選 評

曖昧な喪失
生田 萬
●漠然とした印象でしかないのだが、候補作に通底するひとつの響きを感じた。それはたとえば、
ある日、生まれ育った故郷のわが家が突然、立入禁止区域に指定され、いつまでつづくかなに
も告げられずに仮住まいを強制される。そんなサヨナラのない別れがもたらす「曖昧な喪失」感の
ようなものだ。もちろん、個々の作家の流儀においてその感覚の表現は色とりどりではあるのだ
が……。
●今回二人の作家がはじめて最終候補に名を連ねた。その一人、西史夏さんの『林檎幻燈』は、
展示物が乱雑に山と積まれたアングラ大博物館の迷宮で読み手を迷子にする。そんな暴力的
な作品だ。作者本人としか思えない主人公の少女は、自分の帰属する夕方に行きはぐれ、どの
時代からも名付けられることなく、喪失感をバネに記憶の海を航海する。それは航海というよりは、
レトロなナイトミュジアムを寝ぼけ眼で気ままに冒険するといった感じ。不整合なシーンと意外な
組み合わせが脈絡なく連なる展開は、オートマティスムやデペイズマンを意識したものか。おそ
らくはシュールレアリスムへの作者のオマージュにちがいない。洗濯船ならぬノスタルジア満載
のオタク船で酔いどれ気分にひたるうち、時速100キロでコトバを暴走させようとする強引な作者
の熱意に圧倒され、一目惚れしそうだった。ぜひ次はどっしりしたアンカーを備えた船での航海
を!
●もう一人の候補、ナガイヒデミさんの『水の音』は、「追憶の劇」である。その追憶を、作者は作
為的にすべて「水」のイメージでからめとる。水音がきこえつづける地下のカフェに集まった幼馴
染の三人の男女。彼らの生まれたのは、澪村。「澪」とは船の航行に最適な航路を示す言葉で、
それはカフェの名前でもある。そして、そこで語られるのは、水泳部、水死、雨の日のセックスな
どなどの思い出、すなわち「水」づくしである。50 歳になった男女は、追憶される時間である中学
生時代に戻ったかのように振舞う。しかし、人は子供に戻ることはできない、できるとすればただ
子供じみることだけ。その意味で、この作品には 50 歳の人間のリアルはない。あるのは、追憶の
過飽和状態のなかで、曖昧かつノスタルジックな目つきのまま喪失感にひたる人々のセンチメン
トだけ。作者のはりめぐらせた水の糸/意図にがんじがらめにされたあげく、流れを失った追憶
は澱み、腐臭を放つ。地下室が象徴する閉じた系のなかで追憶のエントロピーは増大するばか
りで、読んでいるうちに息苦しさを覚えた。遊びのある舵で、最適の航路も海図も逸脱した航海を
次回作に期待したい。
●中村賢司さんの『ライオンのいる場所』の舞台は、特別支援学校。タイトルの「ライオン」とは、
学習発表会で「ライオンキング」を演じた生徒たち――つまり、なんらかの障害を持つ子供たち
のことだ。特別支援学校での勤務経験のある作者は、そうした子供のいる「場所」が直面する現
実を丹念に描写する。その筆の確かさが作品の魅力になっているのだが、ただし、そこに描かれ
るのは必ずしも実務経験者でなければ知りえない特殊な事情ではなく、教師と父兄とのトラブル、
指導法をめぐる教頭との対立などきわめて一般的で凡庸な教育現場の日常である。そこには
「主役」であるべき子供たちは登場しない。「ライオンのいる場所」にライオンがいないことこそが、
いま特別支援教育の抱えた問題であると作品は訴えているのだろうか? ぼくにはそうは読めず、
むしろ、その踏み込みの曖昧さが、特別支援学校をロマンティックな舞台装置にしてしまう危うさ
を感じたのだ。
●高橋恵さんの『赤い実』は、確かな作品だと思った。人物の描き分け方、筋の進め方、そのす
べてにおいてブレがなく的確なのだ。舞台は、郊外の病院に併設された研究センターの実験動
物飼育棟の休憩室。劇の背景となって重くのしかかるのは、感染症により実験用マウス6千ケー
ジ8千匹が「全頭処分」された出来事で、たとえば、登場人物の一人はこう語る。「私ももしかした
ら、あのマウスとおんなじように、この世界で何かの実験のように飼われてるんじゃないか」おそら
く、劇の進行とともに、観客には舞台がマウスのケージに思えてきて、そこで切実な思いを語る
人々が実験動物に感じられるのだろう。ただ、読み手として残念に思ったのは、休憩室の会話だ
けではセンターのルーティン作業がイメージしづらく、8千匹の「ジェノサイド」の衝撃を実感でき
なかった。また、劇中に引用されるオスカー・ワイルドの短編「ナイチンゲールとバラ」に託した意
味が、場面によって異なる点も気になった。
●田中遊さんの『夜の素』は、斬新かつユニークな上演スタイルを想像させるのだが、それを読
み手の頭のなかに仮構する手がかりがあまりに少なく、具体的な舞台が見えない。その意味で
評価のしにくい作品だった。愛おしい人を戦争に行かせないため、「夜の素」を使って決して明
けない夜をつくる少女を軸に劇は展開する。その少女の切ない願いが、次々と出来事の連鎖を
生み、シナジーの渦のなかで華麗な輪舞が展開する。しかし、彼女のいる「遠い昔」と、その他の
登場人物との無頓着な時制の不一致が、根幹のところで作品を弱くしていると感じた。ぜひ次は、
曖昧な現実感を一掃し、ハイ・ファンタジーに徹した仮想世界に遊ばせて欲しいと思った。
●土橋淳志さんの『或いは魂のとまり木』は、三回読み直した。そして、ゆくりなくも作品のもつ独
特の流れにつかまった。淡い色調で描かれた絵の上に、少しずつモチーフの異なる絵を幾重に
も塗り重ね、一枚におさめた幻想絵画に魅了されたのだ。通常なら重厚さを増すはずが、絵の
具を重ねるほどに淡さを増し、最後はとうとう真っ白なカンバスだけが残ったような、不思議に明
るい空虚感、軽やかな喪失感を漂わす作品だ。一読して感じた齟齬が、読み返すうちにやさしく
噛み合い、心地よいリズムを奏ではじめる。これまで作者が執拗にこだわりつづけてきたミザナビ
ーム、あるいは入れ子構造といったスタイルが、この作者にしか演奏不可能な固有の楽器に進
化した。そう確信させるに十分な作品だった。大賞受賞、おめでとうございます。