50周年記念対談 - 日本理学療法士協会;pdf

50 周年 記 念 対 談 - あ の 日 を 振 り 返 る -
特定非営利活動法人日本アビリティーズ協会
アビリティーズ総合研究所 所長
(公益社団法人日本理学療法士協会 初代会長)
公益社団法人
日本理学療法士協会 会長
半田一登
遠藤文雄氏
50 周年記念対談
あの日を振り返る―
―
本
ろです。本号ではその一環として、遠藤文雄本会初代会長をお招きし、設立当
会は、2016 年に設立 50 周年を迎えるにあたり、記念事業を進めているとこ
時の様子などを語っていただきました。
理学療法士誕生へ養成校、清瀬に開校
半田 本会も設立から約 50 年が経ち、次の 100 年に向け
勤めていました。私はもともと東京に出たいと思ってい
て、しっかりした歴史を残したいという思いから、今回
たのに、親の病気を口実に呼び戻されて、しかも就職先
の対談になりました。本会を 110 名で立ち上げた当時
が決まっていたんですよ。ただ、国立鳴子病院には、東
のことなどをうかがいたいと思います。まずは、遠藤先
京帝国大学の初代内科教授であるドイツのベルツ先生
生が理学療法士になるために開校されたばかりの国立療
が日本に広めた、傷病兵に対して温泉を用いた治療をす
養所東京病院附属リハビリテーション学院(以下、東京
るための設備がありました。また、運動療法室があって、
病院附属リハビリテーション学院)に入られた経緯を教
今でいうハバードタンクや平行棒もありました。これは
えていただけますか。
なぜかというと、福島県立医科大学の助教授で土屋弘吉
遠藤 当時、私は宮城県の国立鳴子病院に看護助手として
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先生という方がいて、運動治療の指導をしていたのです
50 周 年 記 念 対 談 - あ の 日 を振り返る-
(のちに横浜市立大学整形外科教授)。土屋先生はニュー
ヨーク大学リハビリテーション科に留学した経歴の持ち
主で、そこで学んだことを国立鳴子病院でも実践してく
れていたのです。その手伝いをしていたのが、私の理学
療法の始まりといえるかもしれません。
そういう環境で働いていたんですが、ある日、東京都
下に専門の養成校ができるという記事を看護師がもって
きてくれたんです。これはここから脱出する方法ができ
たと思いましたね。
半田 それで東京に出てこられて、東京病院附属リハビリ
テーション学院に入学されたんですね。1 期生は何名く
らいいたのですか。
遠藤 入学したのは 25 名くらいでまだ理学療法士の名称
も確定しておらず、作業療法士との区別も当初はなかっ
たように記憶しています。看護師や柔道整復師、カイロ
プラクティック、マッサージ師等、ユニークな入学生が
多かったですね。最終的に卒業できたのは理学療法士
14 名作業療法士 5 名でした。
うな、まさに蘭学事始めでした。
専門科目は、日本人の教師がいなかったため、東京
驚いたのは清瀬駅に降りたら喫茶店がひとつあるく
近郊の米軍基地の関係者に指導していただきました。何
らいで何もなかったこと。そこから病院街行きのバスに
人かの有資格者を経て、立川空軍司令部の大佐の奥さん
乗って、清瀬病棟というバス停で降りました。清瀬病棟
であるコニーネ先生にめぐり合いました。先生はラクス
は元々結核病棟だった、その一角に学校を作ろうという
先生の教え子で、ニューヨーク大学の大学院を卒業され
話になっていたようです。学校といっても看護婦寮の跡
た優秀な理学療法士でした。のちに WHO スーパーバイ
地を教室にしたもので、1 つの教室と事務室のみ、寮も
ザーとして初台の PT 部長に着任され、私たちは緊張し
同じ建物にあるような環境でした。
て講義を受けました。
基礎医学・臨床医学は主に東京療養所の医師から、教
実習は米軍基地の陸海空軍病院を中心に組まれた厳し
養科目・その他の科目は次々と来校する著名な外来講
いものでした。指導者の軍人教員は佐官級の先生たちで、
師の貴重な講義を通して学びました。解剖実習は、学内
患者も軍人とその家族でした。ベトナム戦争の最中であ
ではサルを用い、人体解剖実習は東京大学の解剖教室
り、戦傷患者の貴重な治療体験をしました。東京大学と
で行いました。国を挙げての最初の大事業だったので、
整肢療護園には横浜米軍関係者のローソン先生、キング
WHO や WCPT の指導の下、明治維新の医学教育のよ
スロウ先生
(イギリス)
が派遣されました。
1966 年 7 月 17 日、日本理学療法士協会、誕生
半田 第 1 回の国家試験の合格者は 183 名でした。受験
者が 1,217 名、合格率が 15%ですから、かなり難しい
試験だったのですね。
遠藤 最初に筆記試験をして、その合格者だけが面接・実
の設立はすごいことですね。
遠藤 コニーネ先生から、アメリカの理学療法士協会の
定款をいただいて、日本でも協会組織を作るんだという
指導をされていました。私が学内で学生の世話役を務め
技を中心とした 2 次試験を受けられるというものでした。
ていたこともあって、コニーネ先生から私に「協会をや
私の場合は、代替義足の体重を支持する場所を指してく
りなさい」という話が出てきたんです。当初、卒業生 14
ださいとか、トーマスポジションを取ってくださいとか。
名のみで組織することも考えました。いろいろと紆余曲
本当に大変でしたが、津山国家試験委員長
(東京大学教
折はありましたが、無事に立ち上げることができました。
授)
がそういう厳しい試験を求めたと聞いています。
半田 設立当時の会員のうち、東京病院附属リハビリテー
半田 合格者 183 名のうち 110 名が集まって日本理学療
ション学院の卒業 1 期生が 14 名、特例措置*での合格者
法士協会が設立されました。合格したばかりの年度内で
が 96 名でした。数としては少ない卒業生が会長になれ
*:特例措置
理学療法士および作業療法士法施行時、法律に規定された養成校卒業生以外にも、理学療法を業として行なっている
場合は、
一定の条件を満たせば受験することができるとした措置。1971 年の延長を経て、1974 年に期限を迎えて終了。
JPTA NEWS No.293
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たということが不思議です。
遠藤 まだできたばかりの専門職だったので、厚生省
(当時)
のに交通費を使ってしまうと生活費が残らないという状
態でした。
といろいろ相談する必要もあるし、そのときの窓口とし
半田 世界理学療法連盟への加入を交渉するためにオース
ては国策として創立された養成校を出た理学療法士のほ
トラリアのメルボルンで開催された総会へ行くためにカ
うがよいのではないかという判断だったのかと思います。
ンパを募ったりもされたのですよね。
ただ、会としてはお金がなくて大変でした。会費が
遠藤 会員だけでなく、病院や団体にもカンパの依頼に行
7 千円。月給が 2 万円でしたから、相当高かったですね。
きました。それでも足りなくて銀行にも借金をしました。
しかも、協会の事務局を東京病院附属リハビリテーショ
お金がまったくないなかで、会員ががんばって運営した
ン学院に置いたのですが、私が就職したのが神奈川県の
のが、この会の始まりだということを皆さんには知って
七沢リハビリテーション病院だったので、事務局に行く
おいてもらいたいですね。
「世界のスタンダードを」
コニーネ先生の思いを継ぐ
半田 厳しい財政状況のなかで、設立 1 年目で学会と研修
会員たちも「世界のトップレベルを目指すんだ」という気
会も開催されました。もちろん当時は演題数も少なかっ
持ちを強く持つことができました。そういう
「私たちが
たようですが、歴史は受け継がれて、昨年の第 49 回日
やらなければいけない」という使命感があの頃はありま
本理学療法学術大会では 1,625 演題が発表されました。
した。
ただ、第 1 回学会は研修会のつもりだったんですよ。
それが、演題が 4 つ出てきて、それなら学会のほうがふ
さわしいだろうということで、研修会を飛ばして学会を
先に開催してしまいました。
半田 本会にとってコニーネ先生の存在は本当に大きいで
すね。どういう方だったのでしょうか。
遠藤 コニーネ先生は大学の同級生が交通事故で脊髄損傷
になってしまったことがきっかけで、ボストン大学から
ニューヨーク大学に転校して理学療法を専攻したと聞い
ています。父親はイランの元総理大臣だったとか。とて
も気の強い方で、結婚はできないだろうと自分でも思っ
ていたそうなのですが、軍人の方と出会って結婚されて、
その方の赴任先としてついてきたのが日本だったんで
す。頭がよくて、でも、激怒したり感激したり、感情の
起伏の激しい方でしたよ。一番リハビリテーションが進
んでいるからとニューヨーク大学に転校して、大学院ま
遠藤 それは、一つにはコニーネ先生の
「世界のスタンダー
で進んで、世界一の大学でスペシャリストになったとい
ドを維持する」という方針が大きいですね。そのために
う誇りを持って、私たちを率いてくれたのだと思います。
は、専門職として常に学び続けなければいけない。当時
加えて、WHO という国際機関からの派遣ということも
はアメリカの理学療法士協会が機関誌を配布してくれて、
あったでしょうね。
組織率 80%の組織力を活かし、よりよいリハビリテーション医療を
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半田 「世界のスタンダードを維持する」というコニーネ
遠藤 そうですね。
「世界」
をスタンダードにするんだとい
先生の話と関連しますが、第 1 回の国家試験の合格率は
う気運が周辺の医師たちに充満しており、試験を厳しい
15%、最も低い合格率は 1971 年の 9.7%です。昔は
ものにしていましたね。それから、1971 年は特例措置
弁護士並みに難しい試験だといわれていました。
の最終年度でしたから、受験者が多かったのも影響して
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50 周 年 記 念 対 談 - あ の 日 を振り返る-
いると思います。
半田 特例措置はその後 3 年間
の延長が決定しました。学生
も反対運動をしたのですが。
遠藤 もともとは 5 年間の時限
立法になりそうだったのを 3
年に食い止めたという意味で
は、政治闘争に勝てたといっ
てもよいのではないでしょう
か。リハビリテーション医学
会や整形外科学会などの団体
も一緒に活動してくれました
ね。当時渉外部長だった私に、
東京大学の上田敏先生が同行
してくれて、夜がけ朝がけで
政治家のところに陳情に行き
ました。自民党からは、すで
に総務会を通っているから止めるのは無理だといわれま
本当の専門家になることができるのだと思っています。
したけれども。この事件は、数の論理がいかに強いかを
半田 病気だけを見る今の仕組みが理学療法士そのものの
学ぶ機会になりました。
成長を遅らせていることは私も感じています。
半田 本会は職能団体として今でも約 80%の組織率を
遠藤 今、仕事も忙しいし給料も上がらないなかで、自
誇っています。そのような医療系の職能団体は他にはな
分は何をしているんだろうと疑問を持っている若い理学
いですね。この重要性を会員にもっと知ってもらいたい
療法士も多いと思います。けれども、その答えは自分で
と思っています。
作っていくものです。「木を見て森を見ず」のままでスペ
遠藤 もう一つ、現行の制度から脱する必要があります。
シャリストになろうとしても難しいでしょう。休みの日
20 分で 1 単位という患者の診方をしていて、臨床家と
に、たまにはボランティアに参加してみたりするとよい
しての理学療法士がどれだけ勉強の機会を失っているか、
と思います。
考えなければいけません。
半田 リハビリテーション医療のよいところが今は消えて
現在、国は地域包括ケアシステムを進めています。こ
しまっている気がしますね。今後も取り組むべき課題だ
れは、自分の周りを、自分と近いものをよく見なさい
と思っています。本日は貴重なお話をありがとうござい
ということだと思うんです。私は病院の理学療法士をし
ました。
ながら会長の活動もして忙しかったのですが、リハビリ
テーション医の大田仁史先生と一緒に地域で療養教室を
開催していました。こうした活動のなかで、患者さんと
ざっくばらんに話をしたり、ご家族とも一緒に取り組ん
だり、いろいろな経験が積めました。長期間、患者さん
と付き合うことで、自分の職業を磨き上げることができ、
遠藤文雄(えんどうふみお)
特定非営利活動法人日本アビリティーズ協会アビリティーズ総合研究
所所長。国内初の理学療法士養成校である国立療養所東京病院附属リ
ハビリテーション学院 1 期生。卒業後、社会福祉法人七沢リハビリテー
ション病院等で勤務する傍ら、本会初代会長
(1966 年~ 68 年)、同
常務理事(69 年~ 87 年)を歴任。
本会では、2016 年に設立 50 周年を迎えるにあたり、会員への広報活動を行っています。ぜひご覧ください。
50周年ページ:
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