私の机 ――とうろうあかり(写真)と榎を前に見る―― 築九十年の母屋の傷みが酷くなり、平成十八年十二月四日から翌年七月十九日にかけて、やむを 得ず改修した。そして、私たち夫婦は、離れから母屋へ移った。さて、私の机をどこへ置くか、目 の前に榎が見えるところにしよう。私は密かに決めていた。 離れでは、結婚して以来ずっと座卓を使っていた。母屋へ移るのを機会に、お気に入りの古い机 を使うことに、これも密かに決めていた。この「古い」を説明しておかなければならない。いつの 頃のものかは定かでない。多分戦後間もなくの製作品だと思うが、もしかしたら戦前の創立以来の ものかも知れない。 昭和四十五年四月、観音寺商業高校から笠田高校へ転勤した。職員室は、赤屋根の名で親しまれ ていた昭和三年建築の本館一階にあった。教頭の西原孝司先生が使っていた。その時に初めてお目 にかかった机である。 昭和六十一年三月末のある日、昼食に農場実習から職員室へ戻ると、見慣れていた教頭の机がス チール製の新しい机に変わっていた。校長の指示で、買い換えたのだと言われる。 「古い机はどうす るんですか」と事務長に訊いた。 「廃棄処分です」と言われる。 「あんないい机を、それは勿体無い。 譲って下さい」とお願いした。 「じゃあ、千五百円でどうですか」と言われるので、直ぐに支払った。 焼却場へ運ばれて焼却寸前の机を、昼食抜きで昼休みに私の通勤用の軽四トラックで家へ運んだ。 学校へ帰ってくると、玄関前にあった楠の大きな株を載せて校門を出ようとする造園業者のダン プに出合った。運転手が知り合いであった。 「それ、どなにしたんな」と訊いた。校長の指示で切り 倒して株を掘り出したのだと言われる。 「それ、どこへ運ぶんな」と重ねて訊ねた。 「室本の埋立地 へ捨てに行くんや」と言われる。 「ほんなら音田の氏神さん・産巣日神社へ捨ててつか」と言ってみ た。嬉しいことに、 「この楠、殺すのには忍びないがな。捨てる場所を指示してくれたら、そこへ植 えてあげるぜ」と言ってくれる。とんぼ返りで、産巣日神社へ案内した。昼食抜きで午後の実習に 入ったが、気分は最高に爽やかだった。 家へ持ち帰った机は、母屋の三和土の土間に二十年余りも置いたままになっていた。長年の汚れ を丁寧に除け、ニスを塗って仕上げた。その生き返った古い机を、改修がなった母屋の小座、胸高 幹囲三一五センチの榎の幹が見える場所へ置いた。机の前に坐って障子を開けると、丁度目の前二 メートルのところに榎の幹が見える。 この二月、雪の山形に朋友島貫武彦君を訪ねた。二月六日、雪にすっぽりと覆われた上杉家御廟 (米沢藩主上杉家墓所)へ案内してくれた。雪の中、杉の巨木の木立を通り抜けると、これでもか と思えるほどに雪を戴いた歴代藩主の廟屋が整然と並んでいる。四国育ちの私が生まれて初めて見 る絶景、その山形行きの余韻を一ヶ月近くも楽しんでいると、折しも三月三日、島貫君から郵便が 届いた。 『陽ざしが春になった。米沢御廟の雪の写真が手に入った。カレンダーで、貴君の思い出に なればとお送りします。用件のみ。三月二日、島貫、小野大兄』の文が添えられて、 〈とうろうあか り(米沢御廟所) 〉のカレンダーの写真(二八センチ×四四センチ)が入っている。立ち並ぶ廟屋 の前の通路の両側の雪の壁面に数十の穴を掘り、その中に明かりを灯している。幽玄の極致と言っ たらいいのだろうか。またまた私に更なる余情が甦ってくる。 私は直ぐに、私の机の前、障子の上の敷居に、ジパング倶楽部のカレンダー〈四国鉄道の旅〉の 横に並べて貼った。障子を開けて〈とうろうあかり〉の下に榎の太い幹を見る。名状しがたいその 眺めを写真に撮った。そして、島貫君へのお礼状へその写真を添えた。 古い机の前に坐って、障子を開け、 〈とうろうあかり〉の写真の下に榎の幹を見ると、産巣日神社 で生きながらえて大きく成長している楠が重なって見える。そうして、今日も榎から元気をもらっ ている私である。 (平成二十七年四月一日)
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