本論に入る前に

※内容的に HTML 版では読みにくい可能性もあるので、PDF 版を用意しました。更新等
の作業は今後も WEB 版を中心に行ないますので、PDF 版は必ずしも最新の内容を反映し
てません。(2015.6.20)
本論に入る前に
補足説明:何を・どう批判するのか?
安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
(マルコ 2:27)
本論に入る前に、誤解を避ける意味でも、ここでいくつか説明しておきたいことがある。
本頁の内容は当初「怖れに根ざした信仰」の論考内に組み込んでいたものだが、文
章も長く、本論からもかなり逸脱する内容であったため、新ドメイン移行に伴い、い
ったん序論部の補説として独立させた。その後よく考えて、内容を加筆・改編の上、
序文の補説的頁として独立させることにした次第である。ただ本頁で扱った内容のう
ち批判の意義に関する文章は本サイトの全体に関わる内容でもあるため、本来はもう
少し徹底的に論じたいテーマもある。そのため、最近さらに内容を改変の上、その頁
を独立の論考〔次項〕としてアップした。
1:キリスト教および特定の教派の攻撃が目的ではない
わたしは本サイトのタイトルを「聖書信
必ずしも「聖書信仰」そのものを否定した
仰を問いなおす」(ただし、これはあくまで
いわけではない。もちろんキリスト教やそ
暫定的なサイト・タイトルであり、適切な
の信仰を否定したいわけでもない。誤解す
サイト・タイトルが決まり次第変更したい
る人がいるかもしれないので、まずここで
と考えている) としたが、だからといって
詳しく説明をしておくことにする。
-1-
(1-1)キリスト教の攻撃が目的ではない
まず第一に、キリスト教に対して批判的
補説 1-1:一神教と多神教双方
な考察をするからといって、わたしは何も
による一方的な非難
キリスト教一般を(キリスト教に違和感を
き ちんと 読んだこ とはない のだ
いだく多くの非キリスト教徒がするような
が、梅原猛氏の主張などがその代表
意味では〔補説 1-1〕)攻撃するつもりはな
的なものだろうと思う。それらの中
い。いくら批判的な見解を持っているから
には実際かなりひどいものもあるよ
といって、福音派や聖霊派の教会はすべて
うだ。これらは、大概が一神教を「排
間違っているなどと言うつもりはないし、
他的」として 一方的に 「非難」(批
そんなことは考えてもいない。福音派の教
判というレベルには達していない論
会でよい教会がたくさんあることも知って
難が多いため、この表現を用いる)
いる。実際わたしの知人にも、今は付き合
あるいは「断罪」するのが通例であ
いがないものの、福音派を含む保守的なキ
る(昔のわたしも多少それに近かっ
リスト教会の教会員の方が何人もいるが、
たことをここに白状する)。もっと
その多くは人間的にも立派な方だった。問
も、わたしはそれらの一神教批判が
題は、ゆきすぎた福音主義とその立場によ
すべて間違っているとは思わないも
る聖書解釈が、結果的にキリストの精神か
のの、彼らの批判は仏教なり神道な
*1
らの逸脱、たとえば「信仰による人間疎外」
りに対する自己批判・自己反省は一
といった事態を生み出しかねない、という
切ないことが多い。残念ながらここ
ことなのである。もちろんそのような問題
でその問題を詳しく論ずることはで
を福音主義的なキリスト教会が生み出しや
きないが、わたしの批判はそのよう
*2
すいということ 、これはしかし、ひとえ
な一方的なものではない、少なくと
に福音派や聖霊派の教会だけの問題ではな
もそのような批判は行なわないよう
い。それは、禁欲的なピューリタニズムを
日頃 から心 がけてい るつもり であ
中心としたプロテスタント教会が内にひそ
る。
めていた問題(それは古くは古代教会以来
カトリック教会内においても内に孕まれて
先の主張に対して一見矛盾した発
いた問題でもあろう)が、現代においては
言に聞こえるかもしれないが、どう
特に福音主義的なキリスト教会において如
してもコメントしておきたいことが
実にその姿を現わしつつある、ということ
ある。ここで本格的に論ずるべき事
なのである。わたしはそのように考えてい
柄ではないかもしれないが、わたし
*3
る 。
には、これら多神教信者側からする
一神教批判に対するクリスチャン側
からの「非難」にも疑問を感じる点
*1「聖書に名を借りた支配」を参考。
*2 上記「聖書に名を借りた支配」を参考。
*3 プロテスタンティズムが孕む問題点についての考察は以後の各論において論じる予定であ
る。
-2-
が少なからずある。大体、多神教信
自分たちが散々他宗教を誹謗してき
者からする一方的な一神教批判にし
たことへの反発から来ているという
ても、これにただ腹を立てるだけで、
側面も見逃すことはできないのであ
その一方で自分たちが今まで二千年
る。これはわたし自身がそうだった
近くにわたって他宗教を一方的に非
からはっきりとわかる。そのことを
難し、「異教徒は地獄に堕ちる」な
忘れている、あるいは知ろうともし
どと言い募り(特にカトリック教会
ない(いや本当に知らないのかもし
および一部のプロテスタント教団か
れないが)ならば、それはいささか
ら「今は違う」という反論があるか
身勝手にすぎはしないだろうか。そ
もしれないが、それも第二バチカン
れでは一方的な非難だとのそしりを
公会議以降、たかだか 50 年程度の
免れないし、よくて水掛け論にしか
変化でしかないことを忘れないでほ
ならない。そこには真摯な対話の精
しい)、日本においては仏壇などを
神のカケラも見られないと言ってよ
焼いてきた歴史を失念しているとし
い。仏教徒に代表される多神教徒も、
たらどうか。これはいささか問題だ
一神教に属するキリスト教徒も、こ
と言わざるをえないだろう。「火の
こはお互いに他者の視点をも考慮し
ない所に煙は立たない」と言われる
てものを見るよう心懸けるべきであ
ように、彼ら多神教徒のキリスト教
ろう。
に対する非難にしても、もともとは
(1-2)聖書カルト批判が本サイトの目的ではない
次に、わたしは本サイトで必ずしも「聖
しい *1。いずれにしても、破壊的カルトに
書カルト」を問題にしたいわけではない。
限らず、「偽造宗教」は相変わらず世には
たしかに「聖書に名を借りた支配」とい
びこっているし、通常の宗教教団における
う文章の中で「信仰による人間疎外」の極
「信仰による人間疎外」もその跡を絶たな
端な例として聖書カルトの問題を取り上げ
い。だから、これは宗教界全般にわたる問
はしたが、これはわたしがこの方面の話題
題でもあるのだが、キリスト教を批判的に
にたまたま詳しかったからにすぎない。わ
見直すことを目的としている本論において
たしはカルト化した特殊な教会のみを本サ
特に取り上げた次第である。
イトにおける批判対象にしているわけでは
なく、本サイトにおける批判的考察の対象
「聖書の御言葉」を使った支配から自由
はあくまでもプロテスタンティズムを中心
になるためにも―聖書カルトに限らず、
にキリスト教全体にわたる予定である。そ
これはどのような教会、あるいはすべての
れだから、「このサイトでの批判は通常の
成立宗教においてもそうなのだが―ここ
キリスト教会とは関係ない事柄で、自分た
で述べている批判的アプローチはわれわれ
ちとは関係ない話題だ」とは思わないでほ
にとって避けて通れない重要な作業とな
*1 上記「聖書に名を借りた支配」中の「キリスト教ならばすべて正しいか?」の項を参照。
-3-
る。それだから、一般の教会内における「信
書に対するリベラルで批判的な(対話的)
仰による人間疎外」からの自由はもちろん
アプローチを重視する次第である*2。
ことば
のこと、霊の 言 で書かれた聖書の「真意」
なお、今後もまた聖書カルトの例を出す
に従って正しい信仰(姿勢・態度)を貫く
ことがあると思うが、それは、上に挙げた
ためにも、クリスチャンは、聖書といえど
理由以外に、わたしが現実の教会活動の経
も ― いな、《聖》書だからこそ ― これ
験が少ないという理由もある。わたしは通
を相対化して自分の頭や心で読み解いてゆ
常の教会における「信仰による人間疎外」
く必要がある。自分の所属する教会が聖書
の実態を具体的にはほとんど知らないし、
根本主義の立場を取るにせよ、そうでない
実体験もないため、たとえそのような事例
にせよ、聖書ないしは聖書の絶対視からの
を本などを読んで、あるいは知人などから
自由、言いかえれば聖書ないし聖書信仰の
聞いて多少知っていたとしても、カルト問
相対化
*1
が必要となるのである。わたしは
題とは違って、それをそのまま借用する気
そのように考えている。もっともその相対
にはなれない。何となれば、よく知りもし
化の作業には批判的なアプローチが当然な
ないことは批判すること自体が不可能だか
がら含まれるため、わたし個人としては聖
らである *3。
(1-3)よく知らない対象の批判はあまり有意義とは言えない
批判の中心はキリスト教
りにわかるのだけど、その問題点になると
プロテスタンティズム
全くうとい、だから批判そのものが不可能
先にわたしは、プロテスタンティズムを
なのである)、批判の矛先は当然ながらプ
中心にキリスト教全体にわたる批判を行な
ロテスタント教会に集中することになる。
いたい旨を書いた。このことに関して少し
ただしここでお断わりしておくが、プロテ
補足すれば、わたしは東方正教会に関して
スタンティズムを中心に(西方)キリスト
は何も知らないに等しいので、考察の対象
教を全体的に批判的アプローチの対象とす
に上げるのはあくまでも西方キリスト教会
るとは言っても、やはりその批判の対象が
に限られる。もっともカトリック教会に関
聖書根本主義的な立場のキリスト教に対し
しても大して詳しいわけではないので (カ
て目立つことになることは否定できない。
トリック教会に関してはその長所はそれな
*1 相対化とか客観化いう表現を使うと、それが単なる聖書否定、信仰否定の議論にすぎない
と否定的に捉える向きが多いだろうが、もとよりわたしにそのつもりはない。その誤解を解く
べくここで詳しく論じている余裕がないのは残念だが、このことに関しては後日機会があれば
詳しく論じたいと考えている。なおわたしとしては、「客観化」よりは「相対化」の方が表現
として適切だと思うので、今回もあえてこの表現を用いたが、要らぬ誤解を避けるためには
「客観化」の表現の方が適切だったかもしれない。
*2 批判の意義等については後述第 3 節他を参照のこと。
*3 この件に関しては次項参照。
-4-
よく知っている分野だからこそ有効な批判
事者でない人は黙っていろ」などと言って
が展開できる
いるわけでもない。よく知らない分野であ
そのことに関連して、多少余談ながら、
れば、あるいは部外者であれば、そこで何
「批判対象」ということに関してここでひ
が問題点となっているかを的確に認識する
と言コメントしておきたい。
ことすらできないだろうし、そもそも批判
など不可能なはずだ、ということが言いた
わたしは、上で聖書カルト以外の実際の
かったにすぎない。
教会での事例については基本的に言及しな
しかしながら、それでも何事か批判する
い旨を述べたが、先にも書いたように、そ
という場合は、知識の多い少ない関わりな
れは、詳しく知らない分野に対しては安易
く、その対象に対して何らかの違和感なり
に批判はできない、よく知っている分野だ
疑問を感じているからに相違ない(それす
からこそ批判することも可能となるからで
らないのならば、それは単なる言いがかり
ある。これはわたしのスタンスでもあるの
にすぎない)。大体において、「火のない
だが、よく知りもしないことを批判対象に
ところに煙は立たない」という俚諺もある
するすることにはもともと無理がある、よ
とおり、何らかの違和感なり疑問をいだく
って、そのような批判はできるだけ避ける
という時点で、その人にはその対象に対す
べきだと考えている。大体よく知りもしな
る何らかの“感触”が多少でもあるはずな
い事柄を批判しても、それはせいぜい「非
のだ。その違和感なり疑問を率直に表明す
難」にしかならないし、そのような安易な
ることはお互いにとって意義がある行為だ
批判には建設的な意義を認めることはでき
と思う。そこで表明した内容が間違ってい
ない。ちなみに、これにはもちろんその批
れば当然ながら反論されるだろうが、それ
判対象を知識として把握しているという面
に対して当人は誠実に応対してゆけばよい
も当然ながらあるが、それに加えて感覚的
だけのことである。そのやりとりの中で、
にもその対象をよく理解している必要があ
反省すべきは反省し、それでも拭えない違
ろう。そうでなければ批判対象に対して主
和感なり疑問点が残るのであれば、それに
などできはしない
対してさらに適切な表現を与えるべく―
からである。したがってキリスト教を問題
お互いに、あるいは自分の中で―対話を
にすると言っても、その具体的な批判対象
重ねてゆけばよいのである。
体的なコミットメント
*1
は先にも述べたように限られたものとなら
いつも思うことだが、知らないなら知ら
ざるをえないわけである。
ないなりの批判の仕方があると思う。それ
知らないなら知らないなりの批判の仕方
には、「自分が知らないこと(あるいは間
がある
違っていること)もある」という謙虚な気
ただし誤解してほしくないのは、わたし
持ちを失わず、自分が知っている範囲の知
が上記のように述べたからといって、よく
識でもって、他者に対する敬意を失わず、
知らない分野に関しては必ずしも口をつぐ
あくまで誠実な態度で対話を続ければよい
めと言いたいわけではない。ましてや、
「当
のだ。そういったやりとりの中で自然と対
*1 後述第 3 節その他参照。
-5-
象に対する知識も増え、こちら側に一知半
いった精神で、一方的な非難にならぬよう
解な見解があればこれが正されてされてゆ
キリスト教について学び、かつ対話してゆ
くことになるだろう。正直に言えば、わた
く所存である。事実そうやって学び、増え
し自身プロテスタンティズムに関しても知
てきた知識なのである。
らないことは山ほどある。それでも、こう
2:わたしが拒否するキリスト教はどんなキリスト教なのか?
上記と関連して、ついでながら二つ三つ
何を・どのように批判しようとしているの
コメントしておきたいことがある。
か、ということである。
それは、それではわたしはキリスト教の
(2-1)リベラルな聖書学の立場を信奉しているわけではない
まず誤解してほしくないのは、わたしが
引用しただけで、「聖書に書かれてあるこ
いくらリベラルな聖書学に親近感をいだい
と、あるいはイエス様の言うことは信じな
ているからといって、必ずしも聖書学者の
いのに、聖書学者や作家の言うことは信じ
言うことを全面的に正しいと判断し信奉し
るのか」と反発する向きも少なからずあっ
ているわけではない、ということである。
たからである。もちろん共感しているから
ましてやリベラルな聖書学者の見解をもっ
それらの著作から引用することが多くなる
て保守的なキリスト教を批判する根拠とし
わけだが、だからといって、わたしがそれ
ているわけではない。また、わたしが個人
らの学者や作家の主張を全面的に信奉して
的に信仰する宗教の教義を規準にしてキリ
いるわけではない。それに、わたしが非信
*1
スト教批判を展開するつもりもない 。
者としてリベラルな聖書学の立場を是とす
るからといって、神(超越的・絶対的存在
なお、ついでながら言うが、今後さまざ
者)を信じていないというわけではない。
まな著作から引用をすることがあると思う
たしかにわたしには個人的に信仰している
が、それらの引用はあくまでわたしの言い
宗教があるし、当然ながらわたしは無神論
たいことを代弁してくれていると思うから
者ではない。十字架の贖罪などキリスト教
そうするので、それも本来は論旨の補強材
の基本教理はもちろん信奉はしていないも
料として利用するにすぎない。なぜこんな
のの、イエスの奇跡などの事績や復活、聖
ことをわざわざ断わるかと言うと、クリス
霊の働きといった信仰者の体験的事実まで
チャンの中には、過去にわたしが聖書学者
すべて否定しているわけではないのであ
の著書やその他の作家の著書からいくらか
る。
*1 これらの問題のうち、前者のリベラルな聖書学に対するわたしの見解等に関してはいずれ
詳しく書きたいと思っている。また後者の個人的な信仰の問題に関しても、一連の論述がひと
とおり終わった後で、できれば後書き的な文章の中で言及したいと考えている。
-6-
(2-2)「聖書信仰」だからといって否定したいわけではない
次に誤解してほしくないことは、前節の
ではない。わたしは何もクリスチャンが聖
冒頭にも簡単に触れたように、本サイトの
書を行動の規範とすること自体を問題視し
タイトルおよび本頁の文章等を見て、わた
ているわけではない。わたしは先に序文に
しが「聖書信仰」をただそれだけで否定し
て「宗教は人間が人間になるためにある」
ているとは思わないでほしい、ということ
という見解を簡単ながら表明しておいた
である。わたしが批判対象にしているのは
が、そのような立場の下、聖書を規準にし
「聖書」そのものではないし、
「聖書信仰」
たその判断なり行動なりが結果的に“人間
そのものを否定したいと思っているわけで
疎外をもたらすようなものであるかどうか
もない。わたしが批判対象としているのは、
” を問うているのである *2。これは聖書に
聖書や聖書信仰そのものというよりは、よ
も《安息日は、人のために定められた。人
り正確に言えば、聖書やその内容に対する
が安息日のためにあるのではない》(マル
*1
信仰の在り方なのである。
「 聖書の偶像化」
コ 2:27)、また、《安息日に律法で許さ
と言った場合も、クリスチャンが聖書とい
れているのは、善を行うことか、悪を行う
う「書物」そのものを偶像崇拝しているな
ことか。命を救うことか、殺すことか》
(マ
どと言いたいわけではない。わたしが問題
ルコ 3:4、以上、新共同訳) とあるとお
にしたいことは、聖書に書かれたその内容
りである。この安息日の箇所を「律法」な
を信じているといった場合の、その信仰の
り「聖書」なりに読み替えてみれば、わた
在り方、また聖書解釈の態度・姿勢なので
しが言いたいことは一目瞭然であろう。イ
ある。
エスもはっきりと言っているとおり、聖書 *3
そんなわけで、わたしは必ずしも聖書に
が絶対的な規準ではないのである。
対する信仰そのものを問題にしているわけ
(2-3)人間性を否定するキリスト教を批判している
さらに、自分で言うのは何だが、わたし
の意味でわたしの立場はヒューマニズム
は(今の時代では単純とも言われるかもし
(humanism) であると言え る。た だし、
れないが)根っからの性善説論者だし、そ
わたしの言うヒューマニズムは「人道主義
*1 上記「聖書に名を借りた支配」中の「人を殺すこともある聖書解釈」の項を参照。
*2 これに関してエーリッヒ・フロムは次のように書いている。《問題は、宗教か無宗教かでは
なく、どのような種類の宗教かということ、すなわち、それが人間の発展を、いわば人間特有
の能力の展開を、促進させるものであるかまたはそれらを窒息させるものであるか、というこ
とにあるのである。》〔『精神分析と宗教』谷口隆之助、早坂泰次郎共訳、東京創元社、現代社会科
学叢書、1953 年、1971 年改訂版、p.36、イタリックは原著者、ゴチックは引用者〕
*3 この場合は律法。この時代、「律法と預言者」と言えば聖書そのものを意味したし、律法だ
けでも聖書を意味した。
-7-
ヒユーマン
( humanitarianism)」 の そ れ で あっ て 、 厳
「人間的」だ。間違ってもこれを「非(反)
密 に 言 え ば 「 人 間 中 心 主 義
人間的」だと思う人はいないだろう。然る
(Anthropocentrism)」としてのそれではな
にプロテスタンティズムの問題は、人間中
*1
い 。
心主義としてのヒューマニズムを否定する
にとどまらず、勢いあまって人間(性)の
そのような立場に対しては、「 キリスト
否定にまで突き進んでしまったことにある
教はヒューマニズムではない」という発言
とわたしは見ている。個人的な解釈ながら、
が昔からよく聞かれる。最近は仏教者その
ここがキリスト教プロテスタンティズムが
はら
他の非キリスト教徒でも、「宗教はヒュー
孕む最大の問題点なので、それは時に―
マニズムではない」という発言をする人も
もっともこれはクリスチャン自身には無意
見られるようになった 。そして、これが
識の事柄ではあろうが―「イエス否定」
わたしのような立場に対する反論にもなる
をすら結実するのである。具体的な事例に
のだろうが、しかし、「宗教はヒューマニ
関しては触れないが(信仰による人間疎外
ズムではない」という見解に対してはわた
や、その極端な形態としての聖書カルトの
しもまさにそのとおりだと思うし、第一に
多発はその現われの一端であると言えよ
「宗教はもともとヒューマニズムですらな
う)、こうなるともはや(本来の意味にお
*2
*3
い 」とも言える 。けれども誤解してはな
ける)キリスト教とは言えない。わたしが
らないのは、宗教(信仰)はもともと人間
批判するキリスト教とは、最終的にはこの
を越えているものなのであって、これはそ
ような人間否定を結実させる限りでのキリ
の限りでのヒューマニズム否定であるとい
スト教なのである。まさに《樹は果により
うことだ。だから、それは必ずしも「人間」
て知らるる》
(マタイ 12:33)であって、
の否定を意味しているわけではない。ここ
要するになぜそのような反 Jesus 的なキリ
を勘違いすると大変なことになる。福音書
スト教が生まれてきたのか。本サイト、特
に描かれたイエスの言動を見れば誰でもわ
にこれから展開する本論においてその問題
かると思うが、イエスの行動はとても
にアプローチ(対象への接近、働きかけ)
き
み
*1 もちろん人道主義にも限界があることはよくわかっているつもりだが、その点については
触れないでおく。当然のこととしてわたしは保守的なキリスト教解釈を受け入れ難く感じるわ
けだが、キリスト教とヒューマニズムの問題についてはいずれ詳しく書きたいと考えている。
*2 未読ながら一例を挙げれば、臨済宗妙心寺派の禅僧で花園大学学長でもある西村惠信氏の
『キリスト者と歩いた禅の道』〔法蔵館、2001 年 5 月〕や『仏教徒であることの条件―近代
ヒューマニズム批判』〔同、2004 年 12 月、前者については簡単ながら出版時に書店にて内容を確
認済み〕がある。
*3 映画『おくりびと』の原作になったとされる青木新門氏の『納棺夫日記』*1 を読めばその
ことはよく実感できると思う。ちなみに、青木氏は映画のシナリオを見て自分の著作を原作と
してクレジットすることを拒否したというが、映画封切りの後の毎日新聞のインタビュー記事
で、映画を高く評価しながらも、映画が最後までヒューマニズムで終始していて宗教が描かれ
ていない、映画は結局癒しの物語になってしまったと述べている〔2009 年 3 月 2 日付毎日新聞
WEB 版「おくりびと:「納棺夫日記」との違いは?なぜ原作ではない?」1 ~ 3、特に 3〕。
-8-
をしてゆきたいと考えている。
3:批判の意義について―対話的コミットメントとしての批判―
最後に、もうひとつコメントしておきた
何を訴えているのか、また、批判とはどう
いことがある。それは、批判批判とバカの
あるべきだと考えているか、ということで
ひとつ覚えのように書いているが、
「批判」
ある 。
*1
という言葉でわたしが何を言いたいのか、
はじめに―批判という言葉をめぐって―
批判を毛嫌いする人は多いが、批判に対
その行為は同時にわたしの生き方を問い返
する時に過剰とも言ってよい日本人の反応
すアプローチともなるはずである。わたし
を見るにつけ、わたしは最近「批判的」と
はそのように考えている。詳細は次頁に譲
いう表現ではかえって誤解を受けやすいよ
るが、ここで簡単ながらその内容を要約的
うだと感じるようになった。そして、それ
に示すことにする〔補説 1-2〕。
では「批判的」という言葉でわたしは一体
何を言いたかったのだろうかといささか自
補説 1-2:批判の意義に関する
問してみた。そこで、わたしが批判という
エッセイ
言葉で何をイメージしているか明らかにす
この問題については、残念ながら
る意味でも、「批判」という言葉から多く
それについて今ここで詳細に論じて
の人が受けるであろう誤解をできる限り解
いる余裕がない。そこで、その代わ
いておく必要があると思う。批判という言
りと言っては何だが、ここでは以前
葉から受ける印象が世間一般の人とわたし
某所に公開した文章を参考までに以
とで違うとするならば、わたしは「批判」
下に再掲する。
という言葉で何を言いたいのか。まずはそ
のことについて、ごく簡単にでもコメント
批判はお嫌い?
しておきたいと思う。
とかく批判すなわち《攻撃》
と取られやすいものですが、批
結論を先に言えば、本サイトで言うとこ
判的なやりとりといえど本来は
ろの「批判」とは、創造的行為の一環とし
《対話》であるはずです。ここ
ての批判的かつ対話的なアプローチあるい
ではキリスト教を例に批判的行
はコミットメントである。それが真に対話
為の意義を強調しておきたいと
(批判的コミットメント)であるならば、
思います。
*1 本節は本論から逸脱した部分もある上に、さすがに長くなったので頁を分割、以下にその
内容を要約した。詳しくは次頁「有意義義な批判的対話のために」を参照。
-9-
導きたい」との強い《愛念》か
聖書には、《「隣り人を愛し、
ら発しているのです。パリサイ
敵を憎め」と言われていたこと
人に対するイエスの批判はそれ
は、あなたがたの聞いていると
こそ激越を極めますが、これだ
ころである。しかし、わたしは
って一人ひとりの具体的なパリ
あなたがたに言う。敵を愛し、
サイ人たちをイエスがどれほど
迫害する者のために祈れ。こう
愛していたかの証拠だとは考え
して、天にいますあなたがたの
られないでしょうか?
父の子となるためである。天の
るものを犬にやるな。また真珠
父は、悪い者の上にも良い者の
を豚に投げてやるな。恐らく彼
上にも、太陽をのぼらせ、正し
らはそれらを足で踏みつけ、向
い者にも正しくない者にも、雨
きなおってあなたがたにかみつ
を降らして下さるからである。》
いてくるであろう。》と言いな
という言葉があります。自分た
がら、―これはイエスの憤り
ちにとって異質な価値観を持つ
の言葉でもあると思うのです
人々を敵視する「他者否定」の
が、―そして殺されるのが分
在り方(選民思想)を排し、そ
かっていながら、彼ら敵対者に
の代わりに真に人道的な在り方
対してイエスは愚直に「真理」
を自らの生命をかけて開示した
を投げ与え続けたのです。批判
のがイエスその人であったので
するという行為には、実はこの
す。
ように《愛》があるのです。
《聖な
このような形で律法(主義)
もっともそうは言っても、一
を繰返し批判するイエスは、し
般に宗教を信仰している人に批
かしその一方で、《わたしが律
判を嫌う傾向が強いことも事実
法や預言者を廃するためにき
でしょう。しかし、本来は宗教
た、と思ってはならない。廃す
の道に深まれば却って善悪の判
るためではなく、成就するため
断がつくようになり、批判力が
にきたのである。》とも言って
鋭くなってゆくもので、無批判
います。矛盾とも見えるこのイ
に何でも受容することが正しい
エスの言葉の真意は、批判とい
宗教信仰の態度ではないはずで
う行為を通して聖書を真の意味
す。それは仏教とて同様で、た
で《聖》書たらしめるためのも
とえば修行者を誰でも「法友」
ので、その意味でイエスの言動
として対等に遇した釈迦の教団
は妥協ではなく真の調和を求め
は、まさに当時のカースト制度
ての行為であったことが了解さ
に対するアンチテーゼであった
れます。
とも解釈できるわけです。
そんな訳でイエスの批判は、
批判するという行為は、この
相手を批判することで、すなわ
ように、真理を真理たらしめる
ち相手の誤ちを正すことで、あ
ために、そして、真理を本当の
くまで「相手を正しい生き方に
意味でこの世に活かすために本
- 10 -
来必要な行為であるのです。要
ところでもあるのです。
するに批判的行為とは、人を真
皆様のご批判をお待ちしてお
に自由にし、そのいのちを真に
ります。
生かすかすためのもので、これ
※聖書の引用は日本聖書協会・
こそは 仏教が究極的に求める
口語訳聖書によりました。
(3-1)対話的コミットメントとしての批判
(1)コミットメントとしての批判
とりを通して自己を知る作業が必要とな
いろいろと考えてみた結果、どうやらわ
る。
たしは「批判的」の語をコミットメント(対
象に対する傾倒、ないし相手に対して本気
で関わる姿勢)の意味合いで使っているら
(3)チャレンジおよびアプローチとして
しいことがわかった。したがってわたしは、
の批判
「批判的」とは「関わりのなさ(デタッチ
最近わたしは「チャレンジ」という言葉
メント)」とは正反対の態度だと捉えてい
に注目するようになった。チャレンジ(相
る。
手にぶつかってゆくこと、挑戦)という言
葉には非難はもちろん攻撃というニュアン
スはあまり多くないように思う。わたした
(2)対話としての批判
ちも他者から批判された時に「チャレンジ
対話は本来自分が変わることも引き受け
された」と捉えるようにすれば、さほど感
て行なわれるものであり、それは自他の生
情的にならずに相手の批判に対することが
き方が問われる実存的な行為でもある。そ
できるのではないだろうか。
の意味で真に批判的な営みは対話的アプロ
それに加え、わたしはアプローチという
ーチでもあるはずなのだ。それに、自分の
表現を何度か使ったが、アプローチとは対
ことは自分ではわからないもので、わたし
象への接近法ないし働きかけ、「対象に迫
も含め大概の人は自分の考えや主張が全面
る」ことを意味する言葉である。したがっ
的に正しいと無意識ながら考えて生きてい
てここで言う批判とは、批判的なアプロー
る。その思い込みを補正するためにも他者
チ、すなわち批判的な形を介した対象への
からの批判的アプローチは大切なので、そ
接近ないし働きかけの試み以外のなにもの
のためにも他者と真剣に関わり、そのやり
でもない。
(3-2)有意義義な批判的対話のために
次にわたしは、自己目的化した批判はす
えている。
べきではないし、批判をするならば自分が
批判されることを忌避すべきではないと考
- 11 -
(1)動機なき批判は無意味である
自分ではあれこれ批判をしていながら、
批判が不毛なものとならないためにも、
いざ相手から何か言われると腹を立てる人
批判を行なう側の「動機」―すなわち、
間が多いが、このような人間は、自分の発
“どんな目的でその対象を批判しているの
言に責任を負えない、あるいは自分の発言
か”といった反省は極めて大切な視点とな
に対する覚悟がない人なのかもしれない。
る。いくら動機があるからといっても、そ
日頃から批判の意義を主張し、批判的発言
れが自己目的化した批判ではあまり意味を
を行なっているのならば、相手からの反論
為さない。自己変容の可能性に開かれてい
は覚悟しなければならないし、それ以上に、
ないやりとり、あるいは自己批判の契機を
そのような応答はこれを喜んで受け入れな
欠いた他者への一方的な批判は、結局は批
ければならない。これは批判ばかりでなく
判対象である相手と自分たちという「敵味
対話を行なおうとする者の責任であり覚悟
方」図式をもたらすだけだし、それは容易
である。
に自己の立場の絶対化を招来する。わたし
たちは往々にして自分たちを一方的に正し
いと思い込みがちだが、そのことに対する
(4)変わることを怖れるな
反省は忘れてはならない。そのためにも、
批判もまた対話的アプローチでありコミ
わたしたちは自分の行なう批判がただの一
ットメントであって、対話は自分が変わる
方的な攻撃になっていないか常日頃から自
ことも引き受けて行なわれる、要するに自
らを省みることが必要となる。
他の生き方を問う実存的な行為である。し
たがって、自分の意見が変わることを怖れ
る人、あるいは拒否する人に対話は不可能
(2)対話の姿勢が問われている―他者か
である。また、対話的意図ないし何らかの
らの批判・反論を毛嫌いするな―
コミット(自己投入)もなしにその対象な
「批判をするな」という主張―それこ
いし相手を一方的に非難しているような人
そ立派な批判である―をよく見かける
がいるとしたら、それは批判というよりは
が、この手の主張をする人間に限って、い
「攻撃」と捉えた方がよい。批判を含む意
ざ相手を批判する段になると、批判と言う
義のある宗教対話を行なうためにも、もっ
よりは単なる人格攻撃をしがちである。ま
と他の思想や宗教に対する敬意ないし真摯
た、批判を嫌う人には、非論理的なタイプ
な態度がお互いに必要となる。至らない点
ばかりでなく、実は意外と論の立つ人(い
があればこれを改める勇気も必要だ。自己
わゆる自分への批判は許さないタイプ)も
の信念が少しでも変わることを怖れていて
見られるように思うが、その手の人間は、
は対話はそもそも不可能である。
実は批判と言うよりは対話を嫌っているの
だろう。わたしたちは“対話の姿勢がある
かどうか”を問われているのである。
そんなわけで、わたしが言う批判的アプ
ローチは、上記で述べたような不毛な「攻
撃」ではなく、あくまで創造的かつ建設的
(3)反論されるのが嫌ならそもそも批判
するな
な行為としてこれを行なってゆきたいと考
えている。
- 12 -
最後に
以上いろいろと書いてきたが、要するに
生き方を問い返すアプローチともなるはず
本サイトで言うところの「批判」とは、創
である。そのように考えて、わたしはこの
造的行為の一環としての批判的かつ対話的
サイトを運営してゆきたいと考えている。
なアプローチあるいはコミットメントであ
る。当然ながらそれは単なる攻撃
(aggression: これには「侵略」の意味も
以上長々と書いてしまったが、大略こん
ある)ではなく、ノン・クリスチャンから
なことを考えて、今後キリスト教に対して
の主体的なチャレンジでもある。そして、
批判的なアプローチを行なってゆく予定で
それが真に対話(批判的コミットメント)
いる。
であるならば、その行為は同時にわたしの
- 13 -
- 14 -
補足説明2:有意義義な批判的対話のために
―対話的コミットメントとしての批判(2)―
人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさ
ばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与
えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある
梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、
あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自
分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになっ
て、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
(マタイ 7:1-5)
内容がいささか長くなりすぎたので、思いきって分割した。
わたしがキリスト教に対してどんな姿勢で批判的なアプローチを行なう所存か先に詳し
く説明した。本頁ではそれとは別に、そもそも批判的アプローチとはどのようなものか、
どうあるべきものか。拙いながら、以下にわたしなりの考えを書いておく*1。
1:対話的コミットメントとしての批判
日本人はとかく批判を嫌い、古来「言挙
い人なのだろう。ところが、
「批判するな」
げせざる」ことをよしとしてきた。そして、
と主張する人に限って、何かの事情で自分
そのような風習も手伝って、多くの人によ
がいざ相手を批判する段になると、批判と
って「批判はいけない」こととされている。
言うよりは単なる人格攻撃になりがちなの
この「批判するな」という主張―そのこ
もよく見られるところである。その人たち
と自体が立派な批判なのだが―は、いわ
にとっては、批判は単なる誹謗中傷といっ
ゆるスピリチュアルリストに多く見られる
しょなのだろう。(日本人は和を強調し、対
ものだが、カウンセラーなど臨床心理の専
立を嫌う。批判を嫌い、異質なものを排除
門家にもよく見かける主張である。クリス
し、出る杭を打つといった多くの欠点を持
チャンにもそのような主張をする人は多く
っていることはそのとおりではあるが、し
いるようだ。このような主張はとても良心
かしその一方で、それら日本人の性癖がま
的に聞こえるし、その発言の主も日頃はよ
たその美質を形成してきたことも事実であ
*1 一部に重複もあるが、ご容赦いただきたい。また、今後必要に応じて加筆を行なう場合も
ある。
- 15 -
る。われわれはそのことも忘れてはならな
ら受ける印象がもしも世間一般の人とわた
い。)
しとで違っているとすれば、わたしは「批
批判を嫌うこういった多くの人々の姿を
判」という言葉で何を言いたいのか、いさ
見る中で、最近わたしは「批判的」という
さか反省してみた。以下、その考察の結果
表現では誤解を受けやすいようだと感じる
をなるべく詳しく展開してみたい。
ようになった。そして、批判という言葉か
(1-1)コミットメントとしての批判
わたしが批判ということについて特に意
った。また、その意味で言う「批判的」と
識して考えるようになったのは今から15年
はどうやら「主体的」と言いかえても間違
ほど前のことである。青野太潮著『どう読
いではないらしいと思うようになった。最
むか、聖書』
*1
という本を読んで批判的営
近確認したところ、青野は同書の中で《「批
為に関していろいろと学ばされたのもその
判」とは、その言葉の本来の意味を問うて
頃のことだった。そのことに関して、たし
いくと、物ごとに対して否定的な見方をす
か大貫隆氏が『隙間だらけの聖書―愛と
るなどということを意味するのでは全くな
*2
く、むしろ主体的に自らの判断をし、そこ
という本の中で本書を書評していて、そこ
で問題になっていることがらをしっかりと
で、青野の言う「批判的」とは「主体的」
識別していくことを意味しているのであ
という意味だと書いていたことが大変印象
る》
に残っている。実はその時はこの表現があ
的」とは、「関わりのなさ(デタッチメン
まりピンと来なかったのだが、後でよくよ
ト)」 *4 とは正反対の態度であるというこ
く考えてみると、実はわたしは「批判的」
とになる。したがって、真に批判的な営み
の語をコミットメント(commitment)の意
は「対話的」アプローチでもあるというこ
味合いで使っているらしいことに思いいた
とになるはずである。
想像力のことば(大貫隆奨励・講演集)』
*3
と書いている。だとすると、「批判
(1-2)対話としての批判
対話(議論や批判を含む、したがって「会
れは自他の生き方が問われる行為でもあ
話」とは違う)とは、本来自分が変わるこ
る。それに加えて、対話(dialog)はもと
とも引き受けて行なわれるものであり、そ
もと弁証法(dialektike)の語源となった
*1 朝日選書、1994 年 1 月
*2 教文館、1993 年 6 月
*3 青野『どう読むか、聖書』、p.143 ~ 144、ゴチックは引用者。
*4 この表現に関しては、以前読んだ『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』〔岩波書店、1996
年〕の村上の表現に多少触発された面もある。ちなみに detachment は、超然・無関心・分離・
孤立など、要するに「(相手・対象と)関わらないこと」を意味し、これは愛情や愛着を意味
する attachment の反対語でもある。
- 16 -
ソクラテスの問答法に由来するもので、そ
補正するためにも、他者との対話や相手か
れだから、(欧米においては)対話とはも
らの批判的アプローチないしチャレンジが
ともと批判的な要素を内在させている言葉
必要となる 。そんなわけで、相手からの
*1
*2
でもある 。かいつまんで言えば、対話と
異論をただそれだけで排除してしまうのは
は自他の生き方を問いなおす批判的な営為
大変もったいない行為であると言える。し
なのである。
たがって批判を含む対話とは、相手に対す
る敬意と、話題となる対象ないし真理に対
わたしも含め大概の人は、自分の考えや
主張が全面的に正しいと無意識ながら考え
する謙虚さを必要条件とする知的かつ実存
的なやりとりなのである。
ているものである。そのような思い込みを
(1-3)チャレンジおよびアプローチとしての批判
時に過剰とも言ってよい批判に対する日
本人の反応を見るにつけ、最近わたしはチ
撃といったニュアンスがもともと少ないか
らかもしれない。
ャレンジ(challenge)という言葉に注目
したらどうかと考えるようになった。これ
それに加え、わたしはアプローチという
は「(相手から)チャレンジを受ける」と
表現も何度か使ったが、アプローチとは対
いうように使うのだが、翻訳でよく見かけ
象への接近(法)ないし働きかけを意味す
る表現である。そこで、わたしたちも他者
る語である。要するにそれは「対象に迫る」
から批判された時に「チャレンジされた」
ことを意味する言葉なのである。だからこ
と捉えるようにすれば、ことさらに感情的
こで言う批判とは、批判的なアプローチ、
にならずに相手の批判に対することができ
すなわち批判的な形を介した対象への接近
るのではないだろうか。少なくともわたし
ないし働きかけの試み以外のなにものでも
はこの表現にしっくりくるものを感じる
ないということになる。だとすれば、それ
が、それはチャレンジ(相手にぶつかって
はやはり攻撃ではなく、対話の試みなので
ゆくこと、挑戦)という言葉には非難や攻
ある。
2:批判の動機―自己目的化した批判とならないために―
矛盾した発言に聞こえるかもしれない
が、わたしが批判の意義を強調したからと
いって、批判さえしていればよいと言って
いるわけではない。
*1 中埜肇『弁証法―自由な思考のために』中公新書、1973 年 4 月. 弁証法の語源に関しては
p.14 ~ 17 参照。弁証法の起源は厳密にはソクラテス以前にまで遡るが、哲学用語としての弁
証法という言葉が定着するのはプラトン以後のことである。
*2 早坂泰次郎『人間関係学序説―現象学的社会心理学手の展開』川島書店、1991 年 4 月、p.31 ~ 32.
参照。
- 17 -
は無意識であることが多いようだが)、あ
たしかに今までわたしは批判肯定派を自
るいはその批判が単に自己目的化している
任して来たし、批判に一律に否定的な態度
様子をたびたび目の当たりにするに及ん
を取る人たち(不思議なことに批判的な言
で、批判に対する考えを多少改めるように
動に対して逆に批判してくる人が目立つ)
なった次第である。
に対して、それこそ否定的な感想をいだい
いずれにせよ、自己目的化した批判ほど
てきた。それは今でも基本的に変わらない
無意味なものはない。それは非生産的な行
のだが、ネット上での昨今のさまざまなや
為だし、そんな態度による議論からは何か
りとりなどを見て、最近その考えを多少改
建設的な結果をもたらすことはないとわた
めたことも事実である。というのも、批判
しは固く信じている。それは対話の精神か
肯定派を含む多くの人たちが、実際は批判
らはるかに逸脱した行為だと言ってよい。
を中傷ないし冷笑と混同していたり(大概
(2-1)批判の動機―動機があれば何でもよいというわけではない―
わたしは先に、批判も対話的アプローチ
なく、日本人は批判を嫌うと言うよりは対
でありコミットメントだと捉えていると書
話そのものを嫌っている、ないしは苦手と
いた。対話は自分が変わることも引き受け
しているのではないか。しかもそれに加え、
て行なわれる、要するに自他の生き方を問
批判をする当事者が批判対象に対して敵対
う実存的な行為であるとも書いた。それだ
意識を持っている、あるいは持ってしまう
から、自分の意見が変わることを怖れる人、
ことが意外と多いのではないだろうか。最
あるいは拒否する人に対話はそもそも不可
近わたしはそのように思うようになった。
能なのである。さらに、対話的意図ないし
しかしながら、自己変容の可能性に開かれ
何らかのコミットメント(対象に対する傾
ていない対話、あるいは自己批判の契機を
倒、ないし相手に対して本気で関わる姿勢)
欠いた他者への一方的な、しかも敵対的意
もなしにその対象を一方的に非難している
識を持っての批判は、結局は批判対象であ
ような人がもしもいるとしたら、それは批
る相手と自分たちという「敵味方」図式を
判というよりは「攻撃」と捉えた方がよい。
もたらすだけである。それは容易に自己の
大体その手の攻撃的な批判をする人は相手
立場の絶対化を招来する結果となりかねな
に対する敬意など持ち合わせていないこと
い。身内以外の人間に何か言われたら反射
が大半だし、自分が間違う可能性、あるい
的に敵意をいだく、などというのもこのパ
は自己変容の可能性も拒否している人が多
ターンである。たとえ意識的ではないにし
い。しかも最近気がついたのだが、これは
ても、相手に対して何らかの敵対感情を持
非論理的な人に見られるばかりでなく、意
っていては、建設的な批判はおろか、対話
外なことに、論理的な人、あるいは論客と
などそもそも不可能である。相手(対象)
呼ばれるような人にも見かけられる態度で
に対する誠実さや他者に対する敬意がない
もある。
ところにそもそも対話的関係は成り立ちよ
うがないのである。
もちろん対話は真剣な態度で行なわれな
論理的であるか非論理的であるかに関係
ければならないし、その意味で批判もまた
- 18 -
真剣勝負であることは間違いない事実であ
ちろんその人の批判の意図が自分の考えな
る。コミット(自己投入)を欠いた批判は
いし立場をよりハッキリさせることのみで
無意味である。しかし、だからといって相
あっても とりあえずは構わないと思うが、
手を無闇に攻撃してよいというわけではな
しかし、その人がいつまでもそこにとどま
い。ところが、中にはそこを履き違えて、
っていた場合はどうか。それでは、その批
批判対象をただ徹底攻撃しているだけの人
判行為が自己目的化してしまう危険性を否
も多くいるようだ。「罪を憎んで人を憎ま
定できない。このような「自己肯定のため
ず」と言うが、そもそも批判とは、その人
だけの他者否定」というアプローチないし
の思想なり行動に対してまずは疑問を呈す
態度では、そもそも批判が一方通行でしか
る行為であって、その意味で行なう相手に
ない。このような一方的な論難と言うに等
対するチャレンジである。そのため、時に
しいアプローチで他者との間に批判的なが
はその人の姿勢、ひいては生き方そのもの
ら建設的な対話が生まれるかと言うと、こ
が吟味の対象になることもあるだろうが、
れは土台無理な相談だと言わざるをえな
その時も相手の人格攻撃をしてしまったの
い。大体そんな態度を取っておきながら相
では意味がない。もしかして自分の行なう
手が心を開いてくれることを期待する方が
批判が単なる個人攻撃になっていないかど
おかしいので、そんなやりとりに何らかの
うか、常日頃から自らを省みることも必要
生産性を期待すること自体が無理というも
である。対話の精神を欠いた一方的な批判
のである。それに、そのようなタイプの批
は無意味だということをわれわれは忘れて
判ないし否定しかしない人は、他者を自己
はならない。
の存在証明の道具としてしか考えていない
可能性もある。それでは建設的な対話はも
次に、本来生産的であるべき批判的アプ
とより不可能だし、当然ながら対話を通し
ローチ(対象へ迫ること、働きかけ)が不
た真の意味の自己変容も起こらないだろ
毛なものとならないためにも、批判を行な
う。そのような陥穽から抜け出すためにも、
う側の「動機」 ― すなわち、“ どんな目
わたしたちは常に他者に敬意を払い、批判
的でその対象を批判しているのか”といっ
の建設的かつ生産的な意義を追求し、対話
た「反省」は極めて大切な視点となる。も
的な批判を心懸けるべきなのである。
(2-2)「敵味方」図式のもたらすもの
―動機さえあれば何でもよいというわけではない―
上記とも多少関連するが、中には自己証
ているのなら、スポーツなり趣味にいそし
明のための批判のひとつの形として、自分
むなりして、よそで発散した方がよほど生
の攻撃欲求や鬱憤を晴らすために、
産的だ。当人は、多くは無闇やたらなその
ス ケ ー プ ゴ ー ト
批判の対象を探してあれこれ批判をしてい
批判行為が何か知的で高尚なことであるか
るだけの人もいるかもしれない。けれども、
のように考えているのかもれないが、実際
そんな人に他者を批判する資格はないの
は心理学で言うところの合理化を行なって
で、何らかのフラストレーションがたまっ
いるにすぎない。そんなわけで、この手の
- 19 -
人がたとえ自分たちと同じ対象を批判し、
できないと思うのだ。それは「徒党」であ
あるいは自分たちと同じような発言をして
って、同志や盟友と呼べる存在ではない。
いたとしても、それだけをもって自分たち
たとえばリベラルな立場の人たちは、自分
の「仲間」としてこれを遇してよいかとな
たち好みの発言をする人なら、たとえそれ
ると、それははなはだ疑問だと言わざるを
が凶悪犯であろうと、あるいは暴力団の組
えない。大体において、その人の批判の目
長であろうと、無批判に受け入れてしまう
的が、ただ当人の攻撃欲求を満足させたく
ようなところがあるが、これなどそのよい
てスケープゴート的に相手を批判している
例だろう。
だけなのか、あるいはその批判に何らかの
建設的な意義があるのか。これをいっしょ
そんなわけで、その当人の動機を無視し
にすることはできない。然るに世間では、
た安易な仲間扱いは、ひいては単なる「敵
同じ対象を批判している、あるいは同じこ
味方」図式をもたらし、自分たちに異論を
とを主張していているからといって、相手
差しはさむ人間に敵意をいだく、そんな危
の人間性などお構いなしに、その人たちを
険性を否定できないと思うのだ。それは、
そのまま安易に仲間扱いすることがよく行
身内(仲間)の言うことはあくまで正しく
なわれている。そのような対応も時には必
(間違っていても無意識に擁護し)、反対
要なことがあるだろうから、わたたしもそ
者ないし部外者の言うことはすべて間違っ
れら(デモなどに見るような集団での意思
ている―それどころか相手が正しいこと
表示といった行為)を一概に否定するつも
を言っても評価しない、などといった態度
りはない。けれども、他者に対する敵意や
を招きかねない。他者を敵と味方とで分け
攻撃を主目的としたような人物を積極的に
て見る視点はこのような問題点(罠)を孕
仲間として迎え入れた場合、批判対象とな
んでいるのである。これはわたしも含め多
る相手はもちろん、それ以外の人たちから
くの人が経験していることであろう。それ
も毛嫌いされて、かえって自分たちの所期
は人間の弱さでもあると思う。
の目的を達成する障害となる危険性も否定
(2-3)他者否定を通しての自己証明とその問題点
ところで話はいささか脱線するが、実は
し、実際、説得力というものがまるで感じ
唯物弁証法に関する一般向けの本にたまた
られない。このようなアプローチないし態
ま目を通していて、「他者の否定を通して
度では批判が一方通行でしかないし、そん
しか自己を証明できない」という上記の問
なやりとりに生産性を期待することはでき
題に気づかされた。その本は戦後間もない
ない。「自己肯定のためだけの他者否定」
時期に出た一般向けの新書本なので仕方が
が不毛であると思うゆえんである。自己が
ない面もあるのだろうが、マルクス主義以
信奉するマルクスやレーニンの理論は絶対
外の考え方を批判するのはよいとして、そ
だという一種の「信仰」が彼らにはあるの
ればかりが書き連ねてあるという感じなの
で(マルクス主義ばかりでなく、何らかの
である。これは他の人が書いた弁証法入門
イデオロギーの信奉者はみな同様である)、
書でもかつて感じたことなのだが、非常に
自分たちとは違う立場の思想を受け入れる
観念的と言うか、教条的で独断的に感じる
(ないしは、それらの思想を公正かつ客観
- 20 -
的に検討する)余裕がないのだろう。それ
スト教ないしイエス・キリストを受け入れ
に加えて、もともと彼らは自他の変容を伴
ていないからだ」という反論はここではあ
う真の意味の対話的批判を行なう気持ちも
まり意味がない。他宗教などに対するこの
持ち合わせていないのかもしれない。
手の批判的な言及は、すでにキリスト教の
これは何も共産主義陣営や何らかのイデ
信仰を得ている人にはある程度有効かもし
オロギーの信奉者の間にばかりある問題で
れない。しかし、その著者がその手のアプ
はない。たとえばキリスト教の入門的な書
ローチを採用した意図が、未信者にもキリ
籍でも、キリスト教以外の思想や他宗教を
スト教の有効性を証明したいと考えてのこ
批判しながらキリスト教の優位性を証明し
とだったとしたら、残念ながらその試みは
ようとするタイプのものがいくつもある。
成功していない―いや、かえって逆効果
そのようなアプローチがすべて無駄だとま
になっていると思う。そのような一方的な
では言わないまでも、わたし自身はそれら
論難と言うに等しいアプローチで他者(読
の本を読んで説得力を感じられない。いや、
者を含む)との間に批判的ながらも生産的
それ以上に独りよがりな印象しか受けない
な対話(=関係)が生まれるかと言うと、
のである。しかし、「それはあなたがキリ
これは無理な相談だと思うのだ。
(2-4)間違った思想には最初から否定的な態度で臨むべきか?
もちろん世の中には、人間として容認す
ることのできない、非人間的としか言いよ
対抗する有効な機会を失してしまう危険も
あると思う。
うがない思想がいくらでもある。排外主義
やヘイトスピーチ、人種差別発言などはま
相手との真摯な態度による対話もなく、
さにその好例だろうが、それらは対話と言
身内だけで理解し合っているだけでは物事
うよりも対決する以外ない思想である。た
は動かない。これが多くリベラルな人たち
だ、その思想がまだ海のものとも山のもの
が市民運動その他で敗北してきた要因のひ
ともつかぬ場合、これを頭から拒否するこ
とつだと思う。彼らの主張には個人的に共
とはあまり建設的な態度とは言えないだろ
感するところが多いのだが、意外と一般人
う。たとえその思想が個人的にどうしても
に受け入れられないばかりか、最近では毛
受け入れ難いものだったとしても、その思
嫌いされることも多いのは、どうもその辺
想についてよく知るくらいのことはできる
に原因があるように思えてならない。彼ら
はずだからである。然るに、わたしを含め
は仲間内でしか通じない「身内言語」には
多くの人がそれをサボっているように思う
長けていても、一般大衆の心にまで訴えか
のだ。そして、その思想が単に気に入らな
える「共通言語」を持っていないようだ。
いから、あるいは間違った思想だから(「ア
より正確に言えば、その「身内言語」自体
カだから」「右翼だから」、あるいは「新
が彼らの所属する世界では共通言語でもあ
興宗教だから」等々)と決めつけて、これ
るため(かつてはその「身内言語」が世間
を一方的に切り捨て、反論があってもまと
一般でもある程度通じた時期があるため、
もに相手をしないことが多いのではないだ
なおさら厄介なのである)、もっと広い世
ろうか。これでは、それがたとえどんなに
間ではそれがひとつの身内言語に過ぎない
間違った思想であっても、かえってこれに
ことに彼らは気がつかない。いや、そのこ
- 21 -
とに想像すら及ばないのかもしれない。真
める可能性がないとも言えない。残念なが
実の他者、すなわち自分が話しかけるべき
ら相手は全然変わらなかったとしても―
相手が見えていないという点で、彼らの主
たぶんその方が圧倒的に多いだろうが―
張は所詮は独りよがりでしかない。上で述
それでも対話の意義がないとは言いきれな
べてきたほんとうの意味での対話がないの
い。それというのも、その議論を見ていた
だから、それも当然の結果だと言えよう。
人が自分の考えを修正し、あるいはその問
それに対して、相手ないしその思想を無
題について自分の考えを深めるよすがには
闇に攻撃するのではなく、相手に対する敬
なるかもしれないからだ。たとえ無駄と思
意を失わずに真摯な態度でやりとりをすれ
っても、チャレンジする価値は否定できな
ば、少しはよい結果を生むのではないだろ
い。人間関係において、そして対話におい
うか。もちろん完全にはわかりあえないま
て決めつけは御法度である。
でも、その相手が自分の考えを多少でも改
3:批判する者の姿勢と態度―その覚悟と責任―
(3-1)他者からの批判・反論の必要性
さて、前掲の著書の中で青野は、批判を
わたしは先に対話とは自他変容の可能性
非難と混同し、人間関係を台無しにする行
を秘めて行なわれる行為だと書いた。人は
為として批判的行為を頭から否定する心理
一人では生きてゆけないと言われるが、厳
臨床の専門家を批判して、《仮にこの批判
密に言えば、一人で生きている人間などこ
が非難であったとしても、そのなかに傾聴
の世に存在しない。要するにわれわれは相
すべき点はないかどうか吟味すべきなので
互的存在であって、その意味で人間は他者
あり、また、それが理不尽な主張であった
を通しての存在なのである 。われわれは
のならば、それに冷静に反論してゆけばよ
他者を通して、すなわち他者との真剣な関
いのであって、関係を絶ってしまってはな
わり(コミットメント)の中で自己を知っ
らない》
*1
*2
と書いているが、これはわたし
てゆく存在である。そこに対話の意義があ
たちも心しなければならないことである。
る。大体、自分のことは自分ではわからな
したがって、相手からの批判なり反論なり
いもので、それだからこそ他者と真剣に関
がたとえどんなに的外れなものであったと
わり、そのやりとりを通して自己を知る作
しても、その反論をもたらしたものが自分
業が必要となる。より深く自己を知り、自
の発言に由来するものであるならば、その
分の立場や考えをより明確にするために
批判には真摯に向き合うべきだとわたしは
も、批判を含む他者からのアプローチやチ
考える。
ャレンジがわれわれにはぜひとも必要なの
である。したがって、何かチャレンジを受
*1 青野前掲書『どう読むか、聖書』、p.143
*2 レミ・C・クワント『人間と社会の現象学―方法論からの社会心理学―』早坂泰次郎監
訳、勁草書房、1984 年 6 月、特に第二章を参照。
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けたら、それを直ぐに拒否するのではなく、
るとしたら(それは対話拒否の姿勢でもあ
その批判の意味を考え、時間をかけて応答
る)、先にも述べたように、その人はせっ
すべきである。それに対して、もしも他者
かくの自己変容のチャンスをみすみす逃し
からの反論や批判を拒否する姿勢で終始す
ていることになる。
(3-2)対話のストレスから逃げずに
―逆批判・反批判に対して拒否反応せずに―
それに加えて最近わたしが気になるの
よっては自分すらも―そのことに気がつ
は、自分はあれこれ批判をしていながら、
くことは難しいように思うが(その難しさ
いざ相手から反論されたり何か言われたり
は、われわれには「知的な人の方が人間的
すると、その途端に腹を立てるような人物
にも成熟しているはずだ」というあまり根
がよく見られることである。あるいはかな
拠のない思い込みがあることも原因してい
りひどいことを相手に言っていながら、相
るのではないかと思う)、このタイプは分
手から少しでも反撃されたりすると、「心
かりにくいだけにかえって厄介かもしれな
外だ」などと言って立腹するような手合い
い。そのような人は相手を論破することは
も見かけるが、これも同様である。いつも
得意だが、まさか自分が実際は(他者によ
思うのだが、このような人物は、自分の発
る)批判を嫌っているのだとは思いもよら
言に責任を負えない、あるいは自分の発言
ないのだろう。彼らが好んで行なっている
*1
批判は、あくまで批判とは名ばかりの応酬
に対する覚悟がない人なのだろう 。
わたしの経験上、この手の人はやりとり
にも近いやりとりであって、それに対して
をしている最中にいきなり切れてしまうこ
彼らが嫌っているのは、厳密に言えば対話
とが多いのだが、これはあまり論理的でな
なのであろう。頭がよいこともあってか、
い人に多く見られる反応である。ただ意外
彼らは時間のかかる対話的なやりとりを嫌
に思うかもしれないが、論客として自他共
っているのかもしれない〔補説2-1〕。
に認められている人にも、このようなタイ
プの攻撃的な行動を取る人が少なからずい
ることに最近気がつかされた。批判を嫌う
のは何も非論理的なタイプばかりでなく、
実は意外と論の立つタイプの人の中にもそ
の手の人がいるらしいのだ。それもかなり
*2
多いのではないかと思う 。前者と違って
後者のタイプは、周囲の人間も―場合に
*1 後述「批判する者が持つべき責任と覚悟」参照。
*2 そのことに関して、最近権威主義に関する本を読んでいてはたと思い当たったことがある。
それは彼らが権威主義的な性格の持ち主である可能性が極めて高いということだ。なお、権威
主義の問題は宗教信仰の問題を考える上でも極めて重要な論点なので、いずれ別項にて改めて
論ずる必要があろう。
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補説2-1:対話のストレスに耐えら
理的ストレスに極めて弱い自我をそ
れない日本人
の長い歴史の中で育んできたことが
演出家の平田オリザ氏によると、
原因ではないかと思う。だから、平
日本のような均質社会(=和社会)
田氏が経験しているような細かい議
ではない欧米社会では、どんな細か
論が必要なシーンになると、日本人
いことでも、共通認識を得るための
は今度は効率を求めていきなり本論
議論が納得のゆくまで延々と行なわ
に入りたがるのだと考えられる。上
れる。ところが、多くの日本人はそ
記で触れたこととも関連するが、論
のようなやりとりに耐えられず、大
客と言われるような頭のよい人たち
体30分で切れてしまうという。そし
もそこは同様だと思うのだ。ディベ
て、このようにいきなり本論に入り
ートならともかく、悠長な議論なり
たがる日本人を平田は効率ばかり求
対話を彼らが嫌うのも、一見効率的
*1
めると言うのだが 、これは彼が演
に見えて、実は対話のストレスに耐
出家なるがゆえの発言だろう。平田
えられないという心理的な弱さがそ
氏が関わる演劇や国際的なワークシ
こに控えているがゆえのことなのか
ョップといったものは、一般のビジ
もしれない。
ネスと違って何をするにも初めての
ことばかりで、すべてをゼロから創
り上げてゆかざるをえないものが大
次に上記と関連するが、先にわたしは知
半だろうからである。その反面、あ
らないことを批判することの無意義である
る程度の共通認識がすでにできあが
ことを指摘した。しかし、上記のような相
っている通常のビジネスにおける打
手を論破することしか考えていないような
ち合せでは、日本人はなかなか本論
人が、たとえ自分のよく知悉する分野に関
に入ろうとせず、延々と世間話をす
する批判行為を行なっていたとしても、そ
ることもよく知られている。欧米の
のやりとりは必ずしも有意義であるとは言
ビジネスマンには逆にこれがストレ
えないと思う。というのも、その人が相手
スになるわけだが、これを非効率と
を論破することだけを目的としてさまざま
言わずして何と言おう。両者は一見
な知識をインプットしているとしたら、そ
矛盾して見えるが、しかし、そのど
の行為にあまり意味を認められないからで
ちらも日本人に特徴的な姿である。
ある。恥ずかしながら、実はわたしも「議
いささか単純化した言い方ながら、
論において優位に立つがために知識を増や
これは、日本人が対話などに伴う心
したい」という欲求にかられることが時に
*1 平田オリザ『わかりあえないことから─コミュニケーション能力とは何か』講談社現代
新書、2012 年 10 月、その他参照。なお「和社会」という表現は、高際弘夫『日本人にとって
和とはなにか―集団における秩序の研究』〔*商学研究社・1987 年、白桃書房・1996 年〕で用
いられている表現を借用した。著者もまた日本に特有な「和社会」のシステムをある意味で
「効率的」としていることに興味深いものを覚える。さらに、和社会においては「友情」が忌
避されるという同書の指摘も興味深いものがある。
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ある。もっとも本を読むのが人よりもかな
ら資するところのない死んだ知識でしかな
り遅いわたしは、そのような目的でのみの
い*1。
読書をしたことは幸いにしてないのだが、
可能ならば読書を通してそのような知識の
繰り返すが、批判にしても何にしても、
インプットを行なってみたいと思うことは
その行為の先にあるものが何もないのなら
よくある。しかしながら、これだけは肝に
ば、その行為は無意味であるとしか言いよ
銘じておかなければならないが、勝ち負け
うがない。相手を論破して、その後、何を
だけを目的として得られた知識でもって自
・どうしたいのか。その視点が欠落してい
他の生を真に豊かにすることは当然ながら
るならば、その議論および批判は不毛な結
望めない、ということだ。残念ながらそれ
果をしかもたらさないだろう。
は、相手はおろか自己の人間的成長にも何
(3-3)批判する者が持つべき責任と覚悟
少なくとも日頃から批判の意義を主張
なっているのならば、その批判に意義があ
し、なおかつ批判的行為を恒常的に行なっ
るとは言いがたい。もしも「レベルの低い
ているのならば、相手からの反論は覚悟し
反論をしてくる相手とは数回のやりとりす
なければならない―いや、それ以上に、
ら面倒だ」というのならば、その人は人前
そのような応答はこれを喜んで受け入れな
での一切の発言を止めて、誰もいない部屋
ければならないはずだ。これは批判ばかり
で独り言でも呟いていればよいのである。
でなく、対話を行なおうとする者の責任で
あり覚悟であると言えよう。
いずれにせよ、批判なり反論なりをして、
それに対して誰かから何らかの応答があっ
たならば、これに誠実に答える義務なり責
別な箇所でも簡単に説明したとおり、責
任なりがこちら側にはあるのだということ
任は英語で言えばresponsibilityで、これ
を忘れてはならない。時に勘違いをしてい
はresponseとabilityに分解される。責任
る人がいるが、それがどんなに稚拙な反論
とは要するに「応答可能性」、すなわち(相
だと思っても、こちら側はこれに誠実に応
手に)応答する能力の有無を問う、そんな
えてゆけばよいだけのことである。もちろ
語なのである。それだから、他者からの批
ん反論する側、批判をよこす側に何の責任
判(アプローチないしチャレンジ)に対し
もないなどと言っているのではない。相互
て拒否の姿勢しか見せない、言いかえれば
存在としての人間にとって、対話と同様、
そのアプローチなりチャレンジに対して真
責任もまた相互的なのである。(もちろん
摯に応答する気がもともとないならば、当
それが単なる言いがかりや明らかな攻撃で
然ながらその人の批判は不毛なものとなら
あった場合は、そのような相手は単に無視
ざるをえない。散々やりとりをした結果そ
すればよいだけのことである。それは当然
うなるのならば仕方がないが、最初から他
のことで、わざわざ説明するまでもないの
者を切り捨てるような態度で批判行為を行
だが、中にはそんなこともわからない人も
*1 谷口隆之助『存在としての人間』I.P.R 研究会、1974 年 3 月
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いるようなので、念のためにここで指摘し
攻撃と判断する向きもかなり多いように見
ておくことにした。また、中には誰かから
受けられるので繰り返し指摘している次第
一度何か言われただけで、それを反射的に
である。)
(3-4)最後に:対話の姿勢について―変化を怖れずに―
(1)変化を怖れずに
り、なおかつチャレンジし合う精神が何よ
ここで誤解のなきよう申し添えておく
りも要求される。至らない点があればこれ
が、わたしは何も批判行為あるいは反論に
を改める勇気も必要だろう。自己の信念が
対する当事者が論理的であるとかないと
少しでも変わることを怖れてはそもそも対
か、あるいは論が立つとか立たないとかと
話は不可能なのである 。
*1
いったことを問題にしているわけではな
い。論理的でない人にそもそも有効な批判
的行為ができるとは思えないという人もい
(2)議論の前提として心懸けるべきこと
るかもしれないが、問題はそういうことで
繰り返すまでもないが、わたしはここで
もない。われわれ当事者にそもそも“対話
の議論を、いわゆる議論のノウハウとして
の姿勢があるかどうか”を問われているの
ではなく、その精神において、すなわち批
である。わたしに関してもそれは同様で、
判も対話のひとつの形として捉え、この視
上で述べた対話的な姿勢でキリスト教にア
点からのみ論じてきた。わたしが対話をど
プローチするのでなければ、このサイトを
のようなものだと考えているかは、この文
アップした意味もあまりないと考えてい
章の中の説明でもとりあえず十分だろう。
る。
それでもこの文章を書いているうちに、対
話の精神について考察を深めることは大変
本サイトにおいては、今のところはわた
意義があることだと思うようになった。今
しが個人的に違和感を覚えるキリスト教の
回はこれ以上書かないが、いずれ折を見て
思想等に対してかなり一方的に批判的なア
対話の精神ないし意義について書いてみた
プローチを行なうことにならざるをえない
いと考えている。その代わり言っては何だ
が、それでも他者からの批判を拒否してい
が、いささか余談ながら、ネット上の議論
るわけではない (今は掲示板を設けていな
のあるべき姿について日頃考えていること
いが、いずれもう少しサイトが充実してく
をコメントしてこの頁を終わりとしたい。
れば、折を見て掲示板の設置を予定してい
る。それまではメールで意見や批判をお受
けしたい)。批判を含む意義のある対話を
わたしがここで批判の精神として念頭に
行なうためにも、もっと他の思想や宗教に
おいているのは、実はパソコン通信時代の
対する敬意ないし真摯な態度がお互いに必
議論のあり方である。現在その精神を強く
要になる。そして、お互いに相手をよく知
引いていると思われるのは、誰もが執筆に
*1「『神を怖れよ』という福音」中の変化への怖れに関する議論を参照。
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参加できるフリーの百科事典Wikipediaの
対話を望む者としては、そのような昨今の
編集精神とそこで行なわれる議論であろう
風潮がとても残念に思えてならない。
かんかんがくがく
*1
。あのように侃々諤々と些細なことにま
でムキになって議論する作法は昨今はもう
苦言や異論に一切耳を傾けず、直ぐに切
メンタリティー
流行らないと思われる人がいるかもしれな
れてしまうといった心
性では生産的な
い。けれども、逆にこのような精神を忘れ
議論はもとより望めない。たしかにWikipe
つつあることが、ネットにおいて昔以上に
dia上の議論にしても、時間ばかりかかっ
要らぬ炎上をもたらしている原因であると
て非効率極まりないかもしれない。けれど
考えることもできるのではないか。わたし
も、効率ばかりを求めて、時間のかかるや
はそのように感じている。もちろんこれは、
りとりを必要以上に嫌う姿勢は、一時的に
ひと頃の会議室形式の掲示板(BBS= Bull
はよいだろうが、結局は対話の精神を蝕む
etin Board System)が中心だった頃と違
ことにつながるのではないか 。そして、
って、Twitterに代表される短文投稿サイ
このような時間のかかるやりとりを忌避
トが主流になったことも大きく起因してい
し、あるいは効率ばかり求める態度が、か
るように思う。2chもそうだが、こちらは
えって生産的な議論を生まない要因を育ん
長文投稿もそれなりに可能ながら、その大
でいるのではないかとわたしは思うのだ。
半は短文の 言い捨て である。Twitterにし
しかしながら、このような非効率とも見え
ても、直接相手に言わずに、いわゆる空中
る時間のかかるやりとりは決して無意味で
リプライを多用して中傷的な発言をする人
はない。ちなみに、欲求の五段階説で知ら
が非常に多く見られるが、当の相手がその
れる心理学者アブラハム・マスローは、本
発言を目にすることを予想すらしないのだ
来曖昧で矛盾を孕んだ人間存在をその現実
ろうか。これではそもそも対話が成り立つ
のままに記述する態度を真に科学的な態度
わけがないので、その議論が建設的なもの
だとし、そのためには科学者の側に《曖昧
になることを期待する方がもともとおかし
さに耐える勇気》が必要だと語ったと言う
いのである。そして、短文投稿サイトに限
*3
らず、こういったことが当たり前に行なわ
くストレスに耐えられず、効率だけを求め
れているところに、非‐対話的なやりとり
て拙速に白黒をつけたがる態度は、やはり
を指向する現代の傾向が特徴的に表われて
対話の精神からかけ離れたものであると言
いるようにわたしは思うのだ。時代の変化
わざるをえない。昨今そこのところを履き
と言ってしまえばそれまでだが、よりよき
違えている人が大勢いるように見受けられ
*2
。本来曖昧なものを曖昧なままにしてお
*1 一般論としても参考になる Wikipedia 上の方針としては、たとえば「善意にとる」とか「礼
儀を忘れない」、「個人攻撃はしない」といった項目がある。
*2「補説 3:対話のストレスに耐えられない日本人」参照。
*3 早坂泰次郎『人間関係学序説―現象学的社会心理学手の展開』川島書店、1991 年 4 月、
p.105.
本発言の出典はマズロー『可能性の心理学』〔早坂訳、川島書店、1971 年 2 月〕だが、
本書の中にそのものズバリの表現はない。これは翻訳者である早坂がマスローの議論を自分な
りにまとめた表現だと言ってよいだろうが、極めて的確な言葉だと以前から思っていたので、
この機会に紹介した。
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るが、いわゆる効率的なディベートばかり
て相手とやりとりをする気持ちがあるかど
ディベート
が議論の方法ではない。議 論のノウハウ
うか、そこに対話の姿勢があるか否かなの
以上に大切なことは、その人が敬意を持っ
である。
最後に
先に (前節および本節第1項参照)批判の
第に変化する。こうやってわたしも、10数
意義を強調したのと正反対の主張に聞こえ
年前と比べて徐々にその主張を変化させて
るかもしれないが、以上の理由で、自己目
きているわけである。
的化した批判はすべきではないし、批判を
するならば自分が批判されることを忌避す
そんなわけで、わたしが言う批判的アプ
べきではないとわたしは考えている。「批
ローチは、上記で述べたような不毛な「攻
判をするな」というよく聞かれる批判にし
撃」ではなく、あくまで創造的かつ建設的
ても、この意味で言われるのならばそれは
な行為としてこれを行なってゆきたいと考
正しい主張だと思う。いずれにせよ、深く
えている。
考えれば考えるほどその思索は深まり、次
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