書物にとって「読みやすさ」とは何か。 長田年伸(デザイナー/編集

書物にとって「読みやすさ」とは何か 。
長田年伸(デザイナー /編集者)
〈書物とは何か〉
何度目かの電子書籍元年を迎え、その方向性の是非はともかくとして、書籍および出
版を巡る状況は随分とにぎやかになっている。amazon の Kindle 日本版リリースがい
つになるかの予想に相変わらず血道を上げる人々がいる一方、活版に魅せられ、この
時代に敢えて金属活字による印刷にこだわりを見せる人もいる。
それらは紙であるか電子であるかは別として、すべて書物の「ガワ(皮、外皮)」の
話だ。
日本のここ 10 年の書籍デザインを見ても、装丁における工夫、あるいは書物そのも
のに物体的な仕掛けを施すことにもっぱら創意工夫がなされてきているが(ここでも
その方向性の是非は問わない)、それらもやはり「ガワ」の話である。
だが、果たしてそれでいいのだろうか。
そもそも書物とは何か。「書物論」をしたいのではない。機能の話をしたいだけだ。
書物は読むためにある。読者は記された文字列にアクセスし、そこに込められた情報
を摂取する。写真集や絵画集は見るためにあるが、そこから何がしかの情報を得ると
いう意味において、見る行為は同時に読む行為でもある。
いくら外皮の意匠に凝ろうと、そこに書物としての本来的な機能はない。読者は装丁
のために金銭を支払って書物を購入するのではない(なかにはそういう物好きもいる
が)。そこに書かれた言葉を得るために支出する。
そう考えるなら、書物にとって決定的に大事なのは、そこに記された言葉の伝達をス
ムースにするための工夫である。
いま話しているのは、書き手の文章技術のことではない。純粋にデザインの話をして
いるだけだ。
電子書籍を例にとろう。この新しいメディアの普及が遅々として進まない理由は枚挙
に暇がないが、そのなかのひとつに「読みにくい」と思われていることが挙げられる。
どう読みにくいのか。紙媒体の書籍に比して読みにくいと考えられている。このこと
は、ブラウザでテキストを読むことにもあてはまるだろう。
電子書籍のデザインが紙の書籍を志向していることからも明らかなように、2012 年現
在、私たちの読書行為の基準値は紙媒体の書籍にある。
〈「読みやすさ」とは何 か〉
特別かつ特殊な事情のない限り、「読みにくいさ」を第一義に措定するデザインが求
められることはない。外側の意匠にいくら奇抜で実験的な試みをしようと、内側、つ
まり本文にはあくまで「読みやすさ」が求められる。
このことは、ガワの存在しない電子書籍では、その存在自体から導き出される必然で
もある。
私たちはあらゆる場面で「読みやすさ」を求め、デザイナーはいついかなるときも「読
みやすい」デザインの実現を目指している。だが、私たちが求めてやまないその「読
みやすさ」とは、そもそも何なのか。
誰しもが希求しているにもかかわらず、誰もその実態を把握していない。そこにたし
かにあるのに、語り得ないでいる。「読みやすさ」とは何なのか---少しく具体的に考えるのであれば、書籍の本文は文字と余白で構成されている。いか
なる文章であれいかなる媒体であれ、このことは変わらない。「読みやすさ」は「そ
こ」にあると考えられる。では、文字と余白のどこに「読みやすさ」はあるのか。問
題は、それだ。
また紙の本であるなら、その重さ、大きさ、紙質、インクも、当然影響を及ぼしてく
る。そのどこに「読みやすさ」があるのか。
しかし、いま一歩退いてみるとき、「読みやすさ」は純粋にデザインの問題としての
み存在しているのだろうか。本当に「読みやすさ」はデザインの領域にだけ存在して
いるのだろうか。
いま話しているのは、デザインのことではない。読書をするその行為者の話をしてい
るだけだ。
日頃から大部の、しかも難解を極める文章構造を備えた書籍の通読に慣れ親しんでい
る人と、文章といえば携帯メールしか読まない人は、同じような「読みやすさ」を共
有しているのだろうか。一流の小説家と、最後に文章らしい文章を書いたのが高校時
代の夏休みの宿題だった人は、
「読みやすさ」の基準が同じところにあるのだろうか。
読者の置かれた環境・条件も、考え出せば切りがない。光量、騒音、匂い、気温、湿
度、人口密度----これらすべての影響の下で私たちは読書をし、それらすべてに作用さ
れている。
〈ある試みとして〉
話を戻そう。誰もが希求しているにもかかわらず、それが一体何であるのかを具体的
に指摘できないものとして「読みやすさ」は存在している。とするならば、それが何
を指し示し、どのようなものとして存在し、また存在し得るのかを詳らかにしていく
ことで、私たちがこれまで求めていたもの、そしてこれから考えなければならないも
のの正体が浮かび上がってくるだろう。
そしてそれが浮かび上がってきたとき、私たちはようやく次の段階に進むことのでき
る可能性を手にすることができる。
これは、自分たちが一体何について語っているのか、それを白日に下に曝すための、
ひとつの試みだ。