探偵小説五十年

探偵小説五十年
横溝正史
講談社オンデマンドブックス
復刻版の序にかえて
こ
復刻版の序にかえて
き
本書の原典がおなじ題名で世に出たのは、昭和四十七年の九月十五日、ちょうどその年は私の
古稀に当たっていたので、古稀記念の出版ということになった。いまから四年まえのことである。
私はそのときのことをいまでもよく憶えているのだが、当時軽井沢の山荘に滞在中の私のとこ
ろへ、原典を出すに当たって骨を折ってくだすった網野功氏の使者として、宮下女史が最後の打
ち合わせにやって来た。そのとき私が聞いたのである。
「いったいどれくらい刷るつもりなの?」
「はあ、六、〇〇〇部ということになっております」
いまも昔も小心者でいたって劣等感の強い私は、とたんに額から脂汗が吹き出した。
「と、と、とんでもない。そんなに刷ったところでこんなもの売れやせんよ。せいぜい一、〇〇
〇部くらいの限定版にしておいてくださいよ」
そのときたまたまわが山荘に来合わせていた、原典の編集者中島河太郎氏が、
「三、〇〇〇部がちょうどよいところじゃないですか」
同氏も自分が編集者だから責任を感じていたのだろう。すると宮下女史が言下にいった。
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「いいえ、これは営業部で決めることですから」
それで万事決定したのだが、宮下女史はそのときのことをよく憶えていて、のちに家内にむか
って、
「こちらの先生ったら気が弱くていらっしゃるんですよ。部数を決めるとき汗びっしょりでいら
したんですよ」
と、笑いながら話していた。
万事につけて自信のない私だが、そのときとくに自信がなかったのは、これが私の随筆集とし
ては第一冊目だったからである。おれの随筆集なんて読んでくれるものがあるもんかといって、
妙な自信のほうが強かったのである。
それがいまこうして復刻版が出るということは、少なくとも六、〇〇〇部は売りつくしたとい
うことなのだろう。いくらか自信を持ってもよいのではないかと思っている。
しよう よう
尚この原典は誤植が多くて弱ったのだが、今度それの訂正に当たって尽力をいただいた鈴木貞
史君と、同君の上司にして、この復刻版を出すことを強く慫慂下すった片柳七郎氏に、厚くおん
礼を申し上げるしだいである。
昭和五十二年七月十一日
横 溝 正 史 4
序にかえて
序にかえて
私は少年時代から投書癖があり、作文や和歌や俳句などを、あちこちの少年雑誌に投書するこ
とを、唯一の楽しみにしていたものである。むろんそれらの多くは没になったが、それでもたま
には入選して活字になることもあった。幼い私はまるで鬼の首でもとったように喜んでいたもの
である。むろんメダルや賞品が目的でないことはなかったが、それよりも自分の作品が活字にな
ること自体がうれしかったのである。つまり少年時代から自己顕示欲が強かったのであろう。
はん すう
しかし、それでいて内気ではにかみ屋の私は、自分の作品の掲載されている雑誌を、他人に見
あ ほう
せびらかすようなこともなく、その当座、まるで反芻動物のようにこっそりと人知れず、読みか
えし読みかえし、あげくのはてには、あまりにも読みかえしすきたので、阿房らしくなってその
まま投げ出し、またつぎの投書に憂身をやつすのであった。むろんそれらの作品は少年のてすさ
びに過ぎないのだから、うたかたのごとく消えてしまい、記憶にさえ残っていないのがほとんど
である。
ところがそういう投書作品のなかで、はじめてあとに残ったものがあるが、それはその作品が
探偵小説であったからであろう。
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エイプリル・フール
いま中島河太郎氏作成するところの私の作品目録によると、その冒頭に「恐ろしき四月馬鹿」
こ
き
が出ており、大正十年の『新青年』の四月号掲載とある。大正十年といえば私は十九歳であり、
ことし古稀を迎えた私にとっては、なるほど五十年になるわけである。
五十年といえば半世紀、思えばずいぶん長いあいだ、この道ひと筋に生きてきたものである。
……と、こう書いてくるとたいへん聞こえがいいようだが、私は最初から作家として立とうなど
という野心は毛頭なく、ひょんなきっかけからこの道へ、足を踏みこんだのだということは、本
書に収められた「途切れ途切れの記」によっても分明である。
だれの人生でもそうであろうが、私の五十年も山あり谷ありだが、その間、私はそのときその
ときの流れに身をまかせて、アップアップしながら、この年まで生きてきたに過ぎないように思
われてならない。ときたま情熱を燃えあがらせることはあっても、それは線香花火のようにすぐ
燃えつきて、あとは惰性でことを処してきたことが、いまになってみると残念でならない。ただ
ひとつここにいえることは、私はよい先輩や友人に恵まれていて、それが私の五十年を支えてき
たということ。これだけははっきりといえるのだが、それらの先輩や友人の大半は、いまや過去
の人となってしまった。それから思えば五十年は、やはり短い歳月ではなかったようだ。
いずれにしても、強い自覚と計画性に欠けていた人生なのだから、したがって私は自分の作家
生活というものに劣等感をもっており、自己を語るなどという勇気は、ちかごろまでほとんどな
かったといっていい。作品なども小説でさえ散逸しているのがそうとうあるくらいだから、随筆
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序にかえて
せん どう
のたぐいはほとんど書けば書きっぱなしで、切り抜いて保存するなどということは、めったにや
っていなかった。
べん たつ
それにもかかわらずこのような立派な本ができたというのは、引っ込み思案の私を煽動し、鼓
しゆう しゆう
舞し、鞭撻して「途切れ途切れの記」を書かせた綱野功氏の熱心さと、私の書き散らした随筆の
たぐいを、丹念に蒐 集し、保存しておいてくだすった中島河太郎氏の御好意にほかならない。
よろこ
ことしはあたかも私にとっては古稀である。そのときに当たってこういう立派な本が出来ると
いうことは、引っ込み思案の私であればあるだけ望外の欣びである。
ここに講談社並びに両氏に厚く感謝の辞を申し述べるしだいである。
昭和四十七年七月五日
横 溝 正 史 7
目 次
6 博文館入社のこと
5 江戸川乱歩さんのこと
4 森下雨村先生のこと
3 『新青年』創刊のこと
2 西田兄弟のこと
1 三津木春影のこと
22
19
17
14
復刻版の序にかえて
7 喀血で狼狽のこと
26
序にかえて
8 愉しかりし『新青年』時代のこと
30
途切れ途切れの記
9 再び川口松太郎君のこと
34
終戦の詔勅で、
「さあ、これからだ……」
38
3
42
5
46
14
10
8 とどろく足音のこと
7 花柳界のど真中に住むこと
6 人形佐七誕生のこと
5 不知火捕物双紙のこと
4 神沢太郎先生のこと
3 今は昔の物語のこと
2 上諏訪時代のこと
1 昭和十年ごろのこと
66
61
57
52
続・途切れ途切れの記
9 中島飛行機工場空襲のこと
71
高梁川の蓮華タンポポのこと
75
海野十三氏と日文矢文のこと
80
52
84
91
88
94
読み本仕立て
文章修業
「二重面相」江戸川乱歩
代作ざんげ
123 106 102 99
11 10
海野十三氏の処女作
惜春賦 ――渡辺温君の想い出――
浜尾さんの思い出
乱歩書簡集
青年角田喜久雄君
片隅の楽園
探偵小説への饑餓
「本陣」
「蝶々」の頃のこと
獄門島 ――作者の言葉――
わが小説 ――「獄門島」――
田園日記
田舎者東京を歩かず
断腸記 ――海野十三氏追悼――
思ひつくまゝ
十風庵鬼語
幸福とは
私の乗物恐怖症歴
232 230 220 217 215 212 208 205 203 199 197 181 178 149 146 132 128
歩き・歩き・歩く
「悪魔の手毬唄」楽屋話
谷崎先生と日本探偵小説
文殻を焚く
日々これ物憂き
白波始末記
還暦の春や春
賤しき読書家
ものぐさ記
もうかりまっか氏
古きよき時代の親分 ――森下雨村の追悼――
木々高太郎氏追悼
作者の幸福
私の推理小説雑感
272 270 266 263 261 259 256 254 251 248 246 243 237 235
探偵小説五十年
途切れ途切れの記
1 三津木春影のこと
本全集の解説者、中島河太郎氏の説によると、私は最後の探偵作家だそうである。私よりあと
の作家は全部推理作家で、私よりまえの作家は全部探偵作家に分類さるべきであるらしい。私は
べつに時代の風潮に反逆するつもりはないが、中島河太郎氏のこの説を尊重して、この途切れ途
切れの思い出話のなかでは、あえて昔恋しい探偵小説という言葉を使用させてもらうことにする。
いつか推理作家協会の会報子からの質問に、どうして探偵小説の病みつきになったかというよ
うなのがあったが、それに対してたしか私はこう答えたと憶えている。
「どうしてもこうしてもない。持ったが病いというよりほかはないでしょう」
いまから思えば、明治三十五年神戸にうまれた私は、小学校から中学時代を探偵小説の暗黒時
代に過ごしたことになるようだ。黒岩涙香の活躍期はとっくの昔に終わっていて、しかも『新青
年』はまだ誕生していなかった。ちかごろ流行の言葉でいえば、それはじつに探偵小説の不毛時
代だったのである。
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途切れ途切れの記
こういう時代に、私が最初に愛読した探偵作家は三津木春影である。探偵作家といっても、江
戸川乱歩が出現するまでは、日本にはまだほんとうの探偵作家はいなかったのだから、三津木春
影のそれもみんな翻案だったらしい。
最初に私が三津木春影のものを読んだのは、小学校の四年のときだから、明治四十五年ごろと
いうことになる。当時『小学生』という雑誌があり、それに三津木春影が「呉田博士」というの
を毎号読切りで連載していた。これはのちに単行本になって、私もそれを所持し愛蔵していたの
だが、惜しいことにいつの日にか紛失してしまった。
それとはべつに、当時、いまの春陽堂文庫くらいの大きさで、ちょくちょく探偵小説の粗悪な
豆本が出ていたが、私はそういう豆本で、シャーロック・ホームズの「六つのナポレオン像」を
読んだことがある。私の読んだその豆本は、もちろん翻案だから、登場人物は全部日本人の名前
になっており、したがってナポレオンの像も、乃木大将の像になっていた。してみると私がその
豆本を読んだのは、乃木将軍の殉死一件のあったあとにちがいないから、大正元年(即ち明治四
十五年)か二年か三年、私が小学校の四年から六年までのあいだだったにちがいない。
ところがどういうわけでか、私はシャーロック・ホルムス(当時はそう発音されていた。ホー
ムズと最初に発音したのは延原謙ではないかと思う)の名前を知っており、
「六つの乃木大将」
もどうやらシャーロック・ホームズの翻案ではないかと想像していた。
したがって三津木春影の「呉田博士」なども、シャーロック・ホームズの翻案であろうとばか
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り思いこみ、事実「呉田博士」の唯一つの長篇が、ホームズの「緋色の研究」であることをのち
に知ったが、短篇のほとんどがホームズではなく、ソーンダイク博士であることを発見したのは
中学の四年のときであった。ホームズにはワトソンがあり、ソーンダイク博士には、ジャービス
がいるから、おなじ主人公の呉田博士で、ホームズでもソーンダイク博士でも、うまく翻案出来
たのである。
私が三津木春影の「古城の秘密」の前篇を読み、完全に探偵小説マニヤになったのは、小学校
の六年のときだったが、そのまえに私は宮地竹峯というひとの「疑問の窓」というのを読んでい
る。これがガストン・ルルウの「黄色の部屋」であることを、私が知ったのはズーッとのちのこ
とである。
私が小学校の六年のとき、近所の年上の女性が、
「古城の秘密」の前篇を貸してくれた。
これには押川春浪の序文がついており、したがって、原作者がモーリス・ルブランであり、原
題が「八一三」であることがわかっていた。春影はほかにももうひとつルパン物を訳しているの
だが、それではルパンは隼白鉄光となっているのに、
「古城の秘密」では仙間竜賢となっている。
やく わん
ところが残酷なことにこの女性は、
「古城の秘密」の後篇を持っておらず、しかもいくら古本
屋を探しても、その後篇が見つからず、私はこの探偵小説の暗黒時代を切歯扼腕しながら神戸二
中へ進んだのであった。
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途切れ途切れの記
2 西田兄弟のこと
大正四年私は神戸二中へ入学して、そこで西田徳重なる友人をえたが、このことが後年の私の
運命を決定する、重要なキー・ポイントとなろうとは、当時の私に気がつく由もなかった。
いったい探偵趣味にしろ、何趣味にしろ、仲間がないと、しぜんに熱がさめていくのがふつう
ではないだろうか。その反対に仲間を得ることによって、お互いに刺激しあい、それらの趣味は
ますます盛んに、ますます助成されていくのではあるまいか。
西田徳重は私に優るとも劣らぬ、探偵小説のマニヤであった。私の読んでいるほどの探偵小説
は、すべて彼も読んでいた。不思議なことには彼もまた、三津木春影の「古城の秘密」を前篇し
か読んでおらず、私どうよう切歯扼腕しているほうであった。
(のちにふたりともとうとう、図
書館で読むことが出来たのだが)
私が西田徳重とあいしったのは、中学の二年の時であったから、お互いにかぞえどしで十五で
あった。質素剛健自重自治を四綱領としている神戸二中では、ふたりともいたって目立たない、
なげ
モッサリとした存在であった。われわれはほかのだれとも交際しようとはせず、いつも校庭の隅
っこであきもせず探偵趣味について語り合っていた。日本の探偵文壇の不振を歎き、黒岩涙香以
来、これという翻訳家の現われないのをかこち合った。
まえにもいったとおり、じっさいそれは探偵小説の暗黒時代であり、しかも、幼いわれわれに
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