音も民主主義 中野有朋(音の話 2- 2015/3) 今も騒音問題はないわけではないが、最近は以前の騒音公害時代もすぎ、幾分落ち着き をみせている。 我々のまわりでは、いろいろな音が聞こえる。これらの音のうちで、騒音は「好ましく ない音」 、 「望ましくない音」などと定義されている。 我々は空気を吸って生きている。われわれの周りには、この気圧の微弱な変化の波が満 ちている。音波という波である。 この音波が、耳を通して大脳に伝わり、そこで、われわれは、音という感覚を得ている。 つまり音が聞こえる。 世の中にはいろいろな人がいる。みんな違った人である。 音波が、これらの人々の耳にはいる直前は、どの人にとってもみな同じ音波である。し かし、それを大脳で音として感じたときは同じではない。人が違うと異なる。ある人それ をやかましい音であるといい、ある人はやかましくないという。 たとえば、同じ音であるのに、 音楽の音は、音楽を楽しむときは好ましいが、夜寝るときにはやかましく、邪魔になる。 飛行機の離着陸の音は話し声が聞きとりにくくなり、好ましくない。 具合が悪くて寝ているときは車の音がやかましく、気になる。 一部住民がやかましいというので、工場の始業のサイレンを止めたら、多くの住民から なぜ止めたと苦情が出る。 有名高校近くに住む人が、息子がその学校に入学できるものと思い、学校の行事で出る 音を好ましく思っていたが、入学試験に落ちてからは、その音を一々やかましいと苦情を いうようになった。 みんながやかましいというから、自分はやかましくないと思う。 など様々である。 このようにある音が、騒音であるかないかは、その音を聞いた人が、好ましくないと思 うか思わないかによって決まる。思い方は 1 人 1 人違うので、同じ音でも騒音になったり ならなかったりする。 また同じ人であっても、聴く条件によって、同じ音を騒音と思ったり思わなかったりす る。 音波は物理の世界であるが、音は人の主観の世界、人の思うままなのである。 こんなことでは、騒音とは「好ましくない音」であるといっても、その音が騒音である かどうかを定めることはできないのではないか、どのようにして定めたらよいのであろう か。 それは、まさに民主主義によって定められているのである 音を聴く条件を定めて、その音を多くの人々に聴いてもらい、過半数の人が好ましくな いと思った音を騒音と決めているのである。騒音という用語は民主主義で定められた音で ある。 ちょっと話しは違うが、 [古池や蛙飛び込む水の音」は有名な松尾芭蕉の句である。 どんな音がするのだろうか。 蛙が水面にぶつかって発生する音波は物理的には一定である。すなわち人の耳にはいる 音波はどの人にとっても全く同じ音波である。しかしこの音波が耳を通って大脳に達して 音となった場合、その音は聴く人によって異なる。 ドボンとはいわないだろうが、バチャン、ボチャン、など様々に聞こえる。外国人であ ればもっと異なったオノマトペになる。 ボチャンという人が多ければ民主主義で、この音は、ボチャンになるのである。 もともと、騒音とかいい音などという音がこの世にあるわけではない。すべてこのよう にして人によってつくりだされたものである。 好きな食べ物、嫌いな食べ物などと同じたぐいのものである。 音の問題は人の問題、音の問題解決とは、人の問題解決なのである。 なお、騒音という用語は、日本音響学会の第 1 回談話会(昭和 11 年 5 月)で、それまで混 乱していた噪音、騒音、喧噪音などの用語を統一しようと討議され、賛成多数で騒音に決 まり、それ以来用いられてきたものである。
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