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現代
左官事情
<その 152 >
「建築と左官」
23. 明治以後の
民衆建築の変遷(52)
写真 224 座売り
画報 近代百年史
第九集 国際文化情報より
ものつくり大学
座売りの様子で「良賈深く
蔵す」良い商いは、奥深いと
ころに品物を隠しておく。賢
い商人は店頭に品物を飾らな
い。
特別客員教授
鈴木 光
写真 225 陳列の様子
しんこざいくぎんざのみちすじ
岸田劉生著 新古細句銀座通思いで
(一)より。
「私の家の隣には勧工場があって私た
ち兄弟たちは毎日の様にそこへ行っ
た。〜中略〜勧工場も日露戦争後、デ
パートメント・ストーアの流行ととも
にだんだんとすたれて、今は殆ど無く
なった様だが、当時は少し人出の多い
盛り場には必ず一つや二つはあったも
のだ。〜中略〜誠にこの勧工場という
ものは、明治時代の感じをあらわす一
つの尤なるものであって、私共にとっ
ては忘れられない懐かしいものの一つ
である。細い一間半位の通路の両がわ
に、玩具、絵草紙、文房具、はては箪
笥、鏡台、漆器類、いろいろのものを
売る店があって品物をならべた「みせ
だな」の一角に畳一畳位の処に店番の
人が小さな火鉢や行火をかかえてちん
まりと座って、時分時にささやかな箱
弁当でも食べていようという光景はと
ても大正昭和の時代にはふさわしくな
い。」と、ある。
梅のつぼみがほころぶ季節となり、春の
訪れが待ち遠しく感じます。引き続き、勧
工場といわれた店舗施設に迫ります。
(編集部)
4.2博覧会の落とし子
4.2.1勧工場
先月号に引き続き、勧工場に関して、
日本建築学会編 「建築大辞典第2版」彰
国社刊 p333より引用する。
「初め公営、1887年以後は民営。男子が
サービスしており、その(ⓒ)陳列法は
西洋風を採用し、また土足のまま出入り
できた。ⓓ1880年(明治13)ごろより民間
の勧工場が盛んとなり、新橋の帝国博品
館明治32年(1899)は3階建てで階段をな
移行していく。明治後半には、勧工場で
民間の勧工場が盛んとなり」とあるよう
し、自然に昇るようになっていて67店が
の客は、商品を購入するだけでなく、散
に当初の殖産政策はほとんど影を薄め、
陳列所を開いていた。1902年には東京内
歩代わりに売店に並べられた商品を見て
陳列販売形式によって不特定多数の客を
で27カ所あったという。勧工場の名称は
歩くことを楽しみにしていた。このよう
大切にし、
『流行(はやり)』という商品を
東京を中心にして東海地方においても用
に江戸期からの対面の座売りの形式から
陳列・販売するようになっていく。
いられたが、特に大阪では「勧商場」と称
(写真224)、商品の陳列販売形式(写真
勧工場は、現在の商店街をこぢんまり
され、1884年ごろの浦山勧商場を最初と
225)
への移行があった。座売り形式は、
と、ひとつの建物の中に収めたもので、
する。ⓔ百貨店の進出で衰退した。」とあ
購入の目的を持たないで店舗に訪れるこ
現在にも存在する駅の近くにあるマー
る。
()
、下線は著者記入。
とはないが、勧工場では商品を自由に手
ケットのようなものである。その実態は
「(ⓒ)陳列法は西洋風を採用し、また
に取って選択できるようになった。
建物の中に通路を挟んで両側に、経営者
土足のまま出入りできた。」というように
これらが、
「ⓓ1880年(明治13)ごろより
の異なる多くの売店が並んでおり、あり
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No.474 2016 年 2 月号