学者侠客の生き様: 幕末、四国に生きた学者侠客と云えば日柳燕石

学者侠客の生き様:
幕末、四国に生きた学者侠客と云えば日柳燕石(くさなぎえんせき)
、勤王派の博徒とし
て知られる…。東征官軍の指揮官、仁和寺宮嘉彰親王の「日誌方(記録係)」として従軍、
長岡城攻撃中に柏崎にて戦病死。原因は、直前の慶応元年 高杉晋作の逃亡幇助の罪で幕府
方の高松藩に入牢、獄中生活の疲弊だったとされる。
戊辰戦争に加担した博徒は多いが、勤王方の日柳燕石と佐幕の新門辰五郎はその双璧で
あろう。日柳燕石とは漢詩の雅号で、本名は加島屋(又は草薙=くさなぎ)長次郎…。田
舎博徒の彼が漢詩を嗜み、勤王の志士と交わり、皇族の記録官にまで出世したのは驚きで
ある。彼は 1817 年(文化 14 年)、金比羅社と満濃池の中間に在る讃岐国は旧那珂郡榎井村
の生まれ、今は金比羅町に合併されたが、昔は幕府の直轄領で隣の金比羅は寺社領、共に
無警察状態にあり賭博の天国であった。幼少時より漢学を三井雪航に学び、30 代で賭博の
道に入るや嘉永年間には大親分を張る。勤王に傾倒したのは 40 才の頃で特に長州の志士と
の交流が多い…。最盛時には清水の次郎長も金比羅詣の際に彼を表敬訪問している。彼の
著書には、
“象山雑詞、雪航詩抄、柳東軒雑稿、呑象楼遺稿など”と漢詩系が多く、古書市
場では今や稀本、高価本である。
歴史家の田村栄太郎は、著書「やくざ考」の中で燕石コト長次郎について、直属の子分
(乾分)は約 30 人、兄弟分や身寄りを加えて百人位ではと述べている。子分には、金比羅
に来た高杉晋作を幕府の捕吏から救った古市藤兵衛はじめ使える徒が多い。また再三に亘
り、学友や師匠から博打を止める様にと忠告を受けているが、彼は常に四つの理由で断っ
ている ① 客人・一家の数が多く費用が嵩むので常に稼がねばならない、②
自分には技
能が無いので今更 商人や百姓には戻れない、③ 人に頭を下げられない性格だ、④ 逆に、
いざ国難の際には子分共を率いて外国勢と戦ってお役に立ちたい…と。実際に、高松藩内
の勤王派、松平左近らと組み安政6年に挙兵を計画している。だが発覚して藩士は全員逮
捕、投獄された、この時、燕石だけは幕府直轄領に住んでいたので無事だった。
文芸評論家の丸谷才一は、随筆「博徒の詩」の中で、江戸時代の町人は俳諧を弄び、教
養の高い武士達は漢詩を嗜んだが、その中に侠客・燕石が居るのは、近世文学史上また日
本遊侠伝中で特異な存在だと驚嘆している。丸谷は、嘉永 6 年刊行の燕石の漢詩集“柳東
軒略稿”から漢詩3句を紹介しているが、詩集の序文についても、内容が大親分の書いた
漢文らしくて非常にいいと褒めて?いる。書き出しは、以下…( 予少好任侠、頗耽飲博、
朝…)、
「余、少にして任侠を好み、すこぶる飲博に耽る。朝に…」と続く、括弧( )内は
原文で、「 」内は丸谷氏による訳文である。この詩集は既に一般には入手できず、丸谷氏
ご自身も国会図書館に出向いて写本を調べたとある。
司馬遼太郎の歴史小説「世に棲む日々」は、幕末の長州藩志士の思想と行動を描いたも
のだが、文中の呑象楼主人の項で、金比羅での燕石と高杉晋作との触れ合いを取上げてい
る。晋作は燕石の事を、その学文詩賦(…しふ)、腐儒迂生の及ぶ所これなく、実に関西の
大侠客に候、と書いている。讃岐路一帯の博徒を抑えていた燕石は、号は柳東(りゅうと
う)とも云い、また呑象楼主人とも称した。堂々たる漢詩の学者であり、江戸の詩壇にま
で聞こえた知識人で有りながら、同時にサイコロや花札を好み、自らも堵場を経営し多く
の乾分を抱えた博徒の大親分でもあった。只、楠正成を崇拝していた関係で後年、勤王の
士として昭和の軍部に利用され過ぎた点は否めないが、何れにしても天下の稀人だったコ
トには違いない。
昭和時代、四国三走りと云うのがあった。その一は、宇高連絡船の時代、船の接岸と同
時に大勢の船客が飛び出して、一斉に高松駅のホーム目指して走りに走るコト…。座席確
保の為に互いに荷物を抱えての大競走であった。その香川県に初めて鉄道が開通したのは
明治 22 年 5 月、高松ではなく讃岐の丸亀~金比羅間だった、この事は燕石が活躍した金比
羅周辺から多度津港に掛けての伊予街道沿いが、江戸期から明治を通じて讃岐の経済・文
化のメイン部分だったコトを示している。更に驚くべきは、この鉄道の開通時には、既に
塩飽諸島を橋台にした本州と四国を鉄道で結ぶ構想が浮上していたコトだ。関係者は今、3
本の本四架橋を見るほどに感無量の事と思う。燕石の時代から既に 150 年、今や讃岐の風
景は大きく変貌した。
参考書:
やくざ考
田村栄太郎
雄山閣
男ごころ
丸谷才一
新潮社
世に棲む日々 司馬遼太郎 文芸春秋
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