第12号 ベッドに体を合わせる

ベッドに体を合わせる
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私たちは、今、教育改革の真只中にいる。ただ、今、
私たちが立ち向かっている教育改革は、制度やシステム
を変えることではない。国民の意識の改革であり、価値
観の改革と言い換えることが出来る。
今、機能し始めている平成の改革は、教育史上、第三
番目の改革と呼ばれているが、この改革は、それまでの
二回の改革とは違い平時の改革だけに、国民をどういう
人間に変革し、育てようとしているか、その方向性をし
っかり捉えておかなければならないと思う。
長年にわたって我が国の文化として根付いてきた価値観の一つに、『十把ひとからげの論理』
というものがある。
つまり、ハトの群れの中で生活しながら群れから外れないことに神経を尖らせているかのよう
に、自分が生きている社会の中で孤立することを極度に嫌い、個性を発揮して競争することを避
け、集団から取り残されないように対処しようとする生き方を優先しようとするのである。この
論理は、確かに一般的日本人の気質とも言える。
この日本人的思考は、現代の若者のバーチャルな世界での生活の中にもみられる。例えば、ネ
ット社会の中で、見えない他者に極度に気を遣いながらメールを打つ姿は、こうした日本人のD
NAを感じるものである。
いわゆる『出る杭は打たれる』で、異質なものを敵対視する中で群れの安定を図ろうとする日
本社会に流れる文化なのである。
日本が明治以降に先進国として手本にした欧米の社会は、ヨーロッパ的な平等観である絶対的
な平等意識によって一般社会が成立していると言える。つまり、一人ひとりが、それぞれに侵す
ことの出来ない個別の人格を持った存在として、名実ともに認められる社会なのである。他者と
比較するのではなく一個の人格を持った一人ひとりを、絶対的な平等として捉えようとしている
のである。
一方、私たちが生きる儒教の文化圏は、常に他者との関係性の中から価値観が決まるという傾
向が強い社会である。そのため、一般社会に流れる平等観はヨーロッパ社会のそれとは根本的に
異なり、相対的平等観に立っていると言えよう。
我が国の社会が、島国であるための閉鎖性、さらに、農耕による共同体という限られたコミュ
ニティの特性が、人々の意識構造に大きく関与し、文化を構成してきたものと言える。そのため
に、縦割りの構造社会の中で家族性が強められ、日常生活においても、前述したように形式的な
均等性の中で精神的な安らぎを求めようとする力が働くようになったのは当然のことであろう。
こうした我が国の相対的平等主義に支配された社会では、論語にいう「貧しきを憂いず、等しか
らずを憂う」という生き様が求められることになる。
この様相を、R.ベネディクトがその著書『菊と刀』の中で指摘している。
つまり、西欧における「罪と罰の文化」とは違い、日本の社会には「恥の思想」が日常生活に
漂い、例えば、日本の子どもたちは、常に親から「そんなことをしたら人に笑われる」といった
叱責によって育つことで、他者を常に意識した生活を美徳とする価値観が養われていくのだと言
うのである。
彼が、「日本人は体にベッドを合わせるのではなく、ベッドに体を合わせようとする民族であ
る」と述べているように、私たちは、常に、他者との関係の中で育てられ、そうした価値観を自
然と身に付けてきたと言えよう。
考えてみると、私たちが様々な課題に対応しようとする際、まず相手の反応や周りの状況を見
てから、その状況に添って自分の意見を決めようとする傾向が強い。この思考形態は、日本語そ
のものの中にも見られるところである。
例えば、
「~です」
「~ではない」という肯定か否定かの見極めは、文法上、文章の最後まで行
き着いてはじめて表に出るという日本語の表記法となっているのである。つまり、先に結論は示
さずに、関係する情報を様々に示しながら論を進め、まわりの反応を機敏に掴みながら、その状
況に添って結論を示すということが可能な言語を持っているとも言えよう。
こうしたことは、ある面、日本人の良さや美徳につながっている一方、あいまいで、自己を持
たない日本人としてのイメージを諸外国の人たちに与えている理由とも言える。
さて、今後訪れる未来の社会には、現在とは大きく異なる価値観を持った文化が複雑に混在す
ることが予想される。
一言で言えば、社会全体を支配する価値観が複雑に多様化する中で、超多元化したグローバル
社会に変容していくということである。現在の国際化の流れや高度情報化の状況を見れば、この
ことは予想できる。
では、このように価値観が多様化する社会で必要となるコミュニケーションのあり方というの
はどういうものであろうか。バラバラの人間が、バラバラなままでうまくやっていくために必要
な価値観とはどういったものなのであろう。
これまで我が国の社会を覆っていた生き方、つまり、群れを存続させるために自分を抑え、自
分自身を殺して人とあわせることに比重を置いた生き方だけでは通用しない社会が、近い将来、
訪れるということだけは確かである。そうした中では、過度に協調性を重んじるのではなく、社
会性、中でも、社交性が重要な価値観として求められる社会になるように思う。
私たちは、こうした前提に立って学校教育の求める子ども像を考えてみることが必要である。
私は、二十一世紀を生きる子どもたちに求められる資質には、「相手の価値観を理解する力」と
「自分の価値観を説明する力」の両刃を有していることが大切と考えている。そして、各学校で
は、子どもたちにこの二つの力をバランスよく身につけさせ、多元化したグローバル社会に送り
出さなければならない。その為には、組織的、計画的に、両資質を高めるための具体的なコミュ
ニケーション力を磨く場を作っていくことが大切になってくるのであろう。
加えて、人間は、もともと多様な感情を持っているものである。当然、誰しもが、良い所もあ
れば悪い所も持ち合わせている。また、人間が生涯に歩む道でも、計画通りうまくいくこともあ
れば、周到に準備していても思い通りにはいかないことも多い。失敗もあれば、取り返しのつか
ない事態に見舞われることもある。つまり、人間は、いつまでも不完全な生き様を繰り返すもの
である。しかし、一人一人みんな違う、そうした経験こそ、誰もが大切にして生きていかなけれ
ばならないのである。
このような人としての多様な価値観の違いを互いに尊重し合い、認め合い、その中で自分らし
い生き方が許される社会が、今、私たちがめざしている未来なのではないだろうか。現在、我が
国は、社会構造を緩やかに変容させながら、グローバリゼーションの流れに乗って動き出してい
るように感じられる。
時代が大きく変容している今、今後、私たちが、変化に対応していく時に大切に引き継ぎたい
ことを感じ取ってもらうため、ここに、私の好きな川崎洋氏の「たんぽぽ」という作品を紹介し
ておこう。
タンポポが
たくさん飛んでいく。
ひとつひとつ
みんな名前があるんだ。
おーい
たぽんぽ
おーい
ぽぽんた
おーい
ぽんたぽ
おーい
ぽたぽん
川に落ちるな!