会 報

2015-2016 稚内ロータリークラブ
■今週のプログラム■
ロータリーの行動規範
会報
米山記念奨学生スピーチ
シャルマ・ナラヤン君
菅原清治カウンセラー
2015-16
年度 RI 会長 K.R.“ラビ”ラビンドラン会長
ロータリアンとして、私は以下のように行動する。
し
クラブ会長指針『地域を識り、地域への貢献を』
会長:山本泰照 ・ 幹事:鷲本美智子 ・ 会報委員長:杉川 毅
第 25 回 1月 28 日(木)
稚内サンホテル B1
1)個人として、また事業において、高潔さ
事務局 TEL 22-2030
通算 2857 回
と高い倫理基準をもって行動する。
司 会
吉川 勝プログラム委員長
2)取引のすべてにおいて公正に努め、相手
手に手つないで
とその職業に対して尊重の念をもって接
ニコニコボックス
たくさんのニコニコボックスありがとうございました。
する。
ロータリーソング
石塚宗博会員、安田浩司会員
合計 8,000 円 累計 222,000 円
3)自分の職業スキルを生かして、若い人び
1/14 家族・親睦委員会 ~9名
とを導き、特別なニーズを抱える人びと
出 席 を助け、地域社会や世界中の人びとの生
報 告 会 員 総 数
42 名
出席規定除外者数
1名
前回出席率
73.17%
前回メーキャップ
9名
活の質を高める。
メーキャップ
前回出席修正率 91.17%
本日出席率 63.41%
本 日 出 席 会 員 数
26 名
4)ロータリーやほかのロータリアンの評判
を落とすような言動は避ける。
会 長 挨 拶
山本泰照会長
17 日(日)に弟子屈町に行ってまいりました。
朝五時に稚内を出たのですが、大雪で市内は除雪作業が行わ
れておりましたが、声問方面はあまり除雪されてなく、蛇行し
ながら宗谷岬に入りました。
宗谷岬から海岸線を猿払方面に出たのですが、除雪が万全で
猿払からは嘘のように、雪が積もっておりませんで、紋別・北
見・弟子屈まで舗装が出ており紋別で一泊して月曜日に戻って
まいりました。次の日から稚内・オホーツク方面に暴風雪や大
雪の警報が出て、稚内は風が強かったですが雪が降りませんで
したが、猿払以南は一年分以上の大雪、気温も高い関係で雪も
重く、大変ではないかと思います。
新年家族親睦夜間例会も、大勢の会員家族の皆様にお集まり
をいただきまして楽しいひと時を過ごすことができました。親
睦委員の皆様、宝引きを担当していただいた小林会員、また高
橋会員・嶋野会員には毎度の事ながら、新年にふさわしい獅子
舞をご披露していただき、ニコニコ募金もたくさんに納金をい
ただきまして誠にありがとうございました。
1月8日に、自衛隊の賀詞交歓会、11日には、稚内青年会
議所・シニアクラブ合同の新年会に招かれ出席させていただき
ました。皆様には、公私ともに大変お世話になっておりまして、
それぞれロータリーの会長をしておりませんと呼ばれないわけ
でもありますので、貴重な体験をさせていただきました。本日
は、壬(みずのえ)申年にお生まれになられました石塚会員に
卓話をお願いしております。
-今 週 の プ ロ グ ラ ム-
会員スピーチ
石塚宗博会員
改めて、新年おめでとうございます。
恒例により、「年男のスピーチ」が回って
きましたので、少々の時間、お付き合いくだ
さい。
今年の申年の総体運は、丙の申年で、60
年ぶりの縁起の良い年に当たるそうです。その年のまず初めに、
会員各位の企業のご繁栄と家族のご健勝、ご多幸を祈念申し上
げます。
私は、申年の昭和7年 10 月 18 日に新潟県佐渡市宿根木で
誕生いたしました。千石船の里でして、国の「重要伝統的建造
物保存地区」の指定を受けていて、500 石の北前船の実物が展
示館におかれています。
集落は昔ながらに改修され、年間大勢の観光客が訪れていま
す。現在、佐渡は1市9町村が合併して、佐渡市になっています。
初めに郷里のことにちょっと触れてみますと、佐渡の文化は、
国仲が公家文化、相川(金山)は武家文化、小木(宿根木)は
町人文化に大別され、国仲は中世のころから配流の地域で、鎌
倉時代の承久の変では、順徳天皇が配流され、更には、日蓮上
人、日野資朝、世阿弥など都からの流人の影響で、文化が形成
されました。
相川と小木は、戦国時代から近世初頭にかけて、金山と廻船
により、商品経済が佐渡を大きく変え、金山直轄地の相川と廻
船港の小木を形成させたのです。
宿根木は、その前の中世のころから廻船業で栄えた集落で、
その後江戸幕府によって、小木港が整備され、商業の中心にな
り、宿根木は、船主が船乗りとともに全国各地に乗り出し、商
いを続け、そのために造船技術者が多数出て、千石船の基地と
して繁栄したのです。
しかし、明治の初めに外国から蒸気船が入ってくると、500
石以上の北前船の建造禁止令が出され、造船の技術者は、新天
地を求め北海道へ渡っていったのです。洋式の木造船建造に各
地に出稼に行き家庭の生活は田畑があり年間自給自足の生活が
出来たので、富を残していました。
私は、少年時代を宿根木で過ごし、昭和 18 年4月に小学校
5年生で父の仕事の都合により、母や弟と一緒に新潟港から連
絡船で、北朝鮮の清津府に渡り、松谷国民学校へ転校しました。
次の申年は、昭和 19 年の小学校6年生で、恩師の勧めに従っ
て、昭和 20 年4月に清津府立工業学校の治金科に入学しまし
た。
戦争はますます激しくなっていましたが、清津には、空襲も
なく、軍の徴用造船所だったので食料も不自由なこともなく、
平穏な日々を過ごしておりました。けれども学校では、授業が
少なく、毎日厳しい教練があり、近くの日本製鉄所の勤労動員
に従事していました。教練とは、軍隊の基礎的訓練です。
夏休みになって、ようやく自由な時間を過ごしていましたが、
昭和 20 年8月9日、ソ連が日本との不可侵条約を一方的に破
棄し、終戦の2日前の8月 13 日正午に清津港の沖合におびた
だしい艦船を集結させ、猛烈な艦砲射撃が始まりました。
日本軍は想定外の不意をつかれ、なす術もなく、街は黒煙が
立ち上り火の海と化しました。やがて上陸したソ連兵は、逃げ
惑う住民に発砲し、防空壕の中まで銃撃し、おびただしい死傷
者が出ました。
そのうちに銃声が止んだので、近所の防空壕にいた社宅の人
たちが声をかけて集まり、物陰を拾いながら逃げ始めました。
途中の道路や軒下には、大勢の死傷者が横たわり、見るも無
残な光景でした。そのうちに、ソ連兵に見つかり、射撃を受け
ましたが、みんなで、死傷者をよけながら、建物の間を必死に
逃げ、途中では、日本軍との激烈な市街戦があり、それを避け
て、長い時間を逃げとおし、夕方に山の麓の丘陵までたどり着
きました。そこは、避難民でごった返しでしたが、一行 25 人
が誰一人欠けることなく、辿りついた幸運を喜び合いました。
そこで、グループの主だった人が相談して、ソ連軍が参戦した
からそれを避けて南下することに決まりました。
翌日からは、険しい山道を暑さと飢えに悩まされながらの行
軍でした。避難民が続々続いて、みんな不安と飢えで、意気消
沈の状態でした。夜は雨に合いながら、野宿し、5日目に漸く
コモ山の炭鉱に着きました。父が一行の中に女性や乳飲み子が
いることで、炭鉱の石炭貨車を利用した方が良いと判断したよ
うでした。
早速石炭車に乗り込み、途中空襲を受けたり、子供が生まれ
たりしながら、咸興で乗りつぎ、すし詰めの客車に乗ることが
出来ました。昼夜乗り通して、8月 24 日の夕刻、平壌(ピョ
ンヤン)駅に着きました。
満州からの避難民も加わって、物凄い混み合っていましたが
一行は運よくみんな京城行きの列車に乗れて、身動きもできな
い状態でも、正午ごろ京城に着きました。この時初め、38 度
線で韓国と北朝鮮に分かれ、国境が閉鎖されたことを知りまし
た。
私たちが乗った列車が最後だったのです。少し遅れれば、数
年間は帰国できなくなり、作家の五木寛之氏は、この為に3年
間も帰国が遅れたそうです。
京城は、アメリカの駐留軍の下で、日本軍も警察も自警団や
婦人会も治安警備や引揚者の支援に当たっていて、街は平穏で
した。
私たちは到着後、すぐに近くの小学校に収容され、早速炊き
出しのおにぎりを食べましたが、その時の味とぬくもりに感謝
の気持ちで一杯になり、忘れることはできませんでした。
この学校に2日間いたのですが、父は京城の京城造船所本社
に掛け合い、社員全員の退職金と見舞金を支給して頂いたよう
です。
一行には現地の人が4人いて、若い2人は、「親父さんにつ
いて、日本へ行きたい」と頼まれましたが、「日本の様子が分
からないので、現地にいた方がこれからは良いのではないか」
と説得されて、納得したようでした。
翌日、釜山港から機雷を避けながら、山口県の仙崎港に着き、
ここで、皆が郷里に向かって別れました。
朝鮮で病気のため亡くなった弟と生まれてすぐ亡くなった妹
の2人は、親戚の手で、郷里のお墓に収めてあったので、私た
ち家族3人は、そのまま、京都や伊勢の神社でお参りし、無事
帰国を感謝しました。
郷里に着いたのが、9月初めでしたが、みんな、私たちの生
還に驚き、大喜びでお米や味噌、醤油などの食料品を届けてく
れました。
父は、その月の中頃から、先代の造船業を引き継いで、当時
の宗谷村富磯で事業を始めました。この頃は鰊がくさる程沿岸
におしよせましたが、船が少なく、造船業最盛の時代です。し
かし、昭和 25 年ごろから鰊が獲れなくなり始めましたので、
土建業を兼業し、石塚造船建設所を登録し、建設業を始めたの
です。
昭和 30 年に、事務所を稚内に移転し、昭和 38 年、法人化して、
今日に至っております。
この間、私は、郷里の中学校を終え、小樽の高校を卒業し、
大学は大阪で学び、昭和 32 年卒業とともに父の厳命で稚内に
戻り、それからは、皆さんご承知のようにこの地で暮らしてお
ります。
稚内では、多くの方々にお世話になって今日あることに、今
も感謝を致しております。
引揚の時、また、この地での恩に少しでも報いたいと、これ
まで自分の出来ることで、公私ともに仕事に励んできました。
今年は生れてから7回目の申年になりますがこの間の私の中
での出来事として生死の分かれ目を5回乗込えました。
①‌小4の夏休みに大水の川の丸太から転落し、大けがをしま
した
②‌朝鮮で工業学校入学2か月の時トラックから飛びおり、意
識不明の重体となりました
③ソ連の船砲射撃と市街戦を通り抜けたこと
④‌ゴルフボールが頭にぶつかり、めがねのガラスの破片が
19 個入り大変な思いをしました
⑤‌脳梗塞(H26.11.19 発症)しましたが、他に大病・入院な
く皆様とお付き合いさせていただいております。
以上これからも、どうぞ、よろしくお願いいたしまして、私の
責めを果たしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
-要旨抜粋- (今週の会報担当: 今野徳幸会員)
ロータリーの行動規範
ロータリアンとして、私は以下のように行動する。
1)個人として、また事業において、高潔さ
と高い倫理基準をもって行動する。
2)取引のすべてにおいて公正に努め、相手
とその職業に対して尊重の念をもって接
する。
3)自分の職業スキルを生かして、若い人び
とを導き、特別なニーズを抱える人びと
を助け、地域社会や世界中の人びとの生
活の質を高める。
4)ロータリーやほかのロータリアンの評判
を落とすような言動は避ける。
稚内ロータリークラブ TEL 0162-22-2030 FAX 0162-23-5380
稚内市中央3丁目7-16 稚内サンホテル B1