新制度が施行されて~その後~ 2015.8.3 遠藤清賢 初めに 新しい制度はすでに始まりました。幼保連携型認定こども園に移行した県外のある施 設長は 1 号認定の子どもを受け入れることによって収入が格段と増えたと喜んでいま した。早く幼保連携型に移行した方が良いと助言してくれました。1 号認定の給付の単 価は保育制度の 4 歳児以上の保育単価の 4 倍くらいの給付が得られると言っています。 そして、1 号認定の子どもたちの受け入れ枠をさらに拡大しようと思うとも言っていま した。実際にこのような制度であるのですが、すべてが良い状況になると考えると危険 です。その地域の状況や職員の体制が大きく影響します。待機児童のいる都市部ではこ のようなことがあるかもしれません。少子化の進んでいる地方では 1 号認定の利用枠が 満たされることは無いと思います。1 号認定の受け入れ枠が 2 号、3 号の受け入れ枠を 圧迫してしまう可能性もあるのです。単純に収入が増えることに惑わされてはいけませ ん、子どもにとって何が最善で最良であるのかを見失わないようにしなければなりませ ん。今後の子どもたちの利用状況の推移にも注意が必要です。私は今年度には移行する と宣言してしまいましたが、移行して良いのかどうかいまだに迷っています。 1. 2 つの課題 悲観的な方向 10 年後の保育について私の意見は悲観的な方向性に留まってしまったように思いま す。少子化によって保育所の減少、株式会社の保育事業への参入、そして私立保育園の 閉園と減少、公立保育所の閉園と減少、等が考えられると報告しました。今年度から始 められた新制度は保育をさらに経営を前面に押し出し、保育を社会福祉から保育産業に 変革する制度に改められたと考えています。私立の保育施設の独自性と経営的な自立が より求められる制度になっています。利用者側から見れば利用のための規制が取り払わ れ、施設利用が容易になったと思います。また、保育内容は施設間の自由競争が促進さ れ、それに伴って保育の内容が向上するように思われます。3 歳児以上に学校教育を実 施するという新制度の謳い文句によって幼児施設は学校に入る準備をする施設である ように思われているかもしれません。 問題点は保育施設として目指さなければならないことは子どもたちの成長を支える ことが最大の使命ですが、経営主体となり施設の存続や、経営内容の向上がより重要視 されるようになってしまうと思うのです。これで良いのでしょうか。多くの利益を獲得 するために、多くの利用者を確保するために保育内容を良くするように努力するという のは、本末転倒なのだと思います。子どもたちの成長を支えるためにより良い保育を行 うのであり、その結果として施設経営が安定すればよいのであり、経営のために保育を 行うということは、保育の向上には繋がらないと思うのです。 3 歳児以上の学校教育の実施はその内容を具体的に説明していません。保育と教育を 一体として捉えられていません。保育より学校教育の方が上位にあるような誤解を持た せてしまいます。成長過程に於いて養護と保育の必要な年代と教育的な対応の必要な年 代また個人の姿によってその対応の比重は異なるのです。この点、3 歳児の集団に対し て一括して教育的対応を行うことがより大切であるような思いを持たせることは施設 現場に良くない影響を与えてしまいます。特に保育園では保育と教育を表裏一体で対応 してきました。このことの重要性はそれぞれの保育実践に於いて証明されています。教 育と保育を異なる対応として捉えるのではなく、一体で対応することの重要性を社会に 理解してもらう必要があります。乳幼児期の子どもたちにとって大切な保育教育は何で あるのかを私たち自身、さらに深め実践しなければなりません。 この点で新しい制度は大きな思い違いを起こさせてしまう可能性があるのです。本来 の保育と教育の真理をしっかり持っていなければ子どもたちの成長を支える本当の保 育と教育は出来ないのだと思います。学校教育ということで課題設定を克服するような 保育が行われた時、子どもたちの成長を支える保育はその真理を見失い、子どもたちの 命を守り成長を支えることができなくなり、ただ、機械的に子どもたちの世話をしてい るということになってしまうように思うのです。出来るとか出来ないに視点を置いた教 育は子どもたちに意味の無いランク付けを行い、場合によっては個々の子どもたちの持 っている能力を支えるどころか、出来ない者は置き去りにし、出来過ぎる者を押さえつ けてしまう可能性もあるのではないでしょうか。現代教育が能力主義、成績重視の教育 に傾いた結果、将来に希望を持つことのできない、また虐めをしたり、虐められたりす る多くの子どもたちを生み出す要因になってしまったのではと思うのです。現代教育と 現代保育の客観的評価が行われず、その一体化についてもなにも議論されずにこの制度 が行われてしまったことは極めて残念なことです。これから将来に於いてこの点をしっ かりと議論し子どもたちにとってあるべき保育教育を考えることが求められます。これ のような状態で行われてしまった制度は、乳幼児期に基本的な信頼感と自己肯定感を獲 得することの大切さが等閑にされ、不安と孤独の中でもがき苦しむ子どもたちを生み出 してしまう危険性を秘めているのです。 保育と教育の真実を追求し現在社会の課題と向き合いながら子どもたちの命を守り、 成長を支えることに使命をもって保育をまた教育を行う時、新たな光を見出すことがで きると思うのです。子どもを育てることは我々の未来を創ることです。人間として生き るためにどうあるべきかを追求しながら、生きることの本質と真理を探究することを私 たちは努力しなければなりません。 2.目指すべき保育の方向 子どもたちの成長にとってあるべき保育や教育を行うことを具体的に実践するには、 3 歳児以上の保育と教育を義務教育と同等の完全義務保育制の実施を考えるべきであ ると思います。日本の社会は残念ながら各個家族が子どもたちを一人の人間として成長 を支える能力を喪失してしまっていると思います。とくに相対的貧困家庭が全体の 2 割 にも達している現状を見逃すことはできなくなっています。子どもたちのあるべき成長 が阻害されていることに危機感を持たなければなりません。日本は応能負担による制度 になっていますが、これだけでは不充分です。子育てに関わる経済的負担は施設利用だ けではありません。子どもがいる、いないでかなりの経済格差が現実に有るのです。そ して、子どもを支える家族としての能力がないのです。子どもと関わる時間が一日の中 で 30 分もないという家庭が増えているのです。なんとか毎日を生活しているという子 育て家族が増えています。この環境の中で、子どもたちの成長を支えるということは不 可能です。従って、子どもたちの可能性が失われてしまうのです。この中に多くの人間 を支えることのできる能力が失われてしまうのです。相対的貧困家庭の子どもたちが貧 困の連鎖が無く通常の生活ができるようになった場合と、貧困の中で生活せざるを得な い状況になった場合を比較すると、税収に於いてその損失は、かなりの額になることが 想像できます。これは重大な損失であることを私たちは分かってはいますが、そのため の有効な手段を持っていません。 経済的な視点で議論しましたが、子どもの精神的な成長に視点を置いて考えてみると、 生活苦の中でどのような成長を遂げるのかを想像すれば、そのほとんどは将来に対して 悲観的で、夢や希望を持つことなく、貧困の中で生きて行くことが精一杯の大人になっ てしまう可能性の方が強いのではないでしょうか。この子達は希望もなく、孤独、ねた みや嫉みを持ち、人を信頼できず、不信と闘争の思いの中で生きるしかなくなるのでは ないでしょうか。幸せとか社会的貢献とか生きがい等とは無縁の人生になってしまうの ではないでしょうか。しかし、この貧困の中で育っている子どもたちが年々増えている のです。この子達が大人になりすべてが同様に生活苦の中で暮らすことになるとは思い ませんが、貧困の生活から脱却できないで大人になってしまう子たちは確実に多くなっ ているのです。それは見逃すことが出来ないくらい増加しているのです。乳幼児期に必 要な保育と教育をうけ基本的な信頼感と自己肯定感を獲得し、人間として生きるための 精神的基盤を形成しなければならないのです。それが行われなくなってしまうと日本の 社会は将来、活気が無く不安で殺人や抗争が頻繁起る社会になってしまう可能性がある のです。こんな未来にしてはいけません。これは私たちの責任です。 もう一つの課題として、少子化によって子どもの数が少なく、子どもたちが自由に遊 ぶことのできる遊びの環境が無いことです。人間が社会的な関係性を学習するためには、 集団で他者との様々な体験的な遊びを通して養われます。命の大切さや、多くの人たち が其々に仕事をし、支え合って生きていることが家庭生活だけでは伝わらない世の中に なっています。自分たちは何を目指して生きるのかを子どもたち自身が思い描くことが できない世の中になっているのです。幼児期から自分たちの社会の中で生きている多く の人たちと触れ合い、仕事等の社会的な体験する機会を与えなければなりません。今の 核家族社会、少子化社会ではこのような体験や学習は家庭ではできません。人はどのよ うにして生きているのかを、子どもたち自身が夢を持ち考えることができるようになる ために、今の私たちがどのように生きているのかを見せ、体験させ、あるべき姿を伝え ることによって人間としてあるべき姿に成長できるのです。これらの課題を克服するた めには全ての子どもたちが等しく集団で生活し、多くの触れ合いを体験する中で社会性 を養い、将来の自分の姿を具体的に想像することができるように、支えることが必要で す。そのために 3 歳児以上の子どもたちに教育保育を義務化することが必要であると思 います。 3.保育施設、教育施設としてのあるべき姿 新しい制度は日本の置かれている子どもたちの危機的状況を打開できる制度になり えていないと私は思います。制度の理念が形だけになっているからです。この制度は発 足した経緯を見直したいと思います。この制度が打ち出された背景は二重行政の中での 幼稚園、保育園のあり方の検討し解消する、待機児童解消のための社会的ニーズの応え る、貧困にある子どもたちの生活改善と教育保育の機会均等、女性の就労補償と促進、 保育所職員の待遇改善などであったと思います。消費税額の増額に合わせるために無理 やりこの制度が施行されてしまった感じがあります。保育と教育の本質が議論されず、 未だに幼稚園と保育園の違いが話題にされています。保育と教育の根本が置き去りにさ れた結果、保育所等の施設は経営が前面に押し出され、3 歳児以上の学校教育の実施な どという意味不明の言葉が横行するようになってしまいました。人間がより良く生きる ために私たちはどのように子どもたちの成長を支えるのかが真剣に考えられないまま 制度は施行されてしまいました。真理の無い社会的行為は人間の傲慢さだけを表現し、 人のために何も生み出すことは出来ないと私は思います。 乳幼児期のあるべき保育と教育の真理はすでに明らかになっています。この真理にそ って子どもたちの成長を支える制度を行うのであれば、教育と保育を一体として対応し、 基本的信頼感の獲得と自己肯定感の確立を目指すために全ての子どもたちが等しく、経 済的負担の無いすべての子どもたちが利用できる子どもたちの成長を支える施設が出 来上がるのだと思います。ただし、この施設は現在の学校のような閉ざされた空間では なく、誰であってもそこで行われている保育や教育を見ることができ、協力して支える ことができる開放的な空間であり、社会と保護者、施設職員が連携して子どもたちの成 長を支えることができる施設になることができると思います。 そのために 3 歳児以上の保育の完全義務化を推進しなければならないと思うのです。 しかも原則無料で実施しなければなりません。新しい制度では様々な境遇の子どもたち が利用できる制度になっていますが、さらにその制度を進化させ経済的な負担をなくす ることを考えて欲しいと思います。この実施のためには経済的なしっかりとした基盤が なければなりません。経済の成長というのではなく経済の安定です。日本が行うべき産 業を見つけなければなりません。他国と競争するというのではなく、世界の人々に貢献 できる真の平和な産業を推進し経済の安定を維持する必要があります。社会福祉や教育 は経済の安定なくしては成り立たないのです。安保法制や原発推進などに国家予算を当 てるのは全くの筋違いです。日本が今まで努力してきた世界平和の推進を根底から破壊 するものであることを私たちは強く訴えます。国は真の国際平和をめざし、子どもの教 育、保育に、未来のより良き人間社会を創造するための人間形成に力を注がなければな らないのです。そのために私たちは今を生きているということを確認したいと思います。
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