主 日 の 福 音 15/04/02(No.760) 聖 木 曜 日 (ヨ ハ ネ 13:1-15) 仕えるイエスを祭壇から受け、生活に持ち帰る 聖 木 曜 日 、イ エ ス が 最 後 の 晩 餐 で 弟 子 た ち の 足 を 洗 う 場 面 が 朗 読 さ れました。イエスが弟子たちの足を洗ったのは聖体の秘跡を制定された 最後の晩さんの中でのことでした。朗読の部分に最後の晩さんの場面も 重ねながら、黙想することにしましょう。 今 年 3 月 1 日 に 、長 崎 教 区 は 司 祭 助 祭 叙 階 式 を 行 い 、2 名 の 司 祭 が 長 崎 教 区 に 与 え ら れ ま し た 。初 め て の 任 地 も 、今 日 現 在 公 表 さ れ て お り 、 一人は浦上の助任司祭、一人は福江の助任司祭として司祭の歩みをスタ ートさせます。 3 月 1 日 の 叙 階 式 、教 区 報 の 記 事 を ま と め る の に 一 人 の 司 祭 の ご 両 親にミサ前にお話を聞かせてもらいました。助祭に叙階されてから、3 年間も待ってこの日を迎えておられたので、さぞかし待たされただろう なぁと思い、ねぎらいの声をかけたのです。 す る と 、ご 両 親 は わ た し の 予 想 し て い な か っ た 返 事 を く だ さ い ま し た。きっと「首を長くして待ちました」というような返事だろうと予想 していたのに、「本人を信頼して、わたしたちはその日のために備えて きました。きっと神さまは、本人に必要な時間だったから、3年間とい う期間を置いたのでしょう。むしろ、この3年間が、本人に恵みの重さ を実感させていると思います。」そう答えたのです。 本 日 朗 読 さ れ た 福 音 の 個 所 も 、恵 み の 重 さ を 実 感 さ せ る と 言 え る か もしれません。イエスが弟子たちの足を洗います。これはユダヤ人が通 常外出先から帰って来たときにする足洗いの所作ではありません。イエ スは聖体の秘跡を制定される最後の晩餐の途中で弟子たちの足を洗って いるのです。おそらく、パンとぶどう酒を分け合う少し前に行われたの でしょう。 イ エ ス の 動 作 が 、外 出 先 か ら の け が れ を 落 と す た め の も の で な い と すれば、特別な意味があるはずです。それは、イエスの弟子たちに対す る愛の表れです。ほかにも、これから取り扱う秘跡がどれほどの恵みで あるかを悟らせるために、将来聖体の秘跡を取り扱うことになる弟子た ちを敬う態度であったかもしれません。 イ エ ス は「 主 で あ り 、師 で あ る わ た し が あ な た が た の 足 を 洗 っ た の だ か ら 、あ な た が た も 互 い に 足 を 洗 い 合 わ な け れ ば な ら な い 」( 13・14) と言いました。イエスが、聖体の秘跡を意識した場面で弟子たちの足を 洗ったとすれば、後に弟子たちも、足を洗う場面がやって来たとき、取 り扱う恵みの重さを思い出したことでしょう。聖体の秘跡は、互いに足 を洗い合うほど人に仕えようという思いがなければ取り扱えないのです。 今 日 わ た し た ち も 、選 ば れ た 人 が 洗 足 式 に 臨 み ま す 。こ れ は 司 祭 が 、 自分の取り扱う聖体の秘跡の恵みの重みを感じるきっかけにすべきです し、信徒もまた、これから祭壇上で執り行われる聖体の秘跡の恵みの重 みを考えるきっかけにしてほしいと思います。できれば、毎週の主日の ミサ、そこで執り行われている聖体祭儀のたびに、これは、互いに足を 洗いあって執り行ってもよいくらいの尊い秘跡、互いに仕え合う秘跡な のだと思い起こしたいものです。 今 日 、イ エ ス は 最 後 の 晩 餐 の 中 で 聖 体 の 秘 跡 を 制 定 し て く だ さ い ま した。聖体の秘跡はのちに弟子たちによって記念として行われるように なりますから、弟子たちの司祭叙階の秘跡もこの場面に織り込まれてい ると考えてよいと思います。 聖 体 の 秘 跡 、叙 階 の 秘 跡 が 、弟 子 た ち の 足 を 洗 う イ エ ス の 仕 え る 姿 と深く結びついています。わたしたちはミサに集うたびにいつも、イエ スがご自分の弟子である司祭たちに仕え、司祭が聖体のイエスと祭壇を 囲む信徒に仕え、信徒は司祭が祭壇上で仕える姿を見ているのです。 あ ら た め て 、ミ サ は 司 祭 が 祭 壇 上 で イ エ ス に 仕 え る 秘 跡 で な け れ ば ならないと思いました。信徒は、ミサに参加して、イエスに仕える司祭 を見るはずです。決して、司祭が横暴に振る舞ったり、信徒に仕えられ るためにミサがあるのではないのです。今日の聖木曜日の典礼で、もう 一度仕えるために来られたイエスを祭壇上で再現する、体現する司祭で なければ不合格であると感じました。 わ た し た ち が 、祭 壇 上 で 何 よ り も 尊 い も の を 見 た の で あ れ ば 、見 た ものを生活の中に取り入れるべきです。すなわち、家庭でも互いに仕え 合うということです。イエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれた最後 の晩餐の場面が、いつも祭壇上で再現され、それを見て一人ひとりが生 活の中で隣人愛を実践する。こうして祭壇を囲んだ恵みが家庭に、社会 に広がるように、今日のミサの中で恵みを願いましょう。 聖 金 曜 日 (ヨ ハ ネ 18:1-19:42)
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