花咲稲荷社 - 三洋化成工業

を 歩 け ば ︱︱︱︱
花咲稲荷社
上:文章の神様、新玉津島神社
左上:与謝蕪村宅跡の碑
左:昔は祇園祭の山鉾巡行ルートだった松原通
花咲稲荷。京の町なかに、こんなにすてき
な名前の神社があることを、うかつにも私は
知らなかった。マンションが建つので花咲稲
荷が消えるかもしれない、と聞いて駆けつけ
ると、すでに真新しい建物が。その前に、少
し窮屈そうではあるが、鳥居と小社が装いを
新たにその姿をとどめていた。
古い写真を見ると、大きな一の鳥居、二の
鳥居も見え、境内地は奥深い。境内と社殿は
大幅に縮小されながらも、花咲稲荷はかろう
じて残されたと安どの胸をなで下ろした。
間之町通松原上ル。ここを知る人は少ない
ようだが、この地は京生まれの歌人であり俳
諧師、松永貞徳︵一五七一∼一六五三︶が晩
年に暮らした花咲邸跡である。貞徳はここに
和塾を開いて、貞門派といわれる多くの逸材
を輩出した。のちに新玉津島神社の神職とな
った北村季吟も一九歳で入門し、師が亡くな
るまで花咲邸で学んだ優秀な門下生。季吟の
功績である古典文学の注釈集は〝知の巨人〟
貞徳の精神を継承したものといえそうだ。
自らを花咲翁、五条翁と号した貞徳。かつ
てこの地に花咲稲荷という神社が祀られてい
たことを知り、邸内に稲荷を再興して﹁花さ
き実れ
言の葉の道﹂と誓いを立てている。
俳諧の祖とされる貞徳だが、彼のいちばんの
功績は、それまで公家社会のものだった歌学
を市井の庶民層に浸透させたことだといわれ
住まい、この二地点を和歌・俳諧・文章の神
である新玉津島神社と結べば、藤原俊成、定
家に始まり貞徳、季吟、芭蕉、蕪村をつなぐ
日本の古典文化の旧跡が三角形で結ばれる。
京の町なかに見つけた〝言の葉トライアング
跡のすぐそばである。俊成が祀った新
歌人として彼があこがれた藤原俊成邸
ている。貞徳が住んだ花咲邸は、平安
しても、これほどの文化ゾーンが浮かび上が
わずか一五分もあれば、こんなトライアン
グルを歩けるのだから京都は奥深い。それに
ずれも歩いて五分以内という近さである。
ル〟とでも呼びたい三角形。その三地点はい
玉津島神社にあやかって、自らも花咲
るとは。調べるほどに胸高鳴るひとときであ
五条
東洞院通
け る。 著 書 に﹃ い ま ど き 京 都 職 人 カ タ ロ グ
京都に住
んで働こう﹄﹃京都の不思議﹄正・続など。
︿ く ろ だ ま さ こ ﹀ 編 集 者・ ラ イ タ ー。 愛 媛 県 生 ま れ。
同志社大学文学部卒。PR誌編集会社、フリーのコピー
ラ イ タ ー を 経 て、 広 告・ 編 集 会 社 の 設 立 に 参 画。 主 に
京 都 を テ ー マ と し た 刊 行 物 の 企 画、 執 筆、 編 集 を 手 が
った。
稲荷を祀ったのであろうか。
俊成、定家の歌を大いに愛した歌人
貞徳の門人が北村季吟なら、季吟のも
とへと入門したのが松尾芭蕉。師弟関
係は京の都のこの界隈で、巡りめぐっ
ていたことになる。
花咲稲荷の西北、烏丸仏光寺を西に
入ると、与謝蕪村の晩年の住まい跡が
ある。大阪毛馬に生まれた蕪村は、芭
地下鉄烏丸線
烏丸通
●花咲稲荷社
松原通
蕉の足跡をたどるように東北を旅し、
後に京に暮らした俳画の祖。季吟も芭
四 条
●
俊成社
●
新玉津島神社
蕉も亡き後の人ではあるが、還暦の前
後より住み家としたこの地が、松永貞
徳の花咲邸や新玉津島神社に近いこと
五条通
は念頭にあったに違いない。晩年とぼ
とぼと言の葉の神にお参りする蕪村の
そして、貞徳の住まいと蕪村晩年の
与謝蕪村宅跡●
烏 丸
5
2015 新春 No.488
三洋化成ニュース
6
上:松永貞徳が晩年を過ごした
邸宅跡に残る花咲稲荷社。
『祇
園名所図会』にも登場する神社
だが今は町なかにひっそりとた
たずんでいる(下)
姿が目に浮かぶようだ。
仏光寺通
阪急京都線
四条通
黒田正子 322