いつ「アジア」は花開く? - J

アジア政経学会 50 周年記念企画
いつ「アジア」は花開く?
衞藤瀋吉
「アジアは一なり」の句に始まる岡倉天心の『東洋
の理想』は、活溌溌地に筆が躍っていた。
「二つの強力な文明、孔子の共同社会主義を旨とす
る中国人と、ヴェーダの個人主義をもつインド人を
ヒマラヤ山脈がわけ隔てている。しかし、雪を戴く
障壁も、窮極的なもの普遍的なものを憧れる愛情を
妨げることはできない」。60 年前、少年の私は天心の
この一文で、佛の説くまことの道を究めようと、生
ぐ どう
涯を求道の旅と佛典の探求に捧げた法顯や玄奘を夢見て涙した。さらに天心の
筆は躍る。
「こうした窮極への愛情こそ、アジア民族がすべての大宗教を生み出したゆえ
んである。欧米の民族が、人生の目的なぞ考えずに、富とか武力とか人生の手
段にしか過ぎないものの探求に夢中になるのとは、はっきり違っている」。
わか
稚 かった私は、この一文で、そうだ、アジアにこそ精神文明の泉はある!
と膝をたたいたものである。
それが昭和 15 年頃のことであったろうか。高校入試直前、味気ない灰色の受
験勉強に飽いて、ひととき、天心の書物を読んだ印象は強烈であった。
それから 10 年、私の生活は、旧制高校の青春、東大法学部で戦況日に非とな
るなかでの短い、しかし貪欲なほどの法律の勉強、二等兵から見習士官までの
兵営生活、広島での被爆、敗戦、復員、復学、と目まぐるしく変った。
そしてアジア政経学会が発足して、その会員になったときは、東大東洋文化
研究所の助手をしていた。指導教官は中国外交史の植田捷雄先生。そのほか、
中国法制史の仁井田陞、経済地理の飯塚浩二、日本政治思想史の丸山真男、ベ
トナム史の山本達郎、中国古代経済史の西嶋定生ら、俊秀の諸先生が盤踞して
おられた。この助手時代大変な強い学問的刺戟を受けたものである。就中、若
ばん
き中国外交史の研究者坂野正高さんとは研究室も一緒で、最も大きい影響を受
けた。
む
こ
そして、私自身は、原爆で無辜の民を殺戮したアメリカをひたすら憎み、学
1
武昌起義記念館の入口。1986 年 3 月 19 日から 29 日まで、武漢、南京、上海、北
京などを歴訪、武者修行のつもりで研究発表はもとより討論まで、すべて中国語
で頑張る。ハルピン育ちの西條正を除けば、衞藤の中国語がどうにかものになっ
ている程度だった。時は移り、今や若き同行者は成長しその中国語はすばらしく
なった。左より石井明理事(肩書は当時のもの、以下同)、姫田光義理事、高木
誠一郎理事、鎌田文彦会員、衞藤理事長、記念館の職員、西條会員。
問で仇討してやるぞ、との激情を超克しかねていた。
その 10 年間はアジアの独立の 10 年間であった。アジアの政治地図は一変し
た。たくさんの独立国ができて、アジア研究も深化し分化し、今や「アジアは
一ならず」が定説になってきた。
しかし、アジア政経学会の荷う現実的、実践的課題の一つは、アジア諸地域
がいかにすれば、社会的経済的に均衡のとれた持続する発展の道を歩めるか、
である。西はアフリカから東はオセアニアまで、この同一課題を背負っている
という意味では、改めて「アジアは一なり」と言えようし、この問題意識は、
若い頃から一貫して、私の勉強の底流をなしてきた。天心のロマンティシズム
は今、社会的経済的実践へのエネルギーとして甦って来て欲しいと思う。明る
く豊かな「アジア」の花が開くのは今世紀だ、と信じ込んでいるのは、私ひと
りではあるまい。
(えとう・しんきち 東京大学名誉教授、第 6 代、8 代理事長、
1978 ─ 1981、1983 ─ 1985 年在任)
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アジア研究 Vol. 50, No. 1, January 2004