昭和 43 年 3 月末 - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

東 京 大 学
理 学部弘報
昭和 44年 3月 15日
第 1巻 第 5号
容
内
久保理学部長 に昭和
44年 度 日本学士院恩賜賞 ・………………………・
昭和 43年 3月 末 に ご退官 される先生方
吉田耕作教授 (数 学 教 室)・ …。,… …………………………………・
藤 田良雄 教授
(天 文学教室)・
森野米三教授
(化
…………………………………………・
学 教 室)・ …………………………………………・
前川文夫教授 (植物学教室)・ …………………………………………・
理学部の制度改革 についてのアンケー ト・………………………・・…・・・
お知 らせ
(東 京大学再建基金
,地 球物理学教室藤代技官退職
)・
………・
理学部全員交渉第 2回 会合流会 ……………………………………………
編 集 後 記 ・・… … …… … …… … …… … … … … … … ……
一― 東京大学理学部発行 一一
東京大学全体としては まだまだ事態が落着いた とはぃえない現在 である。 3月 に入 って
も,本 郷構内では 3月
得ない事態がお こ り,ま た駒場 では事態
解決が まだまだ先 にな らざるを得な い。私達の理学部 では,学 部 4年 生は 4月 20日
を 目標に ス トライキで遅れ
た授業・ 実習を取 り戻す よう努力を してお り,学 部 3年 生 もなるべ
く早 く遅れを取 り戻す ようつ とめている。一
方理学系大学院では予定通 り年度末には博士課程・ 修士課程 ともに修 了で
きるようになってお り, 4月 か ら博士
課程に進学する人達 も内定 にいた っている。本号では第 2回 理学部全員交渉 の
結果を一 つの重要な報告事項 と予
3日 に法学部研究室 の再破壊が行なわれ て警察隊 の出動を要請せ
ざるを
定 していたが都合により流会 となったので予定記事が掲載できず残念です。一方,3月 12日 には
久保理学部長
に学士院恩賜賞授賞決定 という朗報が入 り,既 に新聞で知 られたことでは
あ りますが,理 学部として もおめでた
いことですから本号に掲載 します。 また多年木学理学部につ
くされて本年度末を もって退官される方 々に うかが
ったお話をも本号の主要記事とさせてぃただきました。
久保理 学部長 に昭 和
4・
るかの例をあげる。電気伝導率について,強 磁場 の下 ま
たは極低温下 の場合には,金 属半導体な どでいままでの
4年 度
日本 学士院恩 賜 賞
理論では説明で きない現象や,理 論 の適用限界をこえた
3月 12日 に開かれた 日本学士院定例総会 において
,
昭和 44年 度 日本学士院賞受賞者が決定 された。 日本 の
学界最高の栄誉 とされ る学士院賞 の しか もその うちの一
つを選 んで与え られ る恩賜賞が久保理学部長に授与 され
ることにな ったことは,ま こ とに慶賀 の至 りです。
正式 の授賞式は本年 6月 下旬に天皇御臨席 の下に 日本
学士院講堂で行なわれ ます。
久保理学部長授賞 の対象 とな りました研究 は
現象が見出されてお り,そ の説明には久保理論が一 般的
効用を示す こ とが実証 され ている。久保理論に もとづい
て磁場下 の電気伝導 とくにその量子効果に関す る理 論が
現在 では協同研究者 の協力を得 て発展 している。 また ス
ペ ク トル線 の形状に関す る応用 も広 い。光 の吸収 とか磁
気共鳴 スペ ク トル とかは外力がその振動数で変化す る場
合 の応答 であ り,久 保理論の活用舞台である。 とくに ス
ペ ク トル線 の形状が温度や振動数 に よってどのように変
化す るかは,そ の物質が内に持 ってるいろいろな緩 和過
非可逆過程 の統計力学におけ る線型応答理論
で あ ります。久保教授 の初期 の業績は「 ゴム弾性 の統計
力学」であ り,日 本 の物性論研究の黎明期 における注 目
すべ き業績 として高 く評価 され てい ます。 これを出発点
として,固 体物理学の種 々の分野 で多 くの論文を発表 さ
れ ,わ け て も磁性理論, とくに磁気共鳴吸収 のスペ ク ト
ルの形態に関する論文は高い評価を受けてい ます。そ し
てこれが「非可逆過程 の線型応答理論」へ と一般化 され
るに至 りました。
粒子集団が熱平衡に ある場合については,集 団の性質
を理論的に理解する一般的方法 はおおむね確立 されてい
る。 しか し集団に外力が加わ って熱平衡か らずれた場合
の性質を取 り扱 う方法は現象が多様 であるために一般的
な理論が形成 され てい な か った。 外力が小 さい場合に
は,そ れ に対する集団の応答は外力に比例す る。外力が
時 間 とともに変化す る場合の応答は,変 化 の速 さ如何に
よって応答のお くれ な ど興味深 い現象が 種 々あらわれ
る。集団 の力学的性質 と外力の種類を与えてその応答を
極めて一 般的に確実な理論的基礎を もって導 く方法を与
えたのが久保理論 とよばれ る「非可逆過程 の統計力学 に
おける線型応答理論」で ある。
久保理論が どのような現象の解明に理論的基礎を与え
-2-
程によって複雑 に変化す る。 これ らの実験を解析 して逆
に/1Z質 内で何がお こっているかを解 きは ぐす理論的な武
器を久保理論は提供 してい る。 た とえば戦後急速 に発展
した磁気共鳴現象の研究 とくにそのスペ ク トル線 の形状
について久保教授 とその協力者 に よって発表 された理論
の論文が,そ の解析基礎 として広 く引用 され,国 際的 に
も定説 となっている。 また超伝導体 の研究,中 性子線 に
よる磁性体 の散乱現象 の研究な どに も久保理論が広 く応
用 され る。
このよ うに久保教授は近年 におけ る日本の統計力学 の
水準を高めた業績 が特 に高 く,先 年統計力学国際会議が
日本で開催 されたのも日本におけ る統計力学 の発展を背
景 に している。
このたびの久保理学部長 の日本学士院恩賜賞受賞 を喜
び,今 後 ます ます御研究が進展 され ることを願 ってお り
ます。
久保理学部長は,こ のたびの受賞 の栄誉 は 自分一人に
与えられた ものではな く,多 くの方 々の御協力 と御援助
のおかげ と言 っておられ ますが,そ れ に して も久保教授
御 自身 の御努力の賜 で あ ります こ とは何人 も疑わぬ とこ
ろであ ります。
現住所 :神 奈ノ
│1県 中郡大磯町東小磯宮 ノ上 10076
略 歴 :昭 和 6年 10月
東京帝国大学理学部数学科
昭和 44年 3月 末 に
ご退 官 され る先生 方
卒業後,約 1年 半大学院学生
昭和 8∼ 17年 大阪大学数学教室助手,助 教授
理学部 では昭和 44年 3月 末に,東 京大学での慣例 に
より,還 暦を迎えられたので後進に道を譲 られ るために
ご退官 され る先生方は
数学教室
天文学教室
吉 田耕 作 教 授
藤 田 良 雄 教 授
化 学教室
植物学教室
森 野 米 三 教 授
│1文 夫 教 授
前 り
で あ ります。上記四先生 とも東京大学理学部 の
発展 のた
めにいろいろと御尽力下 さい ましたこと,ま たそれ
ぞれ
の専門分野におかれ まして国内で学会や各委員会で指導
的役害Jを 果 され,ま た国際学界にお きま して も広 く御活
躍 され ま したことは申す まで もないことであ り,詳 しく
記せば多大 の紙面を要するこ とと思います ので省略 させ
ていた だきます。各先生 とも目下特に御多忙な 日々を送
ってい らっしゃいますが,時 間を さいてぃただぃてぉ話
を うかがわせ てぃた だ く機会を与え て下 さ いましたの
で,そ の時 に聞かせてぃただ きました こ との一 部を収録
いた します。みな さんが御関心をお持ちのこ とをすべて
詳 しく聞かせていただいたわけではあ りませんので,そ
の点御諒承下 さい。特 にお聞 きにな りたいことについて
はみな さんが折にふれておたずねになれば各先生方は御
都合が許す限 り喜んで お話 して下 さると思 い ます。
昭和 17∼ 28年
名古屋大学教授
昭和 28∼ 30年
大 阪大学教授
昭和 30年 より 東京大学教授
専 攻 :函 数解析 および確率論
戦争中名古屋大学に奉職 され てお られた先生は,教 室
が松本へ疎開 し,御 家族は関 ケ原 に疎開 されて御不 自由
な生活 ではあ りましたが夢中で過 された由です。そ して
戦後 の住宅難 。食料難 の時代 での苦 しさはゃは り最 も辛
か った思い出とのことです。
数学界では角谷静夫氏 (現 エール大学教授)の 尽 力な
どで戦後早 く諸外国の文献が入 るよ うになってあ りがた
か った。 日本数学会の立直 りに弥 永元理学 部長 らの御尽
力に多 くの方 々とお手伝 いで きた。なおまた 1955年 に
東京 で開催 された代数整数論国際会議は諸外国 との関係
を密接にするのに与 って力があった もので あ り,こ の会
議開催運営に際 しては末綱 ,正 田 (建 次郎),弥 永三先生
のお手伝 いを多 くの方 々 とともにで きたのは幸 いで あっ
た。本年 4月 1日 ∼8日 には御専門分野の函数解析国祭
会議が東京で開かれ ることにな ってお り,こ の会議 の組
織委員会委員長 で あられ るので,こ の国際会議を間近に
控えて準備に御多忙 であ ります。国際会議会場 と しては
当初は東京大学を予定 していましたが,昨 今 の事情 によ
り大手町の経団連会館に会場を移 した 由です。
数学の分野で も最近は研究方法が発展 し,文 献が多 く
な り,専 門誌・ 専門図書が多 く出版 され るようにな り,
吉
田
耕
数学人 口も多 くなってきたので,今 後研究者 の協力を一
層密 に して数学発展につ くしてぃただ きた ぃ と望んでお
作 教授
られ ます。
吉田教授は昨年 10月 に数学教室大談話会で「私 の遍
歴」 と題 して御 自身の研究歴を もあわせてお話 しされた
由です。先生 と伊藤・ 藤 田 。田辺 (阪 大)三 教授共同の御
仕事 であ りました「解析的半群 の理論及び応用」 に対 し
て昭和 39年 には藤原賞が授賞 され てお ります。 また昭
和 42年 には「近代解析 の研究」 で 日本学士院恩賜 賞を
受け てお られ ます。海 外御出張は 10回 近 くされ ました
が,い ずれ も 3カ 月以内の短 期間出張であ りま した 由で
す。
ご趣味はテニス,読 書 ,写 真な ど。
明治 42年 2月 7日 広島市生れ
-3-
藤
田
良
き,目 的 の赤 い星 のスペ ク トルを撮影 で きた時 は喜びを
か くせなか った と話 された。近年 は この新観測所 に も光
害 (公 害 ?)が およびつつ あ り,つ い最近 も日本学術会
雄 教授
議天文学研究連絡委員会委員長 として岡山天体物理観測
所 の近 くの町村の代表者 の人達 に光害対策協力をお願 い
してこられ た由。 この光害 は照明灯か らの光が直接上方
に向け て出な いように して もらえれば防げ るとの こ とで
ある。
藤田教授 は 長期海外出張 としては 昭和 25年 8月 か ら
26年 9月 にかけて 米国 の著名な 天文台や研究所 を数 ケ
所 め ぐられ,ま た昭和 35年 5∼ 12月 カナダの ヴィク トリ
明治 41年 9月 28日
アにある Dominion Astrophysica1 0bservatoryの 客
員教授 として滞在 され,こ の間大 白径望遠鏡 でお望み の
星を観測 された時 のことは嬉 しい思い出 とな っている。
また皆既 日食観測には四度出かけ られ, コロナ と彩層
福井県三国市生れ
現 住所 :港 区赤坂 5丁 目 32卜 306
略 歴 :昭 和 6年 3月 東京帝国大学理学部天文学科
卒業後,東 京天文台技手兼理学部助手 をふ り
出しに理学部講師,助 教授 ,教 授 と昇進 され
た。東京天文台に も兼務 された。
専 攻 :天 体分光学,特 に低温度星 のスペ ク トル研究
藤 田教授 は 東京大学 ご卒業後, 38年 の長 きにわた っ
て東京大学 に奉職 された。 この間理学部 で もいろいろな
役職 を つ とめられ, 昭和 42年 4月 -43年 10月 の間は
評 議員をつ とめられた。
昭和 30年 5月 には「低温度星 の分光 学的研究」で 日本
学士院恩賜賞を受け られ,40年 11月 には 日木学士院会
員に選出 された。
先生が一番苦 しか った思い出として語 られた ことは
終 戦直前天文学教室が諏訪 に疎開 し,学 生 と寝食 を共に
の分光観測をされた。出かけ られ た先は,南 洋 の ロソッ
プ島 (東 カ ロリン群島),北 海道女満別,石 垣島 (沖 縄),
北海道厚岸 とである。
来 る 3月 28日 には 天文学教室 談話会 で 藤 田教授 のお
話が予定 され ている。な おここ 10年 ぐらいの間 の低温
度星研究 グループがあげた成果 をまとめて出版 され るご
計画があ り,そ の原稿が 3月 末 には印刷にまわせ る運び
になる予定 である。藤 田教授は今後 も研究 を継続 された
いご希望 で,後 進 の人達 に も落 着 いた雰囲気 で勉学 にい
そ しんで欲 しい と希望 しておられ ます。
ご趣味 はあま りない と言われ ますが,昔 の映画 のこと
に大変 お詳 しく,ま たご家族 には野球 に興味を持たれ る
方が おられない中にあ って,先 生 お一人は毎年春か ら秋
にかけ巨人軍 の戦績 に一喜一憂 しておられた ようです。
,
された頃 のことであ り,食 料難 の折 か ら野草を入れ て炊
事 をされた由であ る。東京 のお宅 も,御 家族 の疎開先 の
福 井 の方 で も,ま た当時麻布狸穴 に あった天文学教室 も
戦火 で焼失 の不運にあわれた。理学部三号館が建築 され
て天文学教室が狸穴 か ら移 ってきた のは昭和 35年 のこ
バ
とで あ り,終 戦後 それ までの間は天文学教室は木造 の
ラックであった。そ こには今 は農林省 の高層 ビルが建 つ
ているが,昔 観象台や天文台があ った頃か ら使われ てい
た一等三角測量原点だけはそのまま残 され ている。
ご研究面 で楽 しか った思い出 としては,岡 山に 74吋
望遠鏡が完成 した時 のことを最先 に あげられ た。大望遠
鏡 がつ くられ ることが きまった ときには建設委員会 をつ
くり,設 置場所選定 のために長野・ 静岡・ 岡山 の三候補
地 で各 1年 間観測 を実施 してみた結果,岡 山にきまった
由 である。そ して大望遠鏡を使 って観測を始 められた と
森
野
米
三 教授
明治 41年 8月 31日
考 にな ります と話 さ れ, ご 自分 のお好 きな言葉 として
大阪市西区に生 まる。
現住所 :文 京区本郷 5丁 目 29-13 赤門 アビタシオ ン
807
略 歴 :昭 和 6年 3月
東京帝国大学理学部化学科卒
業 ,理 化学研究所片山研究室研究生,東 京大
学理学部助手,助 教授 をへ て昭和 17年 12月
名古屋大学教授。昭和 20年 3月 東京大学兼
任 とな り,昭 和
「華は愛惜 にち り, 草 は棄嫌 におふ るのみ」 の句を示 さ
れ ました。
森野教授は昭和 29∼ 30年 にかけ て米 国 イ ンデ ィアナ
州 の Purdue大 学 に赴かれ たほか,短 期海外出張 を数回
され ました。 ご趣味 は登山で,理 学部山 の会会長をつ と
め られた こともあ ります。
23年 以降東京大学専任。
専 攻 :分 子構造論
前
森野教授 は,有 機液体 および混合物の界面張力の研究
で学佳を取 られ てか ら, ラマ ン効果,電 子線回折 ,双 極
S,マ イクロ波 分光な どの諸
子 モーメン ト,核 四極子共ι
川
文
夫 教授
手段を駆使 され て分子構造 の研究を一貫 して遂行 され
平衡構造 と非調和 ポテ ンシァル函数について明 らか に さ
,
れ てこられた。昭和 39年 には「気体電子線回折 および
マ イクロ波 分光 に よる分子 構造 の研究」 と題す る一連 の
ご研究成果 に対 して, 日本学士院賞が授与 された。
ご研究生活途上でのいろいろ苦 しか った ことは,お 忘
れ :こ なられた とのことで,便 利な測定装置 がた くさん市
販 されている現在 とはちがい,苦 心を重ねて実験装置を
自ら組立 て られ,そ の装置を用 いて世界にさきがけ て誇
るべ き結果 を出された嬉 しさの前には辛か ったことな ど
吹 きとんで しまった ことと思われ ます。昭和 17年 の頃
C2H4C12が tranS形 と gauche形 の回転異性体の混合
であるとの証明が で きた時には,ラ マ ン写真 のフィル ム
,
明治 41年 10月 24日
卒業,そ の後大学院学生 ,冨 1手 ,助 手,講 師
助教授をへ て教授 にな られた。
水洗が待ち切れな くて濡れ たままの フ ィル ムを持ち帰 ら
れ た とのことです。
東京大学では理学部が中心 となって計算機が早 くか ら
使え るようにな り (物 理学教室高橋教授 。後藤助教授が
開発 された パ ラメ トロン計算機), 物理化学関係の仕事
が大変進歩 した ことを喜 んでおられ ます。分子科学研究
発展 のために分子科学研究所 を設立す る案ができ,昭 和
40年 には 日本学術会議 の勧告が出され てい るが,ま だ実
現 に至 っていない。森野教授 は分子科学研究所設立運動
推進 に尽力 しておられ,同 研究所設立 の実現 によ り,分
子科学が さらに大 きく発展す ることを期待 しておられ ま
す。一時代前 の諸先輩 の頃は,わ が国の立地条件 も悪か
った故 もあ って,諸 外国での研究水準 に追いつ くことを
急務 としていたが,現 在 ではわが 国の研究者 の努力によ
り対等 とな り,こ れか ら先は全国 の大学 の研究者が よい
交流を保って協力 し,衆 知 をあつめて日本独 自の研究 を
育 ててゆかねばな らず,そ のためには深 く思索す ること
がで きる静かな環境が必要であることを強調 された。学
問に対す る注意 と し て, また一人 間 としての態度 とし
て,正 法眼蔵随聞記 に書かれ てい るいろいろな こ とが参
-5-
三重県松阪市生れ
現 住所 :杉 並区清水 1丁 目 1312
略 歴 :昭 和 7年 3月 東京帝国大学理学部植物学科
専
,
攻 :植 物形態学,植 物分類学
前川教授が学生であられ た頃 は1直 物学教室はまだ小石
川植物園 の中:こ あった。中井猛之進教授 の下 で植物分類
学 を学ばれ,カ ンアオイとの永 いつ きあいが始 ま り,今
で も親 しくしてもらっているとの こ とである。
昭和 14年 か ら 18年 にかけ て一兵士 として召集 され
揚子江中流 の安慶 に駐留 された とき,大 陸 での植物 に接
,
す る機会 に恵 まれ,植 物 の進化・ 形態 を系統 と分類 の 目
か らみ るようになられた との ことである。中国大陸滞在
中に得 られた貴重な植物学 の発想 とともに持ちかえった
マ ラ リアには半年間苦 しめられ た山。昭和 31∼ 32年 に
は一 時御健康 を害 して入院 された こ ともあ り,こ の御病
気中あるいは また応召中に研究が中断 され て後れ をとっ
た気持に苦 しめられた と言われ る。
理学部二号館内の教室では海外調査 にでかけ る機会が
少 くない。前 II教 授は三回にわ たって南米大陸 に調査 に
行かれ ている。第 1回 目は 1960年 に ア ンデス地帯学術
Iり
調査 (第 二次)に 副団長 として参加 された。 この調査隊
の主 目的は文化人類学的調査であ り,ベ ルーの コ トシ遺
跡発掘 のかたわ ら付近で植物調査をされた。第 2回 目と
しては,1965年 10月 か ら翌年 2月 にかけ て,第 一 次東
亜関連植物調査隊の隊長 として,ペ ルーを主 とし,ボ リ
ビア,エ クア ドル,チ リに も行かれた。次 いで第二次東
亜関連植物調査隊 6名 が 1968年 10月 に出かけた時 も隊
長 として赴かれ,隊 員は本年 3月 末に帰国する予定 です
Ⅵ .以 上 の要目以外 の問題点について
アンケー ト方式でみな さんのご意見を集 めることにな
りました。 この調査には学生 。院生諸君 もで きるだけ多
くア ンケニ トを寄せて欲 しいと思 い ますので,ア ンケー
ト用紙は理学部事務部または各教室事務室 に用意 してお
きますか ら,ご 意見を遠慮な くお寄せ下 さい。
が,隊 長 のみ一足先に帰国された。 その時の採取資料 の
一 部は現在輸送中であ り,到 着 を待 っておられ る。東亜
お 知 ら せ
関連植物 とは東 アジア地域 で見慣れた植物 で世界 の 他地
域 で も見 られ る植物のことで,こ れを研究 して植物の進
化や地球 の変遷を知 ることができます。 ドクウ ツギ (日
本では一種類ある)の L界 分布を見 ると昔の赤道 (古 赤
道)は 現在 の赤道 と大分ちが っていた と結論 され ます。
東京大学再建 基金
このたび東京大学 の再建をはか るため,東 京大学再建
前川教授はこのような ことを発刊 されたばか りの岩波新
基金を設け ることにな りました。再建基金 は,人 格 のな
い財団 として運営 し,再 建基金 の管理運営 の責任者 は総
書「植物 の進化を探 る」を嬉 しそ うに聞きなが らお話 し
長 とし,事 務 は庶務部 で取 り扱 い,金 銭 の管理は経理部
下 さい ました。 この結論が 日頃私の身近の仲間が研究 し
で行な うものとする。再建基金 の管理運営の具体的なこ
ている古地磁気学か らの支持 もあると聞きまして,植 物
学が大 の苦手 である筆者 も親近感を覚えました。
ととしては
東亜関連植物調査 の結果については,既 に植物学会誌
や東京大学理学部紀要 に一部は発表 してお りますが,ま
,
(1)再 建基金 の管理運営 のために, 総 長 の 指名 によ
り,若 干名の委員か らなる運営委員会を設け る。
(2)再 建基金は,き ょ出者お よび寄付者 の種別 ごとに
とまった形で分 りやす い報告を出す義務があると考えら
分けて管理 し,そ れぞれ の意図に副 う目的に使用す
れ,そ の責任をなるべ く早 く果せ るよ う今後 ともまとめ
に努力され る生 活を送 られ るとのことです。植物学 もい
るように努 める。
(3)被 害 の大 きい部局 において も,き ょ出金は一応す
ろいろと分化 してきましたが,植 物学を専攻 され る人達
べて再建基金に対 して行 な うが,そ の き ょ出金は
には どう進む に して も植物群 の知識を持って欲 しい,形
き ょ出者 の属す る部局 の再建 に優先的 に あてる もの
,
に関心を持って欲 しい。 これは一見古 い考え方だが もう
とす る。寄付金についても,原 員」として これに準 じ
少 しつっこんで研究 して欲 しい と希望を述 べ ら れ ま し
こ。
チ
て取 り扱 う。
ご趣味はとの質問 には,強 いてあげれば植物切手蒐集
とでもい うところで しょうか とのお答えで した。
(4)再 建基金は,大 学 の施設設備等 の復 旧のほか,運
営委員会が大学 の再建 のために適当 と認めた 目的に
使用す ることがで きる。
(5)再 建基金は大学 の施設設備等 の復 旧 。新設 に あて
る場合には,再 建基金から大学 に対す る寄 付 の形式
を とることとす る。
理 学部 の制 度改革 につ いて の
ア ンケ ー ト
(0)運 営委員会 は,再 建 基金 の運営方針お よびその経
理について,き ょ出者お よび寄 付者 に対 し,適 当な
理学部総合計画委員会 ではたび重な る会合を開いて理
学部 の将来像について意見をまとめつつあ る。理学部弘
報第 1巻 第 2号 (44年 1月 31日 )に も委員会活動方針
について述べてあ ります。 このたび同委員会 │ま
I.新 しい理学部の構想につい
方法 で報告す るものとす る。
教授会構成員は,各 人 の意志 に基づいて再建基金 に対
して き ょ出を行な う。再建基金は, とくに申出のあった
東京大学関係者,お よびその他の一 般人 の厚意 に よる寄
付 を受け ることがで きる。 きょ出金お よび寄 付金 に対 し
ては免税措置が とられ るよう取 り計 ら うこ とにな ってい
Ⅱ.理 学部の学部教育のあ り方 について
ます。
Ⅲ,大 学院 の学生 構成 について
Ⅳ .博 士課程 の年限 について
V.入 試 の方法 について
-6-
藤代春松技官 (地 球物理 )退 職
れたが,最 後 の引揚げ船 で昭和 20年 2月 無事帰国でき
た との ことである。昔の測量隊や観測班は重い電磁オ ッ
シログラフや観測装置を手で持運び,車 中にあっては器
械を膝 の上に乗せ てショックがかか ることを極力避け る
よう糸
師いの注意を払いなが ら行動 した辛 さは忘れ られな
い と語 る。現代の観測の技術や手段 の進歩は著 しく,当
時 とは隔世の感がある。
藤代技官 は 柔道が 得意 で, 将棋や 釣 りもお好 きで あ
る。地球物理学教室員一同は藤代技官 の長年 のおつ とめ
ならびに苦労に感謝 しています と共に,地 球物理学科 の
創設以来 の歴史を知 っておられ る残 り少な い人 の一 人を
失 うこ とを大変残念に思 っています。
明治 37年 2月 20日 東京都深川生れ
現 住所 :目 黒区祐天寺 1302
昭和 6年 3月 東京帝国大学理学部地震学教 室
に勤務 され て以来, 38年 余にわた って 地震
理 学部 全員交渉第 2回 会 合 流会
理学部全員交渉 は,先 に 1月 8日 (水 )午 後 1∼ 7時
に七徳堂 で開かれ てか らあと,第 2回 会合 として先回討
論をつ くす こ とがで きなか った議題 5お よび未討論議題
学教室,地 球物理学教室 の工作室を守 ってこ
6∼ 13に ついて全員交渉を行な うことについて予備折衝
られた。
がつづけ られた結果
,
3月 12日
藤代技官が来 られた当時 の地震学教室は,現 在 の施設
部電話局 のあた りに木造建物があ り,近 くに地震計が置
かれていたので,地 震計へ の影響 を考えて当初は足踏み
旋盤を使 っていたが,そ の後 モーターが使われ るように
なった。昭和 16年 に木造三階建 の地球物理学教室が弥
生町浅野邸キャ ンパスに建 て られた時に,工 場 もそち ら
(水 )午 後 1∼
7時
於工学部 2号 館大講堂
と公示 が出 された。議題 は
5.医 学部処分 の不当性を認 め,学 部長・ 評議員は責
任 をとること。 (学 部 。大学院)
6.文 学部処分 の不当性を認め,そ の撤回に努力す る
に移 った。昭和 39年 には現在 の理学部 3号 館第 3期 工
こと。 (学 部)
17日 の機動隊導入を自己批判す ること。 (学
。
部 大学院)
事 でで きた地下 のポイラー予定室 l 地 球物理学教室 の工
場が一応入 ることにな り,さ らに本年早 々理学部 3号 館
7.6月
第 4期 工事 によ り増築 された部分の地下室 に工場が移 さ
8.今 後学生 の承認な しには,一 切 の捜査協力お よび
れ ることにな り,現 在引越 しは終 り,最 終的な地球物理
学教室工場 の落着き先 での作業場整備にお忙 しい。 その
矢先に定年退官 され ることはさぞ心残 りであろ う。
藤代技官は こと工作に関す ることはなんで も幅広 く手
がけなければならなか った時代を過 され,地 震計は じめ
。改造 。修理な どで地震学教室・ 地球物
,計 測装置の試作
理学教室の研究者を長年 に亘 って助けてこられた。戦前
は,当 時 の先生方や研究者が毎年 のよ うに夏期 。冬期の
9・
警察力 の学内出動を拒否す ること。 (学 部 。大学院)
昭和 43年 1月 29日 以来 の闘争 に処分を出 さない
こ と。 (学 部)
10.学 生 。院生 の 自治活動 の 自由を認め,学 内自治団
体を公認 し,交 渉権を認めること。 (学 部 。大学院
)
11.「 青年医師 の一 団体 として 青 医連を公認 し, 交渉
権を与えよ」 とい うわれわれ の要求を支持 し,そ の
実現 に努力す ること。 (学 部)
休暇を利用 して行な う探鉱調査 にお伴 し,南 は九州か ら
ゴヒは北海道 まで 日本国中を歩かれた。 また支那事変が始
12.総 長・ 学部長選挙 において,学 生・ 院生 の拒否権
まる前には,や は り地下 資源調査 のために夏 1ケ 月間ほ
13.学 生 。院生 の意志が反映 され る大学の管理運営制
ど満洲里か ら外蒙古 まで も足をのば した経験があ り,満
洲1に はその後を もふ くめて 3度 行かれた。昭和 18年 に
は台湾, シンガポールを経て南 スマ トラまで油田開発に
度を もうけ ること。 (学 部 。大学院)
で あるが,こ の議題 は昨年 10月 に きめられた もので あ
動 員 されたが,こ の時には とても生 きて帰れ まい と思わ
を認め ること。 (学 部・ 大学院)
る。 しか し本年 1月 8日 に第 1回 の理 学部全員交渉が行
なわれ,1月 10日 には秩父宮 ラグビー場 におけ る七学
部集会があ り, 七学部 代表団 との 確認書 が とりかわ さ
れ ,2月 11日 には 15要 目について確認書が発効する
こととな ったな どの諸経過があるので,討 論 内容につい
ては第 1回 当時に予想 されて いた ものとはかな り違 った
ものになる筈である。すなわち確認書 の精神を学部段階
で具体化 してゆ く方 向に進 め られ よう。
3月 中旬 としては珍 しい大雪が降 った 3月 12日 ,予
定会場 には, 1時 半頃 までには百数十名 の学生・ 院生 と
約三十名 の教官が集 まったが学生間 の意見 の対立 のため
進に道を譲 られ るためご退官 される方 々のお話が主要記
事にな りました。本年度末に理学博士 の学位を得 て大学
院生活を修 了され る予定 の大勢の諸君 は,こ れ までの生
活を顧 みていろいろ と楽 しか った こ と,あ るいは研究が
思 うに まかせぬ時期 での苦 しか ったことな ど思い出が多
いことで しょう。 めでた く理学博士 の学位を得 られ る諸
君 の氏名お よび論文題 目を次号にまとめて掲載 して記念
に したい と考えてお ります。 まためでた く修士課程 をお
え られ て,あ るいは他大学か ら受験 され て合格 し,博 士
正規の会合を開け るに至 らず,予 備折衝を開いているう
ちに,雪 のために早 く帰宅す るよう勧める情報 も入 り
課程 に進学す ることにな る諸君の氏名 も次号 には載せた
い と思 います。
午後 2時 半頃流会 とな った。 そ して今後の開催 について
理学部弘報 も 出版 され は じめ て以来 3ケ 月たち まし
た。私 の準 備不足 のためにみなさんが御満足され るよう
,
は予備折衝に委ねられた。
な ものにな らず残念です。編集 している私 自身,時 に よ
っては情報過多 の気味がある現在,満 足がゆかない弘報
編 集
後
記
を 1ケ 月に
2回 もお手許 に届け るのに気がひけ ていま
す。新年度 を迎えるに当 りましていろいろ とご意見をお
いよい よ年度末が近づいて きて,本 年度はいろいろと
予定 に支障 をきたす こ とが多か ったので,み な年度末の
片づけに追われていることと思 います。巻頭に も記 した
ように,本 号は久保学部長 の日本学士院恩賜賞受賞,後
-8-
寄 せ下 さるようお願い します。
地球物理研究施設
福
島
直
(内 線 7511)