脱・都会!地方に移住した若者たち - 中国経済産業局

脱・都会! 地方に移住した若者たち
東京都→広島県尾道市
新里カオリさんの場合
Part1
総務企画部 広報・情報システム室
TEL 082-224-5618
このコーナーでは、東京や大阪などの都会から、地方に移住し、充実した生活を送って
おられる方をご紹介します。
連載第1回は、東京都から広島県尾道市向島に移住し、株式会社立花テキスタイル研究
所の代表取締役を務める
新里カオリさんにお話しを伺いました。
新里さんは、東京の美術大学でテキスタイ
ル(※)を学んでいました。大学院を卒業し
たら、海外に留学して激しいデザインの世
界に身を置きたいと考えていた彼女が、尾
道の向島に移住することになった理由は?
尾道との出会いから現在までの歩みをご紹
介します。
(※)テキスタイル・・・繊維全般や染織に関する材料や原料、またはそれらを用いた表現。
尾道との最初の出会い。
⼤学院1年⽣のとき、広島市の現代美術館を訪れたくて、友達と⼀緒に広島に旅⾏に来たんです。
美術館を⾒終わって、さてこれからどうしようと思っていたところに、友達のお⺟さんから、「広島にいる
なら、尾道に⾏ってみたら?尾道に知り合いがいるから連絡しておいてあげる。」と電話がかかってきま
した。特に予定も決めていなかったので、じゃあ⾏ってみようと電⾞で尾道に⾏くと、駅で待っていたの
は、⽊織雅⼦さん(現 NPO 法⼈⼯房尾道帆布理事⻑)でした。ランチをしながら、⼤学でテキス
タイルを勉強しているという話をしたら、⾒せたいものがあると連れて来られたのが、今事務所を置かせ
てもらっている尾道帆布株式会社の⼯場でした。
旬レポ中国地域 2015 年 4 月号
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尾道はかつて北前船の寄港地だったことから、帆布⼯場がたくさんありました。船の帆として使われて
いた帆布ですが、時代が進むにつれ、テントや作業服、⾃動⾞の幌などにも使⽤されるようになりま
した。70 年前には尾道市内だけでも帆布⼯場が 10 社もあったそう。でも、化学繊維の普及とともに、
帆布の需要が減り、今では尾道に残っている帆布⼯場はたった 1 社になってしまいました。
当時、⽊織さんは尾道の伝統産業である尾道帆布を地域の特産にしたいと、向島に唯⼀残ってい
る帆布⼯場で作られた帆布で⼩物を作り、お⼟産物としての販売を始めていたところでした(その後、
NPO 法⼈⼯房尾道帆布を設⽴し、尾道の商店街に店舗を構え、各種バッグや⼩物類を製造販
売しています)。
この⼯場で⾒たものは、私が思い描いていたテキスタイルとは真逆のものだったんです。
尾道帆布の⼯場で価値観がひっくり返された。
当時は、いかに誰も作っていない素材をデザインできるかを考え、ファストファッション系の「ズバー
ン!!」とした作品を追い求め、⼤学院を出たら海外に留学してもっと激しいデザインの世界に⾏き
たいと思っていました。
でも、尾道帆布の⼯場は、それとは真逆のものでした。ずっと昔から⽇本にある綿を使い、⾊も⾃然
のままの⽣成り。織りも、平織りという⼀番シンプルな原始的なものを、100 年くらい前の機械を使っ
て織る。⾃分の⽬指していたものと真逆なものが、何⼗年も⽣き残っている現実を⾒たとき、とてもシ
ョックだったというか、私が⽬指しているものがどれほど世の中に⽣き残るのかなと思い、何の保証も、
絶対的な価値もないところに⾃分は酔っていたのではないかという気持ちになったんです。
それから東京と尾道を往復する⽇々が始まる。
その後、時間が取れるごとに、この⼯場に⾒学に来させていただきました。
尾道帆布のような伝統的な製品を作っている素晴らしい⼯場が全国各地にたくさんありますが、そう
....
いうところに共通して⾔えるのは、問題点は、ただ単に後継者が全体的に不⾜しているということだけ。
ここ(⼯場)でやっていることは完成している。問題点はただ後継者が不⾜しているということだけ。
たったそれだけの問題でたくさんの雇⽤がなくなり、すばらしい伝統産業がなくなるのはすごく悔しくて、
私たちみたいな⼈間がこういうものと出会えて、こちらに来て就職したら、この⼯場はあと 30 年は⽣き
残ると思ったら、たったそれしきのことなら私にもできるんじゃないかという気持ちになったんです。
⽊織さんからは、バッグのデザインでも何でもいいから⼿伝ってと⾔われましたが、私が⼯場に来て感
動したみたいに、もっと⾊々な⼈にこういう現状を⾒てもらったほうがいいと思ったので、帆布のPRを
させてほしいと申し出ました。
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そして始まった、尾道帆布展。
初めて尾道を訪れた年の翌年、帆布のPRの⼿法として、「尾道帆布展」というレジデンス⽅式の
展⽰会を企画しました。美⼤⽣は発表の場がないのが現実なんです。銀座でギャラリーを借りたら 1
週間で何⼗万円もする。⼀⽣懸命お⾦を貯めて展⽰をしても、所詮美術畑の⼈が⾒に来るだけ。
「素敵な作品ですね。」という⼀⾔をもらうために、何⼗万円のお⾦をはたいても、実は何も得られて
いない。発表の場がない学⽣が、もっとリアルに⽣活を考えながら作品と向き合っていくことも必要だと
思っていました。
それから、⽣成りの平織りの帆布を⾒たときに、「あんなものにも、こんなにものにも使えるんじゃない
か。」とすごく夢が膨らんだんです。きっとみんな私
と同じように感じると思ったので、帆布を使って作
品を作るのであれば、絵画でもファッションでも彫
刻でもなんでもいい、そして、尾道という素敵な場
所に1カ間滞在して、⽣で感じたものをそのまま
作品に投影しようというコンセプトで企画書を書き
ました。その企画書を持って尾道市役所に相談
に⾏ったら、当時の市⻑さんが協⼒しましょうと、
廃校になった⼩学校を貸してくださいました。
教室をアトリエにして公開制作をしました。やって
2009 年に尾道市向島⽴花で開催した第7回尾道
帆布展
みると想像以上にご意⾒が厳しくて、それがすごく
よかったです。
公開制作から⽣まれた学⽣と地元の⽅との交流。
⼤学⽣は普段恵まれた環境で作品を作っています。⼤学の構内に画材屋さんもあるし、プラン通り
に進められるのですが、尾道では画材屋さんはあるけど、種類が少ない。アトリエと⾔っても教室なの
で、窓や⿊板がある。「さあ、ここで⾃由にどうぞ。」と⾔われても、東京でイメージしてきたものと全然
違うんです。そうするとゼロベースになるので、どうしようと 1 週間くらい構想を練り直します。公開制作
ですから、その間、地元のおじさんが毎⽇来ては、「まだやっとらんのか。」「やめちまえ。」と⾔って帰りま
す。そのうち「どうせやらんのじゃったら、飲め。」とお酒を持ってきたりして。そういうすごくおもしろい交流
が⽣まれました。それが最初は学⽣たちのストレスだったのですが、だんだんはまってきて、「結局美術
って、社会でこんなもんだよね。」という現実が分かったときに初めて、ぬくぬくと温室で育つのではなくて、
どうしたらアートが社会や経済の⼀部になるのだろうかということを考えるようになりました。本当に勉強
させてもらいました。
尾道帆布展は形を変えながら続けていて、学⽣の延べ参加者が 180 名くらいです。
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大学院1年生のときに旅行で訪れた尾道で、翌年には「尾道帆布展」を企画・実施。さ
て、ここからどのように移住に向かうのか。続きは5月号でご紹介します。お楽しみに。
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