1 アメリカのラテンアメリカ政策 Ⅰ アメリカの孤立主義とラテンアメリカ

アメリカのラテンアメリカ政策
Ⅰ アメリカの孤立主義とラテンアメリカ
アメリカ外交の当初の基調は「孤立主義」。 アメリカ合衆国は、元々イギリスが築いた1
3州の植民地を基礎に成立していた。これらの州はイギリスの重商主義的圧政に対して抵
抗を行い、イギリスに対する戦争を起こして独立を達成した。こうした独立の経緯からア
メリカには当初からイギリスをはじめとするヨーロッパ勢力に対する警戒や不信感が存在
していた。また、アメリカには地理的にも大西洋を隔ててヨーロッパの国際政治から遊離
することができるという利点もあった。
初代大統領ワシントンが「外界の勢力と永続的同盟を締結することを避ける」と述べたよ
うに、ヨーロッパ諸国と同盟関係を結ぶことによって、ヨーロッパの国際政治に巻き込ま
れないことが、独立したばかりのアメリカにとって必要なことだった。こうした「孤立主
義」によってアメリカは、広大な国土の開発にエネルギーを集中することができた。
アメリカのモンロー大統領→1823年末、アメリカのモンロー大統領は、ロシアの太平
洋岸進出、およびヨーロッパの対ラテンアメリカ諸国干渉に備えて、アメリカ外交の基本
的な立場を表明する。
モンロー宣言→
1、アメリカ大陸は、今後はヨーロッパ諸国の植民地の対象と考えられるべきでない
2、西半球の独立国に対するヨーロッパ諸国の干渉は、アメリカ合衆国に対する非友好的
な意向の表明とみなす
3、アメリカ合衆国はヨーロッパの政治に関して干渉しないというものだった。モンロー
宣言は、ラテンアメリカ諸国を守る宣言であり、同時にアメリカ合衆国を守り、正義の擁
護者としてのアメリカ合衆国を正当化し、1世紀以上にわたってアメリカ外交の基本原理
となっている
アメリカ→対外的にはモンロー主義を宣言してアメリカへの干渉を排除する政策をとり、
対内的には「マニフェスト・デスティニー(明白な運命)」を掲げて未開地西部の開拓にア
メリカ人は全力を上げていく←その基本になったのは、アメリカ新大陸に膨張し新しい社
会を建設することがアメリカ人に与えられた使命であるという観念だった。この「マニフ
ェスト・デスティニー」の言葉の起源は、ジャーナリストのジョン・オサリヴァンが、1
845年に「神より与えられたこの大陸全体に拡がり、そして所有することは、われわれ
の明白な運命」と主張したことにあった。
←この言葉は、アメリカが後進国を征服し、後進民族に対してアメリカ的文化・制度をわ
かち与えるのは神の意志であるとするもので、従って他国に対する侵略や領土の拡張を正
当化するものでもあり、後のアメリカ外交にも影響を与えるものだった。アメリカはモン
ロー宣言によって、ラテンアメリカ諸国へのヨーロッパ諸国への介入を排除する姿勢を見
せたが、しかしアメリカ自身はラテンアメリカ諸国に直接介入していくことになる。
Ⅱ アメリカの「裏庭」としてのラテンアメリカ
第11代大統領のジェームズ・ポーク→1846年にメキシコに戦争をしかけて、カリ
フォルニアを奪うことにし、メキシコ戦争を起こした
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アメリカ軍→メキシコ・シティーまで進撃したので、メキシコは屈服し、1848年のカ
ダルーペ・イダルゴ条約でアメリカにカリフォルニア、ニューメキシコ地方を譲り、リオ・
グランデを国境とすることを認めた←このメキシコ戦争は明らかにアメリカの侵略戦争だ
ったが、アメリカは領土獲得の代償として1、500万ドルを支払い、購入の体裁をつく
ろった
アメリカ→もっぱらその広大な国土の開発にエネルギーを注ぐことで経済の飛躍的な発展
を遂げ、19世紀末までには世界最大の工業国となった。
アメリカ→海外への勢力拡張・強化のためにとった政策が、「ドル外交」。「ドル外交」とい
う言葉は、タフト大統領(在任1909年~13年)が彼の対外政策を「銃弾のかわりに
ドル」を表現したことから生まれている。
「ドル外交」→アメリカの帝国主義的政策を表すもので、ロシアや日本などの反対が強い
極東よりもラテンアメリカで成功した。
タフト大統領とノックス国務長官→アメリカ外交政策の目標を貿易と投資の促進に置き、
対外投資の増大によって相手国に対するアメリカの政治的・経済的影響力を強化すること
を目指していく。
中南米地域には多額の対外負債を抱えた政情不安な小国が多かったためヨーロッパ債権国
の介入を招く恐れがあった←これは、「孤立主義」の伝統からアメリカが望まない事態であ
った。タフトの前任者であるセオドア・ルーズベルトは、ヨーロッパの西半球に対する干
渉を排除するためには、アメリカが中南米地域の秩序を維持しなければならないと訴え、
1905年、ドミニカの対欧負債をアメリカが肩代わりするかわりにドミニカの主要財源
である税関をアメリカの管理下においた。
タフト政権→ルーズヴェルトが必要に迫られてとったこの方式を、後進地域の安定を約束
するものとして積極的に受け継いでいく。
※ニカラグアでは1909年、反米的な独裁者ホセ・サントス・セラヤの追放に手を貸し、
反セラヤ派を支援したアメリカは、アドルフォ・ディアツの新政権承認の条件としてアメ
リカの銀行からの借款を受け入れさせ、その後アメリカによる税関管理も認めさせた。こ
のアメリカの介入はニカラグア人の反感を買って1912年に反乱が勃発したが、アメリ
カは海兵隊を上陸させてこれを鎮圧し、少数党である親米派政権の座を擁護した。
※アメリカのラテンアメリカ諸国を「裏庭」とみる意識は継続しており、チリのアジェン
デ社会主義政権の打倒、ニカラグアの反政府勢力であるコントラに対する支援、あるいは
麻薬で揺れるコロンビアに対する介入をみれば、ラテンアメリカ諸国の問題がアメリカに
とっていかに重要であると判断されているかが分かる。
Ⅲ 冷戦とラテンアメリカ
※第二次世界大戦ではヨーロッパと太平洋地域に関心やエネルギーを注いでいたがアメリ
カであったが、冷戦はアメリカに再びラテンアメリカに対して目を向けさせることになっ
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た。
アメリカ→1947年に米州相互援助条約を結び、また1948年には米州機構憲章を成
立させ、アメリカとラテンアメリカの緊密な関係を制度化したが、この米州体制は著しく
反共的だった。
アメリカ→ラテンアメリカ諸国を、アメリカをはじめとする西側諸国の影響力の下に置こ
うと躍起となる。ソ連など東側陣営のラテンアメリカへの進出はアメリカによって即座に、
拒絶反応を起こされた。1959年のキューバ革命、また1954年のグアテマラでの革
命はアメリカに東側陣営への強い脅威や警戒をもたらすものだった。
アメリカが1965年にドミニカ共和国に軍事介入し、また73年にチリのサルヴァド
ル・アジェンデ大統領の社会主義政権の崩壊を後押ししたこと→冷戦的発想からのものだ
った。
→ケネディ政権時代に、アメリカは「進歩のための同盟」政策を追求し、ラテンアメリカ
の社会改革プログラムを後押しする姿勢を見せた。この政策もキューバで社会主義政権が
成立したことをたぶんに意識したものだったが、ケネディ政権は同様の改革プログラムを
中東のイランの国王体制にも断行させた。
レーガン政権→1980年代は「新冷戦」と呼ばれる時代で、レーガン政権はソ連を「悪
の帝国」と名指しして、ソ連への敵対意識をあらわにした。
←この時期、ラテンアメリカで左翼勢力が台頭する背景が備わっていたことは間違いない。
レーガン大統領が就任した頃のラテンアメリカでは、多くの国が軍部独裁政権の下に置か
れ、国民の大多数は貧困な生活を余儀なくされていた。住宅、医療、教育、食料は極度に
不足し、民主的に選出された政府ですらも経済的後退、昂進するインフレで苦しんでいた。
かりに生活上の改善がなければ、ラテンアメリカの若者の4分の3が国を離れるであろう
という世論調査結果もあったほどだ。
アメリカ→ニカラグアが軍備拡大していることを口実に、1984年2月にニカラグアの
港湾に機雷を敷設した。
アメリカのCIA→「コントラ」と呼ばれる1万5千人の反サンディニスタ政権の民兵組
織を結成し、これに支援を与えるようになった。その目的は、ニカラグアからエルサルバ
ドルに武器や弾薬が流入することを防ぐことにあった。この時期、カリブ海のジャマイカ、
トリニダード、グレナダでは左翼勢力の影響力が強まっていた。
Ⅳ 冷戦の終結とアメリカ、ラテンアメリカ
ラテンアメリカ→貧困や所得格差が顕著な地域であり続けた
世界銀行→1985年に世界銀行はラテンアメリカの貧困ラインを月額60ドルにした。
所得格差はラテンアメリカ諸国の国家間でも著しくあった。ベネズエラでは、
3.54%が貧困ラインより下で暮らしていたが、それに対してボリビアは
60.36%の人々が貧困層であった。80年代の末にコスタリカの貧困率
は、3.33%であったのに対して、グアテマラは71.35%だった。
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※ラテンアメリカ諸国の経済が90年代に落ち込むとベネズエラのチャベスの左翼政権や、
ペルーのフジモリ大統領のように権威主義的方策に訴える国々も現れるようになった。
クリントン政権→2000年7月、13億ドルの経済援助をコロンビアの対麻薬戦争に対
して与えることを決定したが、しかしこの支援は、アフガニスタンやイラクでの対テロ戦
争に見られるように、コロンビアの社会発展や制度改革など麻薬の撲滅のための根本的解
決手段を与えるものではなかった。
Ⅴ アメリカの「対テロ戦争」とラテンアメリカ諸国
9.11の同時多発テロを契機とするアメリカの「対テロ戦争」に対するラテンアメリカ
諸国の反応は総じて肯定的なものではなかった。特にグアンタナモでのムスリムに対する
扱いはアメリカの「傲慢さ」を表すものと見なされ、アメリカが「人権の擁護者」である
ことが疑わしいとさえ考えられるようになった。アメリカがキューバのグアンタナモに強
制収容所をもっていること自体がラテンアメリカに対する「アメリカ帝国主義」の名残と
見なされている。イラク戦争もまた、グレナダやパナマなどでアメリカの軍事介入を受け
てきたラテンアメリカ諸国にとっては過去の苦い経験を思い起こさせるものであった。
国連決議に基づかないイラクに対する先制攻撃を支持するラテンアメリカ諸国はきわめて
少なかった。イラク戦争を支持したのは、内戦でアメリカから武器や資金の供給を受ける
コロンビアと中米諸国などわずか7カ国にすぎず、アメリカ大陸の盟主を自任し、民主化
と市場統合を行ってきたアメリカの権威の失墜を表すことになった。イラクにはドミニカ
共和国、ホンジュラス、エルサルバドルが軍隊を派遣したのみである。メキシコやチリも
イラクに対する猶予期限を設定しない武力攻撃の提唱に反対した。
アメリカのもたらした経済の構造改革は、さらなる政府の腐敗、国民に対する経済的利益
の欠如、また国民の間の格差の拡大をもたらしたとラテンアメリカでは思われるようにな
る。構造改革、つまり経済の民営化がもたらした負の遺産を考えると、国家の統制があっ
た時代のほうがよかったという思いがラテンアメリカでは共有されていく。対テロ戦争を
重視するブッシュ政権の外交目標と、経済状態の改善を求めるラテンアメリカ諸国の人々
の切望とは大きく乖離していった。
ベネズエラでは、チャベス大統領に先立つ政府が貧困問題を無視し、少数派の権利を尊重
することがなかった。チャベス政権下では、政府がエネルギー政策を強く推進するように
なった。石油価格の高騰は、チャベス政権に多額の収入をもたらすことになり、政府が社
会事業に多くの資金を費やすことができるようになった。チャベス大統領は、アメリカに
様々な分野で挑戦し、貿易の統合、アメリカが提唱する民主化、またアメリカのイラン・
イラク政策に強く反対する。彼は、アメリカを南アメリカやカリブ海地域のエネルギーに
関する秩序や取り決めから排除する意図を明らかにした。
ベネズエラは、メキシコと並んでラテンアメリカの中で世界市場に対するエネルギーの供
給国である。メキシコはアメリカに対して石油を供給してきたが、しかし石油の上流部門
は外国資本には閉ざされてきた。ベネズエラもアメリカに対する石油の供給を停止する様
子はないが、アメリカがベネズエラに対する敵視政策を強めると、アメリカのエネルギー
政策に影響を及ぼすことも考えられる。
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