Title Author(s) Citation Issue Date URL 16世紀末イギリスのruffに関する考察 : 1580∼90年代を中 心に 神部, 晴子 文化女子大学紀要. 服装学・生活造形学研究 (26) (199501) pp.27-37 1995-01-31 http://hdl.handle.net/10457/2228 Rights http://dspace.bunka.ac.jp/dspace 1 6 世紀末イギリスの r u f fに関する考察 一 一1 5 8 0 " ' 9 0 年代を中心に 神部晴子* AS t u d yonR u f fi nE n g l a n di nt h el a t e1 6 t hC e n t u r y 一一一F o c u s s i n go nt h e1 5 8 0 s 9 0 s H a r u k oK a n b e 要 旨 1 6 世紀に人々の関心を集めた r u f fは,特に 1 5 8 0年代から 9 0 年代にかけて,最盛期を迎える。 h .スタップスは,当時のイギリス人にお そしてそれは,風刺家にとって格好の非難の的ともなった。 P u f fに対する審修への非難はまこ ける衣装全般の賛沢について痛烈に批判しているが,中でも,彼の r u f fに対する関心の度合いを推察することが出来る。それによると, とに興味深く,当時の人々の r r u f fはあらゆる人達に用いられ,競ってそれに意を注いでいた様子がわかる。 u f fは,シュミーズと区別しがたいほど小さな襲飾りであったものが,スタップスの記録が 初期の r 残される 1 5 8 0 年代には,首からはみだす大きさに発展した。 なぜ,彼らはそれほど巨大な r u 丘を着用したので、あろうか。スタップスは著作の中で, r u 任を「倣 慢な権力」にたとえている。 r u f fが倣慢な権力にたとえられる理由は何だったのであろうか。当時の社 会的背景を辿りながら考察した。その結果,階級差が崩れ始めた社会の中で,身分制を維持しようとす る権威の象徴が必要なのであった。 第 1章 r u f fの発生 はじめに r u f f(ラフ)は 1 6 世紀ヨーロッパ男女の衣装 “壁飾り"の意のラッフル ( r u f f 1 e ) の転と r u f fは, 1 6世紀初期に見ら において最も注目すべき服飾品のひとつであ されているように, り,それは,これまでも多くの研究者によって れるシュミーズ(シャツ)の衿元に寄せられる 述べられていることからも証明出来ょう 1)。 そ “壁"が発展したものと考えられている 2)0 1 5 して,残された数多くのこの期の肖像画にも見 世紀を通じて保たれていた深い衿ぐりが,少し ることができる。またイギリスでは,文献にも づっ小さくなり始め,それが次第に衿ぐりが首 度々登場し,とりわけ当時の風刺家の非難の対 に沿って立ちあがるようになる。ブーシェは, 象にまでなった。 1 5 3 3年ティツィアーノ作の『カルノレ V世 の 肖 像 )。 画』図 1を,立ち衿の初例として挙げている 3 本稿では,それほどまでに人々を魅了した r u f fの最盛期である 1 6世紀末に焦点を当て, そして,それにともないシュミーズの端に撲を r u f fに対する人々の関心, r u f fの構造について 寄せるようになる。 当時の記録をもとに考察した。 ラン公爵夫人クリスティーナ』図 2では,首と 1 5 3 8 年のホルパイン作『ミ 手首の部分に小さな襲飾りが見られる。この絵 は,初期の *本学助手西洋服装史 r u f fの 姿 で あ る と し て K.M.レス ターらも注目している。やがて,この小さな壁 (2 7) イヴァ一風に言えば,それまでのヨーロッパの 流行を支配していたドイツに代わって,誇り高 い権威を反映するスペイン風モードが流行し始 めたことに起因すると思われる。中でも,前出 K .M.レスターらおよび G.W. リードは,ス ペイン説を主張する。なぜなら,この畏飾りの 由来については次のような説があるからであ る。つまり,首に醜い腫物をもった一人のスペ インの貴婦人が,それを隠すためにレースのあ ふれた襲飾りを首の周りにぴったりと付けた。 それが後々大流行となったという 5)。 し か し この説はあまりにも寓話的であり,事実ではな .ヤーウッド, M.v.ベーンも いとしても, D 図1W 力ルル V世』ティツィアーノ, 1 5 3 3年,プ ラド美術館蔵(部分) スペインモードの特徴であると指摘している 6)。 5 3 0 年代 先にも触れたようにスペインでは, 1 初期,それまで流行していた深い衿ぐりが少し ずつ小さくなり,首にぴったりした立ち衿が見 られるようになる図 1。そして,ブーシェが 述べているように, 1 5 3 9 年ハンス・エウォルト 作の『ヘンリ一四世』図 3,それと 1 5 3 8年ティ ツィアーノ作の『フランソワ I世』の肖像画 5 3 0 年代末期には 図 4を見てもわかるように, 1 この立ち衿がイギリス,フランスでも広まって し 、T こ7 )。 図2 W ミラン公爵夫人クリスティーナ』ホルバイ 5 3 8 年,ロンドン ナショナル・ギャラリー ン , 1 蔵(部分) 飾りは次第に独立した装飾へと変わる。また, M.v.ベーンは,シャツカラーからネックフリ ルに変わり始める様を,当時の画家によって残 された数多くの肖像画の中に見いだしている 4)。 r u f fの発祥地については,諸説があるが,一 般には,スペインであると考えられている。レ 図3 W へンリ一四世』ハンス・エウォル卜, 1 5 3 9 年,チャ‘y ツワース・コレクション(部分) (2 8) 1 6 世紀末イギリスの r u f fに関する考察 ぬった長い髪で衣服を汚さないようにする のに役立つていた。この糊付けの流行がオ ランダにもたらされ,そこからイギリスに 渡り,当然スペインにも渡ったので、はない だろうか。 Jll) しかし,当時インドやセイロンでモスリンの大 きな衿が使用されていたという事実について は,確信が得られていなし、。 以上のように,これまでの服飾史家の諸説を u f fの発生については,いずれ 辿ってみても, r も決定的とはし、いがたい。とはし、うものの幾人 かの研究者は,スペイン説を主張する。それ は,当時ヨーロッパで、社会的に威信を誇ってい たスペインが,服装においても相応の影響力を 図4 W フランソワ I世』ティツィアーノ, 1 5 3 8 年 , 及ぼし, r u f fもスペインモードの一環として考 ルーブル美術館蔵 えられていることが少なくないという理由が裏 付けとなっているものと思われる。事実, レイ ヴァーも述べているように,当時,勃興しつつ 他方, R .L.ピセツキーは,イタリア説を主 張する。 1 5 世紀末期,イタリアで広く普及して あったスペインの国力によるものであることを いたカミーチャ ( c a m i c i a ) (中世以来の男女の 見逃すことはできない 12)。 下着,シャツ類の総称。仏語のシュミーズ)に 第 2章 は,首周りを襲のある細い布切れで飾るやり方 イギリスに伝わった r u f f が既に見られ,それは襲衿の出現を物語ってい る。したがって,しばしば言われるように,襲 r u f fがイギリスに伝えられたのは, 1 5 5 4 年の 衿はスペイン起源ではなく,イタリア起源なの スペインの王子フィリップ E世とメアリ一女王 である 8)と。そして,後に r u f fは,フランスに の結婚式の頃とされている 13)。当時の絵画作 メディチカラー」と呼ばれること おいても, I 5 3 7 年ホルパイン作の『へンリ品を見ると, 1 からも,それがイタリア起源の要因として取り W世』図 5には,まだ r u f fは見られず,小さ な襲飾りが覗いている。そして, 1 5 5 8 年のハン 上げている 9)。 r u f fの起源については,さらにベーンもま ス・エウォルトの描いた『フィリップ E世とメ u f fを制作した国であ た,イタリアが最初に r アリ一女王』図 6では,ブィリップは衿端に小 ると述べている 10)。カトリーヌ・ド・メディ さな襲飾りが見られ,メアリーは,襲飾り付き チがイタリア人ヴインチョーロを伴ってフラン 5 5 9 年の同 の立ち衿を着用している。しかし 1 スに赴いた時,彼女のために糊付けした r u f f 画家作『フランシス・ブランドンとエイドリア を準備する特権を与えた。しかし一方で,ブ ン・ストーク』図 7では, r u f fが見られる。さ ーシェは次のような見解を述べている。 5 6 0 年の『エリザベス I世』図 8の肖像 らに, 1 「若干の歴史家が指摘したように, 1 6 世紀 画でも,ラフを付けている様子が描かれてい 初め以来,インドやセイロンに渡ったヨ一 る。このことから,イギリスには, 1 5 5 4 年頃 戸ッパ人が,当地で見た“米"の糊で糊付 けされたモスリンの大きな衿に驚いたのか 1 5 6 0 年の聞に伝えられたものと考えられる。 イギリスでは, 1 5 6 0 年代始め,ローンやキャ もしれない。この衿は,この地方では油を ンブリッグが売られるようになった。その頃, (2 9) 図 5 Ii'へンリ-W1.!1木ルパイン, 1 5 3 7年,ルガー ノ,テイヴセン・ボ、ルネミッサ・コレクション蔵 図 8 Ii'工リザベス I世』作者未詳, 1 5 6 0 6 5 年 , ハムデン邸(部分) エリザベス女王は,上質のオランダ布で作らせ u f fをキャンブリックで新調したが, ていた r 糊付けの方法を知る者がおらず, 1 5 6 0 年にその 技術に詳しいオランダ人駅者の妻グィラム・ブ ーンを彼女の糊付け係として任命している 14)。 H .ノリスによると,イギリスでは 1 5 6 0年代ま で糊付けの習慣はなかったという 15)。しかし, 5 3 0 年代, 4 0 年代に若干の糊が輸入さ 実際には 1 れていたようではある。そして,糊製造は,お 図6 I i ' フ ィ リ ' Yプ E世とメアリ一女王』ハンス・ 5 5 8年(部分) エウォルト, 1 5 6 0年代に入り,ローンやキャンブリッ そらく 1 グが売りに出されると同時に導入されたので、あ ろうとされる 16)。ちなみに,エドマンド・ハ ウズは,ストウの『年代記』の編著書の中で, 糊は 1 5 6 2 年に初めてロンドンにあらわれたと田 5 6 4年,フランドル 想している 17)。そして, 1 出身のマダム・ディヘン・ファン・デア・プラ ッセが,ロンドンのオランダ人居住区で糊製造 業を始めている。イギリスの婦人達は,自分で u f fを彼女のところ 作ったキャンブリッグの r に持ち込み糊付けをしてもらった。彼女は,こ のような婦人達に, 4~5 ポンドの授業料で糊 付けを教え, 2 0シリングで糊付け準備の方法を 図 7 Ii'フランシス・ブランドンとエイドリアン・ 5 5 9 年,個人蔵 ストーク』ハンス・工ウォルト, 1 説明した 18)。このことは, G.W.リードも著書 『衣服に関する談義~ (30 ) ( C h a t so nC o s t u m e . )の 1 6 世紀末イギリスの r u f fに関する考察 中で触れている 19)。こうして,イギリスでは た。しかも彼らはお金に糸目ををつけず競って 糊付けの導入に伴い,糊付けした m任は急速 それを取り入れ, r u f fに対してかなりの賛を尽 に広がりを見せたと考えられる。 くしていた様子をうかがうことができる。そし て,そのことは女性の聞でも同様であった。風 第 3章 r u f fの高揚と巨大化および その要因 刺家 P h .スタップスはそれも克明に書き残し てくれている。 「女性たちは,オランダ布,ローン,キャン r u f fはその後,驚くほどの早さで普及した。 そして, 1 5 8 0年代から 1 5 9 0年代にかけて r u f f ブリックといった高級生地で作った大きな r u f fやネ γ カチーフを着けている。 J23)以上のよ うに, r u f fは当時男女共に大変に意を注いで、い は装飾や大きさの上でもその最盛期を迎えた。 た衣装の一部で、あった。そして,特に 1 5 8 0 年代 幸いにも,当時の様子を伝える貴重な資料が 残されている。 1 5 8 3年に出版された P h .スタ は風刺の対象となるまでその流行が進んだ。 ップスによる『濫用の解剖~ ( TheAnatomie o fA b u s e s . )21)である。これは,残された記録 ないのが,その大きさである。残された絵画を のなかでも当時の叩. f fを知る手がかりとして, 5 8 0年代で、あ 見ても,寸法が最大であったのは 1 これまでも多くの研究者によって引用されてい ることがわかる。ヤーウッドも, 1 5 8 0 年代から 次に,当時の r u f fの特徴として忘れてなら る。それは, r u f fばかりではなく,当時の社会 1 5 8 5 年の聞に大きさが増し,首のサイド 9イン h .スタップスと 生活や風習について,著者 P チ(約2 2センチ)に広がり,生地 1 8ヤード(約 1 6 聞き手のスピュブデユースとの対話形式によ メートル)も使用したと述べている 24)0 P h .ス る,全3 0 0ページほどで成り立っている。 タップスもその様子を次のように記している。 u f fが人々に まず,それらの中から当時の r 「彼らは巨大で奇怪な r u f fを着けだした。 とってどれほど重要であったかを示す記述を取 深さはなんと 1 / 4ヤード,その上それ以上 り上げよう。 のものもあり,それ以下のものは少なし u f fを着けないものはほとんどい 「今や, r ぴんと立たせると首からたっぷり 1 / 4ヤー ない。どんなに貧しく,あるいは他のもの ド(それ以上)あり,効果どころか肩先を はたとえ質素にしても,全ての者が三つや 飛び出すものもある。そして,ぼろきれの 四つの失敗作を持っている。まるで,キャ ように肩で四方八方に流れ,風の中でパタ ンブリックかオランダ布,ローンのような バタとはためいている。 J25) お金を出せば手に入る高級生地では十分で 1 / 4ヤードというと,約 2 3センチである。そ なく,それらに絹糸で全面に刺繍をし,更 れほどの大きなものが,首のまわりを取り囲ん に推測するところによると,金糸,銀糸, でし、るのである。しかも,それを越えるものも その他の多額の高級レースで飾る。いずれ あったというのだから,それを着けている本人 にしても,彼らは高級ないしはそうでない は,さぞかし身動きにも不便を感じたで、あろ ものを維持するためのお金を持っていた。 う。レイヴァーは,その様子について, I 壁衿 なぜなら,彼らはなんとかしてそれを手に は大きくなる一方でト,ついに,食卓についても 入れ,でなければ,スタッターズ・ヒノレや 料理をまともに口に運ぶことができないほどだ スタンゲート・ホールにある領地を売却し った。 J26)と述べている。当時,独特の名を持 たり,しまいには抵当に入れたりしてい つ大きな r u f fがあった。その名を車輪型 r u f f る。そして,行き着くところはタイーパー ( c a r t w h e e l r u 任)という。これは,この時代 ン処刑場で命を失うのである。 J22) の特徴的なスタイルで、ある。この形について このように, r u f fはあらゆる人々に着用され は,これまでにも多くの研究者が触れている。 (31 ) 例えば, P h .スタップスはその姿を「絞首刑台 するとは,まことに嘆かわしいことではな し 、 カ ミ 。 J32)と 。 3歩手前の幅」と言い 27),カニントンは,ま るで、「円盤上に乗せた頭」のような外観である, 5 8 8 年,製造独占権を一部の人 結局,セシルは 1 と評している 28)。 し か し こ の 車 輪 型 r u f fは , 々に公布する手段をとった 33)。しかし,激し 5 8 2 年に若い女性聞で反 その大きさのためか, 1 い抗議によって 1 6 0 1年にはエリザベスが止むな 感をかった。なぜなら,本来の女性的美しさで く撤回した。 このように,糊製造は,当初イギリスではひ ある喉や胸をあまり隠したくないとし、う理由に よるものであった。その結果,一部若い独身女 u f fの巨大化が進む とつの新産業であったが, r 性の間では,前の部分を開けて後ろのの部分を につれて奪修禁令を推進する者にとっては非常 高くしたウイスク ( w h i s k小箸)を用いる姿が に目障りな問題にまで発展した。ジョーン・サ 見られるようになる 29)。 ースクは,次のように述べている。 P h .スタップスは,さらに,当時の r u f fの構 「糊の使用がやたらと増えたのは,襲衿を 着用する人が多くなったためではなく,壁 造についても克明に記述している。 「今では散慢な権力を支え,それを維持す 衿のサイズが大きくなり,豪華になったか るこつの大きな柱を発見した。一つは,ス らでもある。二重壁衿が数年前に流行した s t a r c h 糊)と呼ばれる液体の一 ターチ ( かと思うと,今度は全くとてつもないほど 種がある。悪魔がそれを液体に漬けて洗う の幅広の襲衿が流行した。そして,おそら u f fが乾くにつれて堅く立ち よう望んだ。 r く襲衿が大きくなれば,それだけ余計に首 上がるのである。もう一つの柱は,最高の をこすり,汚れるのも早く,糊付けする回 高さを保つために金糸や銀糸または絹糸を 数も多くなり,糊の使用量も増えた。 J34) 巻き付けたワイヤーで作られた仕掛けがあ 彼によると,糊付けの急増は r u f fの使用者の る。それは,サボータス ( s u p p o r t a s s e s 増加ではなく,その寸法の変化であると主張し 支え),あるいはアンダープロッパー ( u n d e r p r o p p e r 下支え)と呼ばれている。 体'と称し非難しているように 35),r u 妊の巨大 ている。 P h .スタップスが,それを‘悪魔の液 これは, r u f f全体を支えるために r u f fの 化と糊付けが大きく関わっていたということは 下やパンドの外側の上の部分に着けるよう 間違いないであろう。そして,その糊付けと 30) になっている。 J r u f fとの密接な結びつきについては,川北稔も 指摘しているお)。 このように,大きな r u f fは,糊付けやサボ ータスあるいはアンダープロッパーという支え 次に, r u f fの巨大化を支えたもう一つの仕掛 を使用することによってその外観を保ってい けが,スタップスの著作の中でも触れている糊 た 。 付けの過程で用いられた道具,‘型付け棒' u f fはますます大きくな 糊の導入と当時に r ( s e t t i n g 宮t i c k, p o c k i n g 一宮t i c k ) である。以下は, ( C o s t u m e and った 31)とヤーウッドが指摘しているように, H. ノリスの『服装と流行~ 5 6 0 年代初期の糊の導入以来, r u f fの寸法 事実 1 は巨大化してくる。しかし, r u f fが流行し始め F a s h i o n . )に負うところが多し、。これらは初め, 木や骨で作られていたが, 1 7 7 3噴には鋼鉄製に てから約2 0 年ほど経過した 1 5 8 5 年,エリザベス なる。まず,鉄やスティールで、出来たスタンド の寵臣であったノミーリー卿ウィリアム・セシル を火で暖め,そこに型をつける棒を差し込む。 は,糊製造禁止法案に関する演説をしている。 そして,その棒が十分暖ま mた時,既に糊付け 8p字型に襲を畳 「町で飢えてパンを求めている多くの人々 して湿った r u f fに縦や横に を,飢餓から救うことが出来るであろう穀 み,型付けする。完全に堅くなるまでこの動作 物を,虚栄と騎慢とを誇示するために糊に を繰り返す。このようにして,美しい r u f fの (3 2) 1 6 世紀末イギリスの r u f fに関する考察 図9 W r u f fの製造工程を描いた風刺画Jj. 1 5 9 5 年頃 襲が作り出される。このことによって,かなり u f fの襲も作りだすことが出来た 39)0 9 大きな r 図はこれらの道具を使って, r u f fを作る様子を 描いた風刺画で、ある。左下の火鉢の中にポッキ ング・スティッグが入っている。そして,中央 の人物が取り出したそれを r u f fに押し込んで 型をつけている。また,後ろの壁には出来上が u f fの形をし、かにも崩さないように掛け った r ている様子を見ることが出来る。面白いのは, 糊付けをしている人物が人間ではなく, P h .ス タップスの言っている‘悪魔'として描かれて いることである。 図1 0W サボータス』 また,この他に巨大な r u f fを支えるために (プランシェによる) 用いられたものが,サボータスあるいはアンダ ープロッパーであることは前述した。 P h .スタ 第 4章 ップスも幾度となくこれに触れている。また, 1580年代~90年代にみる ruff r e b a t o ) と呼ばれる これらはしばしばリパト ( こともある。これらは針金状の枠で作られ,一 1 5 5 0年代後半, r u f fがイギリスに伝わって以 般的には金糸や銀糸または絹糸を巻き付けたも 来,またたくまに流行した。そのことは, 1 5 9 9 ので,ピンで留めて糊付した r u f fを支える。 年のトマス・デ γ カーの作品『靴屋の祭日』第 これによって r u f fは後部を立ち上がらせ,前 4幕第 1場の中でも,既製品の r u f fが売られ, 038)。 後に傾斜を与えた図 1 一般市民にも広がってし、った様子を見ることが 出来る。あらゆる人が r u f fを競って着用して (3 3) いたことは,当然風刺家の関心の対象ともなっ が,大いに勢力を伸ばした時代で、ある。一説に たが,その要因にはそれだけではなく,その大 は,貴族の地位を掘り崩していったとまで言わ きさにもあった。第 1章でも触れたように,初 れる。つまり「ジエントリの勃興」である。 r u f fは,衿の部分を囲む小さな壁飾りで 1 5 4 0 年から 1 6 4 0 年のほぼ一世紀の聞に,資本家 あり,シュミーズとあまり区別立てしずらいほ 的活動をしたジエントリが,貴族に比べて相対 期の どの大きさであったが, P h .スタ γ ブスの記録 が残された 1 5 8 0 年代には,首からはみだすほど 的に勃興した。そして,川北は,ジエントリの 勃輿の原因は,全国的に人口が激しく増加し, の大きさにまで発展していた。それを支えてい 圏内の交易が盛んになったことにあることを指 たのが,糊付け,サボータスといった方法で、あ 摘している 4 1 )。確かに,この時代は,ヨーロ った。しかも,それらは当時の r u f fにとって ッパ中で人口が急増し,中でもイギリスは激し 非常に大きな役割を果たしていた。ます糊付け い増加のあった固と考えられている 42)。同時 については,当時のイギリスにおける糊製造業 に,首都ロンドンが,驚異的な発達を見せたの の発展をもたらした。 1 5 6 0 年頃から長期の不況 もこの時代である 43)。つまり,ジエントリの 期に入ったイギリス経済の中にあって,糊製造 勃興という社会的変動によって,貴族とのそれ は一つの可能性を持つ新産業であった。しか までの階級差が崩れ始めたと考えられる。川北 し失業と貧困といった状況の中で穀物から糊 も を作り,セシノレ風に言えば虚栄と騎慢とを誇示 「勃興したジエントリが,最新の流行を追 するために糊付けをするとは,誠に困った問題 い,貴族とそっくりというより,貴族以上 でもあった。そして,幾度となく奪修禁令の中 の生活をさえしようとする有様は,古くか で , ru:ffについての規制も度々行なわれたが 39), らの家系を誇る貴族の目には,不快きわま にも関わらず,当時の人々は糊付けを行ない, りないものであっただろう。今や,服装は それ以外にもサポータスといった装置を使用し, たえまなく変化し,全ての人々がその華美 r u f fを支えた。しかし,なぜ、彼らはそれほどま でに競って r u f fを着用したのであろうか。 と新奇さとで隣人をだしぬこうと必死であ P h .スタップスは,著作の中で,興味深いこと を述べている。 る,とは同時代人の論評である。 J44) と述べている。しかも,賛沢になったのは,ジ エントリだけではなく,あらゆる階層にまで及 「今では,倣慢な権力を支え,それを維持 んだ。 P h .スタップスも, I 今や衣服の費沢が する二つの大きな柱を発見した。その一つ 蔓延しているので,誰が貴族や聖職者やら,誰 は,スターチと呼ばれる液体の一種であ がジェントルマンで誰がそうでないのか,さっ る。もう一つの柱は,サボータスあるいは ぱり見分けがつかなし、。 J45)と言っている。同 アンダープロパーと呼ばれるものであ じような見解が,当時の文献にも数多く残され ている 46)。 4 0)と る 。J 。 彼によれば,糊付けやサポータスが倣慢な権力 の支えとなっている,と。 このように,階層聞の格差がなくなり始めた 状況の中で,人々は最も目につきやすい衣服に なぜ,そのように論じたのであろうか。そし よって,崩壊し始めた階級差を誇示しようとす て,彼の言う散慢な権力とは一体なんなのであ る。従って,彼らが競って費沢をするのは,当 ろうか。衣服における倣慢,言い換えると,身 然のことであろう。レイヴァーも,壁衿は,服 分を越えた衣服ということである。つまり, 飾の階級的要素を示すよい例であると言ってい r u f fは着用者が分相応に越える為の一つの手段 る47)。 1 6 世紀と 1 7 世紀のイギリス人が自分たちの社 であったと考えられるからである。 当時のイギリス社会では,ジエントリ階級 会を描こうとする時,彼らはまず区別を設け, (34 ) 1 6 世紀末イギリスの r u f fに関する考察 分類し,ラングづけることから始めた,と年代 いということが出来ょう。 5 7 7 年にこう 記作家ウィリアム・ハリスンは, 1 結 論 記している 48)。ジエントリの勃興と貴族の没 落といった大きな社会的変動の中で,彼らは何 とか階級差を維持しようと努めた。当然,衣服 1 6 世紀に渡って人々の関心を集めた r u f fは , は,それが自に見えるかたちで、現われる。それ 5 8 0 年から 9 0 年代にかけて,最盛期といっ 特に 1 だけに,流行に追随し,賛沢をした。しかし ても過言ではないほど隆盛を極めていた。なぜ 一方で、は,それを抑えようとする奪修禁令が, なら,一種の工芸品とも思えるほどの外観を持 ヨーロッパ全域で頻発するようになる。特に, ち,そのことは風刺家にとっても格好の非難の 1 5 8 0 年の布告によると ,J大きすぎる,度のす 対象となった。別けても P h .スタップスは当 ぎた襲衿」を禁止する内容が書かれている 49)。 時のイギ、リス人における衣装全般の賞沢につい 脊修禁令が,襲衿に神経質になり,しまいには て痛烈に非難している。彼は,衣服のみなら 幅の規制まで行なうようになったのは, r u f fが ず,犯罪,ダンス,芝居といった社会現象につ 舶来のファ ションであり,まさしく費沢の象 u f fに関しての記述は決し いても触れており, r 徴であった 50),とも考えられる。つまり,こ て多いとは言えないが,彼の r u f fに対する奪 のことは, r u f fがステイタス・シンボルになっ 修への非難はまことに興味深いものがある。 γ I I北は次の ていたということの裏返しである。 J ように述べている。 r u f fはあらゆる人々によって競って着用され た。しかし,そのような見事な r u f fを用いて 「法的な身分が人々の生活を規定している いた有様を, P h .スタップスは攻撃し,皮肉に ような状況は,既に 1 5,1 6 世紀のイギリス もr u f fを単なるつまろきれ"と表現している。 で崩れ始めていた。費沢禁止法やスタップ また,当時の r u f fにおいての最大の特徴でも スのエイルグナ批判(エイルグナ担型空 ある巨大な寸法は,彼らの関心をより一層魅惑 とはアングリア A n g 1 i a,つまりイギリス u f fは,糊付け,サポータス したと思われる。 r のことを指している。)は,この傾向に対 あるいはアンダープロッパーによって,その大 する危機感の現われであった。しかし,現 きさを維持していたが, '着用者はその寸法より 実には,身分ではなくて富の力が流行とな も,そこに隠された意味こそが重要なのであっ いまぜになった費沢などを媒介項として, た。それは, r u f fが着用者の身分を越えるため 人々のステイタスを決定する傾向が,どん の一つの手段であったことである。ジエントリ どん進行してゆくのである。流行を追って 階級が勃興した当時のイギリス社会には,人口 費沢をする者,そうする経済的能力のある の急増や交易の発達がみられ,それまでの階級 者こそが尊敬されるべきジェントルマンた 差が崩壊し始めた。そこで人々は,格差を維持 りうる,とすれば,人々がこぞって流行を するために競って賢沢をした。その点, r u 任は 追い,費沢に走るのは当然のことであっ 最も目につき易い部分であり,舶来品であった 5 1) た 。J ことからも,まさにステイタスの象徴となり得 また,カニントンもエリザベス時代の r u f fは , た。そして, P h .スタップスの批判の焦点にな 社会的優越の印である最も単純な例である 52) っていたのもそのことであった。 衣装芸術における興味深い特徴は,首の部分 と述べる。 このようなことから, P h .スタップスの m妊 の整え方である 53)とカニントンは述べている。 に対する論点を形成していると思われる「散慢 彼によると,首を隠す色々な方法は,社会的階 な権力」とは,身分の確定が困難に成り始めた 級を強調するのは勿論のこと,それ以外にも首 時代における,権威の象徴以外の何ものでもな と頭のぎこちない隔たりの美的価値を満たすこ (3 5) とにある 54),とし、う。そして特に,糊付けが 1 0 ) Boehn, M.v . .i b i d ., p .1 5 3 導入されてからは,衣装との美しい調和を生み 1 1 ) Boucher ,F . .i b i d ., p .242 出したと言われている 55)。 1 2 ) Laver, J a m e s .A C o n c i s eH i s t o r yo fCostume, L o n d .,1969, p .88 また,第 4章の中では触れることが出来なか 1 3 )L e s t e r,K .M.& Oerke,B .V . .i b i d .,p .194 ったが,考察を進めてし、く過程で,偶然次のよ 1 4 ) ジョーン・サースグ著,三好洋子訳, I f ' 消 費 社 うな言葉に出会った。 会の誕生近世イギリスの新企業J],東京大学出 版会, 1984 年 , p.110 u f fが壊 「近寄らないで。あなたの息で私の r 5 6 )r u f fの形が崩れることは,着 れてしまう。 J 1 5 )N o r r i s, H e r b e r t .CostumeandF a s h i o n, vo l .I I I, 用者にとって大変疎ましいことであったと思わ L o n d ., 1938, p .504 れる。つまり,それほどまでに気を使わなけれ 1 6 ) ジョーン・サースグ著,前掲著, p.110 ばならないということは,その人が肉体労働者 1 7 ) ジョーン・サースグ著,前掲著, p.110 よりも上流であるとし、う事実を意味すると言え 1 8 ) Davenport,Mi 1 1 i a .TheBooko fCostume,N. Y., 1948, p .443 よう。 u f fについての導入部分と, 今回は, r w 濫用 回 d ,G .W..C h a t sonCos 旬 me ,Lond.,1926, 1 9 ) Rh p .184 の解剖』の中にみられる r u f fの高揚と巨大化 2 0 ) Boucher, F . .i b i d ., p .244 u f fの様々 についての考察にしたが,今後は, r i 1 i p . The Anatomie o f Abuses, 2 1 )S t u b b e s,Ph なスタイル,素材について研究を継続して行き L o n d ., 1836 たい。 初版は 1583年のロンドンで,その後も幾度とな 最後に,本稿の執筆に当たり,適切な御指導 く出版を繰り返し,最近では 1972年にニューヨ と御校聞を賜った石山彰名誉教授に深く感謝の ークで復刊されている。本論文では, 1836年版 を用いた。 意を表する。 2 2 )S t u b b e s, P h . .i b i d ., p .41 2 3 )S t u b b e s, P h . .i b i d ., p .64 註 D . .i b i d ., p .343 2 4 ) Yarwood, o b i n s o n . Cy c 10 p a e d i ao f 1 )P l a n c h e,James R Costumeo rd i c t i o n a r yo fd r e s s,L o n d .,1876,p . 4 3 4 . 2 5 )S t u b b e s, P h . .i b i d ., p .40 2 6 ) Laver, ] . .i b i d .,p .91 2 7 ) Rhead, G .W . .i b i d ., p .1 8 8 2 ) 石山彰編, If'服飾辞典J],ダヴィッド社, C .W & P . .Handbooko fE n g l i s h 2 8 ) Cunnington, 1 9 7 2 年 Coutumei nt h es i x t e e t hc e n t u r y,L o n d .,1970,p . 3 ) Boucher, F r a n c o i s .H o s t o i rduCostume, P a r i s, 1965, p .229 1 1 3 2 9 ) Rh e a d, G .W..i b i d ., p .1 8 8 4 ) Boehn,M鉱 v o n .Modesandmanners,v o lI I, L o n d .,1 9 3 2, p .124 P h . .i b i d ., p .40 3 0 )S t u b b e s, 3 1 ) Yarwood, D . .i b i d ., p .343 5 )L e s t e r, K a t h e r i n eM o r r i s& Oerke, BessV i o l a . 1940, p .194 A c c e s s o r i e so fD r e s s, 3 2 ) ジョーン・サースク著,前掲著, p.114 3 3 ) ジョー γ ・サースグ著,前掲著, p.115 o r e e n . The Ency c 1 0 p a e d i ao f 6 ) Yarwood,D 3 4 ) ジョーン・サースク著,前掲著, p.115 Wo r 1 dCostume,Lond,1978,p .343,Boehn,M. 3 5 )S t u b b e s, P h . .i b i d ., p .64 v . .i b i d .,p .1 5 2 3 6 ) 川北稔, If'酒落者たちのイギリス史J],平凡者, 7 ) Boucher,F . .i b i d .,p .229 1986 年 , p .1 4 1 8 ) ロジータ・レーヴィ・ピセツキー著,池田孝 3 7 )N o r r i s, H . .i b i d ., p p .624 -6 26 江監訳, If'モードのイタリア史J],平凡社, 1987 年 , p p .354-355 .403 9 ) ピセツキー著,前掲著, p 3 8 )C u n n i n g t o n, C .W & P . .i b i d ., p .1 1 3 3 9 ) 川北稔,前掲著, pp.67 -68 P h . .i b i d ., p .40 4 0 )S t u b b e s, (3 6) 1 6 世紀末イギリスの r u f fに関する考察 4 1)川北稔,前掲著, p .74 4 2 ) 川北稔,前掲著, p.110 4 3 ) JIl北稔,前掲著, p.74 I I北稔,前掲著, p.64 4 4 )J 4 5 ) 川北稔,前掲著, pp.64 -65 1 1北稔,前掲著, p.78 4 6 )) J . .i b i d ., p .9 1 4 7 )L a v e r, f ' イ ギ リ 4 8 ) キース・ライトソン著,中野忠訳, I ス社会史~,側リブロポート, 図版出典 図1 P a n o f s k y,E .,P r o b l e m si nTITIANm o s t l y .,1 9 6 6, p l a t e6 i c o n o g r a p h i cN .Y 図2 R o w l a n d s, ] . , HOLBEIN ,O x f o r d, 1 9 8 5, p l a t e2 6 図3 L a v e r,J .,Costumeo fWesternWorld,E a r l y d . , 1 9 5 1,p l a t e3 3 Tudor,Lon 1 9 9 1 年 , p .1 9 図 4 吉川逸治・摩寿意義郎監修,世界美術全集 8 4 9 ) 川北稔,前掲著, p.68 I I北稔,前掲著, p .1 4 1 5 0 )J 1)川北稔,前掲著, p .1 5 6 5 5 2 )C u n n i n g t o n,C .W . . The A r to fE n g l i s h Costume,L o n d .,1 9 4 8,p .7 6 5 3 )C u n n i n g t o n, C .W . .i b i d ., p .7 6 C .W . .i b i d ., p .7 6 5 4 )C u n n i n g t o n, G .W . .i b i d ., p .1 8 6 5 5 ) Rhead, 5 6 )P a l l i s e r,B u r y .AH i s t o r yo fLace,L o n d .,1 9 7 1, p .2 7 6 『ティツィアーノ~,集英社, 図6 L a v e r,J .,i b i d .,E l i z a b e t h a na n dJ a c o b e a n, L o n d .,1 9 5 1, p l a t e1 図7 L a v e r, ] . , i b i d .,E l i z a b e t h a na n dJ a c o b e a n ., p l a t e2 図8 L a v e r,J .,i b i d .,E l i z a b e t h a nandJ a c o b e a n ., p l a t e5 図9 B o u c h e r,F . .i b i d .,図 4 7 2 図1 0 P l a n c h e, ] .R .,A Cy c 10 p a e d i ao fCostume, L o n d .,1 8 7 6, p .434 (3 7) 1 9 7 8 年 , p l a t e2 9 図5 R owlands, ] . ,i b i d .,p l a t e2 5
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