53 天使的存在における自然と恩寵 ― operatio meritoria finis (Summa theol., I, 62) ― 水田 英実 1. はじめに トマス・アクィナスの『神学大全』のいわゆる天使論(Summa theologiae, I, qq.50 - 64) の中に、“ab alio expectetur”(I, q.62, a.9 ad1)という、他者の存在を前提した表現を見出 すことができる。ほかにも “expectatur ex dono alterius”(ibid. a.4c)という類似の表現が 用いられている。いずれも文の主語は「目的(finis)」である。 これらの表現が見出される箇所で、トマスは「恩寵と栄光における天使的存在の完成」 について論じる。そのために「目的」のあり方を二つに分け、それぞれを特徴づけてい るのである。それは天使的存在に伴う二種類の作用ないし行為が、目的との関係におい て互いに区別されるからである。 自然本性的に獲得し達成することが可能なことがらが目的とされる場合、その目的は、 作用者自身の能力の及ぶ範囲内に含まれることがらとして、作用者の自然本性的な働き によって獲得・達成される。これに対して、もっぱら他者から賜物として与えられるこ とが期待されることがらを目的とする場合には、作用者ないし行為者をして「その目的 となることがらを受けるに値するものにする働き(operatio meritoria finis)」の成立が前 提されるという。 そこで、知性的本性を有する天使的存在にとって、自然本性的な作用としての知性認 識によって自己自身を完全に認識することによって、いわば存在の最初から、本性的な 完全性が実現されていることになる。他方、完全な知性的本性を有する天使的存在にとっ ても、恩寵による完成がもたらされるために、自然本性的な作用とは別種の働きが成立 していることが前提されるのである。 ∗ トマス・アクィナスのテキストはマリエッティ版を用いた。 54 完成された知性的本性を有する天使的存在においても、究極の至福直観(visio beatitudo) は、その存在の始めから、天使的存在における自然本性の完成として直ちに実現される ものではない。それは恩寵によって新たに(ただし予め定められたことがらとして)も たらされる目的であって、その実現には神へと向かう新たな過程における「功業・功績 (meritum)」の成立という要件が満たされることを要するというのである。 ところで、天使的知性において見出されるこの種の目的との関わりは、知性的本性を 有するかぎりにおいて人間存在にとっても、恩寵(啓示)によってもたらされることが らであった。周知の通り、トマスはこのことを『神学大全』の冒頭の設問において指摘し ている1) 。そこで本論文において、この点を視野に入れた上で、いわば天使的存在を例に とって、被造の理性的存在に特有の作用としての “operatio meritoria finis” について、そ の意味するところを明らかにしたい。その際、特に注意したいのは、上述のように、“ab alio” あるいは “ex dono alterius” という表現を用いることによって、そこにいう目的とし ての神との関わりが何らかの他者性を前提したものであることが示されているところで ある。 恩寵と自然という二つの秩序において、目的を異にする二つの作用が同一の天使的存 在に伴うとしたら、さしあたり同一の天使的知性にとってそれぞれの作用に対応する別 種の存在が想定されることになる。目的としての神という他者の存在が前提されること によって、そのことがどのような様相のもとに説明されているのであろうか。 2. 天使的存在の自存性 『神学大全』において、天使論全体の見通しとしてトマス自身が述べるところ(ibid., q.50 prol.)によれば、「聖書において天使と呼ばれる、純粋に霊的な被造物」について、 まず、その実体(qq.50 - 53)、知性(qq.54 - 58)、意志(qq.59 - 60)にかかわることがら を論じた後、第 61 問から第 64 問までの部分において、 「天使の創造」にかかわることが らについて論じることになっている。 第 61 問の序文においても同じ見通しが繰り返されている。それによれば、既に天使的 存在の有する「本性と認識と意志」について論じ終えたから、残るは「天使の創造ない 1) Summa theol. I q.1, a.1c: homo ordinatur ad Deum sicut ad quendam finem qui comprehensionem rationis excedit. 天使的存在における自然と恩寵 — operatio meritoria finis (Summa theol., I, 62) —/55 しその起源について一般的に考察すること」であった。具体的な設問に即して言えば、 第 61 問から第 64 問において論じられるのは、知性的本性を有する実体としての天使に ついて、それらがどのような仕方で自然的存在へ産出されるか(q.61)、どのような仕方 で恩寵や栄光において完成されるか(q.62)、また天使の一部が悪しきものとなるのはど のような仕方であるか(すなわち天使的存在における罪と罰。qq.63 - 64)ということで あった。 ところで、トマスは「天使の創造」にかかわるこれらの設問を通して純粋に霊的な被 造物としての天使的存在の被造性について論じる。そうすることが可能であった理由の 一つは、言うまでもなく、アリストテレスの質料形相論にもとづく存在者の体系を、非 質料的実体としての純粋形相の自存性に関して修正しえたことにある。 というのも、質料と形相から構成された本質を有する質料的実体は、自らの本質の中 に、実体的形相によって現実化される質料を有しているところから、その本質を構成す る質料と形相の結合・分離によって、生成消滅する存在であるとともに、その本質のう ちに質料を有するかぎり、他の存在に依存することなく存在しうるものとして自存性を 有している。 このようにして、アリストテレスの質料形相論にもとづいて、性質変化の基体として の質料的実体(物体)が、それ自身として(その本質を構成する質料と形相の結合・分 離によって)生成消滅する存在であるにもかかわらず、自らの本質のうちに質料を持つ かぎりにおいて自存性を有するとされるとともに、純粋形相として生成消滅を免れてい る分離実体は、 (その本質のうちに質料を持たないにもかかわらず)かえってそのすぐれ た非質料性・非物体性の故に、それ自身として自存性を有する、不生不滅の存在である ことが肯定される。 しかしながら、「(自存する存在そのものとしての)神以外のものは、すべて神によっ て造られた」2) という理由で、分離実体としての天使的存在は、それ自身として不生不滅 の存在であるにもかかわらず、神的起源を有するものであることが指摘される。創造論 の文脈において、神以外のすべての実体の自存性が否定されなければならなくなったの である。そこで、アリストテレスの質料形相論の中に、新たに創造論の文脈が持ち込ま れたことによって、分離実体としての天使的存在についても、その自存性が否定される 余地が生まれる。この意味でトマス説は、非質料的実体としての純粋形相の自存性に関 して、アリストテレス説を修正しえたのである。 2) Summa factum esse. theol. I, q.61, a.1c: necesse est dicere et Angelos, et omne id quod praeter Deum est, a Deo 56 さてトマスの天使論(I, q.50 sqq.)において、被造的な分離実体(非質料的・非物体的 実体)としての天使的知性の存在根拠は、被造的世界の中にあって、それが本性的に完 全な知性認識を有するものであることによって、天使と呼ばれるこの種の存在には「知 性と意志をもって被造物を産出する神」に対する最も完全な類似性が見出されるという ところに求められている。 それは、神的知性による被造物の産出において、特に意図されているのは「神への類 同化において成立する善」だからであるという。そこで、熱せられたものから熱せられ たものが生じる場合に、熱によって他を熱する点での類同化が見出されるように、因が それによって果を産出するところのものに関して、果が因に類似している場合に、果の 因に対する完全な類同化が見出されるのであるから、被造的世界が完全であるために、 被造的世界の中に知性認識を有するものが存在していなければならない。造られた世界 の完全性に着目するとき、存在の最初から完全な自己認識を有する完成された認識者と しての天使的知性が、創造因としての神的知性に対する最も完全な類似としてこの世界 の中に存することによって、被造的世界の完全性が確保されることになるというところ に、天使的知性の存在根拠があると考えられているのである3) 。 この理由にもとづいて、いま「天使の創造」という問題を取り上げるに際しても、トマス はまず、完全な知性認識を有する天使的知性の自然的世界への産出について論じ(q.61)、 そこからさらに、被造的な知性認識者に特有の問題の考察へと論を進める(q.62)。二つ の幸福ないし至福への言及がなされるのはこの箇所である。すなわち一方では、存在の 最初から完成された知性的本性を有する実体としての天使的知性においては、完成され た認識者に伴う、知性的本性を有するものに特有の至福が、いわば存在の最初から直ち に獲得されているのでなければならないという見解が表明されている。同時に、そのよ うな自然本性的完成とは別に、一部の悪しき天使の場合を除いて、恩寵と栄光において 達成される、究極目的としての「至福(beatitudo)」といういま一つの完成に到る過程が 存することがあわせて指摘されなければならなかったのである。 トマス説によれば、本性的に達成可能な至福とは異なる、いま一つの究極の至福につ 3) Summa theol. I, q.50 a.1c: Respondeo dicendum quod necesse est ponere aliquas creaturas incor- poreas. Id enim quod praecipue in rebus creatis Deus intendit est bonum quod consistit in assimilatione ad Deum. Perfecta autem assimilatio effectus ad causam attenditur, quando effectus imitatur causam secundum illud per quod causa producit effectum; sicut calidum facit calidum. Deus autem creaturam producit per intellectum et voluntatem, ut supra (cf. I, q.14, a.8; q.19, a.4.) ostensum est. Unde ad perfectionem universi requiritur quod sint aliquae creaturae intellectuales. 天使的存在における自然と恩寵 — operatio meritoria finis (Summa theol., I, 62) —/57 いては、天使的知性においても存在の最初から直ちにそれが得られているということは ない4) 。このようにして、天使的知性の自存性に二義性を見出しえたように、目的の観点 においても自然本性的完成とは別の、その意味でまさに超自然的な究極目的を措定しえ たことによって、天使的存在の完成ないし目的についても二義性があることを明らかに しているのである。この点についていま少し詳細に立ち入って、トマスの所説に触れて おこう。 3. 天使的知性の究極目的 さてトマスが天使的知性の問題を取り上げる場は二つある。天使的存在における自然 と恩寵について、 「自然における産出」 (q.61) と「恩寵と栄光における完成」 (q.62) と いう二つの論点を分けて論じ、自然に属する存在のみならず、恩寵に属する存在につい ても、その被造性に考察の焦点をあてているからである5) 。 自然に属する存在について論じられているのは次の点である。一般に分有によって存 在するものは、本質によって存在するものを原因として生じる。火によって燃料が燃焼 させられる場合になぞらえて説明するならば、熱さそのもの(最高度に熱いもの)とし ての火は、第一の熱であって、この第一の熱としての火(熱さそのもの)を分有するこ とによって、諸々の燃料が燃焼させられ、燃料の熱さが生じる。ただし、火が本質的に 熱いのに対して、燃料は分有によって熱いと言われる。天使の創造の場合にも、この関 係が見出されるというのである。 もっとも、同様の関係は実体と偶有の間にもある。実体として存在しているものは、 それ自体として存在することが可能な、そのかぎりにおいて自存性を有する、第一の有 である。他方、偶有は単独で存在することのない付帯的な存在であるから、何らかの仕 方で実体に依存して存在しうるにすぎない6) 。しかしそのかぎりにおいて、実体と偶有 4) Summa theol. I, q.62, a.1c: [Angeli] non statim eam [= ultimam beatitudinem] a principio de- buerunt habere. 5) Summa theol. I, q.62, pr. Consequenter investigandum est quomodo Angeli facti sunt in esse gratiae vel gloriae. 6) Cf. De ente, c.5: Sed quia illud, quod dicitur maxime et verissime in quolibet genere, est causa eorum quae sunt post in illo genere, sicut ignis qui est in fine caliditatis est causa caloris in rebus calidis, ut in II metaphysicae dicitur, ideo substantia quae est primum in genere entis, verissime et 58 の間にも、神と被造物の間の究極的な関係とは別種の類似した関係を見出すことができ る。基体と属性の間に見出される存在的な依存関係にもとづいて、基体の側に位置する 実体にいわば相対的な自存性をみとめることができるからである。 ところが、実体か偶有かを問わずありとしあらゆる存在に対して、自存する存在その ものとしての神的存在が、第一原因として措定されるとき、他のいっさいは、実体であ れ偶有であれ、分有による存在として、本質的に存在するものに依存していると言わな ければならない。無条件的な意味での自存性は、万物の創造因としての神の側にしかみ とめられないことになるからである。むろん被造の実体が相対的な意味での自存性を有 することが否定されるわけではない。 そこで被造の質料的実体の場合に、実体的形相による事物の生成消滅における相関者 として前提される、可能的存在としての第一質料のあり方は、神による創造の観点のも とで異なる様相においてとらえ直される。実体的形相による限定に関するかぎり、限定 を受ける側に措定される質料は、純粋に可能的な(すなわち、何にでもなりうるけれど も、それ自体としては何ものでもない)存在でありうるにしても、神的起源を有する何 かとして捉えられるかぎり、 「始めもなく終わりもない」という意味での質料の永遠性は 否定されなければならなかったからである。 非質料的実体の場合にも、一方では、アリストテレスの体系において、自存する純粋 形相として、およそ質料に依存することなく存在するものでありえたけれども、他方、 それが神による創造の観点からとらえ直されることによって、全存在の原因として措定 される神的存在の純粋現実態に及ぶものではないことが明らかにされる。そのためにか えって、純粋形相としておよそ質料とは無縁の存在であるにもかかわらず、何らかの仕 方で可能的性格を有するものであることになる。神的直観(visio Dei)と称される究極 の至福に到達する余地を残しているという意味で、天使的知性の完成に二義性があるこ とが指摘される所以である。 天使的知性は、自存する純粋形相として存在せしめられているかぎりにおいて、質料 的形相の場合のように、その目指すところが質料の現実化の過程を経て実現されるとい うことは当然全くない。存在の最初から自己自身を余すところなく知り尽くすという仕 方で自己認識を完遂していることによって、直ちに本性上の目的を達成した完全な知性 的存在なのである。しかしそうであるにしても、否むしろ、そうであるがゆえにかえっ て、天使的存在には、神的直観といういま一つの究極目的に向かう余地が見出されると maxime essentiam habens, oportet quod sit causa accidentium, quae secundario et quasi secundum quid rationem entis participant. 天使的存在における自然と恩寵 — operatio meritoria finis (Summa theol., I, 62) —/59 いうのである。じっさいトマスは、第 62 問第 3 項において「天使的存在は恩寵において 創造されたか」という問題を取り上げた際に次のように記している。 この問題については様々な見解が存しており、ある人たちは、単に自然本性において 創造されたと主張する。しかしある人たちは、恩寵において創造されたという。蓋 然性の度合いが高いと思われるのは、また聖者たちの所説によく合致するのは、天 使たちは成聖の恩寵において創造されたという説である7) 。 同じ箇所でトマスはさらに、 「天使的存在は最初から直ちに恩寵において創造された」8) と いう見解に与することを明らかにしている。そこでは、 『創世記逐語註解』においてアウ グスティヌスが時間的世界における諸々の植物や動物はすべて、 「神の摂理のわざ(opus divinae providentiae)」によって、事物の創成の最初から直ちに「種子的な根拠(ratio seminalis)」のかたちで産出されたという解釈を示したことに従って、「成聖の恩寵」は 「至福」に対して、ちょうど自然界における本性的な果に対する種子的な根拠にあたると し、天使たちもまたそういう仕方で最初から直ちに恩寵において創造されたとしている のである。 4. 恩寵における創造 「成聖の恩寵(gratia gratum faciens)」は、「それによってひとが神に結合されるも の」9) と特徴づけられる。ただしトマスによれば、恩寵はひとがふたたび神へと導かれる ことに関わるものであるから、ほかにも「無償の恩寵」 gratia gratis data と呼ばれる種類 のものがある。これは「それによってあるひとが他のひとを神へと導くために協同する もの(たとえば預言や奇跡)」である。「無償の恩寵」は、自然本性的能力や功績の如何 によることなしに(つまり無償で)与えられるという。しかし受けたひと自身のための ものではない。その点で「成聖の恩寵」とは別ものなのである。 「成聖の恩寵」はひとを 7) Summa theol. I, q.62 a.3c: Respondeo dicendum quod, quamvis super hoc sint diversae opiniones, quibusdam dicentibus quod creati sunt Angeli in naturalibus tantum, aliis vero quod sunt creati in gratia; hoc tamen probabilius videtur tenendum, et magis dictis sanctorum consonum est, quod fuerunt creati in gratia gratum faciente. 8) ibid.: statim a principio sunt Angeli creati in gratia. 9) Summa theol. I-II, q.111, a.1c: per quam ipse homo Deo coniungitur. 60 直接的に究極目的との結合へと秩序づける。 「無償の恩寵」は(たとえば預言や奇跡の類 を通して人々が究極目的との結合へと導かれるように)ひとを究極目的へと向けて準備 することがらへと秩序づける」10) のである。しかし目的は目的達成のための手段にまさる 存在である。そこで、目的への秩序をもたらす「成聖の恩寵」は、手段への秩序をもた らす「無償の恩寵」よりもいっそう高い善に秩序づけられているとされる。 天使的存在が最初から直ちに恩寵において創造されたと言うときにも、「成聖の恩寵」 における創造を提唱していることは言うまでもない。そこでこのような恩寵の秩序に関 しても、天使的存在には知性的本性を有するものに特有の仕方で、しかしその意味でま さに本性的に、神を究極目的として関係づけられていることになる。そもそも「至福と いう名前によって理解されるのは、理性的ないし知性的本性を有するものの究極の完成 である。そこで〔天使的知性は〕本性的に至福を求めることになる。すべてのものは本 性的に自らの究極の完成を求めるからである11) 。」 ただし、先にも触れたように、 「理性的ないし知性的本性を有するものの究極の完成は 二つある12) 。」そのうちの一つは、自らの有する本性的能力によって到達しうるものであっ て、トマスによれば、これはある意味での至福(beatitudo)である。「幸福(felicitas)」 と呼ばれることもある13) 。さらにトマスは、アリストテレスのいう「神の観想」はこれ に該当するものであって、 「この世で得られる究極の幸福」にほかならないとする。しか し他方、 「あるがままに神を見るであろう」という『ヨハネ一書』 (3,2)の一節に対応す ることがらとして、別の神的直観があって、それが「来世において得ることが期待され る究極の幸福」であるという。 そこでアリストテレスも、人間の最も完全な観想(これによって最もすぐれた可知 的なものすなわち神がこの世の生において観想されうる)が、人間の究極の幸福で 10) Summa theol. I-II, q.111, a.5c: Gratia autem gratum faciens ordinat hominem immediate ad coni- unctionem ultimi finis. Gratiae autem gratis datae ordinant hominem ad quaedam praeparatoria finis ultimi, sicut per prophetiam et miracula et alia huiusmodi homines inducuntur ad hoc quod ultimo fini coniungantur. 11) Summa theol. I, q.62, a.1c: Respondeo dicendum quod nomine beatitudinis intelligitur ultima per- fectio rationalis seu intellectualis naturae, et inde est quod naturaliter desideratur, quia unumquodque naturaliter desiderat suam ultimam perfectionem. 12) ibid.: Ultima autem perfectio rationalis seu intellectualis naturae est duplex. 13) ibid.: Una quidem, quam potest assequi virtute suae naturae, et haec quodammodo beatitudo vel felicitas dicitur. 天使的存在における自然と恩寵 — operatio meritoria finis (Summa theol., I, 62) —/61 あるという。しかしこういう幸福を越える別の幸福があり、われわれはそれを来世 において期待する。われわれはそれを得て、神をあるがままに見るであろう。ただ し、先に述べたように、これはどの被造的知性の本性をも越えたことがらである14) 。 自然本性の秩序においてではなく、創造の最初のときから存在する恩寵の秩序におい て、アリストテレスによって言及された神認識とは別種の神認識の可能性についても考 察を及ぼすことができるようになったのである。 5. 「目的となることがらを受けるに値するものにするはたらき」 さて、恩寵における創造が提唱されたことによって、天使的知性の場合にも「幸福」の 二義性があることになる。むろん自然に属するものと恩寵に属するものが区別されてい る。自然に属する完成は、人間の場合のように時間の経過を経て実現されるのではなく、 存在の最初から実現されているのに対して、恩寵に属する完成については、必ずしも存 在の最初から到達されているわけではないという点で、二つの「幸福」の間に決定的な 相違があることは言うまでもない。 もっとも恩寵に属する完成が、自然に属する完成とは別の仕方でもたらされる。その 点で、非理性的存在の場合にも、そのもの自身の自然本性的傾向とは別に、外的な作用 者によって一定の目的に向けて秩序づけられることがあるのと類似しているように見え る。とはいえ、あくまでも理性的存在に適合した仕方でもたらされるのでなければ、そ のような恩寵は自然を越えるというよりむしろ自然に反するものであることになるであ ろう。 じっさい非理性的な事物の場合に、何らかの外的な作用が加わることによって、事物自 身が意図せざる目的に秩序づけられるとしても、もともと自ら意図して目的に向かうこ とのない非理性的な事物にとって、自然に反するということにはならないであろう。む ろんそれだからといって、この種の事物が自然を越えた恩寵を得ることになるわけでも ない。 14) ibid.: Unde et Aristoteles perfectissimam hominis contemplationem, qua optimum intelligibile, quod est Deus, contemplari potest in hac vita, dicit esse ultimam hominis felicitatem. Sed super hanc felicitatem est alia felicitas, quam in futuro expectamus, qua videbimus Deum sicuti est. Quod quidem est supra cuiuslibet intellectus creati naturam, ut supra ostensum est. 62 たとえば出荷用に栽培された作物には、開花・結実にいたる自然本性的なプロセスの ほかに、市場で売り買いされる別のプロセスが控えている。養殖の場合も同様である。 そのようにして生物にとって本性的な、生育や結実にいたる過程が終局を迎えたあとに、 それを収穫し集荷し販売して食用に供するという付加的な目的が達成される場合、 「与え られた目的を達成するに値するもの」は、商品価値を有する。購買者がいれば提供の対 価として金銭の支払いが請求されることになる。 ところでその場合に、代金を得て提供されるもののあり方を表す語が、実は、meritorius にほかならない。売れ筋の商品はもちろんのこと、賃貸の部屋であれ、あるいは娼婦 (meretrix)であれ、商売になるものはいずれもこの語を用いて表示されうる。しかし究 極目的としての至福への秩序において、「目的となることがらを受けるに値するものに するはたらき(operatio meritoria finis)」が措定されるからといって、言うまでもなく金 銭とは無関係である。同じ meritorius という語が用いられるにしても、究極目的として の至福と労働の報酬としての金銭とを同一視する発想が認められるわけではない。また 自然の秩序に対して、いわば外から別の秩序が付加される点で、なんらかの類似性を見 出しうるにしても、そのことが目的となるものに関する類似性を含意しているわけでは ない。 このことは、トマスが次のように述べて、いうところの「目的となることがらを受け るに値するものにするはたらき」を「目的となるものをつくりだすはたらき(operatio factiva finis)」との対比を通して明瞭に区別しているところからも明らかである。 目的へと導くはたらきには、一つには、健康を作り出す医術のように、目的となる ことがらが目的をめざしてはたらくもののちからを越えていない場合に、その目的 となるものをつくりだすはたらきがある。いま一つには、目的となることがらが目 的をめざしてはたらくもののちからを越えているために、その目的となることがら が他者からの賜物として期待される場合に、 〔はたらくものを〕目的となることがら を受けるに値するものにするはたらきがある。究極の至福は、既に明らかなように、 天使の本性をも人間の本性をも越えている。だから、人間の場合も天使の場合も至 福を得るに値するものとなることが〔至福に達するための要件であることが〕帰結 する15) 。 15) Summa theol. I, q.62, a.4c: Quae quidem operatio in finem ducens, vel est factiva finis, quando finis non excedit virtutem eius quod operatur propter finem, sicut medicatio est factiva sanitatis, vel est meritoria finis, quando finis excedit virtutem operantis propter finem, unde expectatur finis ex dono 天使的存在における自然と恩寵 — operatio meritoria finis (Summa theol., I, 62) —/63 同様にして、はたらくもののちからの及ぶ範囲に着眼することによって、 「目的を獲得 することができるはたらき(operatio acquisitiva finis)」と対比されている。 功業は、目的に向かって動くものに属している。ところで理性的被造物は受動によっ てだけでなく、 〔能動的な〕はたらきによっても目的に向かって動く。そこでもし目 的となるものが理性的被造物のちからの及ぶ範囲にあれば、そのはたらきは、目的 となることがらを獲得することができるはたらきであると言われる。ひとが省察に よって知識を獲得する場合がこれである。しかしもし目的がそのひとの権能のもと にはなく、むしろ他者から期待されているという場合には、そのはたらきは目的と なることがらを受けるに値するものにするはたらきであることになろう16) 。 至福を得るに値するものにするためのはたらきと金銭を獲得するためのはたらきとの 相違を仔細にわたって検討するならば、ほかにもさまざまな相違点・留意点を見出すこ とができるであろう。しかしいま「恩寵」としてもたらされた目的への秩序におけるは たらきについて、特に次の点を確認しておきたい。 6. おわりに —– 非一元的世界認識 神の有する至福について、トマスは「神において、存在することと至福であることが 同一である」という。そこでただ神にとってのみ完全な至福が本性的であることになる。 それに対して、いかなる被造物にとっても至福であることが本性であることはない。そ れは究極目的である。あらゆる事物は、自らのはたらきによって究極の目的に到達する ことになるのである17) 。 alterius. Beatitudo autem ultima excedit et naturam angelicam et humanam, ut ex dictis patet. Unde relinquitur quod tam homo quam Angelus suam beatitudinem meruerit. 16) Summa theol. I, q.62, a.9 ad 1: mereri est eius quod movetur ad finem. Movetur autem ad finem creatura rationalis, non solum patiendo, sed etiam operando. Et si quidem finis ille subsit virtuti rationalis creaturae, operatio illa dicetur acquisitiva illius finis, sicut homo meditando acquirit scientiam, si vero finis non sit in potestate eius, sed ab alio expectetur, operatio erit meritoria finis. 17) Summa theol. I, q.62, a.4c: Respondeo dicendum quod soli Deo beatitudo perfecta est naturalis quia idem est sibi esse et beatum esse. Cuiuslibet autem creaturae esse beatum non est natura, sed ultimus finis. Quaelibet autem res ad ultimum finem per suam operationem pertingit. 64 しかしながらいま理性的被造物の場合、いうところの究極目的に二義性があることが 指摘された。完全な理性的存在者である天使の場合、一方では、自己認識の完遂を通し て、自らの知性的本性を完成させている。その場合、認識者としての自己にとっての相 関者として、その認識対象のなかに自己自身のみならず原因としての神的存在をも含ん でいる。そこでそのような自然本性的な神認識とは異なる、至福直観と呼ばれる神認識 が、恩寵の秩序において究極の目的として付与されたことによって、本性的な能力の及 ばないものを目的としてそれを受けるに値するものとなるためのはたらきを要すること になったのである。 『神学大全』の冒頭の設問(I, q.1, a.1c)において、トマスは人間の場合をとりあげて いる。そこでは、理性的存在者としての人間が「理性の把握を越えた目的」に秩序づけ られているとする。もっともこの箇所では、この関係が神の恩寵によってもたらされた ものであるということを「恩寵」という語を用いて説明しているわけではない。しかし 「啓示」によって知らされることがらであることが明記されている。 人間は自らが自らの意図や行為を目的に向かって秩序づけなければならないのであ るから、目的が人間自身によってあらかじめ知られていることが必要である。そこ で人間にとってその救済のために人間の理性を越えたことが神の啓示によって知ら れているということが必要であった18) 。 神の啓示によって知らされた神の真理を、信仰によって受容することが求められると いうのである。それがいまだ知られざる神を信仰によって知ることを意味するとしたら、 その場合に、どのような神認識が成立しうるのであろうか。至福の天使や聖者たちに賦 与される至福は、原因に関するかぎり神自身であるから、その点では被造的でない。し かしそれ自体としては被造的な至福として天使や聖者たちに受け取られると言われる。 受け取られたものは受け取るもののあり方に従うからである19) 。 18) Summa theol. I, q.1, a.1c: Finem autem oportet esse praecognitum hominibus, qui suas intentiones et actiones debent ordinare in finem. Unde necessarium fuit homini ad salutem, quod ei nota fierent quaedam per revelationem divinam, quae rationem humanam excedunt. 19) Summa theol. I-II, q.3 a.1c: Respondeo dicendum quod, sicut supra dictum est, finis dicitur du- pliciter. Uno modo, ipsa res quam cupimus adipisci, sicut avaro est finis pecunia. Alio modo, ipsa adeptio vel possessio, seu usus aut fruitio eius rei quae desideratur, sicut si dicatur quod possessio pecuniae est finis avari, et frui re voluptuosa est finis intemperati. Primo ergo modo, ultimus hominis finis est bonum increatum, scilicet Deus, qui solus sua infinita bonitate potest voluntatem hominis perfecte implere. Secundo autem modo, ultimus finis hominis est aliquid creatum in ipso existens, quod nihil 天使的存在における自然と恩寵 — operatio meritoria finis (Summa theol., I, 62) —/65 認識されるもの(受け取られるもの)は認識するもの(受け取るもの)のあり方に従 う。そこで認識が成立するときには、認識者と認識対象の合一がもたらされる。そこに 成立するのは、最終的に一元的世界認識である。これに対して、恩寵にもとづく神認識 は、どこまでも他者としてとどまる神的存在との関係をもたらす。そこでこれを認識と 呼ぶとすれば、非一元的な世界認識であることになるであろう。もっとも認識という表 現が、常に一元的世界認識を想定させるのであれば、啓示によってもたらされる神認識 という言い方は必ずしも適切でない。 しかしながら、目的となるものを自らのものとして獲得するはたらきによってでなく、 本性的な能力の及ばないことがらを、恩寵によってもたらされた付加的な秩序において、 ひたすら自らを目的となるものを受けるに値するものにするはたらきに従うとき、想定 されている世界認識は非一元的である。このときには、他者として関わる神的存在を自 己自身に同一化することがないのである。 [筆者:広島大学大学院教授] est aliud quam adeptio vel fruitio finis ultimi. Ultimus autem finis vocatur beatitudo. Si ergo beatitudo hominis consideretur quantum ad causam vel obiectum, sic est aliquid increatum, si autem consideretur quantum ad ipsam essentiam beatitudinis, sic est aliquid creatum.
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