内発的発展論の対象事例として世界遺産を取り上げる根拠 世界遺産の

内発的発展論の対象事例として世界遺産を取り上げる根拠
世界遺産の考え方と登録基準
登録基準
(i)人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値
感の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二
の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕
著な見 本である。
(v)あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地
利用 形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本であ
る(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの
(vi)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的
作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
(vii)最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(viii)生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又
は自然 地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。
(ix)陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的
過程又 は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
(x)学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅のおそれのある種の生息地など、生物多様性の生
息域 内保全にとって最も重要な自然の生息地を包含する。
法隆寺地域の仏教建造物 世界遺産記載推薦書の記載抜粋(日本語正文)
3.資産の内容
a)歴史
仏教は中国から朝鮮半島を経由して 6 世紀中頃に日本に伝わった。7 世紀、法隆寺地域では、天皇の
皇子・摂政であった聖徳太子が法隆寺・中宮寺を建立し、また、天皇一族が、太子の病気平癒を祈って法
輪寺を、さらに太子の没後、その宮跡に法起寺を建てた。
7 世紀初頭に聖徳太子が創建した法隆寺はいったん 670 年に焼失する。その遺構は現在の法隆寺境内
の地下に若草伽藍跡として残る。寺は、7 世紀後半から 8 世紀初頭にかけて、場所を変更して、再建され
る。それが現存する法隆寺西院である。その建造物のうち、講堂のみは 925 年に焼失するが、990 年にそ
れも再建される。
西院と並んで現在の法隆寺の中枢部を構成している東院は、8 世紀前半に聖徳太子の斑鳩宮跡に太子
の霊を祀るために建設された伽藍である。
法隆寺には西院と東院のほかにいくつかの子院がある。僧侶は古くは講堂周辺にある僧坊で共同で生活
していたが、11 世紀ごろから高僧とその弟子たちの集団がそれぞれ宗教活動を行う小寺院を設立し、そこ
で生活するようになる。それが子院である。いま法隆寺に残る子院の建造物の多くは 16〜
17 世紀にかけて
建設されたものである、そのころ、西院・東院とあわせて、ほぼ今日に見る法隆寺全体の構えができあがっ
たのである。
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法隆寺は、古くは鎮護国家の寺として天皇家の保護を受け、さらに、12 世紀ごろからは広く一般庶民の問
に聖徳太子を尊崇する信仰がひろまり、太子創建の寺として多くの信者を集めて繁栄した。その維持修理
には終始国家の厚い庇護があった。しかし、近代国家日本の出発である 1868 年の明治維新では、神道を
重んじ、仏教を排斥する思想が尊重され、その趨勢のなかで法隆寺も衰えた。このため文化財の保護の必
要性を認めた新政府は 1897 年に古社寺保存法を制定し、それによって新しく文化財の学術的な調査と保
護の途が開かれた。その伝統は現在の文化財保護法に引継がれている。
法起寺は聖徳太子の遺命によってその宮であった岡本宮跡にその子の山背大兄王が 7 世紀に建立した
と伝える。しかし、16 世紀末、兵乱によって焼失し、わずかに三重塔のみが残る。この三重塔も法隆寺の歴
史的建造物と同じく文化財保護法の保護下にある。
5.世界遺産一覧表に記載する価値があることの証明
a)世界遺産価値基準に適合する根拠及び他の同種遺産との比較
法隆寺西院の金堂・五重塔・中門・回廊・法起寺三重塔などの 8 世紀以前の建造物 11 棟は、現存する
世界最古の木造建造物である。価値基準Ⅲに該当する。
これらの歴史的建造物は、全体のデザインのみでなく、エンタシスをもつ太い柱、雲形の肘木や斗などに
代表される細部のデザインにおいても、洗練された芸術的に優れたものであり、価値基準Ⅰに該当する。
これら建造物のうち、7 世紀から 8 世紀はじめに建造された金堂・五重塔・中門・回廊は、石窟寺院や絵
画的資料からうかがうことのできる 6 世紀以前の中国の建造物と共通する様式上の特色を備えている。これ
に対して、それらに引き続いて 8 世紀のうちに建立された経蔵・食堂・東大門や東院の夢殿・伝法堂では、
新しい唐の様式の影響を認めることができる。このように、法隆寺地域の仏教建物は、当時の中国と日本の
間、ひいては東アジアにおける密接な文化交流の証人となっている。さらにまた、1 地域のなかに 7 世紀以
降 19 世紀に至る各時代の優れた木造建造物が集中して保存されている点でも他に類例がなく、日本の、
そして東アジアの木造の仏教寺院の歴史を物語る文化遺産がここに統合されているといってよい。この点
で価値基準Ⅳに該当する。
仏教がインドから中国朝鮮を経由して日本に伝来したのは 6 世紀中頃である。聖徳太子は当時仏教の普
及にきわめて熱心であり、太子ゆかりの法隆寺は日本に伝来した仏教の最も古い建造物を多数保存してお
り、宗教史上も価値が高い。価値基準Ⅵに該当する。
法隆寺地域の仏教建造物は、日本における仏教建造物の最古の例として 1,300 年間の伝統のなかでそ
れぞれの時代の寺院の発展に影響を及ぼしており、日本文化を理解する上で重要な遺産となっている。価
値基準Ⅱに該当する。
b)他の同種遺産と比較した保存状況
上記の特色を備える歴史的建造物は、日本だけでなく、世界的にも類例がなく、保存状態の比較は不可
能であるが、木造建造物としてきわめて良好な保存状況にあるということができる。
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法隆寺地域の仏教建造物を内発的発展論で評価したい視点
法隆寺第 128 世住職・現長老 高田良信師『世界記憶遺産 法隆寺』1996 年、吉川弘文館「あとがき」
法隆寺は 1993 年(平成5)12 月 11 日に、日本ではじめて世界文化遺産に登録された。その推薦理由は
法隆寺に世界最古の木造建造物群が現存し、上代の仏教寺院の形態をよく伝えているということによる。
しかし、法隆寺にはけっして古い建物だけが存在しているのではない。法隆寺は仏教文化の世界的宝庫
でもあり、7世紀から法隆寺で展開されてきた仏教の学問や信仰と、それに関わる仏教美術の数々を現在
に忠実に伝えていることに注目していただきたい。まさに 1400 年間生きつづけてきたきわめて稀なる仏教
寺院であり、歴史のミイラではないのである。
しかし、その法隆寺が歩んできた道はけっして安穏なものではなかった。そこには歴代の寺僧たちが聖徳
太子を尊崇し、その精神の高揚をはかりつつ伽藍の護持に懸命となった痛ましいまでの苦難の歴史がある。
そのような法隆寺の実像を人びとにご理解いただくために、世界文化遺産に登録されて、ちょうど3周年を迎
えるこの時期に本書を出版することとしたのである。
同師『法隆寺学のススメ』2015 年、雄山閣
「はじめに」
1300 年余り大和の一角に建ちつづけ、古代寺院の原初的な様式を伝える唯一の寺院である。
多くの失火や兵火によって古い堂塔を失った大和の古寺のなかで、どうして法隆寺だけが飛鳥時代の姿
を守りつづけることができたのだろうか。そこには、この寺の立地条件や、各時代の権力闘争に巻き込まれ
なかったなどの理由がある。その勢力が大きくもなく、小さくもなかったことが幸いしたのかもしれない。しかし
いかに堅牢な造りであっても、木造建築を長期間にわたって放置しておけば崩壊してしまったはずである。
法隆寺が現在まで伝えられた背後には、たびかさなる修理をはじめとして、寺院を守ってきた人びとの、不
断の努力と献身があった。しかもその修理には莫大な資金を要した。
法隆寺は、各時代を通じて、必ずしも庇護者に恵まれた寺院ではなかった。しかし、建物を保存するととも
に太子にゆかり深い寺宝を守り伝えようとする姿勢が、法隆寺にはつらぬかれていた。
寺院を守るのは寺僧の努めである。その使命を果たそうとする寺僧たちの労苦は計り知れない。
そうした寺僧たちの心を支えたものは、いうまでもなく信仰であった。しかし、その信仰を考えるとき、法隆寺
にははじめから、人びとが心を寄せることのできた、不動のものが存在した。
それが太子への熱烈なる信仰である。その太子信仰こそ 1300 年以上にわたって法隆寺を守ってきた源
泉であった。そしてその法隆寺は古代の記憶を担いつつ現在まで生きつづけているのである。
「法隆寺を支えた財源」(第四章 法隆寺秘録)
世界最古の木造建築物として、平成5年(1993)に日本ではじめて世界文化遺産に登録された法隆寺は、
けっして 7 世紀を代表する最高最大の寺院ではなかった。たしかに法隆寺が太子によって創建されたとき
は、その時期を代表するAクラスの寺院の一つであったかも知れない。ところが天智9年(670)の焼失後に
再興した法隆寺は、BかCクラスの寺院であった。そのころすでに太子の一族は滅亡し、法隆寺のスポンサ
ーとなる有力な人物の影はそこには見られないことによる。
おそらく法隆寺の再建は、法隆寺へ施入した太子の遺産や太子を慕う多くの民衆の力によってはじまった
と考えられる。そのために資金に苦労しながら再建作業が進められ、資財の不足からその作業が中断するこ
とも、しばしばあったらしい。そのときの法隆寺には、木材や技術を選択するような余裕はなかった。やがて太
子の寺法隆寺が再建の途上にあることを見聞した朝廷からの援助を受けることとなり、8世紀のはじめに再
建が完成をした。ところが、そのように資金に欠乏していた法隆寺が 1300 年後の今日に現存し、国家やス
ポンサーに恵まれて造営された大寺院の建物のほとんどが現存していないという、まことに不思議な現象に
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注目する人はきわめて少ない。
いくら材質の良い木材を使い、優れた技能をもって寺院を造営したとしても、その寺院を維持することがい
かに難しく大切であるか、ということを私たちに語りかけている。
「太子批判からの脱却」(第六章 廃仏の嵐を超えて)
江戸時代から一部の国学者や儒学者たちよって、太子は痛烈に批判を受けている。それは太子が外来
の仏教を広めて、わが国古来の神道を軽視したこと、蘇我馬子による崇峻天皇暗殺を傍観していた、などと
して非難中傷の矢面に立たされたのである。これは、儒学者たちの極端な排仏思想のもとに太子非難を助
長することとなった。……法隆寺でも若い寺僧たちの中には、国学者として名高い平田篤胤(江戸後期の国
学者)の影響を受けて法隆寺から立ち去る姿もあった。
法隆寺年表
574
聖徳太子(厩戸皇子)生まれる
592
推古天皇即位、翌年、聖徳太子、摂政となる
606
太子、岡本宮で法華経を講じ、天皇より播磨の水田を賜る 太子これを斑鳩寺に施入する
607
法隆寺建立
622
聖徳太子亡くなる 磯長陵に葬る
643
蘇我入鹿、山背王らを斑鳩宮に襲う 上宮王家滅亡
648
食封 300 戸が法隆寺に施入される
670
夜半、法隆寺焼失 一屋無余という
679
648 年施入の法隆寺食封停止
685
僧恵施が法起寺の堂塔を造営する
706
法起寺の露盤を造る
711
五重塔の塑像および中門の金剛力士像を造る この頃、法隆寺再建か
739
行信が上宮王院(東院)夢殿を造立する
747
『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』を作成 法隆寺4か所の食封の1として上野国多胡郡山部郷
748
行信、聖霊会を始める
925
講堂・北室・鐘楼などが焼失する
1081
西室が雷火により焼失する
1232
西室を再建し、南端を三経院とする
1252
五重塔に落雷 三層目から心柱に沿って燃え、衆徒らが登って消火するという
1435
学侶・堂方の対立により南大門焼失
1574
織田信長が法隆寺を西寺と東寺に分離する
1605
この頃、豊臣秀頼が法隆寺の全伽藍を修理する
1694
覚勝らが江戸出開帳を行い、伽藍修復の勧進をする
1868
神仏判然令布告 廃仏毀釈運動起こる
1873
真言宗へ所轄を依頼する
1877
皇室への宝物献納を堺県に願い出る 翌年決定し、1万円が下賜される
1934
法隆寺昭和大修理が始まる
1949
未明、金堂より出火、壁画を破損
1967
破損した金堂壁画の再現事業を発願、翌年完成する
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