「 」 人権広場 六五号 夏休番外編 浪花の奇才 坂 田 三 吉 (堺市) 稀代の将棋指し、坂田三吉は明治 三年堺、舳松(へのまつ)の生まれ。 昭和二十一年の没後直ぐに北條秀司 が戯曲「王将」を発表し、新国劇の 舞台で演じられて以来映画、テレビ ドラマで又幾つかの歌にも唄われそ の生涯は語り継がれている。 「物語」は物語として、本稿は棋譜 に残された勝負の経過と結果を中心 に彼の奮闘振りを少々紹介してみる。 「阪田」とも表記されるが代筆させ た段位免状は総て「坂田」としてい るのに従う。 「将棋」とは 囲碁、将棋という「自らが考えだ す指し手」のみによって競うたたか いではその「合理性」だけが問われ る。 将棋は相手の王様を一手早く取ろう と争うのだが、双方に当然そのため の「作戦」がある。 先人の考案した「作戦」の不備を後 に続く多くの頭脳が理論的に補い改 良し、対抗策も工夫しながら今日ま で続いているものを「定跡」という。 これを学ばずしてまず上達の道はな い。 大人たちの縁台将棋で覚えたという 坂田にはそれを教える師も、書物か らの習得もなかった。 が十二歳の頃、近在には既に彼の敵 など一人もいなかった。 「名人」への道 明治に入って幕府の「将棋所」は 消滅したが「名人制度」は東京の政 財界人に引き継がれ、支えられてい た。 「名人」のみが最高位八段を授ける ことができる。 で八段に昇れば七段以下の免状発 行を許されるから師匠として収入も 得られようが、その八段は二、三人 しかいなかったのだ。 将棋が職業として成り立つようにな るのは少なくとも昭和以降で、この 当時まして素人が生計を立てられる はずもなかった。 しかし十六歳で父を亡くし、一家の 大黒柱となった坂田の稼ぎの多くは 本業の草履作りでなく「賭け将棋」 にあった。 また時折、素封家が催す将棋大会の 優勝賞品は箪笥一竿とかで勿論即現 金化もできた。 「賭け将棋」は負けると「さま」に ならないのではない、生活できない だけだ。 二十歳の頃「堺の三吉」といえば凄 腕の賞金稼ぎで通っていたのだ。 二歳年長の因縁の仇敵、関根金次 郎は千葉生まれで前名人の愛弟子。 運命の初手合いは関根二十六歳、武 者修行の道すがらと。 素性を明かさぬ五段程の関根に完膚 なきまでの敗北だった。 「強い奴が居る!」天狗の鼻を折ら れ、賭け金を奪われた坂田は数日寝 込んだという。 この水準では「基礎学習」の欠如が こたえるのか。 いかに天才的な「地力」をもってし ても「力」だけで登りきれない絶壁 のような「理詰めの山」がこの世界 にはあるに違いない。 後にこれを越え得たこの人の「能力 のありよう」はとても解明できない のだろう。 屈辱は負けず嫌いの坂田を発奮させ た。 苦節十年、八段の関根に善戦して六 段に昇った坂田は今や大阪随一の指 し手だった。 「銀」が泣いた 大正二年、四十三歳の坂田は在阪新 聞社、有力者の「打倒東京」悲願に 押され、遂に上京して決戦の舞台に 立った。 「王将」の歌に曰く「明日は東京へ 出てゆくからは何が何でも勝たねば ならぬ」そして「勝てば王将、負け ればヒヨコ」と。 今、段位差はひとつ「香落ち一番手 直り」つまり初戦関根は左の香車(や り)を引く。 これに負ければ総ては終る、実力差 二段以上ありというわけだ。 坂田が勝てば先番の平手(ハンデ無 し)へと続く。 その大事な香落ち戦、坂田は上手(う わて)の弱点、彼から見て右の端を 無視し戦いを左側に挑んだ。 平手の将棋でねじ伏せようという気 迫だ。 が「勝とう、勝たねば」の気負いは 焦りの大悪手「8五銀」を呼んだ。 「銀が泣いてる」の名台詞はまさに この場面のものだ。 歩を取って強情に出た「銀」は、関 根に咎められる坂田自身だった。 追われ、いたぶられた「銀」がほう ほうのていで自陣に逃げ帰った時、 百人からの観戦者は勝負ありとほぼ 会場を去った。 ここからの指し手が、しかし私の目 にも凄いと映る。 明らかに悪い形勢を彼は耐えた、堪 えに堪えて決定打を与えなかった。 賭け将棋の辛酸を嘗め尽くした坂田 の「泣きの入った」技だ。 世間はよく「力の攻め」を評価する が、受けの強さが坂田将棋の真骨頂 であるまいか。 百手目「4八角」遠く敵陣を睨んで 坂田は渾身の一手を放った。 ここでも関根有利は覆らないと専門 家の評だが、かなり縺れた局面にみ える。 百二十四手目、6六に出た坂田勝負 の角を金で払ったのが関根の敗着と なった。 坂田は勝った、首の皮一枚勝負の場 に残り得るにがい苦しい勝利だった。 地の底から這い上がった坂田は、第 四局「平手」で初めて関根を制した。 ここで公平を期し、事実を述べてお こう。 逆に追い詰められた最終局、坂田後 手の平手戦をさすが関根は譲らなか った。 それから四年、八段となっていた 坂田は先番ながら平手で再度関根を 破った。 東京は騒然となった。 坂田の「十三世名人襲名」も現実味 をおびてきたのだ。 しかし名人位の「箱根越え」をなん とか阻止したい東京棋界は、関根の 一番弟子、実力既に師を凌ぐと評判 の新鋭七段、土居市太郎との平手戦 を申し入れた。 刺客を返り討つか、師匠の仇と倒さ れるのか。 坂田はこの大一番を落とし、結果と して名人位は関根へと継がれた。 たたかいの果てに 積年の憎き難敵関根金次郎を平手 で下したとき、それだけを目標に遮 二無二たたかってきた「勝負師坂田」 は「棋士坂田」へ変貌を遂げたのだ という人は多い。 凡庸な私に理解は難しいし、不遇と いわれる晩年を含め以後の坂田を語 る紙数もない。 ただ身を切り削った勝負の数々の先 に、彼が楽しんで将棋を指す時間を 以上 幾らかでも持てたと思えれば、なに やらほのぼのと嬉しい。 六五号 完 人材開発 興梠 人
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