自分らしく生きる 群馬県立太田女子高等学校 1年 佐藤里咲 私は、「自分

自分らしく生きる
群馬県立太田女子高等学校
1年 佐藤里咲
私は、
「自分らしさ」とは「自分」を作っているたくさんのパーツの 1 つ 1 つであると考
える。人は、心のどこかで、周りに流されるのではなくしっかりと自分の意思を持って生
きていきたいと思っている。今の自分は、自分らしい生き方ができているのか、そんな不
安に駆られることもあるが、人は生きている限り「自分らしさの塊」である。なぜなら、
「自
分らしさ」というパーツなくして「自分」は存在しないからだ。そして、自分以上に「自
分らしい」人などいないのだ。
しかし、
「自分らしさ」は無くなることはなくとも「変わる」ことはある。例えば、ある
人が 8 歳の頃と 16 歳の頃と 40 歳の頃に持っていた「自分らしさ」は、きっと同じではな
い。時間が経過すれば、人は成長という名の変化をする。それに伴って、その人の持つ「自
分らしさ」も、少しずつ、時に急激に変わっていくのだ。「変わる」ということは、何かを
終え何かを始めること、または何かを失い何かを得ることである。つまり、成長した人と
いうのは、確実に何かを失って何かを得て、それを繰り返してきた人だ。いったい何を失
い、何を得てきたのか。その失ってきたもの、すなわち以前持っていた「自分らしさ」の
中には、本当に失ってはいけない大切なものはなかったのか。しかしながら、人として成
長しないわけにはいかないということも確かだ。ならば、今持つ大切な自分のパーツを、
できるだけ失うことなく成長していくためには、どうしたら良いのだろうか。
2 つの例を挙げて考えてみる。幼い子供は「我慢と人に譲ること」を教えられる。自分は
もっと遊具を独占したいけれど、他にも使いたいと思っている友達がいるとわかって我慢
する。そして、目の前の友達に「優しくすること」ができるようになり、周りから「優し
い」と言われるような思いやりの深い子になった。それから数年が経ち、
「人に優しくしよ
う」という考えが、どこかで「誰かのために何かしよう」という考えに変わる。どちらも
人を思いやるという点では同じであるが、その対象となる「人」の範囲が後者では広くな
り、これは一般的に言えば成長の 1 つだ。自分でも気づかないうちに、自分以外の多くの
人々のことを考えられるようになっている。確かに「誰かのため」に何かしようと思う気
持ちは大切だ。しかし、それが本当に「人のため」になっていなかったら、意味がないの
ではないだろうか。
ある時、
「誰かのため」という正義感から募金に協力をしたところ、周りの人から褒めら
れた。それがたった 100 円でも、大事なのは「気持ち」だと教えられ、それを信じた。し
かし、本当に大切なのは「誰かのため」に何かをすることではなく、自分のしたことが「人
のため」になったのかどうかなのだ。「誰かのため」という綺麗な言葉を語るだけで胸を張
っては、人として恥ずかしい。自分が 100 円の募金をしたからといって、どれだけの人の
ためになるのかわからない。もちろん募金は、遠くにいる人の力になることができる良い
方法であるが、それよりも、目の前で困っている人に優しく声をかけることを、先に行う
べきである。
幼い頃にその子供が持っていた「優しく思いやりがある」という「自分らしさ」は、い
つの間にか「正義感が強く模範的」というそれに変わった。確かに、強い正義感を持って
いることも、みんなの模範的存在であることも、素晴らしいことに違いない。しかし、「目
の前の人を思いやり、直接優しくする」ということの大切さを忘れてしまった。
また、例えば、周囲から孤立し自分の部屋に閉じこもる 1 人の人に、その母親が部屋の
外から声をかけた。
「あなたは愛され、みんなから必要とされている。あなたは決して 1 人ではないのだから、
早く出ておいで。
」
その言葉は確かな「事実」で、閉じこもってしまったその人は家族からとても愛され必要
とされていたのだ。しかし、どんなに正しくどんなに重要な「事実」を語っても、それが
人の「心」にまで届かなければ意味がない。その母親は「事実」の確実性を知り、「事実」
に頼りすぎていた。
「事実」さえ明らかとなっていれば上手くいくと、それを言葉で説明す
れば問題は解決するのだと思い込んでいた。確かに、子供が魔法を使うことを諦めるよう
に、
「事実」を知るというのは大切なことだ。しかし、それは人の「心」を前に何の意味も
持たなくなる。心の弱っている人に、どんなに説得力のある言葉を伝えても、例えそれが、
その人を救うような「事実」だとしても、本人が感じることができなければ何もしないの
と変わらないのだ。本当に「心」に届けたいと思うなら、もっと近づいて抱きしめなけれ
ばならない。
「愛されていること」を伝えたいなら、まず言葉なしで寄り添うことから始め
るべきだ。言葉を伝えるのは、そのあとで良い。
「事実」というものは、すでに確定された信頼できる資料。そして「言葉」は、自分が
成長するほど使いこなせる数が増え、どんどん便利なものとなっていく。そんな確実で便
利なものを人は好む。一方で、人の感情というものは、とても曖昧で細かい変化をする厄
介なものだ。それを言葉に変換して資料化することで、理解したと錯覚してはいけない。
楽をして人の心を理解することなどできないのだ。
母親は幼い頃、「友達の気持ちがよくわかる」と誉められ、それが自慢だった。しかし、
そんな「自分らしさ」は、成長する中でいつからか「語彙力に優れ豊富な知識を持ってい
る」というそれに変わっていた。子供を育てるうえでも重要な「人の心に寄り添い共に考
える」ということをしなくなってしまったのだ。
これらの例のように、人は成長に伴い気づかないうちに大切なものを無くしてしまって
いることがある。子供のころは、自分が成長していることなど意識しない。故に、自分が
何かを失っていることに気づくことができないのだ。そして、大人になってからも、
「得た」
ことは知っているが「失った」ことを知らない人が多くいる。「今の自分らしさ」と「過去
の自分らしさ」は同じではないということに、気付かない人はいつまでも気付かない。な
ぜなら、大人は子供に色々なことを説明することができるが、子供が大人にそうする術は
ないからだ。何より、知識の少ない子供が知っていることを、大人が知らないなどという
考えに、子供が至ることはないだろう。
子供の頃の考えと、大人になってからの考えが異なることは当たり前のことだ。しかし、
子供の頃はわかっていたことが、大人になってわからなくなってしまう。子供の頃は美し
く見えていたものが、今では全くそう見えない。このようなことが起こることが、私には
悲しいことのように思えてならない。きっとこれらも「失ったパーツ」があるからなのだ。
確かに、大人になることでわかるようになることも、見えるようになることも多い。それ
は、とても喜ばしいことだ。しかし、子供の視点から見えるものの中にも、素晴らしいも
のがたくさんあるのである。それは、子供らしく良い意味で無知で素直な心だからこそ、
見えるものなのだ。それは当然、大人の目では見ることができない。しかし、少しでもそ
の子供の頃の「自分らしさ」を残したまま成長することができれば、人として、より深く
大きくなることも可能なのではないだろうか。そのような人こそ、子供たちの良い手本と
なるのである。大人の視点でしか物事を見られないのは、とても残念なことだ。子供の頃
からの「自分らしさ」を、塗り替えるのではなく、高く積み重ねてきた人は、本当の意味
で「自分らしい」存在であると言えるのかもしれない。
幼い頃の自分の、大切な「自分らしさ」を大人になっても持ち続けたいと思う時、どう
したら良いのか。それは、もっと「ゆっくりと大人になる」ということなのである。
「早く
大人になりたい」と思う人、
「ずっと子供のままでいたい」と思う人、そして「子供のまま
ではいられないけれど、大人になってしまうのが怖い」と思う人など、考えはさまざまだ。
もうすでに忘れてしまったものは仕方がないが、せめて今持っている「自分らしさ」を忘
れないために、
「ゆっくりと大人になる」ことが必要なのだ。特に、思春期を迎える私たち
ほどの年齢では、いつ急に自分自身に大きな変化が起こるかわからない。何か新しい考え
に出会い、それを受け入れようとする時、今の自分の持っているものを見て冷静に判断す
る余裕を持つことが大切だ。ただ駆け抜けてしまいそうになるのを堪え、立ち止まって自
分を見返す回数を増やす。それはある意味、自分と向き合うことでもある。誰かが言った
言葉や起こった出来事に、感動したりショックを受けたりしても、一度自分を見返すこと
ができれば、大切な「自分らしさ」を新しく塗り替えてしまうことはなくなるはずだ。
「自分らしさ」とは、1人の自分を作っている数も形も異なるたくさんのパーツの1つ
1つである。そのパーツが欠けたり、新しく加えられたりすることで、「自分」が変わって
いく。そのたくさんある「自分らしさ」を一言で定義することは、とても難しい。人はい
つでも「自分らしさの塊」で、生きているだけで自分らしいのだ。私は「自分らしく生き
ること」は「生きること」に等しいと考える。ただ、その「自分らしさ」は、過去と今と
未来とで異なっているかもしれないということだけだ。
「失うこと」より「得ること」の多
い成長をするためには、自分自身と向き合いながら、ゆっくりと大人になっていくことを
意識すれば良い。しかし、
「自分らしさ」に決まりなどはないのだから、何も気にせずに生
きていくことも、誰かにとっての「自分らしさ」かもしれない。だからこそ、人は「自分
らしさ」に強く縛られる必要はない。大切なのは、自分が成長していく中で、自分の変化
をどのように見つめ向き合い、コントロールしていくかということなのである。