謝花昇関連事項

9月 28日 、東風平で生 まれ る (父 ・ 勝太郎、母 ・ カ ミー 四男三女 の長 男 )
(1865)年
明治 10(1877)年 (13歳 )義 村家 に御殿奉公、義村朝明 に漢学 を学 ぶ
明治 14(1881)年 (17歳 )沖 縄 県師範学校 へ 入学
慶応元
15(1882)年 (18歳 )師 範学校卒業。第 一 回県費留学 生 に選 ばれ東京 へ 留学
明淮)24(1891)年 (27歳 )帝 国大学農科大学卒業。沖縄初 の農学士 とな る
明治
帰郷 し、沖縄県技 師 とな る (内 務省辞令 )
25(1892)年 (28歳 )奈 良原繁 が沖縄県知事 に就任
明淮)26(1893)年 (29歳 )土 地整理委員 とな る
明治 27(1894)年 (30歳 )国 頭地方巡視 し、開墾状況等 を報 告。開墾主任 を解任 され る
明淮)29(1896)年 (32歳 )『 沖縄糖業論』 を発刊
明治 31(1898)年 (34歳 )農 工 銀行取締役 とな る。 内務省 へ 県庁退職願 を提 出。上京
明治 32(1899)年 (35歳 )「 沖縄倶 楽部」 を結成 し、機 関誌 『沖縄時論』第 1号 を発刊
明治 33(1900)年 (36歳 )農 工 銀行 の役員選挙 で落選 し取締役 を解任 され る
明涯i34(1901)年 (37歳 )山 口県 へ 赴任 の途 中、神戸駅 で発 病。帰郷 し、地元東風平 で静養
明涯i41(1908)年 (44歳 )奈 良原繁が県知事 を退 任 し、 日比重明が後任 とな る
明治
10月 29日 、謝花昇死去
◆ 謝花昇 関連事項
明 治 41(1908)年
謝花昇 の 治療 費 の寄付金募集 (斎 藤用 之助 、岸本賀 昌、高嶺朝教、太 田朝敷、我如古楽
一 郎等 )を 開始 したが 、謝花昇 の死去後 は治療費募金 を遺児昇清 の教育資金 に切 り替 え
て寄 付金 を募 る ことに決 め る
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参政権獲得運動 が実 を結び、
初 の衆議 院議員選挙 が行 われる。高嶺 朝教、太 田朝敷が当選
曜]ス田10(1935)`│ 『義人・ 謝花昇博』 (大 里康永 著 )発 刊
(※ 1957年 再刊
)
謝花昇銅像 除幕式。謝花昇記念会 館完成
昭和 18(1943)`│
第 二 次世界大戦 に よ り銅像 はぷ岩l銅 像跡 に 「義人謝花昇銅像跡 」石碑 を建立
昭和 24(1949)年 「沖縄 の義人・ 謝花昇伝」 (池 宮城秀意作、 中今信脚本 )、 国際劇場上演
昭和 29(1954)年 「義人・ 謝花昇伝」親子 ラジオ にて朗読放送
昭 和 39(1964)年
謝花昇銅像建 立 (前 役場後 の丘 )
昭和 58(1983)年
「資料・ 農学士謝花昇」発刊 (東 風平町教育委員会 )
平 成 5(1993)年 謝花昇 シ ンポジ ウム開催 (東 風平 町 。沖縄 タイ ムス共催 )
平成
7(1995)年
平成
9(1997)年 『謝花昇 物語
謝花昇生誕 130周 年記念式典及 び町民劇 「演劇 ・ 謝花昇」
わが夢 は八重 瀬 を こえて』 を発刊 。東風平町歴史民俗資料館会館
謝花昇 自筆卒論入手。ROK放 送特番 「明 日へ 飛 べ・ ふ るさ との偉人謝花昇」放送
平 成 10(1998)イ│
謝花昇民権百年祭開催。謝花昇偲ぶ歌 「民草 の心 」発表
平 成 14(2002)`│
銅像移設建 立お披露 ロセ レモ ニー (現 中央公 民館 中庭 )
平成 15(2003)年
謝花昇会館建設専門委員会委嘱
平成 17(2005)年
謝花昇生誕 140周 年記念式典及 び町民劇 「演劇 。謝花昇」
平 成 21(2009)`│
謝花昇銅像移設 除幕式 (東 風平運動公 園内)現 在至
平 成 27(2015)年 『謝花昇物語』 (紙 芝居、絵本 )発 刊。生誕 150周 年記念事業
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第一回県費留学生 (1884(明 治 17)年 ごろ)後 列右 謝花昇
(5人 の うち4人 は琉球王国時代か ら続 く士族の出身。謝花昇 は唯一の平
民出身だった)
技師 として県庁 に勤 めて頃
(帝 国大学農科大学 を卒業後、沖縄 に戻 り県庁
の高等官 として諸改革 に努め活躍 した)
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私儀病之処全快 に付此段熟知諸君に広告す
明治 34年 7月 23日
謝花昇
(明 治 34年 5月 神戸駅 で倒れた後、同年 7月 25日 付『琉球新報』 に病気
全快 を告げる最後の文章が掲載 された)
『沖縄時論』創刊号 (1899年 発刊)に 記された「沖
縄倶楽部設立の趣 旨」
沖縄倶楽部 の設立 目的に「本県諸般事項 の改善
発達を計 ることを目的 とす」 とある。
(謝 花昇は県庁辞職後、同志 とともに政治団体
「沖縄倶楽部」を設立。機関誌 として『沖縄時論』
を発刊 した)
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