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北京から北京へ
大島, 利一
東洋史研究 (1940), 5(6): 445-458
1940-10-31
http://dx.doi.org/10.14989/145712
Right
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Journal Article
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Kyoto University
北
北
か
京
京
か
ら
ら
北
京
へ
大
島
-
南
も違って、ヶンくたる清冽な泉の街である。
旅南は北支に珍らしい水の都、しかも江南・のそれと
済
済南に着いたのは九時半、瞬近くの宿に泊った。
うに細い水が曲折しっIx光っ’てゐるのが認められた。
た。艦橋に覗野をさへぎられながら、ともかく帯のや
闇をすかして演河I奮黄河河道だがiを見ようとし
減し、黒布を以って窓を覆うた。私は昇降口に出て、
ろには、窓外は闇一色であった。車内は電燈の数を牛
掲城・晏城では既に黄昏の霧ふかく、黄河を渡るこ
いた。
それからこれを耕し轟してゃまぬ支那の農民の力に驚
利
先づ大明湖畔の山東省立周書館を訪ねたが、あいに
-
-51
四月二十八日の朝は、よく晴れた、静かな、いx日
≒
和だった。私は浦ロゆきの汽車に乗り込んで、支那内
﹄`“
地の旅に出た。三等車の片隅から、北京の街を見逍っ ﹄。
た。
去年の七月、北京へ来てから私はこの日を待ってゐ
た。今年の一月、大使館を通じて、外務省文化事業部
長あてに、旅行許可願を提出してからでも、既に三ヶ
月になるではないか。私の胸は未知の世界への期待に
ふくらんでゐた。
天津から津浦線を南下すれば、窓外に見るものは、
た£
遂に一つの山さへ見あたぢない。その廣さに驚いた・
4妬
5
召
た。その他にも六朝のものなど多く、圓書は見られた
石の本物が見られるといふことに、私はもう夢中だっ
像石はすばらしい。寫其などで見るばかりの漢の書像
て、やっと石刻の類だけ窺くことができた。こxの書
くなことに公休日︵月曜︶であった。門番に事情を話し
方が印象的だ。泰安を過ぎると、山は次第に遠ざかっ
ってゐるといふことが嘘のやうだ。泰山は南からみる
の風雨に耐へて、あの頂上に秦の始皇帝の無字眸が立
きには、何か期待を裏切られたやうに感じた。二千年
がさうだと突几たる岩山の一角を指さし教へられたと
充州に下車して、洋車を駆って曲阜へ行く。途中泗
て沃野がひらける。
圖書館を附してから、大明湖の霊肪に興じ、更に洋
水を渡る。その石橋に打ってある金具に﹁金口椙﹂と
かったが、私は満足した。
車を願って荷山東省政府、黒虎泉、千佛山︵一に歴山
銘がはいってゐるのはこxの地名らしい。
徐州・琳埠ヽ
の世に遊ぶ思ひがした。
抜けて顔子の廟を訪ねたときにぼ、身はさながら春秋
翌朝すがくしい朝の大気のうちに﹁晒巷﹂を通則
った。
宿は鼓棋街の大通族趾、人々は極めて純朴謙恭であ
粛然として襟を正さしめる・。
三支里の地にあり、松柏道を爽みて幽逡古雅、思はす
まは、北京の紫禁城の如くである。至聖林は城の北郊
曲阜は寂しい田舎街だ。その中央に孔子廟があるさ
といふ︶、斉魯大學、廣智院、的突泉とまわった。千佛
山は城の南十支里ばかりにあり、あまり高い山ではな
いが、その頂上からみる斉の國の景観はよかった。
その日ぱ天長の佳節であった。旅南城内の民家では
戸毎に大きな日の丸の旗を五色旗と共に立てXゐるの
が、殊に印象的だった。
泰山ご曲阜
臍南から更に南下すると、東側に突几たる岩山が撹
く。それが泰山に至って極るのだが、その麓から中腹
に至るまで畑が作られてゐるのをみる。
泰山︲轜列車が黍安忙着くまでわからたかっ九。あれ
52
<
曲暴から充州に引き返して︼泊したが、充州には見
^0べきものはない。へ
充州から徐州に出たのは族行の五日目、八月二日で
あった。
雲龍山は麓から展望すると、石坊など林立しこ
はないやうだ6
徐州から淮河を渡って絆埠に一泊した。こy
支の聯銀︲券が通行しない。軍用手票を用ひる。そのた。
めであらうか。街はもの凄いばかり活気に満ち、夜の
京
ほのtい街角から現れては勿ち消える。人々の気も烈
。しいととろと感じた。
南
南京は新政府の首移として復興。途上にあるのだが、
同上・灘噺出土の漢査像石
………
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牡
して未完成だっただめであらう。南京でI番印象的な
白壁万
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]福轍
-
だが、頂上には、これといふものはない。開元寺︵俗
レ?
53
稀噫佛寺︶には先き頃まであったといふ北斉の石佛頭
刻室
済南・
マ
は、もうなかった。
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孔子Iの墓
西楚の覇王項剥が馬を繋いで戯馬をみたといふ戯馬
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゛宍七万作
じ︿一∼
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携言ブ│ダ
。蔓には、いま放送局かおり、この戯馬豪と雲龍山の中
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間にある土山、これが範堵の墓だとのこと。’快哉公園’なほ雑駁の感をまぬがれぬのは、。もとIく近代都市と
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に秉像石ありと、ある人が記してゐたが、そんなもの
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門
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お
のは何といっても中山陵だ。街路樹美しい石豊の路を
な玉器などが多く持ち去られたさうだが、なほ綸書・
先きに北京の故宮から搬ばれた美術品ぽ、小形で高價
陶磁器・家具・装飾品など多数あり、目下整理中であ
行きっx人は種々の感想にふけるであらう。
明孝陵の石人・石獣も立派だ。このあたり初夏の爽
った。
この整備事務所には、標本部のほかに、なほ圖書部
やかな大気のだかに鶯の聾をきく。城内に諾って明の
故宮址を過ぎて王安石の故宅のあとxいはれる牛山寺
と編謬部と天文台の復興を任務とする復興部がある。
中支各地の圖書を捜集したものである。とχには八千
圖1 部は、もとの地質調喪所の址にあり、事使直後
を訪ねる。今あるものは民國このかた重修されたもの
さχ‘やかた廟にすぎぬ・
鶏鳴寺は俗悪だが、その楼上から、北のかた城壁の
のJレクションではこXに及ぶものはないであらう。
巻桔の蔵書が牧められてゐる。定期刊行物が’先づ整理
中支建設賃料整備事務所の標本部がある。こXには大
これらの整理には何れも日本の専門の少壮學徒が営っ
外に、玄武湖を望む眺めがいX。山麓に、もと中央研
いに期待した彰徳殷墟の出土品、甲骨の類は、おほか
てをり、整理完了後には中國側に引き渡されるであら
され、その目録も印刷されてゐる。中國の定期刊行物
た搬び去られて、僅かに土器、甲骨二三4 片を残すの
うが、日支人が平等に利用しうるやうになる筈だとの
究院の祀登科學研究所、歴史語言研究所あり、い奎は
みであった。たゞ﹁朱土﹂といふものあり、土の上に
が、これに就いては、中國の學者にも定見なく、未腿
私は南京に三泊して上海へ行ったのだが、錨途また
雷紋などを描いた朱がベットリとぬられてゐるものだ
表となってゐたものXよし、わが梅原博士に況ありと
は明の方孝侵︵正學先生︶の墓があった。
きく王安石の墓を捜したが、逡に我見できず、台上記
二泊して見學した。
−
中華門外の雨花台は古今の戦跡、その東麓にありと
きいた。
このほか、六朝の佛像や最近富地雨花台の古墳から
醒見された土器などあり、套もしろいものも少くたい。
’7 ̄
−54
449
水西門外の勝棋播石らみる莫愁湖の風趣はそのまx
一片の詩である。その對岸洛かに見える清凍山には九
華の聖跡。清凍寺、古掃葉権などあり、別に見るべき
″
一
″
政府附近皿戦跡をめぐり、・籐租界の上海自然科學研、九^
所と、租界外の東亜同文1 院大學を訪ねたぽかりであ
上海には四日かつて、十一日の朝、揚樹浦砺頭から
/
漢口ゆきの船に乗り込んだ。その時にはまったくホツ
とし゛た。
なほ上海には漢ロの錨りにまた寄ったので、都合十
………
もの社。ないが、俗塵を離れて鶯をきくによいところだ。
海
秦淮の情趣は、私にはわからぬ。。
\
ダ………
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華プ寺
一日ほど滞在した。この時には、特務機開の牧田氏の
案内で、南市べゆき、像園、湖心亭、更に龍華寺まで
衣1丿ノヽ`・ぶ二ぷし
−。い……,
lj……藻
南京から上海へ直行し差のは五月七日、族行の十月︻
自であった。國際都市上海1西も東もわからぬばか
見學できた。油華寺は、ことに破壊のあと痛ましいもI
N
……111
`ymに…
|……`S`‘
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゛
よお厚彰矢丿
羅
-
りか、コトバもさっぱりわからぬ。今までの自由な旅
ま
上海・龍
のがあった。
1隔ど
万こ回,ヽゑ√献
゛びと気分がてへんにふっ飛んで了った。・こ4には渡遁
↓ムムム│
氏、牧田氏がをられるので、そのお世話になっ・た。市
]ブ]サ
ノ
一南京・牛山寺の謐址,
題
]題四
揚
子
江
私の乗った船は東亜海運の興亜丸であった。私は日
ごとに上甲板に出ては、そ。の豪宕な流れをみっx、い
ろんな事を思った。
揚チ江流域の古代文化に就いては、近年に至って中
國の學者によって、いくぶん閣明されるところ&つた
が、わが國に4%Sては、あまりきかないやうだ。私は
何時の日にかこのことを考へることを以ってこの旋の
’紀念としたいと思った。まことに、この流れをみるな
らば、古今を問はす揚子江が人々の心とその誓みに挺
へる力の少くないのを感ぜすにはをれぬ。
むかじ咳下の関みを危く脆れて淮河を渡った四楚の
覇王項羽は、烏江︵江浦螺の西南十五里︶に至って揚子
江を渡らんとした。幸ひそこには烏江の亭長が舟を継
して待ってゐた。こiまで夢中`で逃れて来た項羽も、
この偏舟に乗れば、危急を脆れうるとわかってホッと
した。彼は心身ともに疲れはてxゐた。その彼の眼前
には揚子江がI天地と共に五千キロ、茫漠として際
しらぬ傀れがあった。その雄大政流れは彼の焦燥せる
姿を笑ふが如くでさへあった。彼は呆然とした。い奎
はその気負へる心も屈して、いっが謙虚な思ひがわい
た。それは今までの彼にはなかったことだ。
やがてI天のわれを亡すなりIと悟ってみれば、来
し方は、これ一片の夢であった。處姫も既’になかった。
彼は逡に江を渡らす、自到して死んだといふ。揚子江
の流れは、遂に抜山蓋世の豪雄を扇倒したのだ。ある
意味では、彼を救ったのだ。
それはとにかぐとして、揚子江に開する傅説など集
めてみたらおもしろいだらうと思ふ。
船足は割合¥やかった。第︼日は江陰あたり奎で進
み、日没と共に停船した。二日目は鑓江に寄り、南京
に至っ’て停泊した。三日目には蕪湖により、四日目に
は安慶に寄り、いづれも日没と共に、何處とも知れぬ
江の中流に停船した。江岸祀は夜の更ける迪ともに一
個の燈火すら見えず、たゞ天の一方から流れ下る濁流
だけがあった。五日目の五月十六日、船は薪春石有審
の沖を過ぎ、午後一時牛には、はやくも漢口のバンド
に一着いた。
-
56
450
451
武浪三鎮
漢陽は古代・中世の街、武昌は近世の孵ご僕口ぼ現
代の街−Iこれが私のみた武漢三鎮である。
漢腸は民船に乗って、先づ晴川閣へ行った。晴川閣
武昌の街の中今に蛇山ありて東西に走る。その西端
江に臨むところが、有名な黄鶴橿の遺址である。その
黄鶴檜は既にたく、たゞ奥略閣・ヽ抱膝亭・掲碑亭・張
之洞の祠などを遺ずのみ。江を隔てx漢陽・漢ロを望
。
めば、煙波江上、愁ひに耐へぬ思ひがしたのも詩の功
…こ宍ピ:1r・j
-
徳で套らうか。
融・.
なる■?0の既になく、江に臨む丘の上には同治重修の碑
ムj??碧777ご回ミ
57
これより蛇山の山頂を東すれば、張之洞の遺址たる
……R
など草にうづもれ、傍らに漢臨祁鮭なる白木造りの小
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ズ馮廻
'一心
抱氷堂︲に至る・重た東郊、誉漢餓路の騨近ぐに1 春観
,
さな赴があるばかり。城内の街は極めて狭い。それを
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通り抜けて、西門外の蹄元寺へゆき、更に古琴豪を訪
遍1
-
あり、その東の丘の上に賓通寺あり、更″
忙東の方、洛
J
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かに、線の瓦を葺ける武漢大學の白菖の殿堂がみえる。
亭
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゜'`'`丿爪.....,...,'゛....ご...j.‥....,-._-
武名は静かた街である。’ンクリートの大街を一寸
膝
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陽一検
岳州万・岳
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‥に,
……
……………………循
…
・
作
甕
横にはいると、古風な石蕎みの、もの静かな街が綾き
JSiji
万
ねる。古琴豪は一に伯牙豪とも言ひ、輸山の山裾に横
 ̄……フフリ………1]⊥∠
はる月湖の畔りにある。‘琴にまづはる哀話さながら、
‘i,‘
琴
武昌・抱
・yy、`
乙。
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ク
診ド
柿噺ヰ
∼
ぼ77ゴ
' り
告
痍陽
荒れて寂しい所であった。
52
ひなびた漢陽の街、近代色の漢口の街と違った上品さ
があった。
浅口にはIよくは知らないがIバンドと各國の旗を
押したて土
が、それ’は見る者に強いい印象を輿へる。
州
漢口には、前後十日ほど1 在し、その間に岳州へ行
ってきた。
岳
洞庭湖に臨んで断崖の上にたっ三暦の岳陽橿は、想
像以上にI到るところで想像を裏切られてきた私であ
ったがIそれは立派であった。第三騰には道教の9 さ
ま呂純腸が祠られてあり、其處から望む洞庭湖の眺め
もよかった。
ことに岳州を去る日には、星かげ薄れゆく夜明け方
この岳陽植に立って、滞月の混るかに洞庭湖上の君山
に落ちゆく姿を、私は感動して、眺めた。それから間も
なく、便乗を蕎されて漢ロに下る軍用船の上から、私
は陽を負うて更に美しい岳陽檜に別れを告げたのであ
った。
岳州へ私はゆきには寥漢電路によったのだが、列車
長も騨の人々も、みな皇軍の兵士であった。飼りには
軍用船に便乗を許された。この地は営時皇軍の第一線
山
であると共に、私の旅行の最前線であった。
廬
岳州を訪ねて漢ロに諮った頃には、私はいさI^-R族
に疲れると共に、旅費もとぼしかった。真直ぐ上海に
出たい心を押へて、九江に上陸したのは、一目なりと
唐山を見たいと念じたからだったがご二日廬山山上に
滞在し、そののち無事に上海に肺り着けたのは、1 く
九江の日本領事館の方々の御好意によるものであっ
た。
九江に着いた翌日、老蓮花洞まで自動車で逞って頂
き、それから私は徒歩で登った。途中渓流に會ふごと
。に、掬ってそれを飲みながら、約三時間で粘嶺に着い
た。
次の日から私は、大林寺・・仙人洞・御碑亭・天池寺
黄龍寺・黄龍潭などを訪ね、また廬山圖書館を見學し
た。こxには皇軍占領後、青木中尉が民家等から捜集
58
-
45J
された四部の奮書と新書QA^-k-^しい部数のCの。か‘
牧められ、既に整理もできてゐたのには驚嘆した。
山を下るときは輔に乗ったが、登るときより慶らに
・その路の険阻なるを党えた。
に着いた?
一六月十四日、上海から海杭線に乗っヽて杭州へゆく。
四静かな水に、周園の山の明るい線を映して、西湖は・
澄みわたってゐた。杭州の街も西湖のやうに明るくて
私が訪ねた廬山は僅かに枯嶺のみだったが、峯々重
盛して、谷また深く、具に露山の名に負かぬ廬山を充’
つ
賑かだった。
jム]
白堤を渡って孤山圖書館を訪ねる。こXに’はいま中
ぶ∧丿紅∧ズジ偏゛‘
-
州
支建設資料整備事務所杭州孤山出蔓所の圖ぎ部が設け
こ
59
-
杭
分感じることができた。たゞ山麓の東林寺・西林寺、
`ど・.j.・:r.・
られてあり、附近から捜集された圖書の整理中であっ
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y\蘇4・婁巌山
゛略fi/
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言]
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望・む
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ノ
ノノ………\:
口ムヤし
よ
また海會寺・白鹿洞書院などを訪ね得たかったのは、
プノ
た。こXでも先づ定期刊行物が整理を了ってゐた。例
|
誠に心残りであった。
∧
の四庫全1 は室の箱が残ってゐるばかり。
1
九江に錨って上海ゆきの船を待っとと四日、その間
1
閣
杭州・文瀾
に揚子江を民船で。波って、對岸の小池ロといふ部落に
4?Ii。”、’う″八’
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山
廬
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ヤ゛4
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♂・.ゝ.
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遊んだ。六月四日再び興亜丸太上船しミ七日忙上海
l
文瀾閣は、その隣りの標本部に属し、その構造が北
京の文淵閣と全く同じだから、直ぐそれとわかった。
たダ装飾が異る。内部はほとんど事腕前のをx残され
てをり、階下には種々の風俗、民俗の資料が陳列され
てゐる。階上には洛陽出土の明器などのほかに、この
地方出土の黒色土器など多数あり。こxには別に動植
`物などの標本部がある。
孤山の北側には、宿命の作家蘇曼殊の冪が夏草にう
づもれてあり、橋を渡って更に西すれば、蘇小々の慕
あり、岳王廟あり、ぴとり歩きのできるのは、この適
までゞ恚った。蘇堤は通れず、重隠寺もゆけなかった。
遥かに虎邱の塔が首をかしげて線の丘に浮んでゐた。
蘇州には友人高倉君がゐる・そのお世話になった。
丁度その口から兪榔の生誕百年の記念展覧會が開かれ
てゐた。それを先づ參観しか。
翌日から城内城外の古蹟をめぐっだ。心に残ゐもの
江
は西郊の留園、西園、楓橋、寒山寺、ことに虎邱、露
州・鎮
巌山などであった。﹄
揚
六月二十四日、私に蘇州から鑓江、に出て、直ぢに連
絡船で揚子江を渡って、揚州へ行った。この長江下流
t一乙くないクリークすら見られるのは痛ましかった。寺
一帯の水田は水が少く、田植のできぬ所が多く、水の
さらに湖ありて風趣殊に掬すべきものあり。月の明る
院にはきまって﹁祷雨﹂と記した木牌がかけてあった。
西湖に船を浮べて、湖心亭、小濠洲を訪ねる。湖中
い夜の西湖の畔りにたxすめば、興亡あはたゞしい南ヽ
施忠寺は小東門内にあり、梁の昭明太子が文選を撰
’むし。ろ不思議な位であった。
めて狭い通りに人々がもみ合ふ如く賑はってゐるのが
私には街は古風に、人情は素朴にみえた。たぎ
といふ揚州、その俗は軽揚淫快といはれた揚州だが、
揚州は古風な街だ。嘗ては享察と繁昌の町であった
州
宋の歴史も、これ一片の叙事詩と化する思ひであった。
蘇
。日本の梅雨の呻うな小雨の降る朝であった。私は杭
州を襲って、蘇州へゆく。途中嘉興で汽車を乗り換へ
た。蘇州郊外のクリークに白帆の走る風景もうれしく
-
60
-
454
した處と傅へぐられ、いま岳飛を祀る。太傅街の玩文雄
公廟のうち隋文選檜あり、これは隋の秘書監曹憲及。び
のといふ。
ゝ
。’︲
このほか漢の董仲舒の故宅、晋、の謝安の故宅などを
訪ねたが、伺れも荒唐して殆んど見。るに耐へぬ。’
法海寺の喇味塔を竹林のうちに望んで五亭桶に弓一1
誠に痩西湖の将に背かぬものがある。
揚州に二泊して、鑓江に引き返し金山寺を訪ねる。
むかし空海こχにありて修業したといふ巌窟など見せ
られてから、法塔に登るに、天に連る長江の流れをつ
望に牧める景観は殊に雄大であった々こxの蔵経檜に
は宋版の大蔵経ありと寺檜が言ふのだが、皇軍の手に
61
よって封印がしてあって見られなかった。
/l
W・
・岑
一一
鑓江では金山寺を訪ねたばかり、思ひがけぬ事故の
彰徳・殷墟遠望
ため、私は勾々にして南京に出ねばならなかった。こ
_一一。一一一二
平山堂は城の西北五支里、蜀偏の上にあり、宋の慶
揚州・痩西湖
xに二泊し、長江に最後の別れをつげて、徐州に出て
黄河・柳圃口附近
歴八年郡守欧陽修の建っるところ、痩西湖の栴あるク
T……ノ1
一泊、六月二4 九日には朧海線を西して、早くも開封
:轡.I-。・・ツヅ・べ・f聯砂トエこーヽ。。,。。。元ふ痢ぷ
………
j ノ)万。レ……こT`づ`4・'J゛゛イ`哨
,,
言々レ∧T'‘j丿冪
リークを船でゆく。
Jりで’/
……
藻を沈めた清澄な水は、空の青を映して逢かにひら
鮒為
シ ゾ
:
= (卜ふザ1
∧十万j
ゴプレノク
ダ:∇丿仁ノ\乱
け、揚柳の陰深きあたりには水牛のゆあみするさまに
卜
野趣あふれ、やがて船は徐園、小金山の間を抜けて、
☆丿不二]jTT①∇……丿卜丿……
李善が文選の注を作ったところ、植は昧元が建てたも
455
封
に着いた。降りみ降らすみの陰卿な日であった。
6
・
45
開
開封に着いた夜、私は旅の疲れに、ぐっすり睡って
了った。翌日河南圖書館に、東亜研究所の河逡氏を訪
ね七、宮地の情勢などをきく。それから数日大愛お世
話になり、見學の便を受けた。七の回書館の北の湖水
の地は、宋朝の大内のありしところといふ。
もとの女子師範學校に信陵君の祠ありといふのを訪
ねたが、いま跡かたもなかった。北門内の眠塔は、五
彩の堺色もあざやかに、美しいものだが、その北側に
破壊の跡が大きくあいてゐた。
河南博物館には、新鄭出土の古銅器群は既にないが
先きごろ水野氏の紹介された、隋の宮殿形四面佛や北
魏の石棺をはじめ、夥しい六朝、隋唐の墓誌など、な
ほ見るべきものが少くない。また中央研究院と合作し
て殷墟を腰掘した際の出土物が一室に陳列され、あり
しぼの活躍のさまを物語ってゐる。こxの館長間氏は
更に建設總署のトーフツクに便乗して城外南郊の繁塔
董作賓氏と朋友だと語ってゐた。
萬王壷を訪ね、また北方、柳園ロに出て、荷黄河を見
學できたのは幸ひであった。廣漠たる河底に獣々とし
て牛を相手に畑を作ってゐる支那農民に、彼等の宿命
的な姿が見られる。勿論今でも一寸出水すれば、それ
は一瞬にして流れて了ふのだ。’河岸にはトーチカ連り
所々の水溜りには丁二羽の白鷺らしい鳥が下りてゐ
た。数日前に別れを告げたばかりの揚チ江と、なんと
いふ大きな建0 であらやか。
開封へ来ると、到る處に北京が感じられる・食物な
どもさうW。開封の名物ときく黄河の鯉も、今は黄河
が遠くなったし、昔日のおもかげはないらしい。
開封には五日滞在して、七月四日の朝、彰徳へむか
った。黄河の大餓橋は、昨年の五月、皇軍の手によっ
て開通されたもの、それを渡るときには、改めて黄河
の廣さがズーンと身にこたへた。
新郷を過ぎれば、沃野がひらける。このあたりは殷
周最後の戦ひのあった牧野の地である。
湯陰瓢を過ぎて間もなく、車窓東側、小高い丘の上
に1柏樹に園まれた廟をみるが、これが周文王の廟で
あった。
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古い土だ。自分の構想する歴史の一餉は、たしかに
この土の上に展けたのだと思ふ。
。。徳
.彰徳へは、日没と共に着いた。
彰
y
いふ彰徳、その営時の様を想ひやってみるがよいのだ。
七月六日、私は城の‘西北五支里ばかりの地、。小屯村
の殷墟を訪ねた。瓢公署の支那兵十一名、馬に乗り銃
を肩にして護衛の任につき、瓢公署の井東顧問自ら之
を指揮して案内下さる。私も初めて馬に乗せられ、勇
瞬の北方にて鍼路を越えて、先づ後岡へ行く。こx
躍して西の門を出たのであった。
街になる。それは北支の町、大きな田舎町だ。街には
は昨夏、慶座の橋本博士が醍掘を試みられたところ、
彰徳は、埃っぽい、そして一1 雨ふるとぬかるみの
電燈もあるのだが、それは極く一部分で、夜の街を歩
土器のかけらを数片拾って、いよく小屯にむかふ。
る。その西岸一帯が目指す殷墟の地なのだ。
間もなく、ゆるいカーヴを描いて流れる胆河がみえ
くと、豆ラムプが軒ごとにとをされ、それが寂しい古
風な街の情趣を、やさしく浮ばせる。所々に大きな提
灯の火がみえるのが渫堂である。
都會であった。私は古い支那を訪ねるために族に出た
氏が初め。てこの地を硯察されたとき、一幼童が指示し
河に近いところに、一沙丘あいひ。民國十七年、叢作賓
小屯村は二十戸たびすの小部落である。その北の肛
のだ。しかも古代赴會を考へることを自分の仕事とし
て甲骨その下に出づ、といへるところと思はれた。先
私がこの度の旅行で寄った所の多くは近代化された
てゐる私が、彰徳の夜に、やっと古風な支那を見つけ
ぬ。何かぽ分の心がまへに安易な辨解をゆるさぬ大き
り出て東流して、この地の北に至り、折れて東を廻っ
西方潅かに山あり、大行山であらう。肛河はそれよ
づその地に馬を止めて、地勢を観望することにする。
な誤謬があるのではないか。魏の西門豹がこの地の令
て南に流れる。その水は、そのまx飲料となるほど清
自分の愚かさゆゑと、すますわけにはゆか
として善政を施したといふ戦國の世の眉であり、三國
いのだ。土地に高爽の気あり一面に棉が植ゑである。
たとは!
時代には魏の曹操が此處に封ぜられて眉都と稀したと
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認
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中央研究院の人々の農掘の跡の、あまりさだかでたい
のはヽ先年の大水でヽこの地も流れたといふによるの
へ
∼
こ
であらう。この岡の附近には多数の土器片が散在する。
繩偕文の土器が多い。
思へば、郭沫若氏の﹁中國古代靴會研究﹂や王國維
先生の﹁観堂集林﹂などを讃んで、殷墟の遺物に對す
る興味を憂えた學生時代から、既に何年になるであら
。うか。員夏の烈しい陽ざしの下に、そのあこがれの地
を踏んで、いま私はゐるのだ。めくらむばかりの思ひ
であったJ
私が殷墟の地にゐたのは、僅かに一時間あまりであ
らう。土器数片を拾ったのみである。殷墟として訪ね
なければならぬ所は、この他にもあるけれども、私の
京
貧しい心は、これで満ち足りたのだ。袁世凱の墓にま
わって城に錨った。
北
殷墟を訪ねた日の夕べ、その印象を大切に胸に抱い
て、私は北京ゆきの汽車に乗っ、た。もう旅費もなくな
った。何處へも寄ることはできない。
郁鄭に夢を結ぶ間もなく、七月七日の朝は静かに明
けた。事愛三週年の記念日﹃である。
石門を過ぎるとき、興亜辨営と・いふものを賀つた。
午後には一文宇山・蘆溝橋の傍を過ぎた。私は各地を
めぐつて、皇軍兵士の辛苦のさ奎に接した。私はそれ
等の人々への感謝をこめて、しばし獣祷を捧げた。
午後五時、北京の城壁が見えて来た。六十九ヽ日間の
族を終へて、私は夏姿の北京へ錨つた。
私は、いま、やっと、この貧しい族の記録を書き終りま
したが、ほんの印像記にすぎません。ペンを欄くI ;富っ
てお世話になりました各地の皆様に、厚くお破を申し上
げます。昭和十五年九月二十一日、北京にて識るす。
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