はるかなり 京都の孫の処に寄れば必ず奈良まで足を延ば ガンダーラ(上) し、東大寺、法隆寺をはじめ、興福寺の「阿修 パミール(葱嶺)を越えて 栁 羅」も何度か拝観しました。又、東大寺戒壇院 みなぎる 幸夫 「広目天」の漲る眼力にいつも圧倒されます。 もう何年も「仏像 とはいっても私が寺院建築や仏像に特別の ブーム」が続いてい 執着をもっていたわけではありません。むしろ ます。 お寺よりもお宮で、祭神の背景にまつわる古代 かつての2009年、 豪族の動向などに強い関心をもってきました。 興福寺「国宝・阿修 しかし、縄文、弥生、古墳時代から対象の時 羅展」は、東 京 展 が 代が下ってくるにつれ、中国、朝鮮半島との関 94 万 人 以 上 、九 州 わりや、仏教伝来をめぐる蘇我氏と物部氏の対 展 が 71 万 人 以 上 の 大 盛 況 で 、阿 修 羅 像 が 立、飛鳥、奈良時代の国家権力と民衆支配の仏 夏 目 雅 子 に 似 て い る と か 、貴 乃 花 に 似 て い 教の位置づけについての知見も拡げたい。さら る と か・・。全 国 に「 仏 像 ガ ー ル 」と 呼 ば に仏教の成立や仏像の起源についても調べた れる、若い女性の仏像ファンが増えたり、 いと若干の研究書も読み始めました。そしてあ テレビ番組も今なお盛んです。 のアルカイックスマイルの「半跏思惟像」の起 そうしたブームが起こ 源もガンダーラにあることを知りました。 る時代背景の分析はさ ておいて私は京都・広 1984年、福岡市で「パキスタン・ガンダ み ろ く ぼ さ つ は ん か ぞ う 隆寺の「弥勒菩薩半跏像」 ーラ美術展」が開催されました。 が美しいと思います。中 そこで展示されて 宮寺「菩薩半迦像」の いたパキスタン・ 微笑みも魅力的です。 ラホール博物館の せ っ く つ 又 、韓 国 慶 州「 石 窟 あ ん 庵 の 傑 作「 如 来 坐 像 」。 「釈迦苦行像」。 その肋骨が浮き出 敦煌莫 高窟 の 妖 艶 な 菩 薩 像 、暗 闇 の 中 で 高 した凄惨なまでの 感度フイルムで撮っ ックを受け、ガン た イ ン ド・ア ジ ャ ン タ ダーラ美術への好 と ん こ う ば っ こ う く つ リアリズムにショ ー 石 窟 の 持 蓮華 菩薩 奇心が次第に高ま などの感動は今も鮮 っていきました。 じ れ ん げ ぼ さ つ 明に蘇ってきます。 1996年の秋、シンガポール半日観光の後、 北京に一泊、紫禁城などを見て空路新疆ウイグ ル自治区のウルムチに10年ぶりの再訪。さら にロシア製航空機にて天山山脈を越え中国最 西端の都市カシュガルへ。ここでの観光を終え、 カシュガルからバスでパミール高原(中国名・ 葱嶺)を越えました。標高4943mのパキス カラクリ湖とムスターグ・アタ峰(7546m) てんじく を通らなければなりませんでした。漢代に天竺 ほっけん (インド)をめざした法顕の記録では、 「山脈に従 か ん そ って西南方すること十五日、その道は艱岨で、 がいがん けんぜつ せんじん 崖岸は嶮絶である、その山は石ばかりで、千仭 の絶壁をなし・・。下の水はインダス河で、昔 うが はしご の人が石を鑿って路をつくり、かたわらに梯 を ほっけんでん かけたところを七百度も渡った」(法顕伝)とい ひんぱん います。実際、これまでの行程の中でも頻繁な 落石の箇 タンとの国境クンジユラブ峠に着く前に早く 所が多く も高山病の初期症状に。タイヤのチューブに詰 下車して めた酸素を補給します。中パ国境のパミールに 歩かねば は、ヒマラヤ、カラコルム、ヒンズークシ、天 ならない こんろん こともあ 山、崑崙の山脈がひしめき合い、高山への登山 などほとんど無縁の私には異境の世界でした。 5千mの高所も初めで終わりの体験でした。 クンジュラブ峠は1986年までは外国人 立ち入り禁止で、かつてはあのNHK「シルク ロード取材班」もこの峠を越せませんでした。 り ま し た。 (※9.11テロ以降は観光客も減少、昨今は 大規模な地滑りで河の堰き止めでハイウェイ が水没したり、現在の交通状況は不明です) さて、秘境と云われたフンザに二泊。夜明け 前ジープで山に登り、ウルタル、ラカポシ、デ ィラン、ゴールデンピークなどの名峰が一瞬黄 金色に輝き染まっていく光景に陶酔しました。 眼下にはフンザ河の渓谷に少し開けた集落 があり、1974年まで900年間続いた藩王 国のアルチット故城が見えます。フンザの住民 まつえい はアレクサンドロスの末裔 だという伝えもあ ります。西欧風の顔立ちでハッとするような美 少女に出会ったりします。住民はイスラム教シ テレビで見覚えのある国境の白い石碑の前で ーア派の分派イスマイル派が多いといいます。 深呼吸をしながら中国側とパキスタン側をよ 桃源郷フンザ ろよろと行ったり来たり、感慨ひとしおでした。 中パ国境からパキスタンのイスラマバード 付近にあるインダス川のタコット橋までの6 45キロの道路がカラコルムハイウエイです。 1978年の開通まで約20年を要し、難工事 のため犠牲者は三千人を超えたといわれます。 かんじょ このルートは中国で1世紀頃書かれた『漢書』 の西域伝にも出てくる天下の難所です。中国か らガンダーラやインドに入るには、必ずこの道 中央の高い所にアルチット故城 右よりフンザピーク、レディフィンガー ギルギット河(左)とインダス河(右)の合流点 ウルタル峰(7329m)長谷川恒夫氏遭難の山 上流(北)に向かって左(西)から流れてく るのが今まで通ってきたギルギット河、右(東) から合流するのがインダス河。そのインダスの 西にヒマラヤ山脈、ギルギットの南にヒンズー クシュ山脈、その間にカラコルム山脈が望まれ るというきわめて興味深い場所でした。 五千万年前にインド亜大陸がユーラシア大 陸に衝突してヒマラヤなどの山脈が生まれま しゅうきょく した。ハイウエイの路肩に異常に褶曲 した地層 が見られ、今でも年に5センチくらい押し上げ ているという話を聴くと、地学に弱い私も含め ナガー て同行者でしばし議論が沸いたものです。 ル村の ホッパ インド ー氷河 亜大陸 とユー ラシア 大陸が フンザよりフンザ河に沿ってギルギット、チ ぶつか ラスへ向かいます。対岸の断崖の中腹には昔の る地点 シルクロードがへばりつくように半ば崩れか かって残っていました。途中下車して散乱する さらに、インダス河を下って行くとチラスと ガーネットの原石を拾ったり、ラカポシの氷河 シャティアルの間の十数キロにわたる河辺に ま がいぶつ やカールガーの磨崖仏(7C)の撮影に時を過 ごし、ギルギットへ到着。ギルギットは古来よ り中国とインドを結ぶ交通の要衝として多く ぐ ほ う そう 有名な「岩絵」を見ることができます。 チラスでは6、7mの岩山に仏塔(ストゥー パ)や、菩薩像などが描かれています。中でも の交易商人や求法僧が通過した所です。812 冠を被った弥勒菩薩像は5、6世紀にカシミー 5mの世界で9番目に高いナンガ・パルバット ルで発達し、その後アフガニスタンのバーミヤ を見て、やがてギルギット河とインダス河が合 ンや中国のキジルでも見られることから、此処 流する地点に立つことができました。 を通過していったことが証明されるといわれ ています。又、旅の安全を祈願するために仏像 インダス河の河辺にシャティアルの岩絵が点在 が描かれたともいわれています。 チラスの岩絵 ここで興味深いのは、1987年にチラスⅡ A(前1C~後2Cの岩絵)に描かれた、頭が シャティアルの岩に描かれた文字 ストゥーパ(仏塔)の形をした人物像や、坐仏 とストゥパが合体した絵が最初期の仏像だと する論文(H・ダーニー)が出され、仏像の起 源をめぐる問題に大きな一石が投じられ、注目 を集めていることです。つまり、ストゥーパの 絵姿から仏像が発展してきたという見解です。 じ ゃ く めつ ストゥーパとは仏塔のことです。釈迦が寂滅 して最初に築かれた墳墓は8か所とも10か シヤティアルには紀元前の絵もあります。 所ともいいます。これが最初のブッダ・ストゥ 又、黒い岩肌に白く奇妙な文字も描かれていま ーパです。釈迦の舎利(遺骨)は容器(舎利容 す。ソクド語やサンスクリット、パーリ、カロ 器)に入れて、ブッダ・ストゥーパの中心部の シティ文字などがあるといいますが、勿論私に 底に納められました。この舎利と舎利容器は崇 は全く判別できない代物でした。 拝の対象となり、やがて象徴となりました。ス し ゃ り ト ゥ ーパ はサ ンス クリッ ト 語で 、漢 訳で は チラスはかつて探検家オーレル・スタイン ほんしょうたん (1862~1943)が仏教の本生譚(ジャータカ) し ゃ し ん し こほんしょう そ と ば 「卒塔婆」と音写されました。前500年頃の 最初のストゥーパは、インドで直径3~5mの の中の「捨身飼虎本生」図を丈の高いストゥー 半球型のものでした。それから約200年後に、 パの刻画の近くで発見した所だといわれます。 最初のストゥーパの位置にアショーカ王が大 た ま む しの ず し この説話は法隆寺の玉虫 厨子 絵でよく知ら さ っ た 型のストゥーパ(直径15m前後)を築き、煉 れています。釈尊の前生である薩捶王子が、飢 瓦で覆いました。釈迦の舎利(遺骨)は分骨さ えた親子の虎に我が身を与えるため、崖の上か れ、築かれた数多くのブッダ・ストゥーパは、 ら身を投げたという説話です。こんな山奥に菩 後に広く釈迦の象徴となりました。日本では、 ふ せ 薩の捨て身の布施 物語など、仏教が昔も今も 卒塔婆の語は木の板の供養塔を意味するよう 人々の心をとらえて離さない根源的な魅力の に変わり、本来の卒塔婆(ストゥーパ)は塔と なり、五重塔などになりました。 (続く) 一端を物語っていると思いました。 そ と ば
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