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たま
たま
球は霊なり
~野球部だより 16~
11.13.2013
今シーズン一番の冷え込みを迎えた火曜日の朝。昨日の風で地面を覆う枯葉も増えた子
安台で、選手たちはラントレーニング。寒いとはいえ、まだ吐く息も白くはなく、走り終
えた選手たちのユニフォームから汗が蒸発して、湯気が立つほどの寒さでもありません。
選手たちには自分の夢に向かって思い切り大地を蹴ることのできる丈夫な脚が、力の限り
振れるたくましい腕があります。
巨人山口投手が育成選手の柴田投手と来年1月に自主トレに行くそうですが、その柴田
投手の費用を全額負担するというニュースが目に止まりました。柴田投手は中学3年生の
ころから難病に指定されている「ベーチェット病」と闘っています。原因不明の病で、口
の中の粘膜の潰瘍、皮膚症状などが表れ、関節炎や腸の潰瘍などの症状もあるそうです。
山口投手が柴田投手の自主トレ費用を負担するのは、彼自身も育成時代に工藤公康氏から
自主トレ費用を持ってもらったことがあって、その恩を忘れていないからだそうです。
「同
じ育成でスタートした左投手。気持ちや境遇がよくわかるんです。彼が入団したときに、
目標の投手が僕だと言ってくれた。できるなら力になりたいと思いました。
」その山口投手
の野球人生も決して順調ではありませんでした。彼は中学3年生の春に横浜市大会優勝を
成し遂げて、全日本少年大会に出場しますが、肘の故障で記念登板しただけです。主戦と
してマウンドに立っていません。Y 校に進みましたが甲子園出場の夢は断たれ、中学校時
代の顧問の先生の勧めで、ある大学野球部への進学が決まっていました。しかし、彼はダ
イヤモンドバックスのスカウトからの誘いを受け、入団テストを受けて合格。マイナー契
約を結びます。中学校時代の顧問の先生に渡米を止めなかったのか聞くと、
「彼が行きたい
と言ったから、彼の気持ちを尊重してあげたいと思った。
」と話してくれました。なかなか
メジャーに昇格できずにもがき苦しんだマイナー暮らしは4年も続きます。19歳の青年
が慣れない異国の地で一人奮闘している姿を想像すると、その苦労はどれだけ大変なもの
だったでしょう。2005年に巨人と育成契約。2年後に支配下登録になり、今の活躍が
あります。山口投手の背番号「47」は工藤氏の背番号を引き継いだものです。
難病と闘う柴田投手のことで思い出したことがあります。1996年4月春の市大会3
回戦。会場は市場中学校。対戦相手は港南区の芹が谷中学校で、マウンドに立つエースは
石井裕也投手。中日~横浜~北海道日本ハムで活躍している左投手です。彼は先天性の難
聴で、当時も補聴器をつけていました。しかし彼の左腕から繰り出されるストレートにま
ったく手が出ず、
0-6の完封負け。
敵ながら彼の投球に魅せられたのはもちろんのこと、
マウンドさばきには惚れ惚れしました。
山口投手は自ら困難な道を選びました。そしてさまざまなものと闘って乗り越えたのだ
と思います。石井投手、柴田投手にはハンディがありますが、乗り越えていると思います。
いいえ。17年前の彼のマウンドでの自信に満ち溢れた横顔、謙虚な振る舞いを思い返す
と、ハンディがあるとすら思っていないでしょう。丈夫な脚、たくましい腕がある君たち
はどうでしょうか。