けやき倶楽部 グループ学習活動記録 (220回) 文 学 ・芸 術グループ 世話人:山田 恂 記録:山田 恂 日 時 平成27年(2015)5月16日(土) 午後1時30分∼4時30分 参加者氏名 (以下敬称略) 場 所 千葉大薬学部百周年記念館 (以上10名) 活動内容 ・ 読書会 芥川龍之介著 『歯車』 講談社文庫 概 要 ・ 昨年の『地獄変』に続いての芥川であるが、35歳で自裁する直前の作品のうちの一つである。担当者の緻密 なレポートのおかげで多角的な視点に立つことができたが、果してさまざまな感想が寄せられた。 合 評 ・ (A)歯車にぎりぎりと追い詰められていく鬼気迫る最期の作、という私のこれまでの読み方を揺さぶるような分 析だった。死ぬしかない状況の中でも緻密に計算された構成と複雑な虚構を提示する理性と能力があった、 そしてそこに新しい試みが読み取れるという考え方、いわば作品と作家論を切り離した解釈である。ただ、芥 川の場合、特に私小説風へと流れた晩年の作品は彼の自死と切り離しては考え難く、理知的で鋭い言葉だ けに内奥の淋しさが一層胸に迫る、と私などは思ってきた。だから作品論に徹した今回の分析は論理的、合 理的ではあるが、どこかなにか欠けた部分を感じさせたことも確かである。 ・ (B)一見では差し迫った状況を書き綴っているかに見える『歯車』。はたしてそうだろうか? 発狂の恐怖、か かえている日常的苦痛、自己の作り上げてきた思考の行き詰まり感、それらを「レエン・コウト」で表現し、その 心情をリアルに伝えたかった作品なのでは。緻密に構成され、連想や暗合の手法を用い、最後まで芸術家で あり続けようとする芥川の見栄っ張りな姿が見える。別の世界の入口近くに至っていたようにも見えるが、残念 ながら芥川には耐えきれなかった。 ・ (C)Sさんの資料により、綿密な構成からなる小説でそんな単純ではないと指摘を受け、再読。冒頭から様々 な符牒、予兆が主人公の僕へ押し寄せ心身共に確実に崩壊へと向う、しかしそこに狂気はないという。私は そんなに深く読み込めなかったが、油が切れ次第に軋みを増す歯車は神経衰弱の僕を表現するに良い題 名だと思った。小説と捉えるのかの議論はこの倶楽部ならではで面白かった。芥川が新しい時代に自分の文 学が耐えるか悩んだと言うが、逆に現代作家の中から果たして誰が後の時代まで残る言葉を紡げているの か・・新しい本を読みながら常に思ってしまう。 ・ (D)『歯車』執筆当時は、自分自身をソドム的存在と見做す程、強迫観念に囚われた日々であったようだ。重 篤な神経症の「僕」は視覚・聴覚を通して日常的な出来事に過剰な意味を見い出し、コントロールを失って行 く。こういう現象は、心身共に弱っている折には、程度の差こそあれ、誰にでも起こりうることではあるまいか。 狂人の意識崩壊の文章ではなく、作者の物語構築の強い意思・意味を感じた。 ・ (E)『歯車』は、芥川の自殺直前の最晩年の精神状態を克明に記録した散文のようなもので、小説といえるか どうか疑問です。いわゆる心境小説のようなもので、その作家に興味のある人には、その人間性や生き方、精 神の状態を知ることができて読んで面白いのではないかと思われますが、私のように一般的な読者にとって は、特に面白い作品とは言い難いです。ただ、作者の立場に立てば、こういう精神状態で生活することは、耐 え難いほどの苦痛を感じるだろうなと痛感し、読んでいて息苦しく、もう死が間近に迫っているなと感じられる 作品でした。 ・ (F)「文」、それは読み手に披露された段階で最早書き手のものではない。それは読み手のものだ。読み手が どのように読もうがそれは読み手の勝手であり書き手の希望や期待、思惑とは関係ない。書き手は読み手を 意識して、もっと言えば読み手を特定して書かれなければならない。さて、芥川は誰に向けて『歯車』を書い たのか。彼は自分を読み手として『歯車』を書いたのだ。「僕は」と書いた時の僕は客観的な僕であり、芥川自 身のことではない。そして、「僕は」と読んだ時の僕は主観的な僕であり、つまり芥川自身である。芥川は、読 み手としての自分から書き手としての自分を〈逆さメガネ〉で見つめようとした。『歯車』に狂気を書き、それを 芥川自身が狂気と読んだか正常と読んだか。まもなく芥川は自死した。『歯車』の自文(誤字ではない)に狂 気を読んで、そして筆を折った。 ・ (G)皮相的な読みしかできないので、まったくの予備知識なしに読み終えたとき覚えたのは失望感でした。作 家志望の文学青年が自分の心境を小説仕立てにしてみましたという印象。後で遺稿とわかり、心身の衰えが こういう作品を生み出したのだと解釈したほどです。傑作とされる『地獄変』を読んで、誰もが知る文学賞がこ の作家の業績を記念して創設された理由を探りたいと思います。 ・ (H)歯車は幻視です。視野外幻視は、存在しない対象物がある様に見える、感じる。時には自分の背後にモ ノを感じる。スイフトのガリバーから引いてきた(リリパット幻視):もっともスイフトは、もっとシニカルな人間だっ たようだが。芥川の事例 ねずみ、鳥、オオルライトの意味等々。 <1.レエン・コート>実際の風景と心象風景:芥川の事例(長椅子のレエン・コート)兄貴の着ていた。見えるが見な いレエン・コート、等々。 <2.復讐>現実と虚構:芥川の事例(スリッパ)(放火の疑惑)(たえず僕を付け狙って いる復讐の神) <3.夜>理想と現実:芥川の事例(人生は地獄より7も地獄的である)(たえず僕を付け 狙っている復讐の神)現実(奴隷・暴君・利己主義者等) <4.また?>狂気と正気:芥川の事例(親族の 件)(第二の僕のこと) <5.赤光>現実と虚構:斉藤茂吉が精神科医である、おのずから、老人との談義や 芸術家としての現実、虚構が読み取れる。 <6.飛行機>風景を描写しても、自然の大きな広がりが、感じ られない。人工的に設営された舞台とその装置が見える。 ・ (I)およそそれまでの芥川作品と異なる。心境小説、究極の私小説、精神科の医師が喜びそうな患者のルポ ルタージュとみたが、文学として読むには虚構性がない。これが芥川自身が望んだという「話らしい話のない 小説」とはとても思えない。『河童』のように一歩、間を置いた作品に私は軍配を上げたい。 ・ (J)読んで思ったことは、芥川は無神論者ではない。しかし何故復讐の神ではなく恵みの神を信じなかったの だろうか。それにしても何故多くの小説家が、聖書にいちど近づきながら離れていったことか。 メール参加 次回例会 ・ ・ 次々回例会 ・ ・ 担 当 SY 日 時:平成27年6月27日(土) 午後1時30分より4時30分まで ・場 所: 千葉大薬学部百周年記念館 内 容:音楽鑑賞会 「エリック・サティを聴く」 ヴィデオ、CDを使って 日 時:平成27年7月25日(土) 午後1時30分より4時30分まで ・場 所: 千葉大薬学部百周年記念館 内 容:読書会 「伊集院静の流儀」の『親方と神様』 文春文庫 ・担 当: IA
© Copyright 2024 ExpyDoc