∼川井新田の誕生∼

∼川井新田の誕生∼
戸屋村
『郵便番号帳』を開くと、川井小学校
区で地名が出てくるのは、「川井 9498722」と「川井新田 949-8723」のみで
す。同じように、『郵便番号帳』で市内に
「○○新田」という地名をさがすと、「池
中新田」「豊久新田」「両新田」がありま
す。このように「○○新田」や「○○新
村」、「○○興野」などと付く地名は新潟
県内はもちろん全国に多数ありますが、
これは江戸時代になって成立した比較的
新しい集落です。もっとも、最近は新興
団地の地名もどんどん増えていますから
一概には言えませんが、他の多くの集落
は室町時代から江戸時代の初めまでに誕
生しました。右の写真は江戸幕府3代将
軍徳川家光が作成を命じた「正保国絵図」
信濃川
(地図)の川井周辺ですが、この絵図に
はまだ川井新田は載っていません。川井
村、真皿村、内ヶ巻村、冬井村、戸屋村、
田麦山村、西川口村、塩殿村、信濃川、
魚の川などがはっきりと描かれています。
平和になった江戸時代、経済の中心は
米の生産でした。収入の中心は米で、税
正保 4 年(1647)作成の正保国絵図(新発田市立図書館所蔵)
金の年貢(ねんぐ)も米が中心でしたから、 信濃川と魚野川の合流近くに川井地域の村々が描かれている
全国的に新田(水田)の大開発時代とな
りました。越後全体でも、江戸時代少し前の 1598 年には 39 万石余の石高(米の生産高)であったの
が、明治初期の 1873 年には 115 万石ほどに増加したように、耕地とともに江戸時代に各地で「○○新
田」というムラ(村)が増えました(『日本歴史大事典4』
)。
それでは川井新田はいつ誕生したのでしょうか。そのことを証明する地元の史料をまだ確認できて
いません。ここでは会津藩が江戸時代の中期に作成した『新編会津風土記』の記述を紹介します。な
ぜ、福島県の会津藩の書物に川井地域のことが書かれているかといいますと、内ヶ巻城主の田中家が
去った後、川井地域一帯は高田藩(上越市)の領地となりました。その後、高田藩にお家騒動がおこ
り、領地が江戸幕府に取り上げられて幕府の領地(天領)となります。しかし、江戸時代の中期以降、
幕府は自分では直接統治せず、支配を会津藩に任せたのです。そのため『新編会津風土記』に魚沼地
方のことが書かれています。そこに、川井新田については「承
応年中、川井村より分かるという、----家数二十五軒--」と
あります。承応年中(1652∼1654)に川井村から分村して誕
生したことが記されています。家数も江戸時代の中期で 25
軒と現在とほぼ同じです。こうして誕生した川井新田は、庄
屋(しょうや)さんなどの村役人も任命されて独立し、明治 22
年まで存続します。明治 22 年の町村合併において川井新田は
川井村(本田、真皿、内ヶ巻、冬井、戸屋)と合併し、新生
真宗寺境内から川井新田方面を望む)
の川井村となり、昭和 29 年に小千谷市に合併するまで続きま
した。この地域に新しいムラとして川井新田が誕生から今日まで、360 年近くの歳月が流れてきたこ
とになります。
)
冬井村
)
川井村
)
内ヶ巻村
魚の川
真皿村