谷三山の尊王援夷思想について 月 、中井竹 山と 明 四 八 nL 、 それだけにまた興 味 、 るように YI尊王接夷思想でもまた両者が異なっているのも当然であろう。では 三山の尊王按夷思想がい かなる形成 、気のついた点を幾っか述べてみ た い 。 とっても、陽明学への接近と評価を示す節斎と、特に陽明学者の持つ行動性の強さへの危倶を示す三 山との違いがあ 迫の世情の中で 、 尊 王 嬢 夷 思 想 に も 関 心 を 持 つ よ う に な っ て い た こ と は 事 実 で あ っ た 。 し か し 育った三山は 、 その号を 三山 とつけたように 、陵墓を初めとして 地域の歴史に強い興味を持って いたが、 対外関係緊 、陽 明学への対応一つ なっているし 、 眼と耳が不自由な三山の行動は、自ら節斎のそれとは異な勺ていた。大和三 山 に近い八木に生まれて 大和国五条の出身であり桜井氏の後葡という、尊王簸夷思想家の節斎と三山とは親友であるが 、 その思想傾向は異 あるものでもあった。 とがうかがえるものであった。ただ 筆談で あるだけに断片的な内容や人物評が多いのであるが 、 履軒、特に履軒学へ の高い評価 を中心にし て、十九世紀初めまでの儒学界を語るとともに 三山と節斎の学問と人物 谷 三 山 の 存 在 を 知 っ た の は 、彼より九歳年下になる森田節斎との筆談を見た時であるが、その筆談は 大 、 父は重之 、 楽軒と号する商家で 、 父は樫村氏(ちゃ﹀を姿って三 の 歴 史 と 内 容 を 持 つ も の で あ っ た の か 、 以下三山についての考察を行い 谷三山は 、享和二年に大和国八木に生まれたが (7 9 2) - 状態で、慶応三年十二月六日には病身ながら講義を平常のように行ったが 、 翌日より病気が重くなり、十一日六十六 歳﹀、病気が再発して視力を失っていったのであるが 、 塾生への講義などは中止することがなかったという。 嘉永ナ 年には長兄も亡くなったが 、 視力はまずまず悪化して 、文久一二三年(六十一 、 六十二歳)の頃にはほとんど失明の らに新しい環境が加わってきたのである。嘉永元年と二年には両親が相次いで亡くなり 、 三山もその頃(四十八 、 九 機を迎えたのである。やがて嘉永年間に入ると、六年以後は世情も騒然とする時期になってきて 、 三山にとってはさ 教えた。弘化元年四十三歳の一月には、高取藩主植村家教により儒臣に抜擢されて士籍に列せられ、一つの大きな転 天保ナ年三十四歳の前後、病気のため学業を廃することもあったが、それも液晶えると 、 その部一 U一 興談館で門下生に うになった。 に行き猪飼敬所(この年六十九歳﹀に会っている。以後敬所とは、書簡や筆談などによって学問上での交渉を持つよ に学聞を本格的に始めたが、それより十 余年、諸史・経・子類を学び 、文政十二年夏二十八歳の時には 、 長兄と京都 力 を 失 っ た の で あ る 。 や や 長 じ て か ら で あ ろ う が 、 長 兄 の 勧 め も あ っ て 、 正史を学ぶべきだと考え 、 以 後 字 告 を 頼 り を好んで読んだという。しかし、十一歳の時に眼と耳を病み、眼病は治癒したが耳病は好転せず 、数年後には全 く聴 問を好み詩文の才能があったといわれる可そうした尽埼下で三山は、幼少の時から読舎の機会も多かったが 、科史類 4を 家業の状態は良く、三山出生の頃は富山晴な京たったといわれるが、祖父も父もともに雅号を持っていて 、 長兄も学 j って谷氏と称したという。三山の祖父の代になって、祖父が支を桜井の西にある丸木に移して商業 乞 常 ん 九 通称を市三そして新助、後に昌平と改めたが、 三 山 ば そ の 号 で あ り 、 別 に 淡 庵 ・ 緯 ・ 斎 相 在 室 ・ 無 耳 山 人 な ど と も 号 した。彼の家は、大和国桜井にいた桜井氏の後 簡 で、永正年間に滅亡後、子孫の居住した仰向井南部にある地名から取 、 男二女があった。長男の名は重 緑 、 、 厚 亭 と 号 す る が 、 二 男 d t ¥ 折 し 、 三 山 は 三 男 で 、 訴 は 投 字 ば 子 正 ま た は 存 誠 ・匝 谷三山の尊王 権夷 思想について 7 L i 羽 , (793) . . ' • 谷 三 山 の 尊 王 抜 夷 思想について 歳で亡くなった。 、 三山の学問への道は、富裕な商家であり、また学問に理解があったと思われる家庭環境の下で始まったのである が 病気のため限と耳が不自由になるという悪条件もあって、困難を極めたようである。物語風歴史や伝記類などの科史 、 、 類 と い っ た 、 商 家 そ の 他 の 富 裕 な 家 に は よ く み ら れ る も の か ら 入 っ て 独学で中国の史書その他を学んだというが 、初 彼にとって唯一の師ともいってよい人物としてあけておかなければならないのは猪飼敬所である。師といっても 、 めて会ったのが三山二十八歳の時であって、尊敬すべき同学の士と心叱教えを受けていたといってよいだろう。 天保三年春、三山の聞に対して敬所自らが書送った﹁履歴師友淵。 源 戸︺をみると、敬所も京都の商家の子で 、幼少か 、 ら絵草紙や軍書を好んだが、手島堵庵に心学を学び、やがて商業より学問の道を選んで岩垣龍浅の門に入り ことで 、 古 注 を 中 心 に 朱 子 学 を 学 ん だ 。 こ の 龍湾以 外に師とすべき者もなく、 渡世のために開業したのであるが ﹁余 ガ説文 、 一 一 一 口 語 文 学 ニ 止 ラズ 詞ニ泥マズ義理明白ニテ今日ノ事務ニ益アリ感服セラレ、﹂るのも、 ﹁コレ幼年心学ヲナレ 著 限一 世 儒 ト 同 カ ラ ザ ル 所 也 、 今 古学ヲ崇信レテ心学ハ棄ツ トイ ヘドモ 、﹂とも・述べている。さらに 師 恩友の恩を忘れず 、 、 放蕩もせず、﹁故ニ宗族郷党ニ悪マレズ、 是以拙劣不才ナレド世ニ軽ンゼ-プレス 是皆師友ノ カ ナリ ﹂と 強 調して 、 身持 よ 、京 都 ゃ あ る い は 大 いる。敬所は三山の精読強記をよく推賞しているが、敬所が古学在崇信し、訓話学 よりは人聞の義理を説き く他人より悪まれることのない大人の風格を持つ人物であったとされること尺三山とその兄が ハ む 和の儒者の中から敬所を選んで親しんだことの大きな理由であったと思われる。 、 幾つかの意見を拾ってみてそ の立場をう 次に 、 現 在 三 山 の 浮 咽 上 の 立 場 を 示 す ま と ま っ た 著作 は残っていないが ヴ' (794) 。 五 かがってみたいと思弘引例えば 、 文政五年から七年(二十一歳から二十三歳)にかけての﹁淡庵管見﹂を みる と、﹁乃 . . 、 、 、 、 謂 ・ 宋儒之害過ニ於樺老一 、 至レ今俗学転慮 而筒身之教殆廃な︿ 遂 宋 儒 ニ 近世本邦学者、 往々ヌニ其癖 - 動 話 一 甚至 レ ー 44 使=一人言一一学問無益而有官室口也 、 鳴 呼 程 朱 伝 ν道 之 功、 如 是 其 偉 也 、 程朱立与一一口之 戸 如 是 実 切也 、 ﹂ あ ろ いは、﹁其一一一 .1 切直 、 其 行 篤 正 則 叩 ニ 其 学 一 、必宗ェド子一者也。其言浮華 、其行放蕩 、則 叩=其学一 、必 宗一物子一首也 。 鳴呼二 弘之学 問邪正高下、 較知一一黒白六﹂ともいい、また ﹁或 謂 ν予 一 玄 、 朱 子 陸 子 仁 斎 組 旬 、 此 四 子 者 皆 入 干聖 門 之 車 一 也。乗 ν此 (三山) 以行、 雄二所レ乗不 v同而所レ到則同也 、 故 云 四 子 之 学 其 帰 一 也 。 予 臼 不 t然、警如 一一西趨者東説者、北趨 者 南 趨 者 二 雄 ニ 節斎との筆談で 、 節斎が三山ハい﹁学問安心立命之臨御尋申候 ハ 、 程ぷ学 之恨 木 ニ於不 ν疑力不川 趨則皆趨一 、 而所 ν至必不 ν同也。﹂といった意見が示されて いた 。 こ の 後 役 所 と 接 触 す る の で あ る が、 さムに弘化四 年(四十六歳)こは (7 9 5) ラサルカノ事也。此事第一承り反候。﹂と質問したのに答えて三山は 、﹁僕以一一 仁義礼智一気レ性不 L疑也 。但此四者孟子 略拳ニ大綱一而言レ之。而程朱配以 五行 ¥ 而敦魚 ν 続 々 乎 ニ 一 一 口v 木、 執潟 ν金、初 之、則 ぃ Kl 免 乎浅儒之 姻 習 会 。是則可 ν疑 一 一 一 耳 。 ﹂ と し て い る 。 以 上 の よ う な 点 か ら み て 、 無 批 判 で は ないに し ても、栄子学を基雄一 とす る方向であったことは 間 違いないであろう。しかしまた 、 古学を説く敬所と親しく 、あるいは明代 、博く 叶 h 害を 概め て古文を普く し たと いう 佐山紘や 、 清 代、考証に精通したという王一組の二人の傾向を 、一 ズ ハ 流消 如 t 怠老無 τ村気}耳。﹂と し て 出 び、 大概懐徳堂一の 儒 者 中 井 履 軒 を 高 く 評 価 し 、 彼の﹁七経逢原/宋元経解中ニモ難 L得者 ト思 ヒ候 ‘ ﹂とし て いること 、また 、 若 い頃に 読 ん だ 伊 藤 東 涯 や 服 部 南 郭 を 、 やはり大坂懐徳堂の儒者で履軒の兄竹山 と比較 し て遜色 なしとするなど 、古銭学派や 担 保 学 派 の 成 果 も 読 み な が ら、 古文を喜び考証を重んずる傾向の強かったことがう かが える のである。飾斎もまた 、 江戸の考証学者松崎僚堂が天保十五年に亡 く なったことから、 三山 にとっての 好敵手を失っ たといっていることは 、 三山をよ く知る者の言と し て参考になろう 。陸王学に対しては 、 これを表世 之言 とし て取らなかった 三山 は、もし履 五一 軒 ( 文 化 十 三 年 か 十 四 年 に 没 ﹀ が こ の 世 に あ る な ら ば そ の 弟 子 と 称す るかと の節斎の問 に、 ﹁断々不 L称 τ 弟子 ﹂ と 。 一 答えているが 、 十九 世紀に入って儒学各派が展開していく中での 勉 学で 、 独学 とはいえ学 者 と し て の自負心を持 っと 谷三 山 の尊王 擁災思想について • 谷 三 山 の 尊 王 位 夷 思想について ともに、先述した傾向が示すような折衷的な幅広い学問の内容を持っていたといえよう。 五二 それらの点について、さらに次のような面を付け加えてみたい。三山は、節斎との筆談で陸王学についての見解を 異にした時、 酒を飲んで笑う者泣く者、 怒る者喜ぶ者があることは甚だ多く 、読書も似たようなものではな いかとし ているが 、自分の善しとするところを墨守し他に強制しようとしない、学問や教育の面での考えのあったことを指摘 n o 出来るのではないかと思う。このことを、彼の門弟とされる者からみてみよう。例えば、﹁大和人物志同にあげられ ている門弟には 、 後に五条で教え狭山藩士となる森鉄之助 、 田原本藩士である吉村信之介と西谷善慎、森鉄之助にも 学び天詠組に参加して刑死した原田亀太郎 、農家の出であるが後に大坂で教え高取藩士となる上 回以亭、 大庄家の出 で 後 に 芝 村 落 儒 と な る 前 部 重 厚 が い た が 、 さ ら に 、 岡 本 通 理 は 国 学 に 通 じ て い て 史 籍 に 精 しく、久保耕庵は蘭学に精 しく 洋医を業としたという。このように 、門弟が三山の教育を受けてそれぞれの道を進んで いることは、 ﹁ 普 ヲ讃ハ、 マサ ニ以テ君子タラントスルナリ。 :::凡ソ吾川畳一一入レ缶 、各長ヲ敬レ 、 幼ヲ慈ν、人ヲ先ンジテ己 ヲ後 ニレ 、威 儀 秩々 、 一一言語詳々 、 一々古道ヲ以テ自蕗レ 、バリ 人之脇ヲ洗テ 、 君子ノ域-一瞬ペレ。﹂︿﹁輿譲館勤一約﹂)と して、読斡勉学 は、 古聖賢の道によって人間としての成長に努め、君子の域にのぼることだとする教育方針を取り、門弟それぞれの 人格陶冶と勉学を進めさせていった結果であろうし、それは、三山の学問に対する態度と相通ずるものではないかと 思われる。 なお 、 ここで次の点に触れておきたい。それは、幕末の尊王強夷思想に大きな影響を与えた水戸学、あるいは水 戸 っd 藩への三山の関心についてである。かつて、大伴茂氏はその著高で、吉田松陰が嘉永六年五月二日、八木興援館に三 山を訪ねた際の 筆語草稿︿松陰自筆)と思われるものとして 、﹁新論﹂の著者会沢正 志斎や藤田東湖たち水戸落の人 物四名の名をあげているものを示され、水戸藩の話も出ていたようだとされた。確かに三山が無関心であったとは考 、 (7 9 6 4 , v t 、 町 c i 、 . ー ー ー ・ 句 " : . , . 0 ドh H H d ・ いが、むしろ、頼山陽に対する強い関心から、三山を考えてみることが注意すべき点ではないかと思われる。 一 口 を 、時代を追っ て考えてみることにしよう。 対する発一一一 天保十一年か十二年頃に 、﹁勤倹ヲ尚ビ騎惰ヲ戒ムベキ事﹂ というものを書いている。 この時三十九歳か四十 歳で 、 敬 所 に 会 っ て 後、病を得てしばらく休養することがあったが 、 ﹁興譲館塾約﹂でみたような方針で門弟の教育 こ 当 た ろ う と し て い た 頃 で あ る 。 こ れ が い か な る 目 的 の た め に 警 か れ た も の か は 不 明 た が 、文中の記述には、文献に よるものの外に 、それま でに見聞することのできた、八木近辺の実状と思われる生活史 ・風俗史ともいうべきものが あって、幼少より歴史物を喜び、長じては考証を重んじた三山ならではのものであり、当時の実状の一斑がうかがえ る も の と い え よ う 。 し か し 、 文 中 に お い て 主 と し て 述 べ よ う と し た の は 次 の よ う な 点 で あ る 。 す な わ ち 、 近時激しく なってきた人々の奪修が困窮の基であり、圏内分崩離乱の萌ともなるのであるが、こうした現在の風俗を直ちに古に 復させるということも困難であろう。ただ政治を行う者にしてもし庶民に太平楽を受けさせたいと思うならば 、古人 の質素をみて今日の豪者を懲して節約蓄財に努むべきであるというのである。そして、在郷のものが都会の風俗を師 とすることは人情だが、﹁実ハ都会ノ風俗村 部 ニ及ザルコト十二八九ナレバ、戒ムペクレテ倣フペカラズ。﹂勤倹を尚 コレ我 反テ彼が師タラン 、﹂ ことを強調するのである。これらの発言は、 いうまでもなく各国に起こった び騒惰を戒め 、風俗﹁ 一変レテ道ニ イタリナバ、都 会ニモ心アラン人ハ追 々我ガヰナカノ俗ヲ慕ヒ学プヤウニモナリ ユクベレ。 天保の飢能 、 そして百姓一挟や打毅の頻発と 、 明らかに大都会大坂における大塩平八郎の 乱を念頭に置いて、特に農 五三 ' . 戸J dul い つ・ N , H哲 f l えられないが、今の所、更に詳細に水戸学との関連をみることが出来るものはないようである。本稿では触れられな , 三山の学問 、 あ る い は 思 想 の 傾 向 を 前 節 の よ う に 考 え て み た の で あ る が 、 そうした傾向を基盤とした政治と社会に 一 谷 三山の尊王 懐夷思想について ・. “ (797ノ A 谷三山の尊王援夷思想につい J 村共同体にとっての政治的危機に対する発 言 といってよい。また 、単なる町の儒学者の所見にとどまらず、 恐らくは 内容からみて 、 いずれかの藩政関係者に向けて書かれたものかと思われる。 n u B 嘉永元年十一月二十二日 、 四十七歳の三山は 、 この年五月に高取藩主となった植村家賃に 上書している 。先述 したが 、 永代 三人扶持 、 名字帯刀を許されて士籍に列せられたのが弘化元年一月で 、 このことは 、 三山 の政治や 社会 への発言を考える場合に重要な条件になることで 、B以後のものは 、 藩士としての立場から書かれたものであるこ と h u に注意しておきたい。藩士登用は 、 藩主用人筑山愛静の藩主家教 への推挙によるものだろうとされていゆが 、 この家 2仏 ﹂ 9 教が病を得て次の藩主となったのが家貴である。上書の要点は 、 大伴茂氏も指摘するように四点あるが 、Aと同様に 八木やその周辺の実状を例とした四点の中で、注目されるのは次の点であろう。 ﹁ソモ人君ノ徳ハ民ヲ愛スルヨリ大イナルハナク、民ヲ愛スルハ賦ヲ省キ税ヲ薄クスルヨリ先ナルハナレ それは 、 とすることと 、 学 校 建 設 要 望 の 二 点 に つ い て で あ り、町 の儒学者でありそして今は藩士でもある三山の 、 務政への 期 待 が 示 さ れ ているのである。この時 期ま での三山にとっての関 心事は 、 民生を第一とした藩政の充実にあって 、 それ が儒学者の 経 世 論 と し て 説 かれ ているといってよ いが、 Bは、 当然嘉永六年の米船来航に先立つもので 、 外国船来航 叫川副 の 噂 は 早 く か ら あ っ た に せ よ 、 外国船来航による影響はまだ姿を見せていないのである。 C 藩 士 の 条 件 を 担 っ た 三山の発言において 、 大 き な 変 化 を も た ら し た の は 、 他 の 多 く の 幕 末 期 読 舎 人 と 同 じ く 、 嘉 永 六 年 六 月 の ペ リ ! 来 航 で あ る 。 ペリ!の開国要求に対して幕府は 、 七月に諸大名たちへ米国の国書を示 し て意見 を求めた。当時五十二歳の 三山も国 書の 内 容を知り 、 門弟ともそのことについて論じ合ったが 、中でも田原本務士吉 ー - - ・ t ー (798) 五 四 村 信 之 介 は 、 自 説 を ま と め て 藩 へ 提 出 す る 考 え で 草 稿 執 筆 に か か っ た も の の 、中 途 で 病 気 に な っ て し ま っ た 。 彼 の 意 . . 見を聞いてみると 、 三山の意見 と合致するところもあったので 、 病気も長引いているこ と でもあり 、 三山 が草稿をま • - “ J いるよう に、 三山た ち は田原本藩から幕府に献ぜられることを期待して いた とこ人 、 つ.ついて 、 特に小藩の徴租謀役による民力疲弊を強調す そこで注目されるのは 、接 夷論はみられるものの 、 明確な尊王接夷思想の観念はまだ登場 し て いないこと である。 海外事情から和戦前様の推移に思いを巡らして、交渉拒絶と海防に必要な兵備の充実とを結論として説くのである。 への慌札い反応の一つとして 見などが強く入れられて、それを 三山がまとめたものではないかと考えられる。いずれにせよ 、米船来航という衝撃 、 大和国の小藩にある武士層の対応策がみられるのであるが 、内外 の腔史や矧る 限りの けい は吉村の 、 第二の部分は AとBからみても三山の 、 そして第三の部分は 、 蘭学に精しく洋医を業とした久保耕 庵の窓 のことを指すものと思われる。また 、 草々の聞 に書 かれたものだけに、冗長不統一の文面がみられるが 、第一の部分 る第二の部分と 、 蘭 学 へ の 統 制 策 の 第 三 の 部 分 を 述 べ て 終 っ て い る 。 三 山 が 清 書 し た 三 箇 条 といろのは、この三部分 η と す る 第 一の部分カ﹁靖海﹂の中心となるのである。 レ﹂ の準備が備って、勝算我 にあるならば、 ﹁未ダ一兵ヲ交へ一矢ヲ放タズトイヘドモ 、 平 爽 精 海 ノ 功 ス デ ニ ト 定 ス ペ キハ夕、我コレヲ待コトニアルニアル也。 畢寛 一ノ操ノ字一一外ナラズトレルベレ。﹂彼より上のすべてにわたる 予防 軸にして 、海外事情や内外の歴史を交えて説くのである。そして 、 あくまでも﹁英 代 ト講和ハ持ムベカラズ 、特ムペ が必要で 、 拒絶の場合はい うまでもなく、兵備が整ったところで書を遺して彼に利害を選ばせるべ きだとす る意 見を 講和に対して異議を一不すことになると . いう﹁靖海﹂は 、通 商申出の拒絶を第一とするが 、 たとえ許可 され ても 兵備 他の藩主が講和を主とするのに、独り異議を持 つことは難しい情勢となり、 ついに幕府に達しなかったので ある。 後述する﹁上天朝 書﹂で述べ とめて三箇条を清書し、﹁靖海 綿 一 一一 一 口﹂︿以下﹁靖海﹂という 。 )と名付け、 九月二十七日乙提出したという。﹁精海 ﹂は、 , ; 文久三年六十二歳の時の、高取藩主植村家保への上書は、嘉永六年以降の時間的経過と激しい政局の動向をは 谷 三山 の尊 王 躍 爽 思想につい J ‘ . ・ 五五 (799) - っきりと以映したものになって いて、尊王娘 夫 思想もその盛行を背景に 、明確 な形で登場してくるのである。 D ' . 谷三山の尊王援夷 思想について 五 中 ノ 文久二年幕府は、幕政改革を目指して、徳川慶喜を将軍家茂の後見とし、松平慶永を政事総裁として公武合体政策 を と っ た が 、 坂 下 門 外 の事件を初め 、 尊王娘夫 運動が有力化し、天皇 ・公家や長州落、そして浪士たちの擁災への動 き は 、 文 久 三 年 家 茂 ・慶喜の入京となり、 ついに同年四月には 、 五月十 日をもってほ点 期限とするに至ったのである。 四月 二十二日慶喜は京都を離れて江戸ヘ帰り 、 五月十日には長州藩が 下 関通航の米国 船を砲撃し、六月に入ると米仏 軍艦の 下 関 砲撃 とな るのであるが 、六月十 六日家茂は海路江戸へ帰着 したのである。嘉永六年以降、幕府 ・務は新し い対外政 策の選択を迫られ 、 人々は健夫論 ・開国論を中心として 、幕府政治の在り方に関してまで論議を行ってきた ので あるが 、 文久三年までの十年の歳月、特に安政五か国条約下の情勢は、さらに幕府政治に動掃を与え 、 新し い政 ー (80 0~ 治 の 方 向 を 見 定 め よ う と す る 尊 王 捜夷 思想とその運動は 、 京都を中心と して盛んになっていたのである。 こうした情勢下の三山の上蓄は、文面からみて、この年四月下旬以降六月上旬までに普かれたものと思われるが 、 その意図は、﹁幕府-一抱長ヲ勧ムルモノハ幕府ヲ輿スモノナリ。 コレヲレテ閃循セレムルモノハ幕府ヲ姥スモノナリ。﹂ fx合セテ尊王ノ義 ヲ失フナリ。臣御領内ニ生長ν、太平ノ楽-一 とする認識を 基礎にして 、﹁凶亡且跨懲ノ師ヲ不レ挙 円切 浴セレモ 、 君侯ノ恩ノミナラズ亦幕府ノ思津ナリ。是ヲ以テ臣其高一ヲ報センタメ去冬出府致レ 、雄夷ノ三色ノ献ズ ル所以ナリ。﹂とするところにある。具体的には、 尊王援実派浪士は ﹁皆忠誠愛国 、 所 レ 謂 国 家 ノ 元 気 ヲ 養 フ モ ノ ナ リ。﹂というだけではなく、世間の一般民衆もまた﹁ 陵 町 ノ 令 下ルヲキカ〆歓喜踊躍ス 。 ﹂るのであるとして 、徳山尖決 は h 行を幕政に 反 映 させられない藩主 家保には 、 藩 政 に 専 念 し て 藩 の 富 国 強 兵 に 努 む べ き だ と 進 言 す る の で あ る 。 そ し て ここでもまた 、 家保が昨冬には御用金を命じ 、 上 洛に際 しての雑費用度も莫大で藩の疲弊を招き、 他 日緊急事態が起 一 こればいかにしてこれに応じるのかと案じているのである。自分が﹁常ニ学プ ト コロ聖賢ノ道ニテ 、 其帰ヲ要ス ル - • 亦 尊 王 脳 炎 ニ外ナラズ 。 ﹂としてはいるが 、 藩士としての三山の危倶は、 何よりもまず人々が生活をつ.つける場に最 . J 、 ・ 酬 t ・・ -''tRV4la-& P1 .U , p .eLe4 ﹄ r L s h h i p--1 ﹄ 3t'itE , ・ 高J d h - L L E l d J ヤ ー l占 -司﹃ ・御苑の過を進むべきだと す る方向をとったのである。 ZJ 輸出を減じて来航者を減少せしめ 、 三年間の兵備の整頓を待って横浜 ・箱館を閉鎖 五七 の財政を豊 ことと同じことで 、 凶年にでもなれば米価及び諸物価の高騰となり 、 ﹁内被外 接﹂の両面に勢力を向け難いことを恐 で、 例えば貿易に関連して 、農民には綿を植える者か多く稲を値える者が少なくなったが、これは米を輸出している 騰を招き 、 二、 三年の聞 に園内空 虚 となることだと指摘するのである。つまり貿易による国産減少が見逃せないこと を創酌して 三策を立てたのであって 、 最も恐るべきことは 、 横浜の開港をつづけて輸出が増大するならば 、 百貨の高 し、 長崎の防備を厳重にして武力による鎖国体制をとろうというのである 。出来ることなら第一をとりたいが 、事情 三港の貿易はしばらく認めるが 外 国 の み の 来 航 を 許 し 、 究永の鎖国体制に 戻 す べ き で あ り 、 従わざる者はこれを全滅するというのである。第三は 、 、 、 二の恭順な る 長崎 '箱館二港の輪山 を減ずる。その聞に競落は兵備を修め 、 一 一 三 年 後 に 長 崎 の み を 開 港 し て 一 そうした内容の中にあって 擁夜 の三策とは 、 第一か 、まさに武力による 践災打払である。第 こが横浜港を閉鎖し あり、 さらに D以後の情勢も影響していて 、まと支った内容になっている。 E かし ﹁靖 海 ﹂ と比 べてみると 、何 よりもDでみたような政治と社会、 そして 三山 の考え方の変化がこの上 ・ との 聞 に 向けい 替﹂にみえて いる。 この上告の成立については 三山自ら記しているが 、Cて考察した ﹁桁海﹂を基礎としている 。 し E D で述べられた 、徳 一 句の-ニ策とはいかなるものであったのか。それは、 川治元年五月六十三歳の時の﹁上天朝 いる が 、 それには先述したように 、 三山 の門弟で 参 加する省かあり、 彼の考え にむ影響すろものがあったと思わ れる。 れ 、 前 日 の十七 日には 、中 山忠光を擁する浪士たち尊王 惚尖 派が大和で挙兵、 五条代官所右襲撃 す るし 争件が起こって 、 この上持の数か刀後と忠われる ・ ただ 文久 竺年八 日 川卜八日には 、 大和 行幸が中止されて尊王纏夜派へ の攻撃が行 わ も閥辿の深い滞の存立を強悶にして 、 幕 府 全 先 頭 と す る 噂 ‘ 、 れ たのてある。従って 娘夫 の計 画 にしても、諸藩 の勇気 を鼓舞することが先なのだが 、 そのため には諸 谷 三山の尊王捜 夷 思想につい て (1 801) 〆 , . 谷三山の尊王援夷思想について 五八 富にして兵備に努めることが必要である。ところが財政不足ならば重租ということになり、 ひいては君民共に貧 しく なり、兵備も健夫も不可能になろうと いう のである。また ﹁靖海﹂問様、関学者についても言及しているが、ここで は、講和を上策とする者が多く悪影響を与えるとして排斥するにとどまっている。 これらの外にも論点は幾っかあるが、中心となる主張は以上のようなものである。この E及び Dの主張が Cまでと 異なる 特色は、 Dでも触れ たように 、安政五か国条約による開国体制下の情勢を反映 してい ることで ある。そして D と 同 様、 尊 王 擦 夷 思 想 の 盛 行 を 背 景 に し て 、 尊 王 様 々 思 想 を 打 ち 出 し 、 幕 落 体 制 の 下 民 生 安 定 に よ っ て 小 落 と し て の 、 、 富 国 強兵を計り、も って懐夷に備えるべきだと説くのである。 また 接夷論としても この娘爽三策は D以来変化の 、 (80 2) ないものとみてよいだ ろうし 、段階論的 な内政兵備優先の考え方だが 、 江戸を離れ京都や 大坂に近い大和にあって拠 、重 い 課 役 や 蓉 修 に よ 、 夷論を説く 三山が恐れたのは、 やはり彼のいう国内分崩離乱 の萌で あったろう。そこには A以来一貫してみられる 村 落 生 活 に 根 差 し た 農 政 あ っ て の 藩 政、 藩 の 充 実 あ っ て の 幕 府 で あ る と い う 認 識 が 基 盤 に あ り る農民 ・町人 の疲弊と 、 かつての大塩の乱のことき蜂起を恐れたのである。そして明確に 打ち出してきたその尊王強 、 そ の 時 代 的 変 化 を み て き た 。 商 家に生まれ 眼と耳が不自由な身でありなが 夷思 想は、幕藩体制堅持の下 での鎖国体制 復帰を説くものであった。 以上 、 谷 三 山 の 経 世 家 的 発 言 に 限 っ て 、 言わば草奔の 儒学者が、藩士に取り立てられ、嘉永六年の衝 ら、特に歴史と考証への強い興味を持ち勉学 に努め た 撃 と そ の 後 の 政 治 ・社会の変革の中で 、 聖賢の道は尊王健夫に 外ならず、とす る尊王線東思 惣家としての立場を明確 にしていった のである。その内容と変化が以上にみたようなものであった。それは時代の 先端を行く論説ではなかヮ 、 たし 、今の所他への影響もはっきりしないが、その土地の生活に根差した尊王媛 夷 思想、あるいは学問 ・思想の形成 ー - 全集 も、同様の存在を多くの幕下思想家の中に見出すととが出来るのではな J (昭和四十二年刊)に所収。拙稿﹁中井竹山について﹂(﹁人文研究 幻l 刊)参照。 一 t 40 のとしては 、 これまで中心とたるものであったといってよい。﹁ 遺稿﹂より以前 、 41 経歴についても、墓誌銘と大伴氏前掲書による。なお 、本文及び註であげる年齢は放え年である。 長兄が文章を善くしたことは 、大伴氏前掲書がその例を紹ハしている。 大伴氏前掲書所収。摘録と写真版が紹介されている。 三山に つ 五九 十分に批判しておかねばならぬ点があるが 、 この小論においても、 ﹁遺稿﹂はいうまでもなく大伴氏に負うところも多い。三 山 の とされているが 、 現在の三山研究にとっても、﹁遺稿﹂と並んで大伴氏の前掲書には 、 参照すべ き点は多い。勿論 、 その内容には 山伝を昭和四十一年三月に刊行された堀井義治氏は 、 その﹁伝記谷三山﹂で 、前記の﹁遺稿﹂と大伴氏の二書に負うところ が多 い 収集して 、 まとまった三 山 研 究 を 新 た に 示 さ れ た の が 、大 伴 茂 氏 の ﹁ 践 的 谷 三 山 ﹂ ( 昭 和 十 一 年 十 一 月 刊 ) で あ っ た 。 啓 蒙的 な 三 日新聞紙上に連載したものを、 同年十一月に﹁谷一ニ山﹂としてまとめられた。それ以後も幾つかの論稿があったが 、 さら に資料を いては 、 天囚西村時彦氏が、墓誌銘や谷家蔵の遺稿 ・書簡などを用いて 、 明治四十一年十月三十一 日より十 一月 八日ま での 大阪朝 ﹁遺稿﹂が 、 三山の業績を集めた 陸王学一。﹂と応酬しているが 、 陽明学者でもある春日潜階についてば 、 三山は大塩平八郎の後継者になるかと案じている。 a 、 王書一胸中便党レ不レ佳。君子以レ同而異。愚以陸王潟-一衰世之言一、 佳 。 と 答 え 所 ニ 以 胸 中 下 節 斎 は ま た ﹁ 僕 以 篤 輿 ニ 衰 世 無 如 L 一 - ﹁節鐸両先愛静館筆語一一輯﹂(﹁遺稿﹂所収)をみると 、 節斎が﹁積一-降王語類一党-一胸中頓快 、 三山 は﹁箭ニ陸 ﹂ と い う の に 対し 両者の筆談は 、 奈良県高市郡教育会﹁三山谷先生遺稿﹂︿以下﹁遺稿﹂という。大正ナ年一月刊)、 及び 、 田村吉永編﹁森田節 斎 しているが 、 それらについては 、 更 ζ別の機会に考えてみたい。 Aは F いかと思う。いずれにしても、極めて限られた視点と史料からの考察であって 、 節斎との 比較など幾つ かの間題を残 であって、納容と方法に多少の差異はあっ , 谷三山の尊王捜夷思想について ‘ 、 (803) ( 1 )註 2 3 ( 5 ) ( 4) • 谷三山の尊王泌・夷思想について ナO 京都に猪飼敬所を選び尋ねた理由はこの外に 、大坂はさておき 、大和には教えを諾うべき学者が見当たらな沿ったこともあった カと思われる。弘化四年だが節斎との筆談で、三山は﹁本国ノ様-一文乏キ国又アルマジキカ。﹂と嘆いている。また 、 弘化 三年正 月十一日より嘉永四年六月二十四日に大坂町奉行へ転ずるまでの閥、奈良奉行であった川路聖談の﹁寧府記事こ︿ 日本史籍協会 編﹁川路聖説文書一一﹂所収)の弘化三年 三月二十三日条には、 当地の印刷学者に大和のことや学問のことを聞いてみたが 、 ﹁唐本を 一通りよむものもなく歌よむもの書締共に更になし空敬芭都の名を存せし計の山家也﹂と書き残されている。 化政期頃の 状態にも 同様のことがあったと思われる。 なお 、 敬所の三山へ与えた影響については 、 さらに考察が必要だと思うが 、 別 の機会を待ちた 以下、﹁淡庵管見﹂を初め 、﹁遺稿﹂所収のものについては一々註記しない。 い。敬所については、﹁ 森銑三著作集第二巻﹂所収の﹁猪飼敬所﹂参照。 ヴ, ( 明治四十二年刊)の昭和四十九年復刻版による。ただし 、吉村信之助は信之介とした。 ﹁紛徳川実紀':﹁系図集要¥・﹁ 柳営補任人 ・ 大和人物志﹂によると 、 二万五千石の譜代大名、高取藩植村氏は 、 この前後に家長 n o 奈良県編﹁大和人物志 Qυ -家教 ・家賃 ・家興 ・家保とつづいている。西丸老中であった家長が文政十一年十月に亡くなると 、その長男家教へ大明七年 l万 延元年七十四歳で没﹀が後を継いだ。家教は 、嘉永元年五月十六日に病気のために致仕 、養子(実は家長二男)の家賃(文 化 四年 l嘉永六年四十七歳で没)が藩主となった。嘉永元年は四十二歳の時である。嘉氷四年六月には帝鑑之間席から奏者番となってい るが 、同六年三月に亡くなった。嗣子なしということで 、大村落主大村丹後守純μ の弟が養子となり、同年四月二十二日後を継い だのが家興(天保六年l嘉永六年十九歳で没)てある 。しかし家興も病気のために 、同六年七月九日膳所藩主本多隠岐守康融 の弟 が養子となり 、同年九月十日に家保(天保八年l明治二十九年中ノ十歳で没﹀として遺領を相続している。 大伴氏前掲書によると 、筑山愛静は 、名は正居、通称甚五左衛門、物頭に進み預り地郡奉行も兼ねたことがあるという。ご一 山と の親密な関係は 、﹁遺稿﹂の書簡その外からもうかがえるか 、 弘化元年頃は直接の関係がなかったといわれる。しかし天保末年に は、長兄などを通じて筑山は 、 三山の存在を熟知していたと思われる。本文の Aの存在についても、あるいは筑山も関連する一人 として考えることが出来るかもしれない。 (8 0 4) ' ( 6 ) ( 1 0 ) - ω 4 v 大伴氏前掲書。第一は 、正税賦役を薄くし 、君臣徳を一にし上下、むを同じくするととを述べ 、第二は 、竺罰 による 人君 の勧善懲 悪ま治道の要家刀であること、第三ま 、賢才の抜擢の・て切なこ・ 、第四ま 、学マ以立の 必要と意義とど述 ぺ にいる。 例えば 、前にあげた川路聖設 の﹁寧府記事﹂嘉永 二年八月二十九日条をみると、偽であろうがとして 、西国に外国船が現れて 、 西国諸侯の内帰国する者があるという風聞を記している。 ﹁ 靖海﹂の第一ニの部分に当たるよ文こも、﹁弊門 ノ西洋ノ宮方ヲ主張マヘしモノ佳一一語ツテ之ヲ嵯セリ 。一とあ打、X川内緋山町のこと を指すものと思われる。 仏 大 伴 氏 前 掲 書 に よ る と 、嘉永六年十月と思われる頃 、伊勢の久て探検京の松浦武四郎が三 山を訪ねており、松前など北辺の事情 について筆談しているが 、 三山は既に﹁環海異聞﹂を読 んでいることを述べている。﹁環海異聞﹂(写本ト 五巻) は、帰国した漂流 民を取調べた資ヰを 、大槻玄沢がえ化四年に編集した世界地理者である。こうした見聞が 、 三山 の海外知識 の供給源にな ったので あろう。 文久三年家保は二十七歳である。三山は、宗保が執政 ω列に入り、特 に京都では 、松平慶永が総裁を退職し慶喜が江 戸 へ帰った 同 線 夷 の三策については本文Eで述べる。 ド り 1 i , a' a ‘ ‘ ・ ため 、老中水野忠精と家保のみが将軍そ輔佐している のであって 、幕府に擁夷を決行させることが 可能だが、出来なければ辞職せ よというのてある。また 、抱夷決行に動カない家保に対して 、﹁嘗春以来ノ 庸人凡才時務 ヲ不 レ知 ト ﹂、あるい は﹁幕府 ノ好賊 一 玄フ、 ノミナラズ 、亦天下ノ罪人ナリ 、 コレヲ不レ去パ天下一小 レ 安ト云フ。﹂と、 間接的な表現ながら京保を強 い調子 で非難している。政 局の激しい動き治 、 その論調に影響を与えているのてあろう。しかしここで三 山 のいう家保 の役職など は、 ﹁紛徳川実紀﹂による と、安政元年九月大阪天保山沖に現れた露国船に対寸る警衛に 、藩呉六百人を率いて木津川南海岸へ 出向 いたこ と、また、元治元 年秋の大坂加番を命じられていること以外には、具体的に 何を指すかは不明である。今は、 本文 で述 べたよう に理解し ておきたい。 ﹁孝明天皇紀﹂巻百五十一 ・巻百五十二 (﹁孝明天皇紀﹂第四所収)をみると、 京都の 朝廷 ・公家を巡 って の政争は激しく、文 ムハ 一 久三年二月一日には、中山家などの公家へ匿名の投容で 、政体つまりは抱災決行を論ずるに白が ある ので 、朝廷は、薩長など十六藩 谷三山の尊王接夷思 想 について 、 . . (8 0 5) 1 3 Q カ • 谷三山の尊王接 夷思想について を求めたものであり、本 文AからEに至る主張の底流と、相通ずる思想によるものである。 ナ 一 一 、 には 、山陵修補 の竣功に当たって 、普請のため の献木により、植村家保へ絹ご一 匹の下賜が朝廷からあった。(﹁孝明F皇紀﹂巻二百 、 、 十による)この上書は 、神武天皇陵修補事業に関してのものである。貴人は下情に暗く 俗吏は民の変いを哀れまず ﹁放ニ一役 、 口ヲ遺ス 。 :::役輿テ民変ズ 、役箆テ人コ レヲ安ンズ。﹂とし、また民は国の本で神の主であり 山陵を崇敬はする ヲ興セ.ノ、必一世一 、 、 が、民が つますくことにでもなれば 神の怒りに触れる のだとの考えから 事業が八木とその近在の人々に与えた利害を述べ 善処 文久三年冬には神武天皇陵修補完成となり、元治元年正月には朝廷より忠舵たちへの段級があった。なお俊応元年十二月二﹂ l七日 げることが出来な沿った。文久二年、山陵修理を幕府に建議した宇都宮藩主戸田越前守忠忽と戸田忠至による諸国 山陵の調査は 紙幅の関係からここ では 、 京都所司代松平越中守定敬への上書である﹁上京都所司代書﹂ (元治元年六月下旬のもの)を取り上 来なくなり、 ついに五月五日にまで及んだというのである。 月中旬にはほぼ出来上がっていたようだが 、 三山の眼病が悪化して他人の顔面も弁じ難く 、三山自身で学習院へ呈出することが 出 致居候事共柳無惇筋々へ早々可申出候但惇忌訴候儀モ有之候ハ、封書ニテ直様差出可申又自身閲届候儀モ可有之候 右之趣武家井 、 町在等不洩様可被相鰯候也﹂との触書が出されている。一一一 山の上書も、 これに沿って作成されたものである。しかし 元治元年三 候ニ付テハ醤弊一新人心協和候様無之テハ不相成儀-一候施(中略﹀皇国之御尽御不必 ニ係候儀ハ勿論内外大小事ト無ク善悪共隠ぼ め、藩士 ・幕芥 の者も時事を建言することを許可している。 これについては、京都守護職からも、 ﹁,州地夷御一決此節御改革被仰出 への取 調を命じ 、以後は署名して申し出るようにしている。また同年二月二十日よりは、京都学習院に参政 ・国事掛 ・寄人らが詰 . 私はかつて 、森田節斎とも親しかった 、 備中の草奔の偏学者阪谷素について考察したが (﹁変革期における思想の形成 l仮谷紫 十 ~ MHl ﹁人文研究﹂ ロ18 ・ul7﹀、 こうした幕末 ・維新期の人たちの収集と比較考案が必要ではないカと思う。 の場合付 - AEts 全 (8 0 6) ( 1 8 ) ( 19 )
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