主よ憐れんで下さい

主よ憐れんで下さい
ルカによる福音 73
主よ憐れんで下さい
18:35-43
今日の主題は 38 節のカギカッコの中から取りました。「ダビデの子よ、わ
たしを憐れんで下さい!」2 行おいて 40 節でも繰り返されています。「ダビ
デの子」という呼び名は、その頃のユダヤ人には救世主メシアの代名詞です。
社会福祉など殆どなかった時代ですから、盲人の多くはこういう風に町の
門の傍らに座って物乞いをしたものです。場所は死海のほとり、エリコの町、
,Ahyriy9 )という町があります。
今でもヘブライ語でイェリホー(
最近ではクイズ番組などが多くなりまして、見ている人の側でも物知りが
増えましたから、旧約聖書にも出るエリコの町の秘密は何でしょうとか、こ
のヘブライ語の標識は何の意味ですか……なんか言うと石坂浩二さんでなく
てもたいてい当たるかも知れませんね。地中海の海面下約 400 m という、世
界で一番低い町です。
盲人はガリラヤでのイエスの噂を耳にしていたのでしょう。盲人の目を開
き、死人をさえ生かす人だという、ナザレのイエスほど力あるラビはいない。
ダビデの子が今来たとしても、この人以上ではあるまい……というようなこ
とが言われていたと思います。彼は群衆があわただしく通り過ぎるのを耳に
して何事かと尋ねると、そのナザレのイエスがこの町に来られたということ
です。イエスの一行はこの時は最後の最後のエルサレムへの旅で、過越の祭
りのために上京するガリラヤやペレヤの巡礼が、この時点ではかなりのサイ
ズのキャラバンの形にまとまっていたのでしょう。この後のエルサレム入り
の場面などから、それが分かります。そのキャラバンの先頭を行く人たちが、
叫ぶ盲人をたしなめたのでしょう。
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「先頭に立つ人々が彼を叱って黙らせようとしたが、彼はますます激しく
叫び続けて、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい!』と言った」
どうしてもそのイエスの憐みを請いたい一心で、彼は他人の迷惑も何も考え
ず、ただ大声で、行列の真ん中にいると思われた人を必死で呼んだのです。
さてこの物語が現代の我々に何かメッセージを持つものか、それを考える
前に、まずこの記事を三つに分けて、三つの角度から、この人とナザレのイ
エスの触れ合いを観察してみることにしましょう。
1.この人の信仰を見る。
この時イエスは足を止めて、彼を連れてくるようにと弟子に命じています。
彼の大声だけではなく、心の中にある何かを感じ取られたからに違いありま
せん。こうして盲人は望んだ通り、そのダビデの子の前に立ちます。目は見
えませんが、それでも自分一人に注意を向けて下さった人を、彼は体中で感
じたことでしょう。
順序が逆になりますが、イエス様の最後のお言葉に「あなたの信仰があな
たを救った」とあります。昔から多くの説教者が救われるための信仰の鑑と
して、この人のような純粋でひたむきな信仰を持とう! と聴衆をアジるのに
使った所です。でも私たちは少しく冷めた眼でまず眺めて見ねばなりません。
これと同じ言い方を主は何度かなさっておられるのですが、一つの例外を
除いて、病気が治ったことを「救った」と言っておられるのですね。「あな
たの信仰があなたの眼を治したのだよ」というのが、ここのイエス様の言わ
れた意味でありまして、ここからこの人と同じ信仰の持ち方をしたらあなた
も救われると煽るのは、少し短絡していると私は思います。
それにこの人の信仰ですけれど、「ダビデの子」というのは確かにイエス
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を本当の救い主として仰ぐユダヤ的表現ですね。詩篇 132 や 89 篇には、こう
いう表現のもとになる思想がありますし、実際この「ダビデの子」という呼
び名が、私たちの聖書には入っていない「ソロモンの詩篇」という文献に本
当に出ていることから見ても、「ダビデの子」はこの時代の真面目なユダヤ
人の救い主への希望を結晶させたような、大事な言葉だったと思います。
イエスは彼なりのその表現をお喜びになったと思うのです。
ただ、福音書をここまで読んできた私たちがうすうす勘付いているように、
この時点では十二人の弟子たちでさえ、イエスがどなたであるかしっかり掴
んではいないわけで、十字架で死なれるイエスがあそこであの祈りをなさっ
た時に「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか知らないので
す」そう言われた時に、初めてショックに打たれるように気づき始めたもの
です。それでもまだ分からなくて、復活したイエスが自分に近づいて来られ
て、それで初めて目が覚めるというのが、このあと語られるペテロやヨハネ
の経験であります。そういうことを考えると、この人の「ダビデの子よ」と
いう信仰は無内容と言えば言い過ぎにしても、まあ当時の平凡なユダヤ教徒
の理解以上には出ていなかったでしょう。それにイエスご自身が「キリスト
は単なるダビデの子ではない」というご注意を、すぐ 4 頁後の所でなさって
いる位です。
私自身はここの対話を見て、実は変な所に感心するというか、そういう盲
人の純粋な信仰というようなこととは全く別の、ある一つのことに深い感動
を覚えるのです。それはこんな頼りない信仰をイエスが軽蔑しなかったこと
です。「眼の見えない自分に憐みをかけて欲しい。できれば晴眼者のように
しっかり歩けて、仕事にも雇ってもらえる者になりたい」まことに肉的な次
元の低い信仰と言えば言える。そんな彼を憐れんで、足を止めて、連れてこ
させて、一対一で相手になってやりなさったことです。決してこの人の信仰、
これでいいわけではないし、私たちもお互い、いい加減な信仰を勧めるわけ
ではないが、芽を出した信仰「ダビデの子よ、憐れんで下さい。私の中には
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この暗闇があるのです」という、私やあなたの声をイエスは聞き流して通り
過ぎはしない。そういうことをここから学びます。たとえ、弱い頼りない信
仰でも……です。
2.この人の正直な告白から考える。
告白というのは、この時イエスから単刀直入「私に何をして欲しいのか?」
と尋ねられて答えた言葉「主よ、見えるようになることです」……この告白
です。こういう当たり前のことをどうしてお聞きになったのか? と私も不思
議に思ったことがあります。
聖書の研究家の中で、山本泰次郎氏などは、ここの対話はかなりシラケて
見ていらっしゃるようで、これはルカ伝じゃなくマタイ伝の講義の中でした
が……エリコの盲人のできごとは、確かに「同情に値する可憐なできごと」
であるけれども、これからいよいよ十字架へ向かわれる「この時のキリスト
に対しては、まことに心無い願いとも言うべきである」とコメントされます。
ただただ自分の眼を開けて頂きたいという願いで、それ以上自分の罪と死と
か、霊的な問題への意識がないとおっしゃるわけです。「しかし、キリスト
は彼らのこの態度を嘆きたもうことなく、かえって深く憐れんで」この愛の
奇跡をなさったというのです。
ドイツの聖書学者シュラッターは、ここの所は殆ど解説を加えずに、本文
の翻訳文だけを載せています。シュラッターにはイエスが王者としての権を
この力ある行為で示されたという点だけが重要なのです。
これに対して飯島正久氏は、唯一の求めを持つ人生の尊さということをこ
こから感じ取っておられます。「『主よ、見えることを!』と答え得たバル
テマイの心は、一つのことに今集中し、しかもこのお方をおいて外に信ずべ
き方はないという信仰に満ち」ていたことを指摘されるのです。この方の師
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匠に当たる山本さんが「心無い願い」見たもの、ただ眼が見えるようにとい
う次元の低い執念のような一点に集中した願いよりも、むしろそれがイエス
の本当のお心から言えば、どこへ集中して欲しかったろうか……という所へ
すり替えて飯島さんは投影していらっしゃるのです。言っておられることは
逆のようですけれど、飯島さんのは山本さんのと基本的には同じで、山本さ
んが「本当はこうであって欲しい」と考えたその延長線上にあるのですね。
以上、ドライな分析からも分かりますように、「ただ見えるようになるこ
と、その一事だけ」というこの人の告白は、本当はイエスが持ってこられた
もの、命を投げ出してまで与えようとしておられるものと比べると、悲しい
までに食い違っていて、この時のナザレのイエスの全くの孤独を思わせるの
ですけれど、人間とはそこまで悲しいもので、私たちが聖書とキリストに出
会うのも、最初大方は人格の形成とか修養とか、自分の性格を直したいなど、
「眼が見える」と同じ次元の悲しい願いから始まるのですね。
そりが少しずつ本当の一つの願いが内に切実になってくると、変わってく
るのです。「主よ、私の中には罪があります。私は少しずつ死んでおります。
この霊の奥底の暗闇を取り去って清くして下さい」という叫びが湧き起って
くる時が来ます。子供の時代、学生時代はそこへ行くための準備の時代で、
せいぜい教会ごっこ、キリスト教ごっこをして訓練を受けるわけですが、大
人として人を愛する経験、人を憎んだり心の中で殺したりする経験を通して、
初めて人はその本当の一つの願い、一つの求めが何であるかに気づいて、キ
リストの十字架を大人として見上げるようになります。
「何が欲しいか」「主よ、見えることです」……というシラケるほど当た
り前の対話、悲しいほどチグハグの問答は、本当はイエスの問いとどこで噛
み合う願いを見出すべきかを示すために、ルカが残した最大の皮肉なヒント
だと言っていいでしょう。
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3.この人の体験した奇跡を知る。
42.そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなた
の眼を直したのだ!」。 43.すると彼は、たちまち眼が見えるようになった。
そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神
をさんびした。
宗教家の中には「信仰があれば、病気は直る」という人がいます。「それ
だけの信仰を持って本気で主にすがれ」と病人に呼びかけるんです。人間に
は暗示の効果というものがありますから、時に暗示にかかり易いタイプの人
が、ごく限られた病気から治癒することもあると思いますが、そういう人畜
無害のご愛嬌と抱き合わせに、どれだけ大きな宗教公害、伝道公害を社会に
まき散らしているか分かりません。特に「直らなかったのは信仰が足りない
からだ」式のこの人たちの常套句を聞くと、私などは憤りでふるえます。そ
ういう裏返しの聖書解釈が、どれだけ信仰の死をもたらしたか知れません。
ナザレのイエスは愛と憐みで、これらの人たちに手を触れて、ある時は盲
人に光を、ある時は悪霊つきに正気を与え、足なえを立たせなさったのです
けれど、その度に湧き上がる憐みと同時に、底なしのシラケと悲哀を感じて
おられたのではないかと思います。
「これではない。こんなものを見て感激するな。眼の視力じゃない。病気
の治癒ではない。もっと別な一点に願いを集中して来る者はないか! あなた
の中にある罪と、永遠の死に気づく人はないのか! 私に一体何をして欲しい
のかを徹底的に考えよ」
ずっと前の方で、このルカ伝では 5 章の真ん中あたりでしたが、イエスが
寝たきりの中風の病人を立たせる件がありました。担架かモッコのようなも
ので、屋上からイエスの前に天井に穴をあけて吊り降ろされた病人が、即座
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にみんなの前で起き上がって、神を崇めながら家に帰ったというあの話です。
あそこで主は一言重大な宣言をなさるのですが……それは「私がどんな病も
直せることを知れ」じゃなくて、「人の子が地上で罪をゆるす権威を持つこ
とを知れ」と言われるのです。「この奇跡によって、ここに人の罪を全部清
めて生かす者がいることを知れ」とおっしゃって、「あなたに命じる。床を
取り上げて家に帰れ」と言われたのです。
ここには書かれていませんが、私には「人の子が地上で死を処分して、あ
なたの暗黒を取り除くことを知れ」という宣言が、この記事の中から聞こえ
るように思うのです。
私たちはこの人と同じ眼の奇跡を経験することはごく稀でしょうが、それ
が指し示すもっと大きな奇跡を体験することは誰にも可能です。とするとや
はり「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われたイエスの言葉は、こ
の場面とは別な意味で、新しく私共に迫ってまいります。病気を直すという
ことと永遠の死から救うということを同じ動詞で表現したギリシャ人に感謝
せねばなりません。
《 ま と め 》
盲目の世界から救い出された乞食は、それが神の生命力によることを知っ
て、神を崇めながらイエスに従ったといいます。もしイエスにこの後従って
いくことがなかったら、多分彼の信仰は「ダビデの子」というユダヤ人とし
ては満点のフレーズを使いながら、殆ど無内容のご愛嬌に終わったかも知れ
ません。
この奇跡自体に目を瞠る人や、事実を疑う人も気づかないかも知れません
が、著者のルカは「イエスに従っていった。……神を崇めつつ」という文章
にアクセントを置いて、この人がこの後エルサレムで何を見たかを暗示して
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終わります。
以上、私たちはできるだけドライに、この話を読んで味わいました。昔か
ら多くの宗教家がここを使ってしたような説教は避けて、聞く方もまた安易
な短絡なアジリ、アオリに乗らないように、注意深く読んでいただくように
しました。そういう読み方をして、その上でなお残るものがあります。もち
ろん、それがない話ならルカはこの 16 行はカットしたでしょう。その残るも
のとは何か?
それはこの人が、そのまま見過ごせば永遠に過ぎ去るかもしれない貴重な
機会を大事にしたことです。もちろんそれは、ナザレのイエスについての不
完全ながら前から知っていたことと、この人の中には私の唯一の悲しみを解
決して下さる力があるという最低限の信頼があったから、ダビデの子にかけ
ることができたのでしょう。「主よ、この私を憐れんで下さい!」
イエスはこの人を憐れんだのです。高級な深い信仰などお求めにならなか
った。頼りない信仰のまま―その芽生えの信仰を喜んで、この人をエルサ
レムまで連れて行かれた―という所に、私は大きな励ましを見るのですが、
あなたはいかがでしょう?
(1984/07/01)
《研究者のための注》
1. マルコ 10 章 46 節以下にある、エリコの盲人バルテマイの記事は、このルカ 18 章ので
きごとと同一と断定してよろしいでしょうが、イエスが「エリコに近づかれた時」で
はなく、「エリコから出られた時」という点で違っております。これをどう説明する
かですが、レングシュトルフは「おそらく話の順序についてのより正確な伝承をルカ
は知っていたのであろう」と言います。ゲルデンホイスの 467 頁の註 1 にはヴァン・
レーヴェン(レーエゥーヴェン?)のマルコ註解からの引用として、大体次のような
説明が引用されています。「イエスがエリコに入られた時、バルテマイは道ばたに座
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っていた。彼の叫びは群衆の騒音にかき消されて、イエスに達しなかった。この後ザ
アカイとの出会いと、彼の家での延引が続く、何としてもイエスに癒して頂きたいと
願う盲人は、今度は場所を変えて、イエスがエリコを出て行こうとされる道で待ち構
える。ルカは盲人とザアカイの話を二つに分けて別々にまとめて語ったから、この形
になった」
2. マタイ 20 章 29 節以下の記事は、場所についてはマルコと同じですが、癒された盲人
は二人であったことを記します。これは非常に説明しにくい点ですが、ルカの記録す
るこの一人の盲人、つまりマルコによればバルテマイという人物が、初代教会でよく
知られた人物であったため、ルカとマルコは特にこの人に焦点を当てて、もう一人の
方に言及しなかったものか、それとも二つの全く別の事件をマタイが一つにまとめて
書いたものか……とゲルデンホイスは 468 頁の註で述べています。
3. イエスを中心とするガリラヤからエルサレムに向かう一団の人々が、既にかなりの数
のキャラバンの形にまとまっていたと言いました理由は、マルコ 11 章の 9 節で「前に
行く者」と「後に従う者」とが統率のとれたシュプレヒコールをしているところなど
から想像したものです。
4. 「ダビデの子」という呼称は、ソロモンの詩篇という聖書外の文献に一箇所だけ見ら
れます。これは旧約偽典の中に入る文章ですが、七十人訳 Ralfs 版では 17 章 21 節に
「ダビデの子を」という対格の形で出ます。メシアはダビデの子孫であ
るという預言は「ダビデの子」という称号こそ出ませんが、旧約聖書中いくつもの箇
所にあり、その主なものは詩篇 132:11、同 89:3,4、サムエル記下 7:12-16、イザ
ヤ 9:6,7、同 11:1、ミカ 5:2 等です。
5. 山本泰次郎氏の諸説は、マタイ伝講義第 56 講から、聖書講義双書の 412-413 頁にわ
たっています。飯島正久氏のものはルカ伝の研究 92 講からでした。
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