よりトレース
17・18.奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原
京展―古代律令国家の創造―』 奈良文化財研究所掲載許可
19・20.奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原
京展―古代律令国家の創造―』 明日香村教育委員会掲載許可
21.奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 2011『宮都飛鳥』 明日香村教育委員会掲載許可
22.奈良県立橿原考古学研究所 2012『史跡・名勝 飛鳥京跡苑池(1)―飛鳥京跡Ⅴ―』
奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 111 冊 奈良県立橿原考古学研究所掲載許可
【関連本の紹介】
飛鳥 関連本
井上光貞 2004 『飛鳥の朝廷』 講談社
千田 稔 2001 『飛鳥―水の王朝』 中公新書
吉川真司 2011 『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』 岩波新書
石造物 関連本
奥田 尚 2006 『古代飛鳥・石の謎』 学生社
門脇禎二 2002 『飛鳥と亀形石』 学生社
時計 関連本
有澤 隆 2006 『図説 時計の歴史』 河出書房新社
織田一郎 2008 『時と時計の雑学事典』 ワールドフォトプレス
28
水 落 遺 跡 と 水 時 計 解 説 書
平成 27 年4月 印刷・発行
編集 関西大学文学部考古学研究室
発行 奈良県明日香村
30
飛鳥・藤原の宮跡とその関連資産群
「飛鳥・藤原」を世界遺産に!