平成26年度 高校 後期終業式 講話 3月は別れの季節です。毎年この

平成26年度
高校
後期終業式
講話
3月は別れの季節です。毎年この時期になると、生徒は卒業し、職員は異動
します。
生徒の卒業は仕方のないこととして、職員の異動については、なぜ、手間暇を
かけ、人間関係を築き、よい教育が出来るようにと熟成させた組織を、毎年毎
年、解体しては積み上げ直すようなことをするのか、疑問に思うこともありま
した。
そんな疑問に、ひとつの答えを得たように感じた場面が先日ありましたので、
今日はその話をしようと思います。
先日、富士見町の井戸尻考古館に久しぶりに行きました。私は、そこに展示
されている土器たちのファンなのですが、底冷えのする展示室で、展示物をひ
とりじっくりと眺めていると、あることに気づきました。
土器の文様のなかに、円を二つ並べたような文様がありますが、これを「双
環文」とか「双眼文」と言います。
「双眼」という場合には、これを目だと見立
てていることになりますが、その「双眼文」が口縁(こうえん)についている
土器のなかに、その目から直接、手あるいは足が伸びているものがいくつか並
んでいました。
なぜそれが、手あるいは足と分かるかと言うと、目から伸びている直線の先
が、三又、三本指に分かれているものがあるからです。三本指ということから、
これは蛙の足だろうということになっていて、
「双眼文」とセットで「蛙文」と
名付けられています。
その蛙文をいくつか眺めているうちに、私はある違和感を持ちました。それ
は、蛙文の足が左右対称ではなく、目にした蛙文の全ての片足が途中から折れ
曲がっていたからです。
私たちは多くの場合、左右対称、シンメトリーなものを美しいと感じること
が多いのではないでしょうか。あるいはシンクロしているもの、例えばダンス
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などの動きがきれいに揃っていることや、話の前後の辻褄があっている、論理
の整合性などもそうかもしれませんが、そういう複数のものの動きや、ものご
との前後左右が、ぴたっと合っている、破たんがない状態を美しい、気持ちい
いと感じる感性が私たちにはあるように思います。
ところが縄文土器に描かれた文様は、多くの場合、シンメトリーではありませ
ん。それは、技術的に未熟だからとかいったレベルの問題ではなく、左右対称の
ほうが収まりがいいと思えるような場面であっても意図的に左右対称であるこ
とを避けているように見えます。もっと言えば左右対称となることを恐れている
ようにさえ感じられます。
蛙文を眺めながら、これもそんな非対称の図像のひとつなのだなと思いながら、
しかし、なぜ縄文人がそうするのか、私には胸に落ちる答えがありませんでした。
そんな違和感を、私はそのまま画像とともにフェイスブックにアップしました。
するとある女性から、まるでそれって当たり前のことじゃないですかといった感
じで、
「歩くときはそうなっているのが自然なような・・・。
」といったコメント
が届きました。
それを読んで、私の疑問は一気に解け、新しい視点が開けました。「躍動して
いるもの、命あるものは、常に変化している。変化しているから左右対称にはな
らない。縄文人は、土器に命の営みを表現しようとしたから、縄文土器の図像は
自ずと非対称になった。そうに違いない。」それが、私が獲得した新しい視点で
した。
「歩くときはそうなっている」と、その女性は指摘してくれたわけですが、
確かにそうです。歩く、あるいは走るという行為は、自分の体を前側に倒し、
重心を崩し、倒れる前にどちらかの足を前に出すという行為を繰り返す動作で
す。動いているものは常にバランスを崩している。バランスを崩すことなしに
は動作は生まれない。そのことを理解していた縄文人は、だからシンメトリー
を嫌ったのだなと、私は得心しました。
今日、なぜこんな話をしたのかと言えば、学校という組織も全く同じだと思
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うからです。教育という営みが変化し続け、成長し続ける生徒を対象とし、そ
のために学校という組織が生きた組織でなければならないとすれば、縄文土器
の図像がそうであるように、学校という組織も意図的にバランスを崩すことに
より、躍動し変化し続けられるようにしなければならないのではないか。
完璧さや美しさを求め、ある満足できる形を獲得したと感じた瞬間に、人は
今度はそれを維持しようとするものです。ある状態を維持することが目的とな
り、変化することをやめると、停滞が生じ、進化も止まります。それはたとえ
美しい状態であったとしても、記念碑のように静止してしまった美、つまり「美
しい死」でしかありません。
だからこそ、多くの組織は、組織が一時的に弱体化ことを承知のうえで、年
ごとに人を入れ替えるのではないか。それをしなければ組織はやがて停滞し、
新しい価値を生み出せなくなる。それを避け、躍動する命を未来につなぎ、よ
りよいものを生み出し続ける組織であるためには、どうしても、年ごとに、い
ったんは解体しもう一度積み上げ直すような作業が必要なのではないか。
そして、これは組織だけでなく個人についても言えることだと思うのです。
多くのものを受け入れ続け、受け入れたものをため込み続けていると、頭も心
もいっぱいいっぱいになり、あらゆることの動きが鈍くなる。
その状態を脱して、次のレベルに自分自身を高めるためには、抱え込んでい
る様々のものをいったんは下ろす。場合によっては捨てるべきものは捨てなけ
ればならないのではないか。そうやっていったん出来上がった形をわざと崩し、
わざとバランスの悪い状態を作り出さないと、人は新しいものを取り入れ、前
に進むことが出来ないのではないか。
終業式・離任式という、何かをいったん終わりにし、何かと別れる日にあた
り、思うところを述べてみました。この話を、皆さんが自分自身を見つめ直す
ための参考にしていただければ幸いです。
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