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 Title
デイヴィス家のなかのヴァリーナ : ヴァリーナ・デイヴィスの書
簡
Author(s)
滝野, 哲郎
Citation
言語文化学研究. 英米言語文化編. 10, p.21-32
Issue Date
URL
2015-03-31
http://hdl.handle.net/10466/14333
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
デイヴィス家のなかのヴァリーナ
―ヴァリーナ・デイヴィスの書簡―
滝 野 哲 郎
ヴァリーナ・ハウウェル・デイヴィス(1826−1906)は、南部連合
大統領ジェファソン・デイヴィスの妻として知られている。南北戦争
では崩壊していく南部において悲哀を味わったヴァリーナであるが、
戦前には合衆国陸軍長官夫人、連邦上院議員夫人として首都ワシント
ンの社交界で注目を浴びる存在であった。その当時の社交界や政界に
おける彼女の様子は、さまざまな記録や文書から窺い知ることができ
る。一方、それとはまた違った面がヴァリーナにはあった。自宅のあ
るミシシッピ州ブライアフィールドに戻ると、彼女はプランテーショ
ンの女主人として暮らしていた。政治家の妻として取り上げられるこ
との多いヴァリーナであるが、ブライアフィールドではいったいどの
ような生活を送っていたのであろうか。本稿では、南部奴隷制プラン
テーションにおけるヴァリーナの状況について、おもに1840年代後半
の書簡を手がかりに考察してみたい。
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1845年、ジェファソン・デイヴィスと結婚したヴァリーナは、彼が
プランテーションを経営するブライアフィールドで生活を始めた。こ
こは、ミシシッピ州ヴィックスバーグからミシシッピ川をおよそ40キ
ロ下ったところで、デイヴィス家が所有するデイヴィスベンドと呼ば
れる場所の一部にあった。デイヴィス家は、18世紀に先祖がウェール
ズからアメリカに渡り、ジェファソンの父サミュエルの代になってミ
シシッピ州に移り住み、奴隷を所有し綿花を栽培するようになった。
ジェファソンは、1808年に10人兄弟の末子として生まれた。サミュエ
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デイヴィス家のなかのヴァリーナ
ルが1824年に他界すると、長男ジョーゼフは、父親の後を継いでデイ
ヴィス家をまとめ、プランテーションを拡大し、のちにはミシシッピ
州有数のプランターとなった。1840年代中頃、ジョーゼフが所有する
デイヴィスベンドには、5000エーカーのハリケーン・プランテーショ
ンがあって、ジョーゼフは350人の奴隷を使って大規模な綿花プラン
テーションを経営し、そこから南東に2キロほど離れたところには
800エーカーのブライアフィールド・プランテーションがあり、ジェ
1
ファソンはそこで綿花を栽培して暮らしていた。
ジェファソンは、ジョーゼフとは23歳年が離れていた。ジョーゼフ
にとっては、弟であるとともに、妻との間に子どもがいなかったこと
もあって自分の息子のような存在でもあったのだろう。ジョーゼフ
は、弟の将来に大きな期待を寄せ、彼を励まし支援した。ジェファソ
ンは兄の助言に従って、ケンタッキー州のトランシルヴァニア大学か
らウェストポイントの陸軍士官学校へと進んだ。そして軍人となった
ジェファソンは、ウィスコンシン州で軍の任務につき、そこで中佐の
娘サラ・ノックス・テイラーと出会い、1835年に結婚する。だが、3
か月後彼女がマラリアで病死したため、ジェファソンは絶望し、それ
から何年にもわたってブライアフィールドに閉じこもり畑仕事と読書
に明け暮れる日々を過ごした。そういったなかで、ジョーゼフの励ま
2
しもあって、しだいに政治に関心を持つようになっていった。
ジョーゼフは、弟が州の政界にかかわれるように手助けするととも
に、再婚相手にふさわしい女性に会うきっかけをつくろうとした。
ジョーゼフの目に留まったのが、親しくしていた友人ウィリアム・ハ
ウウェルの長女ヴァリーナである。ハウウェル家は、由緒ある家柄で
あった。ウィリアムの父親は、かつてニュージャージー州の知事を務
めた政治家であった。当時ハウウェル家はウィリアムの事業失敗によ
り経済状態がよくなかったが、子どもたちは教育を受ける機会には比
較的恵まれていた。ジョーゼフは、そのような家柄で、聡明で活発な
ヴァリーナが気に入ったにちがいない。ヴァリーナはのちに当時のこ
とを次のように述べている。「私が16歳のとき、ジョーゼフ・デイヴィ
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スが私の家族に会いにきた。そして、私がぜひデイヴィス家を訪問す
るように母に頼んでいた」。母マーガレットは、「かなり執拗に懇願さ
れて」承諾したが、そのころヴァリーナが「学期末で英語とラテン語
の勉強で忙しかった」ので、実際に「訪問が実現したのは翌年になっ
てから」であった。ジョーゼフがこのように熱心であったのは、政治
家を目指す弟にとってヴァリーナがちょうどよい相手であると思った
3
からであろう。
ヴァリーナは、1844年のクリスマスにジョーゼフのハリケーン・プ
ランテーションを訪れた。敷地に入ると、道の両側にはオークが並び、
その先には煉瓦造りで3階建ての立派な邸宅がそびえている。中に入
ると、優雅に装飾された部屋、広々としたダイニングルーム、見事な
蔵書が並ぶ書斎があり、どの部屋も高価な家具調度品で溢れている。
このような富裕な環境のなかで17歳のヴァリーナは、18歳年上のジェ
ファソンと楽しく満ち足りた時間を過ごした。明るく活発なヴァリー
ナと冷静で落ち着きのあるジェファソンは、互いに惹かれるところが
あったのだろう。彼女の滞在が終わる1か月半後には、二人は結婚の
約束をしていた。そののち二人は手紙を通して交際を深めていく。そ
のなかで、ジェファソンは次のように記している部分がある。
「いつ
の日か、ずっとあなたのそばにいて、あなたの心の動揺を和らげるこ
とができればと思っています。それまではどうか神とあなたの良識が
あなたを守ってくれますように」。よく喋るヴァリーナはときに感情
的になることもあったが、ジェファソンは彼女の若く活発なところに
魅力を感じていたにちがいない。出会ってから1年2か月後の1845年
2月、二人はヴァリーナの実家で結婚式を挙げた。こうしてヴァリー
ナはデイヴィス家の一員となり、その家の長であるジョーゼフは、こ
4
れから義兄として彼女の人生にかかわっていくことになる。
2
ヴァリーナは、結婚後、ブライアフィールドの女主人としてプラン
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デイヴィス家のなかのヴァリーナ
テーションの仕事に携わるようになった。これまでミシシッピ川沿い
の町ナチェズで商人の娘として育ったヴァリーナにとって、奴隷制プ
ランテーションでの生活は大きな環境の変化であった。ヴァリーナは、
身のまわりで起こった出来事を母マーガレットに手紙で伝えている。
マーガレットは、ヴァリーナにとって、誰よりも自分の思いを率直に
伝えられる人物であった。手紙には、ヴァリーナが日々努力している
様子が記されている。結婚から5か月後、
「今朝、ジェファソンが奴
隷たちに服を配付するのを手伝いましたが、忙しくてとても疲れまし
た」
。その2か月後、「こうして私が仕上げたものを見れば、お母さん
もきっと驚くと思います。月曜日以降25本ものズボンを作りました。
布を縫える奴隷は二人しかいませんが、糸を紡げるものはたくさんい
るので助かります」という。かつては母親とよく縫物をしていたヴァ
リーナは、自分が元気に仕事に励んでいることを伝えたかったにちが
いない。またこの時期、ジェファソンが選挙活動を始め家を空けるこ
とが多くなると、ヴァリーナは、夫に代わってプランテーションの仕
事をするようになる。手紙には「注文書を書いた」こと、収穫した作
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物の管理をして「綿花の帳簿をつけた」ことが記されている。
ヴァリーナは、ブライアフィールドにいる奴隷70人の衣食住の世話
にもかかわっていた。奴隷たちの名前を覚え、扱い方にもしだいに慣
れてきて、半年後には「奴隷たちにはたえず注意を向けていることが
必要」なこともわかったという。結婚から2年後、屋敷の建て替えの
際には、留守の夫に代わって奴隷に指示を出している。
「奴隷たちは
みんな精一杯建築の作業に取り組んでくれ、今のところ順調に進んで
います。数週間のちには奴隷に煉瓦造りをさせるつもりです。ジェ
ファソンが戻るまでに、建築に必要な数の煉瓦を用意したいと思って
います」と母親に書き送っている。このように女主人として奴隷に接
していたヴァリーナは、黒人は「弱さを持った人間」であるという。
彼女も、当時の多くの南部白人と同様に奴隷制を擁護し、
「弱さを持っ
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た」奴隷の面倒を見るのが自分の役目であると考えていた。
ヴァリーナは、庭の手入れにかなりの時間を使っていた。庭づくり
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は、ブライアフィールドにおける彼女の楽しみの一つであった。手
紙には熱心に植物を育てる様子がよく記される。「私が植えた木は
ほぼすべてよく成長しています。ブドウも大きくなっています。お
母さんが送ってくれたスギは一本をのぞいて育ち、青々とした葉を
つけています」。ヴァリーナは、家のまわりに木を植え、そして庭で
花や野菜を育てていた。「春に植えたバラはまだ蕾ですが、もうすぐ
咲きそうなものがあり」
、ほかにも「40センチほどに成長したトマ
ト、葉が4枚ついたビート、葉が6枚あるナス、葉が8枚になったト
ウガラシなどがあります」と記している。おそらく結婚前に植物につ
いて学んだことを、ブライアフィールドの庭でいろいろと試して楽し
7
んでいたのであろう。
ヴァリーナと母マーガレットは、よく手紙を書いて近況を伝え合っ
ていた。手紙からは、ヴァリーナが母親や実家のことをいつも気にか
けていたことがわかる。結婚から半年後、
「お母さんにあげるおしゃ
れなキャラコを手に入れました。それほど高価なものではなく、また
とてもきれいというほどのものでもありません。もの選びが上手でな
いことはお母さんもわかっていると思いますが」と記している。家族
のために苦労する母親を少しでも喜ばせたいと思って送ったのであろ
う。また、ハウウェル家の家計や弟妹のことを気遣うヴァリーナは、
生活に必要な食料品や衣料品を送ることがよくあった。「ビルが使う
靴下を六足送ります。肉一樽と卵をたくさん送ろうと思って準備して
いたのですが、次の船便には間に合いそうにありません」
。2年後に
も、
「お母さんがハムを気に入ってくれてうれしいです。バターと卵
が手に入れば明日送ります」と記している。食料品だけでなく、現金
を送ることもあった。父ウィリアムの事業失敗が続き収入が安定しな
い実家のために、ヴァリーナは、夫から渡された生活費の一部を母親
に送っていた。母親はそのような送金を気にするが、ヴァリーナは「も
し私があのお金が必要であったなら、お母さんのところに送ったりは
しません」と返事する。さらに、
「もっと多額の送金ができればよい
のですが」ともいう。こののちも実家への援助は続き、ヴァリーナは、
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デイヴィス家のなかのヴァリーナ
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ハウウェル家を支える母親をできる限り手助けしようとしていた。
デイヴィス家のなかで暮らすヴァリーナにとって、実家との結びつ
きはとても大切であったのだろう。ヴァリーナの兄弟は、ブライア
フィールドへよく遊びに来ていた。病気がちの兄が町を離れ、ここで
療養すると「体調が良くなった」こともあった。ヴァリーナがワシン
トンにいたときには、弟妹が泊まりに来て、首都の見物を楽しんだこ
ともあった。さらにヴァリーナとジェファソンは、彼らの学校や就職
について、助言や世話をするようになった。「ジェファソンは、以前
からビリーの教育について考えてくれていて、彼を学校に入れるのが
よいといっています」と母親に書き送っている。ハウウェル家は、生
活面だけでなく、さまざまな面でヴァリーナとジェファソンに頼るよ
うになっていった。ブライアフィールドでの生活においてヴァリーナ
は実家とのつながりを大切にし、ジェファソンも快く援助したが、お
そらくジョーゼフは、ハウウェル家の経済的依存が弟やデイヴィス家
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にとって負担になるかもしれないと危惧していたと考えられる。
3
ブライアフィールドでジェファソンと暮らすヴァリーナは、デイ
ヴィス家の人たちとどのようにかかわっていたのであろうか。結婚当
初のヴァリーナの様子を知る手がかりになるものに、ジェファソンが
彼女の母親に書いた手紙がある。そこには、結婚から数か月が経過し、
しだいに新しい環境に慣れるヴァリーナの様子が記されている。「こ
の頃、ヴァリーナは花や植物の手入れに精を出し」、
「日ごとに落ち着
きが出てきて思慮深くなり、幸せで楽しそうにしています」。そして
デイヴィス家の人たちとの関係について、「ここの人たちはヴァリー
ナにけっこう気を遣ってくれ、思っていたよりも仲良くしてくれてい
ます」
。おそらくジェファソンは、ヴァリーナがデイヴィス家に馴染
めるか当初やや不安に感じていたのであろう。だが、
「思っていたよ
りも」ヴァリーナがうまく受け入れられ、いくぶん安堵していたこと
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がこの手紙から窺える。10
デイヴィス家の人たちは、ブライアフィールドがハリケーンから近
かったこともあって、たびたび訪ねてきた。ヴァリーナは、義理の兄
姉と話す機会が増えたが、そこで彼らとの間に距離感を感じるような
場面があったにちがいない。結婚当初18歳のヴァリーナにとって、彼
らはかなり年長であった。36歳の夫ジェファソンは末弟であったの
で、このとき義兄ジョーゼフは60歳で、一番年齢が近い義姉アマンダ
でも44歳であった。義理の兄と姉といっても、彼女の両親か祖父母の
年齢に近かったのである。年齢差だけでなく、話題についても彼女は
違和感を抱いたにちがいない。デイヴィス家の暮らし方や価値観は、
ハウウェル家とはかなり異なっていて、ヴァリーナが身につけた教養
や知性についてはほとんど理解されることはない。彼らのなかでも
ジョーゼフや妻イライザそして姪キャロラインのいうことには当惑す
ることが多かった。彼らと接するうちにヴァリーナにわかってきたの
は、デイヴィス家の長であるジョーゼフが、この家にかんするさまざ
まなことについて判断を下し、ほかのものはそれに従っているという
ことであった。そしてジェファソンも、ブライアフィールドにおいて
は妻が夫に従うのが当然だと思っている。つまり、ヴァリーナは夫に
従い、
その夫はジョーゼフに従い、夫の不在時にはヴァリーナはジョー
ゼフに従うことになる。ブライアフィールドにかんすることを決める
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のは、ヴァリーナではなく義兄と夫なのである。
そういったなかで、ヴァリーナが疑問を抱いたことに、ブライア
フィールドの所有権の問題があった。ブライアフィールドは、ジェ
ファソンが10年以上前にジョーゼフから譲り受け、自ら家を建て綿花
を栽培してきた場所であったが、その法的な所有権はいまだにジョー
ゼフのものであった。ジョーゼフは弟に所有権を譲渡しようとはしな
かったのである。このことをヴァリーナは不審に思う。義兄はブライ
アフィールドにおける支配を手放したくないのか、あるいは万一弟が
他界したときに所有権がデイヴィス家から離れることを懸念したの
か、その意図は明らかではない。ジェファソンはといえば、そのこと
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デイヴィス家のなかのヴァリーナ
を気にする様子もない。さらにヴァリーナの疑いを強めたのが、ジェ
ファソンがこの頃に作成した遺言書であった。その内容は、ヴァリー
ナよりもデイヴィス家にとって有利なものになっていた。この遺言書
は、当時合衆国とメキシコの関係が悪化して戦争が勃発しそうな状況
にあったので、おそらくジョーゼフの忠告を受け入れて作成されたも
のであった。このようなことがわかってくるにつれて、ヴァリーナは
12
デイヴィス家にたいして不信感を強めていった。
1846年、メキシコとの戦争が始まると、ジェファソンは大佐となっ
て戦地に向かい、ヴァリーナはブライアフィールドで一人で過ごすよ
うになった。
「マリー・ブラッドフォードが夜に来たときをのぞけば、
私は一日中ずっと一人だった」
。22歳の姪マリーは、年齢が近いこと
もあってよく話をしに来ていた。彼女の母親である義姉アマンダ・ブ
ラッドフォードは、数年前に夫に先立たれ、子ども7人を連れてハリ
ケーンに戻って来ていたのである。ヴァリーナは、マリーには好感を
抱いていたが、アマンダ一家にあまりよい印象を持っていない。
「ア
マンダの子どもたちはとても腕白で荒っぽく、この家には入れたくな
いです。料理を部屋中に投げ散らかし、カーペットを汚してしまうの
です」
。ヴァリーナは、デイヴィス家の人たちにたいする不満を持ち
つつも、彼らに気を遣って暮らしていたのである。「誰かと一緒にい
るよりは、一人の方がずっと気楽です。でもテーブルの上に私の皿が
1枚だけ置いてあるのを見ると、さみしい感じがしてしまい、一人
黙って食事をしています」
。こうしてヴァリーナは、デイヴィス家の
人たちと接しつつ、夫がいないブライアフィールドで一人で暮らす
13
日々が続いた。
こういう状況のなかで出てきたのが、ブライアフィールドに誰が住
むのかという問題であった。ヴァリーナは、当然自分たち夫婦が住む
場所だと思っていたが、デイヴィス家の人たちは、どうもそうは思っ
ていないようで、アマンダ一家もブライアフィールドに住めばよいと
いう。アマンダの子どもたちが成長してハリケーンが手狭になったの
も理由の一つであろう。ジェファソンは、未亡人となった姉の境遇を
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不憫に思い、それがよいと考えているようである。ちょうどそのこ
ろ、ブライアフィールドの屋敷を改築する計画が進んでいたので、台
所を2か所につくればよいと彼らはいう。義姉にも台所が必要だから
である。だが、こういったことについて、ヴァリーナはまったく意見
をきかれることがない。とうてい承服できないヴァリーナは、義兄に
意見を述べるが相手にされず、夫に手紙を書いて自分の思いを伝える。
ジェファソンは、戦争のさなかにあって、妻から苛立ちの手紙が届き、
兄とも相談するが、なかなか解決の糸口が見つからず困惑する。ヴァ
リーナによると、当時ジェファソンは「からだの具合があまりよくな
かったが、体調のことはけっして口には出さず」、「兄ジョーゼフのす
ることで苦悩をしている」のである。留守を預かるヴァリーナは、募
る不信感をできる限り顔には出さずに、「デイヴィス家の人たちとは、
いつも通りうまくやっている」。
「必要な時以外それほどハリケーンに
は行くことはなくなったが、彼らは毎日のようにやってくる」。こう
して彼らとは普段通りに付き合いつつ、ヴァリーナは自分の考えをい
くども夫に強く訴える。だが、彼女の思い通りにすぐ受け入れられる
わけはなく、この問題はしだいに夫婦の関係に影響を及ぼすことに
なった。戦争が終わり、1847年11月連邦上院議員に就任したジェファ
ソンは、ワシントンで暮らし始めたが、ヴァリーナを連れていくこと
はなかった。こうして「家のことについては勝手に決められ、私には
知らさなくてもよいと思われている」ことに憤るヴァリーナは、さら
に不満を募らせて感情的になり、「攻撃されれば、私も反撃する」と
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さえ母親に書き送っている。
ヴァリーナとジェファソンの関係は3年近くにわたってこじれた
が、1849年に入るとようやく修復の方向に向かった。ヴァリーナは、
夫の体調を気遣い、彼の立場を理解してかかわり方を改善するように
なったのであろう。またヴァリーナが実家のことでジェファソンに経
済的に依存していたこともその背景にあったのかもしれない。結局、
ブライアフィールドにはジェファソンとヴァリーナがこれまで通り住
むことになった。この時期以降、ジェファソンは、兄とは意見が対
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デイヴィス家のなかのヴァリーナ
立することになったが、妻とは安定した関係を保てるようになった。
1849年末、ヴァリーナは、ジェファソンとともにワシントンで暮し始
め、上院議員夫人として社交界で自らの知性と才能を発揮して充実し
た日々を送るようになった。1851年秋の知事選で落選したジェファソ
ンは、陸軍長官に就任するまでの1年半の間、ブライアフィールドに
戻り、ヴァリーナとともに読書や音楽を楽しみ、家の手入れをし、落
ち着いた日々を過ごした。1852年の夏には、結婚から7年目にしてよ
うやく子どもが生まれた。長男の誕生は、夫婦の結びつきを強め、デ
イヴィス家におけるヴァリーナの存在感を高めることになった。母親
になったヴァリーナにたいするまわりの目にも変化があらわれたので
あろう。ヴァリーナは「幸せ」な気分を味わい、ジェファソンも「生
活にとても満足している」ようである。そして、ヴァリーナはそのの
ち10年間に子どもを5人出産することになる。こうして夫とのかかわ
り、子どもの誕生、夫の政治家としての活躍を通して、ヴァリーナは
デイヴィス家における自らの存在を確かなものにしていったのであ
15
る。
4
19世紀中葉、ミシシッピ州では、大規模な綿花プランテーション経
営によって財を成したプランター階級が台頭していた。プランターた
ちは、綿花栽培に必要な労働力として奴隷を多数所有し、そしてその
管理の徹底に努めていた。彼らのなかには、プランテーションの秩序
を維持し自らの権威を正当化するために、プランテーションを家父長
制的な世界のイメージでとらえるものもいた。すなわち、プランター
は、かつての家父長のように、プランテーションのなかで生活する家
族、使用人、奴隷から成る「大きな家族」の「世話」をするというの
である。当時、プランターのなかでも、そのような家父長のイメージ
に近い存在であったのが、ジョーゼフ・デイヴィスである。ジョーゼ
フは、家父長のように、デイヴィス家の人たちと奴隷を支配しようと
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した。ジョーゼフの義妹になったヴァリーナは、彼が所有するブライ
アフィールドで暮らすうちに、しだいにジョーゼフとデイヴィス家に
たいして不信感と苛立ちを募らせていった。ヴァリーナが育った環
境、身につけた能力や知識から考えると、彼女がジョーゼフの支配に
たいして反感を抱いたのは当然かもしれない。1840年代後半、ブライ
アフィールドで暮らすようになったヴァリーナの書簡から見えてくる
のは、奴隷制プランテーションにおいてプランター階級の女性が置か
れた息苦しい状況であり、そのなかにあって自らの居場所を確立しよ
うとするヴァリーナの姿なのである。
注
1
2
3
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5
6
デイヴィス家の伝記的事実については以下を参照。William J. Cooper, Jr.,
J efferson D avis, A merican(New York: Random House, 2000),10−95.
サラ・ノックス・テイラーの父親は、のちに合衆国大統領になるザッカリー・
テイラー中佐で、娘がジェファソンと結婚することに反対した。これ以降、
政治家となるジェファソンはさまざまな場面で彼とかかわりを持つことにな
る。Cooper, 70−79.
ジョーゼフとウィリアム・ハウウェルはとても親しい間柄で、ウィリアム
は、長男にジョーゼフ・デイヴィスという名前をつけている。ハウウェル
家の子どもたちはジョーゼフを「ジョーおじさん」と呼んでいた。Varina
Howell Davis, J efferson D avis, E x-P resident of the C onfederate S tates of A merica:
A M emoir by H is W ife, 1890, 2 vols.(Whitefish, Mont.: Kessinger, 2010), 1:
187. ヴァリーナの母マーガレットは、ジェファソンがかなり年長であり再婚
であったので、最初この結婚には慎重であった。
Cooper, 98−102.“To Varina Banks Howell,”T he P apers of J efferson D avis,
Vol. 2, ed. James T. McIntosh(Baton Rouge: Louisiana State Univ. Press,
1974),207(6 September 1844).以下、P apersと略す。
“Varina Davis to Her Mother,”J efferson D avis: P rivate L etters, 1823 −1889 ,
ed. Hudson Strode(New York: Harcourt, Brace & World, 1966), 31(July
“Varina Banks Howell Davis to Margaret K.
1845). 以 下、L ettersと 略 す。
Howell,”P apers, 329−30(5 September 1845).
“Varina Banks Howell Davis to Margaret K. Howell,”P apers, 330(5
September 1845).“Varina Davis to Her Mother,”L etters, 46(5 January
32
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8
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10
11
12
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14
15
デイヴィス家のなかのヴァリーナ
1847). Joan Cashin, F irst L ady of the C onfederacy: V arina D avis’
s C ivil W ar
(Cambridge, Mass.: Belknap Press of Harvard Univ. Press, 2006)
, 63.
.“Varina Davis
“Varina Davis to Her Mother,”L etters, 48(summer 1847)
.
to Her Mother,”L etters, 65(4 March 1852)
“Varina Banks Howell Davis to Margaret K. Howell,”P apers, 329(5
September 1845)
.“Varina Davis to Her Mother,”L etters, 55(26 November
1847).
“Varina Banks Howell Davis to Margaret K. Howell,”P apers, 329(5
September 1845).“Varina Davis to Her Mother,”L etters, 45(3 January
1847).Cashin, 51−79.
.
“To Margaret K. Howell,”P apers, 244(25 April 1845)
ジョーゼフは、妻との間には子どもがいなかったが、以前ほかの白人女性
数名との間に何人かの子どもをつくっていた。その一人がハリケーンで暮
らすキャロラインである。Janet Sharp Hermann, J oseph E . D avis: P ioneer
P atriarch(Jackson: Univ. Press of Mississippi, 2007),73−74.
所有権に関しては、P apers, 244−45. Cashin, 44−51. Cooper, 150−53.
.
“Varina Davis to Her Mother,”L etters, 45(3 January 1847)
.“Varina Davis
“Varina Davis to Her Mother,”L etters, 48(summer 1847)
. Cashin, 45−53. Cooper, 171−74.
to Her Mother,”L etters, 56(January 1848)
. 所有権の
“Varina Davis to Jefferson Davis,”L etters, 57(24 January 1849)
問題が解決するのはさらに先のことである。P apers, 245−47.“Varina Davis
. Cashin, 57−76.
to Her Mother,”L etters, 65(4 March 1852)