標榜する

新ヒラリ ズム
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標榜する
陽羅
義光
政治で も哲 学でも 芸術で も、
「○○ 主義 」を標榜 する団 体や個 人を、胡
散臭く感 じる 人間は 、精神 的に性 格的 に 、まとも であ る。
まとも では あるが 、元来 主義 を標榜 す る者は、 標榜 しない 主義者 ほど
胡散臭く はな いもの なので ある。
手っ取 り早 い例で 恐縮だ が 、文 学の世 界で云え ば「写 実主義 」
「 自然主
義」「 浪漫 主義 」「超 現実主 義」 などい ろ いろある が、 主義を 標榜し てい
る作家は 可愛 いほう で、な ぜな ら(結 果 論として )標 榜する ほど主 義に
徹底して いる わけで はない から で、実 は 主義を標 榜し ていな い主義 者ほ
どやっか いで 困った 代物は ない。
当代一 流の 人気作 家村上 春樹 には、 ま だ「主義 」と いう冠 は誰も 付け
ていない が、 その文 学には 残念な がら 決 定的な「 主義 」が在 る。
それは いわ ば「雰 囲気主 義」だ 。
村上春 樹は 猫が好 きらし く、猫 のこ と を書いた 掌編 や童話 もある 。
『ふわ ふわ 』は童 話かも しれな いし 、 掌編かも しれ ない。
一応文 学の 範疇と 認め、 例題と して 解 りやすい ので 取り上 げてみ る。
【ぼくは 世界 じゅう のたい てい の猫が 好 きだけれ ど、 この地 上に生 きて
いるあら ゆる 種類の 猫たち のな かで、 年 老いたお おき な雌猫 がいち ばん
好きだ。
その猫 が、 長いあ いだ使 われ ていな か った広い 風呂 場を思 わせる よう
な、とて もひ っそり とした 広が りのあ る 午後に、 太陽 の光の あふれ た縁
側で昼寝 をし ている とき、 そのと なり に ごろりと 寝こ ろぶの が好き だ】
この「長いあいだ使われていなかった広い風呂場を思わせる」のは、
「とても ひっ そりと した広 がりの ある 午 後」な のか 、
「 太陽の 光の あふれ
た縁側」 なの か、そ れが不 明確。
もし前 者な らば、 馴染み のな い曖昧 な 形容が、 馴染 みはあ っても 曖昧
な時間を 形容 すると いう 、「雰 囲気」 だ けの文章 。
もし後 者な らば、 風呂場 と云 う固有 名 詞が、縁 側と 云う固 有名詞 を形
容すると いう 、誤魔 化すた めだけ に書 か れた文章 。
こうし た文 章は 、「雰 囲気主 義」と で も呼ぶし かな いだろ う。
これは ほん の一例 であっ て、 村上春 樹 の文章は 、こ うした 「雰囲 気」
文章に溢 れて いる。
それも (甘 ったる いスト ーリ ーと共 に )曖昧好 き、 いい加 減好き の現
代の読者 に好 まれる ゆえん である 。
以上は 、別 段厳し い指摘 とい うもの で もなく、 村上 春樹の 文学は 大衆
受けのす る文 学であ り、そ の作 品の大 半 はエンタ ーテ インメ ントで ある
のだから 、こ れはこ れで仕 方がな いと 云 うことで ある 。
胡散臭 くと も魅せ られる のが 、信者 と 云うもの のや っかい で困っ た志
向である のだ から。