20150417-195846

バレーボール部通信
松戸市立根木内中学校
紫電一閃
~しでんいっせん~ 平成 26 年度第 26 号
~ 悔しさを忘れないこと~
先日、全日本女子バレーボール監督の眞鍋監督の講演会に参加してきた。3 時間ほどの話の中で、一番
話されていたことは「モチベーション(動機づけ)」である。そのモチベーションをプロデュースでき
る人を『モチベーター』というらしい。モチベーターは多くの夢を語り、話していると周りがわくわ
く感や勇気を与えられる情熱的で実行力のある人だ。『監督、リーダー = モチベーター』とも言える。
しかし、誰もが最初から高いモチベーションを持っているわけではないし、モチベーターでもないのだ。
高みを目指すにはきっかけがある。
① 眞鍋監督
全日本男子は 1972 年の金メダル以来、レベルの低下が進み、メダルから遠のいていった。
ついには 1996 年アトランタ五輪予選敗退し、出場権が獲れなくなってからの約 12 年間、オリ
ンピックに出場ができなかった。そのアトランタ五輪出場権をかけた戦いに、眞鍋監督はセッターとして
コートにいた。ゆえに「五輪出場権を獲得できなかったセッター」として、大きな責任を感じていた。
そして、日本人初イタリアリーグのセリエAに移籍し、技術の向上を目指した。異例の海外でのバレーボ
ール、その原動力は計り知れない悔しさでもあった。そして日本へ戻り、実業団の選手兼監督を経て、
自身では届かなかったオリンピックのメダルを獲るため、全日本女子の監督に手を挙げた。
もう一度、日の丸を付けて、オリンピックで戦いたい。メダルを獲って世界一になりたい
②
竹下佳江選手
『東洋の魔女』と恐れられた日本女子バレーが、たった一度だけ、オリンピックの
出場権を逃したことがある。そのコートにいたセッターが、竹下選手だった。多くの
メディアが『セッターが 159cmの身長では世界を相手に通用しない』と批判した。責任を背負い切れず、
竹下選手はバレーボールを辞めた。しかし、眞鍋監督が実家の福岡まで竹下選手を求めに行った。眞鍋監
督は「私にも、同じ悔しい経験がある。一緒に世界を獲ろう」と話したのだという。また「竹下の悔し
さが痛いほど分かるから、もう一度、世界と戦うには竹下を誘うと決めていた。」とも話した。
竹下選手は代表復帰し、その後『世界最小・最強セッター』と呼ばれ、各世界大会でセッター賞やレシ
ーブ賞を獲得し続け、見事ロンドン五輪で銅メダルを獲得し、日本に 28 年ぶりのメダルをもたらした。
実は、その試合は人差し指を骨折しており、ギリギリの戦いだった。当時 34 歳、ボディコントロールも
絶えず行い、この一勝に全てを賭けてきた。この勝利は、これまでの悔しさと勝ちへの執念に尽きる。
練習はウソつかないと思うし、自分がやってきたことは絶対に裏切らない
③
福原 愛選手
オリンピックのメダルは 3 位まで。1位の金メダルと、銀や銅は違うとよく言われる。
しかし、もっと違うのは 3 位と 4 位である。福原選手は、北京五輪で中国の選手に負けて
4 位となった。「もう二度と、負けたくない」と思い、ある行動に出た。それは自分の練習台を囲う壁に、
負けた選手や、負けた瞬間の写真を貼ったのだ。それからというもの毎日必ずその壁の写真を見ては、
涙を流してから練習したのだという。その日々は 3 年半続き、ロンドン五輪では銀メダルを獲得した。
小さい時からオリンピックでメダルを獲るのが大きな夢で、夢はちゃんとかなうんだな