平成26年度 中学 後期終業式 講話 中学生の皆さんは、この一年間の

平成26年度
中学
後期終業式
講話
中学生の皆さんは、この一年間の自分たちの活動をどう評価しているでしょ
うか。私は、100点満のテストで120点取ったような大成功だったと評価
しています。
それは、細かく見て行けば、マイナス面はあると思います。ひとり一人がわ
が身を振り返れば、自分はとてもそこまで達していないと感じる人もいるかと
思います。しかし、そういうマイナス面とプラス面を差し引きすれば、圧倒的
にプラス面が多かったように思います。しかもそのプラスは、場面場面の到達
目標として事前に予想された満点のレベルをはるかに超えていた。そういうこ
とがいくつもあった。だから私は、100点以上の点を付けざるを得なかった
のです。
その素晴らしい成功は、ここにいる生徒の皆さん一人ひとりの頑張りによっ
て、その頑張りの相乗効果として生み出されたものです。だから、皆さんは、
この一年の成果を大いに誇りに思ってほしいと思います。僕は、私は頑張った
と自分自身を褒めてほしいと思います。まずはそのことを、皆さんへの評価と
してお伝えしたいと思います。
そのうえで、皆さんが2年目に、さらに大きく飛躍するために参考にしてほ
しい話をしたいと思います。
私は、考古学ファンです。特に富士見町の井戸尻考古館が大好きなのですが、
その井戸尻考古館に、先日、久しぶりに行って来ました。底冷えのする展示室
で、ひとりでじっくりと展示物を眺めていると、あることに気づきました。
土器の文様のなかに、円を二つ並べたような文様がありますが、これを「双
環文」とか「双眼文」と言います。
「双眼」という場合には、これを目だと見立
てていることになりますが、その「双眼文」が口縁(こうえん)についている
土器のなかに、その目から直接、手あるいは足が伸びているものがいくつか並
んでいました。
なぜそれが、手あるいは足と分かるかと言うと、目から伸びている直線の先
が、三又、三本指に分かれているものがあるからです。三本指ということから、
これは蛙の足だろうということになっていて、
「双眼文」とセットで「蛙文」と
名付けられています。
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その蛙文をいくつか眺めているうちに、私はある違和感を持ちました。それ
は、蛙文の足が左右対称ではなく、目にした蛙文の全ての片足が途中から折れ
曲がっていたからです。
私たちは多くの場合、左右対称、シンメトリーなものを美しいと感じることが
多いのではないでしょうか。あるいはシンクロしているもの、例えばダンスなど
の動きがきれいに揃っていることや、話の前後の辻褄があっていること、論理の
整合性などもそうかもしれませんが、そういう複数のものの動きや、ものごとの
前後左右が、ぴたっと合っている、あるいは破たんがない状態を美しい、気持ち
いいと感じる感性が私たちにはあるように思います。
ところが縄文土器に描かれた文様は、多くの場合、シンメトリーではありま
せん。それは、技術的に未熟だからとかいったレベルの問題ではなく、左右対
称のほうが収まりがいいと思えるような場面であっても意図的に左右対称であ
ることを避けているように見えます。もっと言えば左右対称となることを恐れ
ているようにさえ感じられます。
蛙文を眺めながら、これもそんな非対称の図像のひとつなのだなと思いなが
ら、しかし、なぜ縄文人がそうするのか、私には胸に落ちる答えがありません
でした。そんな違和感を、私はそのまま画像とともにフェイスブックにアップ
しました。するとある女性から、まるでそれって当たり前のことじゃないです
かといった感じで、「歩くときはそうなっているのが自然なような・・・。」と
いったコメントが届きました。
それを読んで、私の疑問は一気に解け、新しい視点が開けました。
「躍動して
いるもの、命あるものは、常に変化している。変化しているから左右対称には
ならない。縄文人は、土器に命の営みを表現しようとしたから、縄文土器の図
像は自ずと非対称になった。そうに違いない。」それが、私が獲得した新しい視
点でした。
「歩くときはそうなっている」と、その女性は指摘してくれたわけですが、
確かにそうです。歩く、あるいは走るという行為は、自分の体を前側に倒し、
重心を崩し、倒れる前にどちらかの足を前に出すという行為を繰り返す動作で
す。動いているものは常にバランスを崩している。バランスを崩すことなしに
は動作は生まれない。そのことを理解していた縄文人は、だからシンメトリー
を嫌ったのだなと、私は得心したのです。
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今日、なぜこんな話をしたのかと言えば、皆さんに、成長のために常に変化
し続ける存在であってほしいと思ったからです。縄文土器の図像がそうである
ように、皆さんにも、意図的に自分自身のバランスを崩すことを恐れず、躍動
し変化し続けてほしいと思います。
最初に言ったように、この一年の皆さんの活躍は素晴らしいものでした。そ
のなかで多くの皆さんが「成功体験」を手にしました。しかし成功体験をたく
さん持てば持つほど、人はその成功体験に縛られてしまうものです。いったん
縛られると、成功した自分を再現することで到達したレベルを維持し、成果を
守ろうとするようになります。そうなったとき、その人にもう成長はありませ
ん。
いま皆さんに、あなたは成功体験に縛られていますか?と聞けば、全員が、
そんなことはありませんと答えるでしょう。しかし、人間とは弱いものです。
自分の意識しないところで、知らず知らずにそうなってしまうことがあります。
中学一年生で大きな成功を手に入れた皆さんに、その成功体験に縛られ、そ
の後の成長が止まってしまうような、そんな小さな存在になってほしくないと
思うので、いま敢えてこんな話をしています。
この一年、皆さんは自分の能力の限界に挑戦するようにして勉強に励んで来
ました。その結果、多くのものを受け入れ続け、受け入れたものをため込み続
けて来たことと思います。いったん手に入れたものは手放したくない。これが
人情です。しかし、ため込み過ぎると、今あるものを守ろうという気持ちが強
くなる。頭も心もいっぱいいっぱいだから、頭の動きが鈍くなり、心の感度も
低くなり、新しいものに反応できなくなっていく。このことにより成長が止ま
ることもあります。
そんな状態を脱して、次のレベルに自分自身を高めるためには、抱え込んだ
様々のものをいったんは下ろす。場合によっては捨てるべきものは捨てなけれ
ばならないのではないでしょうか。そうやって出来上がった形、完成した形を
わざと崩し、わざとバランスの悪い状態を作り出さないと、人は新しいものを
取り入れ、前に進むことが出来ないのではないでしょうか。
終業式・離任式という、何かをいったん終わりにし、何かと別れる日にあた
り、思うところを述べてみました。この話を、皆さんが自分自身を見つめ直す
ための参考にしていただければ幸いです。
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