子供たちへかける言葉には 大学で出会えたあたたかさが

わ れ ら
専 修 人
File No.
123
子供たちへかける言葉には
大学で出会えたあたたかさが、
息づいていました
さん、がんばりすぎないでね」と声を
かけました。そしたら今度はお母さん
が泣き出しました。誰しも張りつめた
なかで、精いっぱい生活しているんだ
と思います。年齢を重ね、そういった
こともわかったうえで、接することが
ますが、公認会計士になった人たちは
後輩には「親御さんたちはあなたよ
研修会にて宮城県の同僚たちと。遠藤支部長も一緒に
講師として講演
り年上だから、あれこれ注文するので
はなく、親としてどうだったかなと、
になって勉強した」と言ってます。合
大学入学を機に上京した相原さん。
格した彼らは覚悟が違いましたね。
務めていました。当時、
「婦人少年補
補導を主にしていました。そのほか、
考えさせるように話をしてね」と言っ
専修大学時代は奨学金を受け取るた
導員」という職の募集がありそちらに
少年に関する相談を受けたり、学校や
ています。
めに、毎月学生課(当時)に足を運び
応募し、採用されることになったので
地域で薬物乱用や非行の防止のための
ある意味、人の陰の部分と向き合っ
ました。学生課の人には本当によくし
す。昭和49年の9月のことですが、現
講演活動も行いました。
ていく仕事ですが、うれしいこともあ
てもらいました。進路を決める際には
在は「少年警察補導員」という名称に
この仕事を始めて15年ぐらいした
りました。街で出会った子連れの若い
「学校の先生の口があるけどどうだ」
変わり活動しています。この仕事は警
ころ、教師になった最初の年に受け持
お母さんから「その節はどうも∼」と
って言ってもらって。そのとき中級公
察官ではなく一般行政職です。司法権
ったクラスの中退した生徒から、電話
あいさつされたり、偶然、飲み屋で出
務員の試験に受かっていて、都職員、
はありませんが、少年補導のスペシャ
をもらいました。
「先生、私のカール
会った元少年にごちそうになったり。
東京工業大学の教授秘書、高校教師と
リストとして位置づけられています。
の髪を一生懸命、水で濡らして元に戻
そんな彼らはとても生き生きしていま
話をもらいました。とてもあたたかく
昔は大都市にある警察署にのみ配属さ
してくれたよね」と。
「私にとって先
した。大学と、そしてこの仕事の先輩
していただいて、専修大学に入って良
れていましたが、時代の経過とともに
生って一人しかいないんだよ」と言わ
でもある遠藤さん(仙台支部長・遠藤
かったと思いましたね。
小さい警察署にも必要となり、宮城県
れました。ガツンという感じでしたね。
和子さん〔昭39・法律〕)などはタク
教員免許を取得し、卒業後に高校教
内の全警察署に配属されています。こ
彼女にいまは補導員をしていることを
シーに乗ったら「遠藤さんですよね、
師となりました。教員生活は充実した
の道を志したのは、いま思えば、高校
話すと「へー、やっぱり先生不良が好
昔お世話になりました」とタクシーの
日々でしたが3年目に東京で知り合っ
の教員時代に生徒の相談を受けたり、
きなんだ」と(笑)。まっすぐ伸びる
運転手さんに声をかけられることもあ
た主人と結婚、出産。その後、主人が
親御さんや生活指導の先生と連携をと
子たちを見てると、そうなのかもと思
ったそうです。
気仙沼の市役所に勤めることになり、
ったりした経験があったからだと思い
います。
少年がちょっとつまずいてしまった
ながら公認会計士に受かった先輩がい
私も4年で教員を辞め、気仙沼に戻るこ
ます。採用後は2カ月間、警察学校に
ました。ある日、彼に友達と喫茶店に
とになったのです。当時、高校生だっ
入ってさまざまなことを学びました。
呼びだされました。
「君たちを見てい
た生徒とはいまも付き合いがあります。
当時、本学で出会った
様々な人との想い出と
その後の高校教師、補導員として
歩まれた人生について
語っていただいた。
相原澄子さん(旧姓:遊佐)
元・宮城県少年警察補導員
あいはら すみこ●宮城県気仙沼市出身。1970
(昭
和45)
年、商学部商業学科卒業。卒業後4年間、東
京の高校にて教師を務める。地元の気仙沼市に戻
り、教員試験に応募。その一方でママポリス
(通称)
に応募し、警察学校で学ぶ。
子と親に向けて
優しく語りかける
とき、手をさしだしてあげる仕事を続
けてよかったなと思います。いまの時
代は、インターネットの普及で子ども
教え子からの
衝撃的な一言
子どもと面接するということは、そ
たちの世界がめまぐるしい変動を遂げ、
の子の親と面接するということでもあ
人間関係もより希薄となり、私たちの
警察学校での研修後、気仙沼警察署
ります。子どもはもちろん、親に対す
時代には想像もつかないできごとが頻
に配属されました。その後、志津川署、
る指導が必要な仕事です。ですから、
発しています。だからこそ、私たち大
昭和40年の高校3年当時、専修大学
ると試験にはそぐわないから、別の道
の特別奨学生になるために試験を受け
を行ったほうがいい」と言われてしま
ました。当時は、受験のために必要な
って(笑)。遊んでいたわけではない
交通費を大学側が支給してくれたので
のですが、学生生活が楽しくて、そん
す。気仙沼から神田まで支給されたの
な私たちを見て、心配して思いやりで
若柳署、仙台東署、泉署、宮城県青少
こちらもある程度年齢を重ねてからの
人がお手本にならなければ、とつくづ
で大変助かりました。結果は、奨学生
言ってくれたのでしょうね。それでも
年課派遣、仙台北署、本部少年課に勤
ほうが親の気持ちもわかるし、仕事が
く思います。
ではなく、一般枠で合格でしたが、受
記念受験しましたがやはり落ちてしま
務しました。
しやすかったですね。
7年前に定年し、その後は高齢者の
験のストレスから解放されたくて入学
いました。
仕事の内容はさまざまでした。街頭
50代の頃、万引きをした子の40代
交通安全教室などを担当し、いまは実
を決めました。
補導といって街で声をかけるのがひと
のお母さんと面談した時、
「バツイチ
の娘に「よその子ばかりで私の面倒を
商学部に入学し、公認会計士をめざ
つ。パチンコ屋さん、ゲームセンター
で一人の私が一生懸命やっていて、自
みなかったんだから」と言われて、孫
などに足を運んでは声がけしました。
分にできることはなんでもしている。
の面倒を見る日々です(笑)
。
また、14歳未満で法に触れる行為をし
これ以上なにをしろっていうの ! ?」と
た子にも指導します。中学2年生まで
いう態度がみえました。だけど子ども
の子で万引きや空き巣をした子たちの
はそばで泣いていて。その時に「お母
しました。計修会という会計士を目指
す学生グループに所属して、受験時に
知り合った女友達とともに勉強に励ん
でいたのです。グループには現役学生
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できるようになりましたね。
「あのころは食事もろくにせずに必死
宮城県気仙沼市の高校を卒業し、
故郷を出て商学部へ進学
会計士を目指し勉学に励む
いまでも当時の仲間と同窓会で会い
No. 74 2016. 1
(写真左)大学1
年生か2年生の
ころ。生田校舎
にて。
(写真右)
卒業近く
高校教師から一転、
少年補導のスペシャリストに
地元では、実父が防犯協会の役員を
ママポリス 少年警察補導員
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