1 「本願の信と自信 —自己を証しすること—」(前半) 臘扇忌法要 記念講演 京都大学名誉教授 長谷 正當先生 2014/06/19, 於難波別院 (同朋会館講堂) この難度会の臘扇忌の法要にお呼びくださいまして、誠にありがとうございます。清沢先生の思 想について、その根幹を為すと思いますものを、「本願の信と自信」というテーマで述べさせて頂 きたいと思います。「信」とは如来の本願を信じることですけれども、この「本願の信」の究極的 意義は、自身を信じることにある。そのことが正定聚に住することである。清沢先生の思想を一言 で言うならば、このように言うことができると思います。自己を信じて、自己自身に安んじる。そ こに信の究極の意義があることを清沢先生はその生涯にわたって明らかにされたのであります。 親鸞聖人は、「我々煩悩成就の凡夫が信を得るなら、直ちに正定聚に住し涅槃を得る身に定まる、 証する身に定まる」と言われました。信の証果を正定聚に定まるとされたのですけれども、そのこ とを清沢先生は、 「安心を得て自己に安んじること」 、 「自信を得ること」と捉えて、それを我が身に おいて徹底して追究されてたのであります。したがって、親鸞聖人が「証巻」で語っておられます、 しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚 の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは、すなわち これ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり*1 。 という言葉と、清沢先生が『臘扇記』で述べられております、 自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して、任運に、法爾に、此現前の境遇に落在せるも の即ち是なり*2 。 という言葉は、表面では異なっておりますけれども、根本においては同じことを語っていると言 えるのであります。清沢先生は「絶対無限の妙用に乗託して、現前の境遇に落在する」ということ で、自己の安住する場を捉え、それを親鸞聖人の言われる「現生正定聚」だということとして、私 たちが涅槃に至るのは、自己を信じることによってだということを明らかにされました。その「自 己を信じる」とはどういうことかを巡って、ここでお話させていただきたいと思います。 「信」とは、「如来の本願を信じて救われることである」とされますが、信の究極的意義は、如来 の本願を信ずることに留まるのではない。本願を信じて衆生が自己自身を信じ、自信を獲得するに *1 *2 聖典, p. 280; レジュメ, p. 1 『清沢満之全集』第 6 巻, p. 110, 岩波書店; レジュメ, p. 1 至ることにある。曽我先生の言葉で言いますなら、「救済ということではなく、自己を証すること、 つまり自証ということである」。清沢先生は、信の要はそういうふうに「自証」ということで捉え られたのであります。曽我先生も信をそういうふうに捉えて、善導の「機の深信」の、「究極的に は如来を通して自己を信じることにある」と述べられております。周知のように、善導は「機の深 信」を、 決定して自身はこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁なき を深信す*3 。 と捉えました。そして、このような「出離の縁なき罪悪生死の凡夫」が、如来の本願にすがって 救われるところに「法の深信」があり、信はこの二つの契機から成り立っていると捉えられました。 「機の深信」はそこでは、衆生が「法の深信」に導かれるための前提、もしくは条件とされてきた のであります。ところが、曽我は、親鸞聖人は「機の深信」をそのように捉えていないこと、それ とは異なったふうに捉えているということに、注目されます。親鸞は『愚禿鈔』において、善導の 「機の深信」の一章のその中間の部分を取り除いて、「機の深信」を、 決定して自身を深信す、すなわちこれ自利の信心なり*4 。 と読み替えました。そのことから、親鸞聖人は、「機の深信」を、自身が罪悪生死の凡夫である と信じることではなくて、そのような罪悪生死の凡夫で出離の縁なき存在、出離の縁ない自分自身 を信じること、つまり「自身を信じること」と捉えているというふうに、曽我先生は言われるので あります。いかなる自分であろうと、その自分を信じ肯定すること、そこに「機の深信」の眼目が あるというわけであります。 この読み替えのうちに、親鸞の「信」の理解の深く独自なところがあるとして、曽我先生は次の ように述べられております。ちょっと読んでみますと、お手元のレジュメにもあると思いますが、 機の深信は、[决定して自身を深く信じる] ことでなければならない。私共は、機の深信を、 [自身はこれ罪悪生死の凡夫] という具合に、[自身は] と読むのであるが、これは [自身を] と 読むべきなのでしょう。自身を何と信じるか。[現に罪悪生死の凡夫] であり、[曠劫より已 来、常に没し常に流転して、出離の縁なし] と、[自身を] 信じる。だから、[自身は] と読んで いるけれども、この [は] を [を] に直して読む必要がある。さらにいえば、[自身は] とは [自 身をば] でしょう。[决定して深く、自身をば. . . 信ずる]。こういうことであります。(私共は 自力を棄てて他力を信ずるということによって本当に自身を信ずることができる)。他力を 信ずることによって自身を信じる。だから私共は、まず自力を棄てて他力を頼むのであるけ れども、(しかし、) その自力を棄てて信ずるのは、自分自身を信ずるのである*5 。 と、こういうふうに述べられております。したがって、その「機の深信」は、蓮如上人が述べら *3 聖典, p. 215; レジュメ, p. 1 聖典, p. 440; レジュメ, p. 1 *5 『曽我量深選集』第八巻, p. 197; レジュメ, p. 2 *4 2 れるように、ただ自己を悪きあさましき者と謝り果てて、如来の袖にひしとすがるというふうに捉 えられてはならない。悪き自分に愛想をつかして抜き手を付けて (?) 如来にすがるのではなく、悪 き自分の姿をはっきり見せて、それを自分として引き受けて立つことが「機の深信」である。いか なる自己であろうと、それを自己としてありのままに認めて受け取ること、つまり、自身を深信す ること、ここに「機の深信」があるのであります。したがって、「機の深信」は、「法の深信」に至 るための前段階、あるいは条件というものではなくて、実はそのうちに「法の深信」を包み込んだ ものである。「機の深信」から「法の深信」に出るのではなく、「法の深信」を介して再び「機の深 信」へ戻る、そこに「機の深信」の真の意味があるのであります。つまり「機の深信」は、 「法の深 信」へと逃げてあさましい自分をそこで忘れることではなくて、そのあさましい自分を我が身に受 けて信じることである。清沢先生が「信」において強調されたのは、このことであると思います。 それでは、「自分を信じる」とはどういうことか。それは、自分は何か人とは異なった特別なと ころ、目立ったところを持った存在ではなく、大海の水滴の. . . 一滴のように「無なる存在」である と認めて、それに安んじることです。ところが私たちは、自分の内にこうだと言えるような自己同 一的なもの、何か独自で固有なものがないとおさまらないので、「自分を信じる」とは、「自己が何 がとりえのあるものを持つこと」と考えがちになります。一時よく言われました「自分探し」とい うことですな、何か「自分探し」によって自分の固有のアイデンティティをつかむことが自分を信 じることだと考えがちになります。しかし、そのようなことが自己を信じることではない。そのよ うなこうだと言えるような立派なものが自分に何もないと見据えて、そのことに安んじることが 自分自身を信じるということです。自分は何者かであっても、大海の波浪の如く無にすぎないと徹 底して悟ることです。自己が無なるものとするところにおいて、一切が無差別で平等な自由な世界 が開けてきます。そこのところを清沢は、「自己とは何ぞや。絶対無限の妙用に乗託して、任運に、 法爾に、現前の境遇に落在せるもの即ち是なり」と捉えたのであります。「現前の境遇」がいかな るものであろうとも、そこに「落在」したところが自己である。それは追放可なり (?)、陵辱可な り (?)、今落在してあるところにおいてどうであろうと、本質的に変わりはない。その自分が落在 したところに立つ、そのことが自身を深信することである。清沢はそのように、「信」ということ を「自己を信じること」と捉えたのであります。 そこに「機の深信」が「自利」と言われる所以があります。「自利である」とはどういうことか。 それは具体的に言えば、劣等感から救われるということであります。そこに信の利益があります。 信の根本は、人を劣等感や優越感から救うものであるということです。私たちは、釈尊の出家の動 機が、「驕慢」の反省にあったということに、深く思いを致さねばなりません。若い釈尊は、老人 を見て醜いと感じたこと、そのことを自分に相応しくないと恥じて出家しました。老人を見て醜い と感じたことに、自分の感受性の内にまで入ってきて無意識に自分を支配している優越感、驕慢を 見出して、それが、自分に相応しくないことと感じて出家されたのであります。それゆえ出家した 後の釈尊の反省と思索は、自己の存在の底に巣食っている驕慢の根を掘り起こして、それを取り除 くことにあったと言えます。そのことは、釈尊の反省というものは、ただ単に孤独な自己の、ある いは単独者の反省をめぐるものではなく、最初から人と人との関わりということを根底に置いて、 その人との関わりをめぐる反省であったと言うことができます。そのことが釈尊の悟りが単なる知 3 恵に留まるものではなく、そのうちに深い自身を包み込んで、平等の精神をたたえていたというの が、そこにあるわけであります。 曽我は、人間を支配している邪見の最も大きなものは劣等感だと言います。劣等感は自分が他者 より劣っていると感じるところに生ずる複雑な感情であって、社会における人間の心を攻め苛んで いる苦悩のうちで最も大きく、そして最も抜きがたいものであるとい言えます。社会を支配してい る差別と平等の根源に、その劣等感があると言えます。人は劣等感から免れようとして、その反対 の優越感に立とうとすることで、差別を助長し、ますます劣等感を増殖させていく、こうして差別 と劣等感は、円環を描いて拡大して、人間は太古の昔からその円環に巻き込まれて、苦悩してきた わけであります。業や輪回の苦悩というのも、実はこの差別と劣等感の堂々巡りから成り立ってい ると言うことができると思います。親鸞はそのような邪見驕慢にとらわれた衆生を「悪衆生」と呼 んで、『正信偈』において、「邪見驕慢悪衆生は、信楽受持することは甚だ困難である」と述べてお ります。このことは逆に言うと、衆生は信を得ることで邪見驕慢の苦悩から救われるということで もあります。つまり、信とは人を邪見、劣等感から救うものであるということであります。人は信 楽を受持することで社会を覆っている苦悩を超えることができる。そこに仏教の社会的意義という ものがあると思います。仏教の社会的意義ということで、何も特別な活動のことを考える必要はな い。仏教は人を劣等感から解き放って、平等の世界を開く、ここに仏教の社会的意義の最大のもの があるわけで、それは「自信を得る」ということであります。 こうして曽我先生は次のように述べます。 自信とは、この如何ともしがたい罪悪生死の凡夫であるところに安住するのである。自分に 何の長所もない、こういうことになると人は自暴自棄ということになる。何の取り柄もない からということで自暴自棄になる必要はない。本当に何の取り柄もないことによって、いよ いよそこに何か不動のものを有しているのである。そこに何か動かない自分の安住の場所が ある*6 。 だから、私どもは自分を絶対に信ずる。どんなに我が身が罪悪愚痴の存在であっても、自身 に対する信念を失わない。いよいよ罪悪深重であればあるほど、むしろ自身が明らかになる わけである。だから、本当に我が身を信じる信心というものが、それがまた他人を自信せし める。これが自信教人信ということです*7 。 こういうふうに言っておられるわけであります。 ありのままの自分を見つめてそれを人前に晒すことにいささかのはばかることもなかったのは、 ご承知のように、親鸞であります。そこに親鸞の徹底した自信が伺われます。比叡山での僧として の立場を棄てて下山したということは、親鸞が、競争や劣等感の渦巻く世界の外に出たということ でもあります。下山して妻帯に踏み切った親鸞の生き様は、当時の社会通念からすれば、スキャン ダラスであったはずですけれども、親鸞は従容としてその道を進んだ。そこには抵抗や開き直り、 *6 *7 『選集』第十二巻, p. 13; レジュメ, p. 3 同, p. 18; レジュメ, p. 3 4 浮気心があったわけではない。浮気心というものがあってそうしたわけではない。それは親鸞が真 の姿を正直に見せたところからくる自然の成り行きであったと言えます。 そのことに関して夏目漱石が述べていることは、非常に意義が深いと思います。漱石は「私の個 人主義」という講演において、自己本意ということを述べ、それによって自分が立つ場は確保され て救われたと説きますが、その一年後の「模倣と独立」という講演で、 ありのままをありのままに描きうる人があれば、その人はいかなる意味から見ても悪いこと をおこなったにせよ、その人は描いたという功徳によってまさに成仏することができる。私 はたしかにそう信じている*8 。 と述べています。そして、そのような人として親鸞とイプセンを挙げております。漱石はここ で、親鸞が自己自身を、自分を深信するという言葉を、自分なりの言葉で捉えて語っているわけで あります。「自分のありのままを正直に描くならば、それによってその人は成仏する」と漱石は述 べているのですが、どうしてそういうことが言えるか。それは、「ありのままに描く」ということ で、その人はまさしく、清沢の言うこの「現前の境遇」に立つからであります。この「現前の境遇 に立つ」ということは、自分を棄てて「無」になるということでもあります。無心になった者を如 来は決して罰することはない。「自分をありのままに描いた人は、描くという功徳によって成仏す る」と漱石が言うのは、人はありのままに描くということで、自分を如来の手に委ねているからで あります。自信とは、自分を信じることであり、自分を超えたところにおいて、自分を見ることで あります。そこに自信ということが、劣等感から救われて成仏すると言われる所以があるわけであ ります。 「信」とは「自信」 、つまり「自分を信じることである」と言いましたが、しかしそれは簡単なこ とではありません。実は私たちは自分自身で自分を信じることはできないと言わねばなりません。 私たちが何の取り柄もない自分、虚仮不実な我が身である自分を自らに引き受けることができるの は、そのような自分は他者によって無条件に引き受けられ、肯定されているという確信を持つこと によってであります。他者に肯定されていると感得することによって、我々は自身を信じ、引き受 けることができる。それゆえ、自信の根拠は、自己にはなくて他者にあると言わねばなりません。 自信は実は他者によって与えられるのであります。このことは私たちが身近なところで経験して いることであります。小さい子供が安心して外へ遊びに行くのは、親によって、あるいは親に代わ る誰かによって、見守られているという安心感があるときです。見守られ愛されているという実感 が、自己を信じるエネルギーとなる。それゆえ、親から、あるいは他者から、無条件に愛され肯定 されたというその経験を持つことのない子供は、自分を肯定することができず、人生を生きる上 で、大きな困難や問題を背負わねばなりません。ここに、子育てにおいて、心すべき重要な点があ ると思いますが、これは「信」の問題にも直結している事柄であります。 そのことに関して二階堂行邦という人が述べていることは注目すべきものであると思います ので、少し引用して述べさせていただきたいと思います。二階堂氏はこういうふうに言っており *8 講演「模倣と独立」, レジュメ, p. 3 5 ます。 自分で自分を受け止めるには、自分の父親なり、母親なり、だれでもいいのですが、他者が 受け止めてくれたという経験が大事なのでしょう。つまり、本当にこのひとが私の全部を無 条件に受け止めてくれたということの体験のなかから、自分を受け止めることができるので はないか。他者に自分が何かをするという一歩の課題が自分の中に与えられてくる。それが 救われたということの恩恵なのではないかと思います*9 。 こういうふうに語っています。幼児虐待やいじめの問題は、根本的にはこの自信の問題、つまり 自己を信じるという問題と関わっております。幼児虐待やいじめが忌忌しき問題である所以は、そ れは暴力だからということではなくて、その目に見える暴力の背後の、目に見えないところで、子 供が自己を肯定する能力、自身を深信する力が、奪い去られているということにあります。それは 子供の生きる力の源泉を、見えないところで石抜きして破壊するからであります。そこに虐待やい じめは殺人ではないけれども、殺人に等しい犯罪である所以があります。自己を肯定する能力が奪 われるとどうなるか。自己を肯定することができないものは、周囲の他者を肯定できず、周囲の世 界をして破壊することに向かわざるをえない。虐待が往々にして世代を通して連鎖していく理由が そこにあります。虐待する者が、すでに虐待をされた者なのである。自己を肯定しえない者の底に 蟠る毒素は、怨念や復讐心となって増殖して、世界を悪一色に染め上げていくことになるのであり ます。 ニーチェは、広く人間を責め苛んでいる苦悩の底にあるものを、「復讐心」と名づけて、復讐心 は健康の喪失であると捉えました。そしてそのような復讐心が社会や文化、そして道徳・宗教のう ちに潜伏して、それらを歪め病んだものにしている様子を抉りだすことに、ニーチェの道徳批判の 根本があるわけであります。ニーチェは復讐心を超えて健康になるところに人間の究極的な使命 があるとしましたが、それではどうしたら健康になるかということについて、何も説得的なことを 言ったわけではありません。彼は「永劫回帰」とか「超人」ということを言いましたが、その思想 によって彼は健康になるどころか、逆に病気になってしまっているのですから、その思想は人を救 うものではなかったと言わねばならないと思います。ただ、健康になるためには、自分の心に蟠る 復讐心というものを超えねばならない、こういうニーチェの洞察は正しいと思います。ただ、どう したら復讐心を取り除くことが出来るか、これが根本問題であって、この復讐心というものは「自 信」というものの喪失であるということであります。 「信」の根本問題は「如何にして自信を取り戻すか」ということにあります。自己肯定の力を奪 われ、復讐心の塊となった存在、いわば「悪衆生」の典型として挙げられておりますのは、「阿闍 世」であります。阿闍世の親殺しの源には、実は親による子殺しがありました。阿闍世が生まれて くる際に、親によって殺されかけた。この出来事を提婆達多から知らされて、阿闍世の「自信」 、自 己肯定の土台が破壊されたところに、阿闍世の苦悩と根本の問題があるのであります。 それゆえ、その阿闍世の物語は、親殺しという大罪人がいかにして救われていくかという物語で *9 二階堂行邦『現代と親鸞』第十三号, p. 152; レジュメ, pp. 3–4 6 はありません。注目しなければならないのは、親殺しという目に見える出来事の背景に潜んでいる 「怨み」という目に見えない苦悩であります。それが親殺しという表現を取った。それに阿闍世の 物語の主題は、自分自身を肯定することができないという阿闍世の苦悩であり、その苦悩からいか にして救われるかということであります。親鸞聖人が『教行信証』の「総序」において阿闍世の逆 害に言及し、そして「信巻」において阿闍世について述べた『涅槃経』の部分を長々と引用してい るのは、阿闍世の抱えている苦悩の解決こそ、信の根本問題と捉えられたからであります。した がって、私たちがあらためて思いを致すべきことは、信の根本問題は何かということについてであ ります。如来の本願を信じるか否かということが信の根本問題なのではない。失った自己肯定の能 力をいかに取り戻すか、いかに自信に至るかということに、信の根本問題があるのであります。自 己を信じるということが、自己を証しするということである。つまり、自己を証明するということ である。自己を証明するということは、自分がよしとされていること、承認され、肯定されている、 あるいは、褒められ、尊敬されているということである。自分が疑わしい者であるということで、 何か胡散臭い目で見られており、自分もまた自分を胡散臭い者と見ている。そうではなくて、自分 が保証されていると。そういうことが自分を証しするということであります。 失われた自己を肯定する力を取り戻すには、自身が無条件に受け入れられ肯定してくれるものと の出会い、接触がなければならない。自己を無条件に受け入れてくれるものは、悪に傷ついたり潰 れたりしないものである。つまり不朽なものでなければならない。朽ちてなくならないものでなけ ればならない。それは、完全に清浄なるもの、純粋なもの、善なるものでなければなりません。そ のような清浄なものに触れることではじめて、人の心に自分を肯定する力が蘇ってくるのでありま す。そのような善なるもの、清浄なるものが如来の心であり、本願と言われるものであります。し たがって、繰り返すことになりますが、信とは如来の心を信じることではなく、如来の心に触れる ことによって自分を信じることであります。ただその自信に至るには、如来の心との接触がなけれ ばならない。真実心とはそのように、完全なる善なるものである如来の心が、人間の心にあらわれ てスイッチを押し、花開くことであります。そこに生じた妙果が「自信」であり、それが人を涅槃 へと導きます。「涅槃の真因は信 (心) をもってす」と言われておりますのは、この意味はここに捉 えねばならないと思います。如来の心が人間の心に入ってきて花開き、自信という果実を結び、現 実を生きる力となることが、正定聚に住することであり、そのことによって人は「必至滅度」とな るのであります。 先に、人間は自己肯定の能力、つまり自信を失うときに、必然的に他者を毀損し、破壊すること へ向かうと言いましたが、そのことは、重力の法則が地球を支配していて、人間はそれに委ねられ ているということでもあります。物体が落下するのを止め、それを上昇させるためには、重力の法 則と反対に働く法則がなければならない。そのような法則が、本願の法則であります。自信を失っ て落下していく存在が阿闍世でありましたが、本願力とは、その阿闍世に浮力を与えて落下するの を食い止め、それを上昇する方向に働くものであります。重力の法則が地球を支配しているよう に、本願の法則もまた地球にあらわれて、はたらいております。しかし、この重力の法則というの は、地球の底から出現して、我々を底へ引きずり込むのですが、本願の法則はいわば地球を超えた 如来の世界から、地球を超えた法界から由来するものでなければなりません。しかし、いずれにし 7 てもこの二つは自然法則であって、重力の法則がいわば「業道自然」と言われるのに対して、本願 の法則は「願力自然」と言われるものであります。そして親鸞聖人は、信を得た人間において「願 力自然」という法則がはたらいて、人を無上仏に至らしめることを「自然法爾」と捉えられたので あります。 「自信教人信」ということが示すのは、人がその「願力自然」の法則によって、「願力自然」の法 則が自己の内にはたらくならば、それによって他者をもまたその法則のうちに取り込んで、重力の 法則の外に出さしめるというところにあります。そういうふうにして落下する物体を持ち上げる浮 力のはたらきが、「回向」のはたらきとして捉えられてきたと言うことができると思います。 ここでしばらく休ませて頂いて、後半をまたのちほど続けさせていただきたいと思います。 8
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